著者: ピーター・アムステルダム
4月 26, 2023
パウロは、テサロニケの信徒たちから受けた、信者同士の愛や、キリストにある死者に起こること、また主の日の時期に関する質問に答えた後、テサロニケ教会の指導者へと話を移しました。
兄弟たちよ。わたしたちはお願いする。どうか、あなたがたの間で労し、主にあってあなたがたを指導し、かつ訓戒している人々を重んじ、彼らの働きを思って、特に愛し敬いなさい。互に平和に過ごしなさい。[1]
テサロニケ教会の創立者であるパウロとシラスとテモテは、もはや彼らと共にいることはできないので、教会内に指導体制を確立することが重要でした。パウロは、後に書いた手紙で、テモテとテトスがそれぞれエペソとクレテで長老を任命するのを助けるために、教会指導者に必要とされる資質を列挙しています。
さて、監督は、非難のない人で、ひとりの妻の夫であり、自らを制し、慎み深く、礼儀正しく、旅人をもてなし、よく教えることができ、酒を好まず、乱暴でなく、寛容であって、人と争わず、金に淡泊で、自分の家をよく治め、謹厳であって、子供たちを従順な者に育てている人でなければならない。自分の家を治めることも心得ていない人が、どうして神の教会を預かることができようか。彼はまた、信者になって間もないものであってはならない。そうであると、高慢になって、悪魔と同じ審判を受けるかも知れない。さらにまた、教会外の人々にもよく思われている人でなければならない。そうでないと、そしりを受け、悪魔のわなにかかるであろう。それと同様に、執事も謹厳であって、二枚舌を使わず、大酒を飲まず、利をむさぼらず、きよい良心をもって、信仰の奥義を保っていなければならない。彼らはまず調べられて、不都合なことがなかったなら、それから執事の職につかすべきである。女たちも、同様に謹厳で、他人をそしらず、自らを制し、すべてのことに忠実でなければならない。[2]
教会の指導者を選ぶことについて、パウロがテサロニケの信徒たちにどのような指示を与えていたのかは、記されていません。この文章から言って、パウロたちは、指導者の見込みがある人はだれなのかを見極めることを、教会に任せたようです。彼らが教会に与えた指示は、その指導者たちを重んじ、尊敬することでした。「わたしたちはお願いする」の箇所では、4章1節と同じ動詞が使われており、それには「懇願する」「嘆願する」という意味があります。パウロは信者たちに、テサロニケにいる指導者たちを重んじ、尊敬し、認めるよう、懇願しています。この指導者たちは、しっかりと役目を果たしていたので、パウロと同労者たちの承認を得ました。彼らが選ばれたのは、地位や社会的立場のゆえではなく、教会のメンバーとして労苦していたことのゆえです。
パウロは、この指導者たちの働きぶりを、3つの言い方で語っています。まず、彼らは「あなたがたの間で労し」ていました。「労する(労苦する、労し苦しむ)」と訳されたギリシャ語の言葉は、困難な仕事や極度に疲れさせる仕事をすることについて使われます。パウロの手紙では、次のような使用例があります。
だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。[3]
このために、わたしは労苦しており、わたしの内に力強く働く、キリストの力によって闘っています。[4]
労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢えかわき、しばしば食物がなく、寒さに凍え、裸でいたこともあった。[5]
この指導者たちは、信徒の利益のために熱心に働いていたということです。
次に、信徒の間で労苦していた指導者たちは、「主にあってあなたがたを指導し」ている人たちと呼ばれています。[6] この「指導し」と訳された言葉については、意見が分かれています。この言葉は、長を務める、治めるという概念を表現するために使われることもあれば、保護する、配慮を示す、助けるという意味で使われることもあります。この時代、町や村で指導力を振るった人たちは、地域社会を支援する庇護者でした。ただ、教会の指導者が庇護者であったとしても、彼らの権威とリーダーシップは、主との関係に根ざしたものでした。
最後にパウロが述べたのは、その教会の指導者たちは信者を訓戒し、教義面でも道徳面でも誤りを指摘する人たちであるということです。パウロの時代、誤りを正されることは、その人の幸福のためであるとされ、子どもに対する親の主要な責任の1つであると考えられていました。
