著者: ピーター・アムステルダム
5月 9, 2023
テサロニケの信徒への第2の手紙は、第1の手紙が書かれた後すぐ、紀元51–52年頃に書かれたと考えられます。第1の手紙と同じく、著者はパウロとシルワノ(シラス)とテモテで、受取人はテサロニケの教会です。テサロニケ人に関する情報は、『第1テサロニケ:前書き』[1] を参照してください。
パウロとシルワノとテモテから、わたしたちの父なる神と主イエス・キリストとにあるテサロニケ人たちの教会へ。[2]
古代においては、パウロと同労者たちがここでしているように、手紙の著者が冒頭に自分の名前を記すのが一般的でした。その後に受取人の名前を書くのですが、それがこの場合はテサロニケ人たちの教会になっています。この手紙の冒頭部分が第1の手紙と異なっているのは、神が「わたしたちの」父と呼ばれていることです。この表現は、イエスが弟子たちに教えられた祈りを反映しています:
だから、あなたがたはこう祈りなさい、 天にいますわれらの父よ、 御名があがめられますように。[3]
パウロは自分が書いた幾つもの手紙の中で、神を父と呼んでいます。
ローマにいる、神に愛され、召された聖徒一同へ。 わたしたちの父なる神および主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。[4]
わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。キリストは、わたしたちの父なる神の御旨に従い、わたしたちを今の悪の世から救い出そうとして、ご自身をわたしたちの罪のためにささげられたのである。[5]
テサロニケの信徒たちは、神を信じることによって1つの家族になり、パウロや同労者たち、またマケドニア全土の教会とも家族になったのです。
父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。[6]
パウロは、手紙の冒頭で教会への祝福を述べていますが、彼は第1の手紙の冒頭でも同じようにしました。今回は、祝福の源として、父とイエスの両方の名を挙げています。そうすることで、救いのわざにおいて、「主イエス・キリスト」は「父なる神」に劣る存在ではないと述べているわけです。
兄弟たちよ。わたしたちは、いつもあなたがたのことを神に感謝せずにはおられない。またそうするのが当然である。それは、あなたがたの信仰が大いに成長し、あなたがたひとりびとりの愛が、お互の間に増し加わっているからである。[7]
パウロは、まずテサロニケの信徒たちについて、神に感謝しています。第1の手紙でも、同様に感謝して、彼らの信仰、愛の労苦、キリストに対する望みについて書いていました。[8] 今回は、彼らのことを感謝しないわけにはいかない(「あなたがたのことを神に感謝せずにはおられない」)と述べています。また、パウロや同労者たちが神に感謝するのは当然(ふさわしいこと)であるとも言っています。なぜなら、テサロニケの信徒たちの「信仰が大いに成長し」ているからです。
信仰が豊かに成長していると共に、兄弟たちの間で、お互いへの愛がますます増し加わっていました。第1テサロニケで、パウロは教会に対して、互いに愛を示し合うよう勧め、神が彼らの相互の愛を増し加えて豊かにしてくださるよう祈っていました。[9] この第2の手紙によれば、神がその祈りに答えられ、信者たちは彼の教えを実践して、互いへの愛が増し加わっていたので、それがパウロと同労者たちの心を動かし、神に感謝することになったようです。
そのために、わたしたち自身は、あなたがたがいま受けているあらゆる迫害と患難とのただ中で示している忍耐と信仰とにつき、神の諸教会に対してあなたがたを誇としている。[10]
パウロは、他の教会に対して彼らを「誇としている」と言いました。パウロは、コリント教会に書いた手紙の1つでも、同じように信徒たちのことを誇っています。
兄弟たちよ。わたしたちはここで、マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせよう。すなわち、彼らは、患難のために激しい試錬をうけたが、その満ちあふれる喜びは、極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て惜しみなく施す富となったのである。わたしはあかしするが、彼らは力に応じて、否、力以上に施しをした。すなわち、自ら進んで、聖徒たちへの奉仕に加わる恵みにあずかりたいと、わたしたちに熱心に願い出て… [11]
