著者: ピーター・アムステルダム
9月 26, 2023
(第2章の最初の10節については、先回の記事で扱っています。)
ところが、ケパがアンテオケにきたとき、彼に非難すべきことがあったので、わたしは面とむかって彼をなじった[非難した]。[1]
アンテオケ(アンティオキア)はローマ帝国でも有数の大都市で、人口は25万人、そのうち2万5千人がユダヤ人であったと推定されています。アンテオケでペテロ(ケパ)と会ったのは、使徒行伝(使徒言行録)第15章に記されているエルサレム会議の前のことでしょう。
パウロが、ペテロとのこの一件を持ち出したのは、自分の方が優れていると宣伝するためではありません。おそらく、自分の伝える福音の独立性と権威とを示そうとしたのでしょう。パウロがペテロを公然と非難したのは正当なことでした。なぜなら、ペテロの罪は公の場で犯されていたので、他の人たちが彼の例にならうという公然の結果がもたらされていたからです。
というのは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、彼は異邦人と食を共にしていたのに、彼らがきてからは、割礼の者どもを恐れ、しだいに身を引いて離れて行ったからである。[2]
パウロは、ペテロを非難した理由を説明しています。「ヤコブのもとからある人々」が来るまで、ペテロは異邦人と食事をしていました。そうするにあたり、おそらく旧約聖書の律法で禁止されていた食べ物も口にしたことでしょう。ペテロの行動は、彼が使徒行伝10:9–16で受け取った幻(啓示)で、食物はすべて清いと神が宣言されたことと一致していました。しかし、「ある人々」が来たとあり、それはおそらく、主の兄弟ヤコブから指示されてのことでしょう。どうやら、アンテオケにいたペテロや他のユダヤ人クリスチャンの振る舞いに関する知らせがエルサレムに届いていたようです。
パレスチナにいたヤコブや他のユダヤ人クリスチャンは、ペテロや彼と一緒にいる人たちが、もはやユダヤの食物規定に従っていないため、彼らがユダヤ人の信仰を捨てつつあると感じていたようです。これは、エルサレムのユダヤ人、さらにはアンテオケの多くのユダヤ人クリスチャンにとっても、恥ずべきことだと考えられたことでしょう。
ペテロは異邦人と食事をし、「清くない」食べ物も口にしましたが、ヤコブから送られた人々が来てからは、そうすることをやめました。この人たちはおそらく、ヤコブや他のユダヤ人クリスチャンたちが、彼が清くない食べ物を口にしていることを懸念していると、彼に告げたのでしょう。それを受けて、ペテロは異邦人から身を引き、離れて行きました。ヤコブのもとから来た人たちが、ペテロは汚されていると非難し続けることができないよう、ペテロは異邦人と食事をすることをやめたのです。
ペテロが異邦人と食事をしないことにしたのは、彼自身の考え方が変わったからではなく、割礼が不可欠だと信じる「割礼の者」たち(割礼派)を恐れたからです。アンテオケのユダヤ人クリスチャンが食物規定を守らず、異邦人たちと食事をしているという知らせが広まったことで、ユダヤ人クリスチャンに対する迫害の脅威が高まっていると、ヤコブのもとから来た人たちがペテロに話した可能性もあります。だとすると、ペテロは自分の振る舞いの影響を心配し、ユダヤ人クリスチャンの分裂を避けるために、異邦人と食事することをやめたのでしょう。
そして、ほかのユダヤ人たちも彼と共に偽善の行為をし、バルナバまでがそのような偽善に引きずり込まれた。[3]
ペテロがそうしたことで、他のユダヤ人クリスチャンたちも、異邦人と食事をするのをやめました。異邦人宣教でパウロと密接に働いていたバルナバさえも、異邦人との食事をやめていました。パウロは、ペテロや、この件について彼に従う者たちを非難して、偽善の行為をしていると言いました。パウロの考えでは、ペテロたちは確信からではなく、恐れから行動していたのです。