父たる者よ。子供をおこらせないで、主の薫陶と訓戒とによって、彼らを育てなさい。[7]
必要に応じて信徒たちの誤りを正すことは、パウロの責任の1つでもありました。
わたしがこのようなことを書くのは、あなたがたをはずかしめるためではなく、むしろ、わたしの愛児としてさとすためである。[8]
だから、目をさましていなさい。そして、わたしが三年の間、夜も昼も涙をもって、あなたがたひとりびとりを絶えずさとしてきたことを、忘れないでほしい。[9]
テサロニケの信徒への手紙に戻ると、パウロは続けてこう語っています。
彼らの働きを思って、特に愛し敬いなさい。[10]
パウロは信徒たちに、彼らの間で労苦し、主にあって彼らを指導する人たちを重んじることに加えて、そのような教会の指導者たちをくれぐれも尊敬し、彼らの働きのゆえに、深い敬意と心からの愛を示すように勧めています。彼らに与えられる名誉や敬意は、その社会的地位や富、家名によるものではありません。彼らが教会のために成してきた働きのゆえなのです。
互に平和に過ごしなさい。[11]
信徒たちは、互いとの平和に貢献するよう求められました。これは、イエスによる「互いに平和に過ごしなさい」[12] という教えに根ざしたものです。教会のメンバーとであれ、教会の外の人とであれ、すべての人と平和に暮らすようにという呼びかけは、パウロの著作において、クリスチャンに対する教えの一部となっています。
あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。[13]
最後に、兄弟たちよ。いつも喜びなさい。全き者となりなさい。互に励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和に過ごしなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいて下さるであろう。[14]
すべての人との平和を追い求め、また、聖さを追い求めなさい。聖さがなければ、だれも主を見ることができません。[15]
神は無秩序の神ではなく、平和の神である。聖徒たちのすべての教会で行われているように… [16]
平和は、信者の生活における御霊の実の1つとみなされていました。
御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実… [17]
パウロは次に、テサロニケの信徒たちに、このように勧めています。
兄弟たちよ。あなたがたにお勧めする。怠惰な者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。[18]
パウロは、テサロニケの信徒たちが教会内のさまざまなタイプの人々にどう対応すべきかということに、話を移しています。教会の指導者たちは、クリスチャン共同体において重要な役割を担っていましたが、その責任は彼らだけにあったわけではありません。教会のメンバーたちにも、互いに助け合うことによって、自分たちの信仰を高め、また、霊的に成長するために助けを必要とする人を強めるという責任がありました。
教会のメンバーは、「怠惰な者を戒め」なくてはなりません。その教会の秩序を乱す「怠惰な者」とは、パトロヌス・クリエンテス(保護者・被保護者)の関係を維持して、自分の糧を得るために働くというパウロの教えや模範を無視していた人たちのことでしょう。テサロニケの信徒たちへの第2の手紙で分かるように、使徒たちは後になってから、この問題にもう一度対処しなければなりませんでした。
パウロはテサロニケの信徒たちに、「小心な者を励まし」なさいと命じています。パウロが話しているのは、諦めそうになっている人たちのことです。彼らは、同胞(同国人)からの厳しい迫害[19] や大切な人の死[20] など、多くの辛いことを味わってきました。彼らは気落ちしていたので、心が折れてしまわないように、助けと励ましを必要としていたのです。
また、信徒たちは「弱い者を助け」るよう命じられています。パウロが言及した弱い者が、具体的にどの人たちのことなのかは分かりません。教会内で、身体的に病んでいた人のことかもしれないし、特定の食べ物を口にしないなど、宗教の外面的なことに気を取られていた、霊的に弱い人のことかもしれません。あるいは、奴隷や元奴隷であったためか、経済状態のゆえに、社会的地位がなかった人のことかもしれません。それが誰のことであろうと、とにかくパウロは、彼らを助け、気を配って、誠意を示すよう勧めています。