このように彼らのことを誇ることによって、迫害にあっていた教会を強め、他の教会もテサロニケの人たちが迫害のただ中で示している忍耐と信仰に倣うよう励ましたのです。
パウロが誇っていたのは、彼らが「いま受けているあらゆる迫害と患難とのただ中で示している忍耐と信仰」でした。この教会が示していた忍耐は、マケドニアとアカヤにいる信者の模範となっていましたが、ここでパウロは、その一因は彼が皆に言い広めていたからであることを明かしています。テサロニケの信徒たちの忍耐は、主の来臨への希望に根ざしていました。教会は、迫害や患難(苦難)に耐えながらも、自分たちの信仰を固く保っていました。どちらも複数形で「迫害と患難」としているのは、彼らへの敵対行為が、幾つもの場面やさまざまな形で起こったことを示しているのでしょう。
これは、あなたがたを、神の国にふさわしい者にしようとする神のさばきが正しいことを、証拠だてるものである。その神の国のために、あなたがたも苦しんでいるのである。すなわち、あなたがたを悩ます者には患難をもって報い…るのが、神にとって正しいことだからである。[12]
続く6つの節(5–10節)で、パウロはテサロニケでの迫害や、信徒たちと迫害者たちの運命について掘り下げています。この最初の節は、苦しみについての神学における重要な一要素を提示しています。クリスチャンの苦しみは、神の計画の中心的役割を果たしているのであって、神がその民を無視したり拒絶したりしているからだとみなすべきではありません。この「さばきが正しいことを、証拠だてるもの」は、1つ前の節に記されています:「そのために、わたしたち自身は、あなたがたがいま受けているあらゆる迫害と患難とのただ中で示している忍耐と信仰とにつき、神の諸教会に対してあなたがたを誇としている。」[13] この「証拠」または「しるし」は、神の裁きが正しいことを示すものです。この点は、これに続く幾つかの節で3回繰り返されています。[14]
パウロは信徒たちに、彼らが現在耐えていることについて、それが将来どのような結果につながるのかを思い起こさせています。神が彼らのために行われる正しい裁きとは、彼らが「神の国にふさわしい者」とみなされることであり、それは、「あなたがたも苦しんでいる」という、その苦しみの究極のゴールです。彼らは現在、この世の王国を超えた王国のために苦しんでいます。同時に、現在の苦しみは、最終的に現れる未来の王国と、そこでの彼らの立場に関して、大切な役割を果たしているのです。パウロがテモテに書いた手紙で、次のように明言しているとおり、キリストの弟子が苦しみを受けるのは意外なことではありません。
いったい、キリスト・イエスにあって信心深く生きようとする者は、みな、迫害を受ける。[15]
パウロは第6節でも、神の正しい裁きについて述べています:「あなたがたを悩ます者には患難をもって報い…るのが、神にとって正しいことだからである。」[16] 旧約聖書でも新約聖書でも、神の裁き(審判)は神の正しさ(義、正義)に合致したものです。
全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。[17]
神は義なるさばきびと。[18]
主は正義をもって世界をさばき、 公平をもってもろもろの民をさばかれます。[19]
救と栄光と力とは、われらの神のものであり、そのさばきは、真実で正しい。[20]
神は正しい裁きをされるので、教会に反対して行動していた者たちは苦しむことになります。
パウロは続けて、こう語っています。
…悩まされているあなたがたには、わたしたちと共に、休息をもって報いて下さるのが、神にとって正しいことだからである。それは、主イエスが炎の中で力ある天使たちを率いて天から現れる時に実現する。その時、主は神を認めない者たちや、わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者たちに報復し… [21]
パウロは、クリスチャンを迫害する者たちに何が起こるかを告げた触れた上で、今度は信者たちに焦点をあて、主が現れる時に彼らは抑圧から解放されると断言しています。主イエスの現れる時に、神が迫害や患難(苦難)を受けている人たちに、休息(安息)をもって報いてくださると約束しているのです。信者たちは、自分たちが苦難に直面するようになると知っていましたが、実際にそうなった時には、それを克服する力を与えてくださるという神の約束に支えられました。