ペテロは自分の確信ではなく恐れによってそのような行動をしていたので、きっと、パウロから非難された時には、それを肯定的に受け止めたことでしょう。パウロがのちに書いた書簡では、ペテロとの間に神学的な問題はありません。パウロは第1コリント15:3–11で、自分やペテロ、ヤコブは皆、同じ福音を宣べ伝えていると記しています。ペテロも、パウロの著作を肯定的に捉え、このように語っています。「また、わたしたちの主の寛容は救のためであると思いなさい。このことは、わたしたちの愛する兄弟パウロが、彼に与えられた知恵によって、あなたがたに書きおくったとおりである。彼は、どの手紙にもこれらのことを述べている。」[4] しかし、ガラテヤの信徒への手紙が書かれた当時、ペテロはユダヤ人クリスチャンの圧力に屈していたのです。
彼らが福音の真理に従ってまっすぐに歩いていないのを見て、わたしは衆人の面前でケパに言った、「あなたは、ユダヤ人であるのに、自分自身はユダヤ人のように生活しないで、異邦人のように生活していながら、どうして異邦人にユダヤ人のようになることをしいるのか。」 [5]
ペテロや彼の振る舞いにならった人たちに対するパウロの反応を見ると、パウロには使徒としての権威があったことが分かります。ペテロに対して、真理から逸脱しているとたしなめているからです。ペテロは自分の振る舞いによって、彼自身が真理であると知っていることについて妥協し、その真理を無に帰して、他の人たちへの悪い手本となっていました。一方、パウロは、メッセージ自体が危険にさらされていると感じました。なぜなら、ペテロは実質的に、異邦人の信者に対して、救われるためにはユダヤの食物規定を守るべきだと要求しているようなものだからです。もしペテロが、異邦人信者がユダヤ教の食物規定に従った場合にのみ、彼らと食事をするのであれば、それは基本的に、彼らがユダヤの清浄規定を守らない限り真のクリスチャンではないと言っていることになります。つまり、神の民に属するためにユダヤ人のように生活することを、異邦人にしいているのです。
ペテロの罪は衆人の面前で犯されたものなので、パウロは彼を衆人の門前でたしなめました。ペテロの振る舞いは偽善的なものでした。彼は民族的にはユダヤ人であって、その生涯の大半を、ユダヤの律法を守って過ごしてきましたが、例の幻を受けて以来、律法を守ることに関しては、もはやユダヤ人のようにではなく、異邦人のように生活していました。アンテオケにいた時も、ユダヤの清浄規定を守ることなく、異邦人と距離を置くこともありませんでした。ペテロはその振る舞いによって、新しい契約の下では、神の民に属するために、ユダヤの清浄規定は関係ないと断言していたのです。というわけで、パウロは、ペテロが突然、ユダヤの清浄規定を守るよう人々に要求したことに驚きました。この問題は、偽兄弟たちがテトスに割礼を受けるよう要求していたことに関して、章の前半でも取り上げられています。[6] テトスは、パウロがエルサレムへ行った際に同行しました。ヤコブ、ペテロ、ヨハネは、テトス(さらには異邦人信者たち)は割礼を受ける必要がないという点で、パウロと考えが一致していました。
テトスに割礼をしいようとした人たちは、真のクリスチャンではありません。救われるには割礼を受ける必要があると信じていたからです。パウロは、ペテロが本物のクリスチャンであることは分かっていましたが、その振る舞いが福音を汚すものだったので、ペテロをとがめたのです。
わたしたちは生れながらのユダヤ人であって、異邦人なる罪人ではないが、… [7]
パウロがペテロに指摘しているのは、彼らはユダヤ人として生まれたので、ユダヤ人の契約にあずかって神の約束を受けたということです。異邦人はこの契約にあずかっておらず、神の約束を受け取っていませんでした。パウロは、自分やペテロがイスラエル民族に属することによって得た特別の栄誉について話しているのです。