すべての人に対して寛容でありなさい。
パウロが次に、テサロニケの信徒たちに命じたのは、どんな地位や状況にある人に対しても、忍耐強く、寛容でありなさいということでした。秩序を乱す人、気落ちしている人、弱っている人に対して、情け深く、愛のこもった態度で接するために必要な寛容さを指していたのかもしれません。それぞれのタイプの人には、特別のニーズがあり、それが他の人たちとの間に摩擦を引き起こす可能性がありました。そのため、誰に対しても忍耐強くあることが必要だったのでしょう。
だれも悪をもって悪に報いないように心がけ、お互に、またみんなに対して、いつも善を追い求めなさい。[21]
テサロニケの信徒たちは、少し前の章でも次のように言われていた通り、敵対行為や迫害に直面していました。
あなたがたもまた同国人から苦しめられた。[22]
そのような経験から、教会のメンバーの中には、自分たちを迫害した人たちに何とか仕返しをしたいという思いを持つ人がいたのかもしれません。また、教会内には、共同体の道徳基準に完全には従わず、信者仲間を利用する者もいました。そのため、信徒の中には、相手の益と成長のために戒めるのではなく、仕返しをしたい、悪をもって悪に報いたいと望む人がいたのでしょう。
パウロはテサロニケの人々に、自ら復讐に訴えるよりも良い方法があることを示しました。教会内の人であれ、教会の外の人であれ、自分たちに対して悪いことをしたすべての人に、善を行いなさいということです。パウロは後に、ローマにある教会に対しても、次のように同様のメッセージを伝えています。
だれに対しても悪をもって悪に報いず、すべての人に対して善を図りなさい。あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と書いてあるからである。むしろ、「もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになるのである。」 悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい。[23]
なんと良いアドバイスなのでしょう。
パウロは、テサロニケの信徒あてにこの手紙を書いていますが、ここで彼らへの指示を一時中断して、クリスチャンと神との関係に話を移します。
いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。[24]
3つのポイントの1つ目は、「いつも喜んでいなさい」ということです。先にパウロは、テサロニケの信徒たちが迫害のさなかに経験した喜びについて、次のように述べています。
そしてあなたがたは、多くの患難の中で、聖霊による喜びをもって御言を受けいれ、わたしたちと主とにならう者となり、こうして、マケドニヤとアカヤとにいる信者全体の模範になった。[25]
ピリピ人への手紙の中でも、パウロは同じことを述べています:
最後に、わたしの兄弟たちよ。主にあって喜びなさい。[26]
あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。[27]
信徒たちに与えられた2つ目の教えは、「絶えず祈りなさい」というものです。パウロは、信者が毎日の一瞬一瞬を祈りに費やすといった不可能なことを要求しているのではありません。これは意図的に用いられた誇張表現であり、イエスが弟子たちに「失望せずに常に祈るべき」だと言われたことと似ています。[28] 他の書簡(手紙)にも同様のことが書かれています。「常に祈りなさい。」[29] 「絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り…なさい。」[30] 「ひたすら祈り続けなさい。」[31] つまり、祈りは特定の時間にだけするものではなく、信者の生活において絶えず意識されるべきものだということです。
パウロが3つ目に与えた教えは、「すべての事について[すべての状況にあって]、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである」というものです。感謝の対象は具体的に述べられていませんが、神に感謝することについて話していると思われます。なぜなら、次のように、パウロはよく手紙の冒頭で宛先の教会のことを神に感謝しているからです。