パウロは、これらの出来事が実現する時期について、それは「主イエスが炎の中で力ある天使たちを率いて天から現れる時」であると述べています。パウロの著作の他の箇所では、主が来られることを「パルーシア」、つまり「来臨(来る)」と表現していますが、[22] ここでは、イエスが天から「現れる(出現する)」と表現しています。信徒たちにとって、主が「現れる」のは重要なことでした。ユダヤ教のような神殿はなく、異教のように目に見える神もなかったからです。しかし、信者も迫害者もその目で見ることのできなかったイエスが、その日、栄光と力とをもって現れ、すべての人がイエスを見ることになります。マタイ書には、次のように記されています。
そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。[23]
パウロは続けて、主イエスが神の裁きをもたらすと述べています。第8節の表現は、イザヤ書の66:15と66:4から取られたものです。
見よ、主は火の中にあらわれて来られる。 その車はつむじ風のようだ。激しい怒りをもってその憤りをもらし、火の炎をもって責められる。[24]
わたしもまた彼らのために悩みを選び、彼らの恐れるところのものを彼らに臨ませる。これは、わたしが呼んだときに答える者なく、わたしが語ったときに聞くことをせず、わたしの目に悪い事を行い、わたしの好まなかった事を選んだからである。[25]
この2つの節には、聞き従わない者たちに下る神の怒りが描写されています。それは、神と福音を拒絶した者たち、「神を認めない者たちや、わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者たち」に下される判決です。
そして、彼らは主のみ顔とその力の栄光から退けられて、永遠の滅びに至る刑罰を受けるであろう。その日に、イエスは下ってこられ、聖徒たちの中であがめられ、すべて信じる者たちの間で驚嘆されるであろう――わたしたちのこのあかしは、あなたがたによって信じられているのである。[26]
パウロは続けて、神と福音を拒んだ人たちに対する神の報復がどのようなものになるのかを説明しました。「刑罰を受ける」という法的表現は、特定の行為に対して、当然の報いを受けるという意味です。ユダ書には、ソドムとゴモラの住人が「永遠の火の刑罰」[27] を受けたと書かれており、それはこの節にある「永遠の滅びに至る刑罰」と似た表現です。聖書の他の箇所にも、永遠の刑罰への言及が見られます。
それから、左にいる人々にも言うであろう、「のろわれた者どもよ、わたしを離れて、悪魔とその使たちとのために用意されている永遠の火にはいってしまえ。」 [28]
もしあなたの片手または片足が、罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。両手、両足がそろったままで、永遠の火に投げ込まれるよりは、片手、片足になって命に入る方がよい。[29]
裁きを受けた人が送られる場所は、新約聖書で、「消えない(消えることのない)火」、[30] 「炉の火(燃え盛る炉)」、[31] 「永久に用意されている」「まっくらなやみ」、[32] 「火と硫黄の燃えている池」[33] と表現されています。
神を拒絶し、教会を迫害する人たちは、神の御前から退けられて、永遠の滅びという刑罰を受けますが、[34] 信者たちの状況は、それとはまったく異なります。「その日に、イエスは下ってこられ、聖徒たちの中であがめられ、すべて信じる者たちの間で驚嘆されるであろう。」[35] 「その日」とは、テサロニケ人への手紙で何度か言及されている「主の日」のことです。「あなたがた自身がよく知っているとおり、主の日は盗人が夜くるように来る。」[36] パウロがここで「聖徒たち」と言っているのは、テサロニケの信徒たちのことであり、他の書簡でも信徒たちを指してこの言葉を用いています。[37]
「神を認めない者たち」や、「福音に聞き従わない者たち」は、刑罰を受けますが、その日、イエスは聖徒たちの中であがめられ(栄光を受け)ます。主の民は、主がその日に下してくださる裁きのゆえに、主にふさわしい栄光とほまれを与えるのです。
このためにまた、わたしたちは、わたしたちの神があなたがたを召しにかなう者となし、善に対するあらゆる願いと信仰の働きとを力強く満たして下さるようにと、あなたがたのために絶えず祈っている。それは、わたしたちの神と主イエス・キリストとの恵みによって、わたしたちの主イエスの御名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主にあって栄光を受けるためである。[38]
