信仰とは何か

著者: マリア・フォンテーン

5月 2, 2023

[What Is Faith?]

April 4, 2023

イエスを愛しながらも、多くの困難や苦難に直面してきたある人が、もし自分にもっと大きな信仰があったなら、これほど多くの問題を抱えることはなかったのではないかと、つい思ってしまうと話してくれました。そこで私は、苦しみの種が多いからといって、信仰が足りないわけではないと説明しました。詩篇 34:19には、「正しい者には災が多い」とあります。誰もが皆、苦難に直面するのであり、それは、この人生において避けられないことです。この節は、「しかし、主はすべてその中から彼を助け出される」と続きます。主とその愛に信頼するなら、主が私たちを助け出してくださるのです。

神への信仰は、自分の努力によって、自分の中に作り上げるようなものではありません。それは、主の愛に心を開き、主に信頼を置くことによって結ばれる実です。だからこそ、主の約束を暗記することは、私たちの信仰を強め、困難の最中にあっても平安を見出す助けとなるのです。イエスの「戒め」は、イエスに約束を果たしていただくことを、私たちが求める時に必要とされる条件です。その戒めを心に留めることは、私たちが主に目を向け、主を待ち望み、また、信頼と感謝と信仰をもって、主とその言葉に従うことを思い起こさせます。

「わたしの戒めを守って命を得よ、わたしの教を守ること、ひとみを守るようにせよ。これをあなたの指にむすび、これをあなたの心の碑にしるせ。知恵に向かって、『あなたはわが姉妹だ』と言い、悟りに向かっては、あなたの友と呼べ。」 —箴言 7:2–4

イエスに信頼し、神がどんなことでも愛の内になさることを知っているなら、イエスが教えてくださる霊的原則はシンプルで、誰にとっても達成可能なものです。信仰は、主への信頼と愛の上に築かれます。ここで言う「シンプル」とは、複雑なものではなく、明確であり、理解できるものだということであって、必ずしも容易に実行できるということではありません。

神は、私たちへの教えをシンプルなものにしてくださいます。しかし、人間はそれをよく、こんがらがって複雑で、ほぼ達成不可能なものに変えてしまうのです。救い、信仰、忍耐、神を愛すること、従順、神が私たちに期待すること、その他多くの霊的原則、それが何であっても、また、非常に深く複雑であると思われるようなテーマに対しても、神は常にシンプルな答えを用意してくださっているように思えます。幾つか例を挙げましょう。

救い: イエスが私たちに与えてくださった条件は、神の赦しに値するほど善良な人間になるという、とてつもなく複雑で達成不可能な行為ではなく、イエスを主また救い主として受け入れるという、シンプルなものでした。(参照:ヨハネ 3:16, エペソ 2:8–9)

神に喜んでいただくこと: イエスが与えてくださったルールは、モーセの律法や預言者たちによって定められた細々としたことを守り、決して間違いを犯さないようにせよということではなく、心を尽くして神を愛し、自分を愛するように他の人を愛するという、2つのシンプルなルールでした。(参照:マタイ 22:37–40)

そして、信仰について: 信仰とは何でしょうか。必要が満たされるには、十分に努力しなくてはいけないといったものなのでしょうか。あるいは、どんな問題でも乗り越えられるように、神に良い印象を与えようと試みることなのでしょうか。ヘブル書には、信仰とは何なのか、また、神との関係において、なぜ信仰が欠かせないものなのかが記されています。

「さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。…信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自分を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである。」 —ヘブル 11:1, 6

というわけで、信仰を得るためのシンプルな道筋というものはあるのでしょうか。信仰とは、「いかなる困難な状況にあっても、神がご自身の完璧なタイミングで、私たちをより良い何かに導いてくださる」と知っていることです。

主の真理と約束を思い出すことで、主の方に目を向けられるようになっても、信仰の一歩を踏み出すことは、私たち自身が選択しなければならないことです。私たちの信仰は「偉大」である必要がなく、完璧である必要もありません。時には、使徒ペテロのように、よろめくこともあるでしょう。彼は嵐の中、イエスの方に向かって水の上を歩き始めたのですが、周囲の波や嵐に目をやった時に沈み始めてしまいました。私たちは人間にすぎないので、自分がどれだけ不可能な状況に置かれているのかに目を向けると、簡単に動揺してしまいがちです。しかし、そんな時であっても、イエスは私たちの心の中にある愛と信頼を理解してくださり、私たちを見捨てたりはされません。ペテロに対してされたように、私たちをつかんで離さないでいてくださいます。(参照:マタイ 14:22–32)

信仰とは、神が私たちに対して抱いておられる愛を信じることです。信仰とは、どのような状況に直面しても、主を信頼して、自らを主の手に委ねることです。とは言え、いつも簡単にそうできるというわけではありません。その日一日に何が起こるのか、誰にも分からないものです。それでも、主を信頼していれば、必要が生じた時に、その信頼がどのようなものに変わるかに驚くかもしれません。