まず第一に、わたしは、あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられていることを、イエス・キリストによって、あなたがた一同のために、わたしの神に感謝する。[32]
わたしは、あなたがたがキリスト・イエスにあって与えられた神の恵みを思って、いつも神に感謝している。[33]
わたしたちは、いつもあなたがたのために祈り、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神に感謝している。[34]
パウロはテサロニケの人々に、良い状況であれ、嫌な状況であれ、すべての状況にあって、感謝するように伝えています。感謝は、クリスチャンの特徴であるべきです。
そしてすべてのことにつき、いつも、わたしたちの主イエス・キリストの御名によって、父なる神に感謝し… [35]
このように、あなたがたは主キリスト・イエスを受けいれたのだから、彼にあって歩きなさい。また、彼に根ざし、彼にあって建てられ、そして教えられたように、信仰が確立されて、あふれるばかり感謝しなさい。[36]
あなたのすることはすべて、言葉によるとわざによるとを問わず、いっさい主イエスの名によってなし、彼によって父なる神に感謝しなさい。[37]
パウロは次に、別の話題に移ります。
御霊を消してはいけない。預言を軽んじてはならない。すべてのものを識別して、良いものを守り、あらゆる種類の悪から遠ざかりなさい。[38]
最後に挙げたこの一連の指示の中で、パウロは教会において預言を用いることについて述べています。公に預言を用いることを禁じるメンバーもいたのです。最初に出てくる「御霊を消してはいけない」という言葉は、英語NIV訳聖書などで「御霊の火を消してはいけない」と訳されているように、火を消すなということです。どうやら、テサロニケの信者の中に、自分たちの教会では御霊の賜物を禁じようとする者がいたようです。聖書には、次のように、聖霊が火とならべて記されている箇所があります。
わたしは悔改めのために、水でおまえたちにバプテスマを授けている。しかし、わたしのあとから来る人はわたしよりも力のあるかたで、わたしはそのくつをぬがせてあげる値うちもない。このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう。[39]
教会における聖霊の臨在は、神の民の間でなされる預言に表れています。
神がこう仰せになる。終りの時には、わたしの霊をすべての人に注ごう。そして、あなたがたのむすこ娘は預言をし、若者たちは幻を見、老人たちは夢を見るであろう。その時には、わたしの男女の僕たちにもわたしの霊を注ごう。そして彼らも預言をするであろう。[40]
そして、パウロが彼らの上に手をおくと、聖霊が彼らにくだり、それから彼らは異言を語ったり、預言をしたりし出した。[41]
2つ目に書かれているのは、「預言を軽んじてはならない」ということです。英語NIV訳聖書は、「預言を侮ってはならない」と訳しています。パウロと同労者たちは、教会が預言に対してもっと好意的な反応をするよう励ましたかったのです。「軽んじる」という動詞が用いられていますが、これは、信者は預言を軽蔑するな、あるいは、預言を拒絶するな、というどちらの意味にも取れます。この場合は、後者の「預言を拒絶するな」という意味でしょう。
教会で預言が行われることを、なぜ一部のメンバーが拒絶したのか、その理由は書かれていません。もしかすると、どこから出ているのか疑わしい預言があったり、一部のメンバーが超自然的な賜物に夢中になりすぎて、他のメンバーが否定的な反応を示すようになったりしたのかもしれません。
3つ目のポイントは、「すべてのものを識別して、良いものを守り」なさいということです。パウロは、教会で預言をすべて拒絶するのではなく、その預言を吟味するよう助言したのです。吟味されるべきだという「すべてのもの」は、テサロニケ教会の一部の人が拒絶した預言のことを言っています。パウロは、教会の中に誤った教理を広める偽預言者がいたので、預言が本物であるかどうかを確認する責任が教会にあることを知っていました。預言を吟味して、それが神からのものであると判断したなら、それを真剣に受け止めて、しっかりと守る必要があります。本物の預言は、教会を築き上げる助けとなるのです。