パウロはここで、テサロニケの教会に、自分と仲間たちが彼らのために祈っていることを伝えています。ここにある彼の祈りは、第1テサロニケ1:2の祈りと似ています。パウロと同労者たちは、教会のために、いつも絶えることなく祈っていたのであり、彼らの祈りへの献身は、かなり熱心なものだったのです。最後の審判は厳しく、主の出現はかなり栄光に満ちたものとなるので、パウロは「神があなたがたを召しにかなう者となし」てくださるよう祈りました。
祈りの後半で、パウロは、神が「善に対するあらゆる願いと信仰の働きとを力強く満たして(成就させて)下さるように」と祈っています。この祈りは、クリスチャンが行う善の源は神であることを認めています。彼らが弟子としてすべきことの成就は、彼らの人生における神の導きと助けにかかっているということです。神に喜ばれることを成し遂げるのに、自分の能力や決意に頼ってはいられません。彼らの「善なる働き」は、信仰に根ざしており、神の力によって成されたものなのです。
パウロはさらに、彼らがなぜそのように祈っているのかを説明しています。「それは、わたしたちの神と主イエス・キリストとの恵みによって、わたしたちの主イエスの御名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主にあって栄光を受けるためである。」[39] この点は、第10節でも「その日に、イエスは下ってこられ、聖徒たちの中であがめられ」ると述べられていますが、ここではイエスがあがめられる(栄光を受ける)ことが、テサロニケの信徒たちの態度や行いに結び付けられています。
パウロは、「わたしたちの主イエスの御名」があがめられる点を強調しています。パウロの時代の人名は、人を識別する手段以上のものであり、多くの場合、その人の身分や資質、権力の象徴となっていました。迫害を受けていたイエスの信者たちにとって、イエスの御名があがめられるという約束は、社会的に見て非常に重要なことでした。栄光を受けるのは一方的ではなく、主は彼らの間で、そして彼らは主にあって、栄光を受けます。すべては、「わたしたちの神と主イエス・キリストとの恵みによって」成されるのです。
注:
聖書の言葉は、特に明記されていない場合、日本聖書協会の口語訳聖書から引用されています。
2 2テサロニケ 1:1.
3 マタイ 6:9.
4 ローマ 1:7.
5 ガラテヤ 1:3–4. こちらも参照:1コリント 1:3; エペソ 1:2; ピリピ 1:2, 4:20; コロサイ 1:2; 1テサロニケ 1:1, 3:11; ピレモン 3.
6 2テサロニケ 1:2.
7 2テサロニケ 1:3.
8 1テサロニケ 1:3.
9 1テサロニケ 3:12.
10 2テサロニケ 1:4.
11 2コリント 8:1–4.
12 2テサロニケ 1:5–6.
13 2テサロニケ 1:4.
14 2テサロニケ 1:6, 8, 9.
15 2テモテ 3:12.
16 2テサロニケ 1:6.
17 創世記 18:25. 〈新共同訳〉
18 詩篇 7:11.
19 詩篇 9:8.
20 黙示録 19:1–2.
21 2テサロニケ 1:6–8.
22 1テサロニケ 2:19, 3:13, 4:15, 5:23; 2テサロニケ 2:1.
23 マタイ 24:30. こちらも参照:1ペテロ 1:8.
24 イザヤ 66:15.
25 イザヤ 66:4.
26 2テサロニケ 1:9–10.
27 ユダ 7.
28 マタイ 25:41.
29 マタイ 18:8. こちらも参照:マタイ 25:46.
30 マタイ 3:12.
31 マタイ 13:42, 50.
32 ユダ 13.
33 黙示録 21:8.
34 2テサロニケ 1:7–9.
35 2テサロニケ 1:10.
36 1テサロニケ 5:2. こちらも参照:1テサロニケ 5:4, 2テサロニケ 2:2.
37 ローマ 1:7; 1コリント 1:2; 2コリント 1:1; エペソ 1:1; ピリピ 1:1; コロサイ 1:2.
38 2テサロニケ 1:11–12.
39 2テサロニケ 1:12.
Copyright © 2024 The Family International. 個人情報保護方針 クッキー利用方針