信仰を持つのに苦労している時、それはイエスの声が聞こえないと思っているからかもしれません。おそらく、その解決策は、必死で駆け回るのを中断し、イエスの前で静まるというシンプルなものなのでしょう。この点をうまく言い表した、私の好きな逸話があります。

ある人が職を失いました。絶望の淵に立たされた彼は、これからどうすればいいのか分からなかったので、かつて自分を助けてくれた年配の牧師に会いに行きました。

牧師の書斎を歩き回りながら、この若者は自分の問題をまくしたてました。そして最後に拳を握りしめ、こう叫んだのです。「私を助けるようなことを何か言ってくださいと神に頼み込んだけど、答えてくださらないんですよ。牧師さん、どうしてなんでしょう。」

向かいに座っていた牧師が何か返事をしたのですが、かなりの小声なので、何を言っているのか分かりません。若者は牧師の方に寄って行き、「なんと言ったのですか」と尋ねました。

牧師はまた何か言ったのですが、やはりささやくような柔らかい口調でした。そこで、若者はさらに近づいて、牧師の椅子に寄り掛かるほどになり、こう言いました。

「すみません。やっぱり聞こえませんでした。」

すると、2人の顔が近づいた状態で、年配の牧師がもう一度こう言いました。

「神は時にささやき声で話されます。そうすれば、私たちがその声を聞こうとして、神に近づくからです。」

若者はようやく、その声を聞いて、理解しました。

誰でも、神の声がとどろいて、自分の問題に対する答えを与えてくれることを望みます。しかし、神の声は、多くの場合、静かで細い声であり、優しいささやきなのです。

ささやきほど、人の注意をひくものはありません。神がささやかれる時、それは、私がわめきたてるのを止めて、頭をくっつけるほどに神に近づくべきだということです。そして、耳を傾ける内に、答えが分かってきます。

しかし、さらに素晴らしいのは、そうやって神に近づけたということなのです。—著者不詳 [1]

そして、信仰と信頼についての良い洞察を与え、心に響く名言を幾つか紹介したいと思います。

「信仰とは、神があなたの望み通りに事を成されると信じることではなく、正しいことを成してくださると信じることである。」 —マックス・ルケード

「シンプルな解決策を見つけたなら、それは、神が答えておられるということだ。」 —アルベルト・アインシュタイン

「私たちは誰もが、神の前に一人の人間として立っている。そして、神の前では、一人ひとりが、自分の人生における神の御心を信頼するだけの信仰を持たなければならない。」 —バーナード・シュニパート

「私の信仰は痛みを取り除きはしなかったが、痛みを乗り越えさせてくれた。神に信頼することで、苦悩が軽減されたり、克服されたりはしなかったが、それに耐えられるようになった。」 —ロバート・ロジャーズ

「信仰とは、神の恵みに対する大胆で生きた確信であり、人が何千回もそのために人生を賭けることができるほど確実で確固たるものである。」 —マルティン・ルター

「あなたの知らない未来を、あなたの知っている神に託すことを恐れてはならない。」 —コーリー・テン・ブーム

「真の信仰とは、『イエス』という答えだけでなく、『ノー』という答えも喜んで受け入れることである。」 —ジョゼフ・トカチ

「次の瞬間に何が起こるのかさえ、誰にも分からないが、それでも私たちは前に進む。信頼しており、信仰があるからだ。」 —パウロ・コエーリョ

「愛するとは、愛しがたいものを愛すること。赦すとは、赦しがたいものを赦すこと。信仰とは、信じがたいものを信じること。希望とは、すべてが絶望的に思える時に望みを抱くこと。」 —G・K・チェスタトン

「信仰とは、自分の知っているすべての光の果まで達し、まだ知らない暗闇に足を踏み入れる時、次の2つの内の1つが起こると知っていることだ。立つためのしっかりとした土台が与えられるか、あるいは、飛ぶ方法を教えられるか。」 —エドワード・テラー

「神の御心は、神の恵みが私たちを支えられないような所に、私たちを連れて行ったりはしない。」 —ビリー・グラハム

最後に、私たちから救い主への愛を思い起こさせてくれ、私たちがしがみつくことのできる聖句を幾つか挙げて、この記事を締めくくりたいと思います。

神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。—ヨハネ 3:16

あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。—エペソ 2:8–9

イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ。』 これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ。』 これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている。」 —マタイ 22:37–40

人よ、彼はさきによい事のなんであるかをあなたに告げられた。主のあなたに求められることは、ただ公義をおこない、いつくしみを愛し、へりくだってあなたの神と共に歩むことではないか。—ミカ 6:8

「静まって、わたしこそ神であることを知れ。わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、全地にあがめられる。」 —詩篇 46:10

神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである。そして、その戒めはむずかしいものではない。—1ヨハネ 5:3

イエスは彼に答えて言われた、「もしだれでもわたしを愛するならば、わたしの言葉を守るであろう。そして、わたしの父はその人を愛し、また、わたしたちはその人のところに行って、その人と一緒に住むであろう。」 —ヨハネ 14:23


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