あらゆる種類の悪から遠ざかりなさい。
テサロニケの人々は、本物の預言のメッセージは受け入れるべきである一方、そうでないものは拒絶するよう命じられました。この最後の言葉によって、預言に関する指示が締めくくられています。
これをもって、第1テサロニケにあるパウロの教えは終わります。そして、パウロは、テサロニケの信徒にあてたこの手紙の締めに、祈りの言葉を記しています。
どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよめて下さるように。また、あなたがたの霊と心とからだとを完全に守って、わたしたちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのない者にして下さるように。[42]
パウロは、神ご自身が信者の聖化(きよくなること)の源であることを強調しました。彼らも御心に沿うような生き方をする必要がありますが、自分一人で頑張って聖なる者になるよう求められてはいません。神が彼らを召されたのであり、聖霊を通して、彼らの人生に神の御業を成されるのです。
パウロは、彼の著作でよくするように、神を「平和の神」と呼んでいます。[43] この文脈での平和とは、パウロの著作の別の箇所でもそうであるように、救いに近いものです。
このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。[44]
パウロはテサロニケの人たちに、この聖化は彼らの存在全体についてのものであることを理解してほしいと望みました。そのことを、「あなたがたの霊と心とからだとを完全に守って、…責められるところのない者にして下さるように」という言葉で表現しています。パウロの著作の中で、これらの言葉を一緒に使っているのは、この箇所だけです。彼は、神が彼らをすべての面できよめてくださるよう祈っています。霊も心も体も、すべてです。彼の願いは、神が彼らを責められるところのない者としてくださり、それによって、私たちの主の来臨に際して、彼らが恥や罪悪感を抱くことなく神の御前に立てるようになることです。
あなたがたを召されたかたは真実であられるから、このことをして下さるであろう。[45]
ここでパウロは、励ましの言葉を付け加えました。神は、テサロニケの人々を召すことによって始められた御業を、イエスの来臨の際に完成してくださいます。神は真実な方であり、その真実さがここでは確実に事を成すという意味で使われています。神は、ご自分の民に約束したことを果たしてくださるのだということです。パウロは、そのような神の性質を知っているので、確信をもって、神は「このことをして下さる」と断言できました。
兄弟たちよ。わたしたちのためにも、祈ってほしい。[46]
テサロニケの信徒たちのために祈った後、パウロは自分と同労者たちのために祈ってくれるように頼みました。パウロはよく、教会へ宛てた手紙の最後に祈りを求めています。[47]
すべての兄弟たちに、きよい接吻をもって、よろしく伝えてほしい。[48]
パウロの締めの祈りや、次の節で彼らに命じていることからも分かりますが、教会全体がパウロの言葉を聞くことができるように、テサロニケのクリスチャンがこの手紙の朗読のために集まることが想定されています。この手紙を読み聞かせられた信徒たちは、一致団結していることを示す挨拶をすることが求められました。「きよい接吻(聖なる口づけ)」という言葉は、パウロの他の手紙でも言及されています。[49] 第1ペテロ 5:14では、「愛の接吻」と呼ばれています。
ある著者は、このように説明しています。「あらゆる社会階級(奴隷、解放奴隷、自由人)やさまざまな人種(ギリシャ人、ローマ人、マケドニア人、ユダヤ人など)を包含していた初期のクリスチャン共同体において、聖なる口づけは、共通の信仰における『兄弟姉妹』の団結を確認する役割を果たしていました。テサロニケ教会の場合、兄弟姉妹の間に緊張があったことも(5章13-15, 19-20節)、使徒がすべての人に、口づけによって挨拶するよう促した理由の1つだと考えられます。」[50]
わたしは主によって命じる。この手紙を、みんなの兄弟に読み聞かせなさい。[51]
最後に、パウロはこの手紙の共同執筆者であるシラス(シルワノ)とテモテとは別に、個人的に勧告を与えており、主語が複数形(わたしたちはお願いする・お勧めする)から単数形(わたしは命じる)に変わっています。それは、第2テサロニケ 3:17でもしているように、パウロが自らの手でこの最後の言葉を書き記したということかもしれません。ここで使われた言葉は、かなり強いものです。「主の御前に誓いなさい。」(本記事の原文で使われている英語ESV訳) 他の英訳聖書では、「主によって命じる」(欽定訳)、「主の御名において命じる」(NLT訳)などと訳されています。パウロは、この手紙をテサロニケの教会全体に読み聞かせることを、主によって、あるいは主の御前で、彼らが誓うよう望んだということです。
パウロは、兄弟姉妹が集まって、自分の手紙にあるメッセージを聞く必要性を認識していました。この手紙に書かれている励まし、教え、誤りの指摘は、字を読めない人を含むすべての人に聞いてもらう必要があったのです。この手紙がパウロの代わりにその場にいて、パウロの権威を代表していました。
わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたと共にあるように。[52]
パウロは、他のすべての手紙でしているのと同じ結び方をしています。[53] テサロニケの信徒たちに祝福があるよう願っており、彼らが最も必要としているものである、主イエス・キリストからの恵みがあるように祈っているのです。
注:
聖書の言葉は、特に明記されていない場合、日本聖書協会の口語訳聖書から引用されています。
1 1テサロニケ 5:12–13.
2 1テモテ 3:1–11. こちらも参照:テトス 1:5–9.
3 1コリント 15:58.
4 コロサイ 1:29. 〈新共同訳〉
5 2コリント 11:27.
6 1テサロニケ 5:12.
7 エペソ 6:4.
8 1コリント 4:14.
9 使徒 20:31.
10 1テサロニケ 5:13.
11 1テサロニケ 5:13.
12 マルコ 9:50. 〈聖書協会共同訳〉
13 ローマ 12:18.
14 2コリント 13:11.
15 ヘブル 12:14. 〈新改訳2017〉
16 1コリント 14:33.
17 ガラテヤ 5:22.
18 1テサロニケ 5:14.
19 1テサロニケ 2:14.
20 1テサロニケ 4:13.
21 1テサロニケ 5:15.
22 1テサロニケ 2:14.
23 ローマ 12:17–21.
24 1テサロニケ 5:16–18.
25 1テサロニケ 1:6–7.
26 ピリピ 3:1.
27 ピリピ 4:4.
28 ルカ 18:1.
29 ローマ 12:12.
30 エペソ 6:18.
31 コロサイ 4:2.
32 ローマ 1:8.
33 1コリント 1:4.
34 コロサイ 1:3.
35 エペソ 5:20.
36 コロサイ 2:6–7.
37 コロサイ 3:17.
38 1テサロニケ 5:19–22.
39 マタイ 3:11. こちらも参照:ルカ 3:16.
40 使徒 2:17–18.
41 使徒 19:6.
42 1テサロニケ 5:23.
43 ローマ 15:33, 16:20; 2コリント 13:11; ピリピ 4:9.
44 ローマ 5:1.
45 1テサロニケ 5:24.
46 1テサロニケ 5:25.
47 ローマ 15:30–32; 2コリント 1:11; エペソ 6:19–20; ピリピ 1:19; コロサイ 4:3–4,18; 2テサロニケ 3:1–2; ピレモン 22.
48 1テサロニケ 5:26.
49 ローマ 16:16; 1コリント 16:20; 2コリント 13:12.
50 Gene L. Green, The Letters to the Thessalonians (Grand Rapids: William B. Eerdmans Publishing Company, 2002), 271.
51 1テサロニケ 5:27.
52 1テサロニケ 5:28.
53 ローマ 16:20; 1コリント 16:23; 2コリント 13:13; ガラテヤ 6:18; エペソ 6:24; ピリピ 4:23; 2テサロニケ 3:18; 1テモテ 6:21; 2テモテ 4:22; テトス 3:15; ピレモン 25.
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