… 人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰によることを認めて、わたしたちもキリスト・イエスを信じたのである。それは、律法の行いによるのではなく、キリストを信じる信仰によって義とされるためである。なぜなら、律法の行いによっては、だれひとり義とされることがないからである。[8]
続けて、パウロは、ユダヤ人であろうと異邦人であろうと、モーセの律法が求めることを行うことによって神の前で義とされることはないと語っています。ペテロもパウロも、自分たちがユダヤ人として神の契約の民に属してはいても、それによって神の前で義とされるわけではないことを知っていました。人は律法の行いによって義とされるのではなく、イエスを信じる信仰によってのみ義とされると理解していたのです。
クリスチャンとして、ペテロとパウロは、古い契約では十分でないし、律法の行いによって義とされるわけではなく、ただイエスを信じる信仰によって義とされるのだと知っていました。このメッセージを説くことで、パウロはペテロと一致している点を主張しています。ペテロは、その振る舞いによって、異邦人が神の民となるには食物規定を守る必要があると言っていたようなものですが、ペテロ自身は、モーセの律法に従うことによって神の前に義とされることはありえないと知っていたのです。救いは、ただ、イエスを信じる信仰によってもたらされるのだと。
… わたしたちもキリスト・イエスを信じたのである。それは、律法の行いによるのではなく、キリストを信じる信仰によって義とされるためである。…
パウロは、人間全般について言ってきたことを、ここで自分やペテロに当てはめています。「わたしたちもキリスト・イエスを信じたのである」の「わたしたち」とは、ユダヤ人であるペテロやパウロのことです。彼らもイエスを信じていたので、ユダヤ人ではあるけれど、律法を守ることによってではなく、ただイエスを信じることによってのみ、神との正しい関係を築くことができました。パウロは、もし契約の民に属する人が神の前に義とされるためには、イエスを信じる信仰が必要であるなら、そして、もしモーセの律法を守ることによって神の目に義と認められるわけでないのなら、異邦人が神との関係を持つために律法を守ることを求めるのは意味がないと指摘しています。
パウロは、「律法の行いによっては、だれひとり義とされることがない」と述べることによって、自分やペテロのようなユダヤ人はイエスを信じる信仰によって義とされるのであり、律法を守ることによって神の前に義と認められるわけではないことを強調しています。パウロは、ダビデ王が詩篇143:2で述べた、「生ける者はひとりもみ前に義とされないからです」という言葉のことを考えていたのでしょう。ある著者は、このように書いています。「ダビデがこの詩篇で憐れみを懇願しているのは、自分の行いによって神の前に立つことはできず、ただ神の憐れみによって神の前に立つことができると悟ったからです。」[9]
パウロは三度、神の前で義とされるのは律法を守ることによってではなく、ただイエスを信じる信仰によってであると述べています。誰も、自分の行いに基づいて神の前に行くことはできません。救いは信仰によってのみ受け取ることができるからです。
しかし、キリストにあって義とされることを求めることによって、わたしたち自身が罪人であるとされるのなら、キリストは罪に仕える者なのであろうか。断じてそうではない。[10]
異邦人と同じく、ペテロとパウロも神の前では罪びとであることが示されています。彼らは、モーセの律法を守ることにではなく、キリストにあって義とされることを求めました。「わたしたち自身(も)」とあるのは、アンテオケの異邦人だけでなく、ペテロやパウロのようなユダヤ人クリスチャンも、ということです。ペテロとパウロが(信者になる前は)罪びとであったというのは真実であり、それゆえに、自分たちは異邦人と何ら変わるところがないことを自覚していました。
「キリストにあって」という言葉は、この後の節(2:19–20)で、クリスチャンがキリストと共に十字架につけられて、律法に対して死んだことについてパウロが語っているように、キリストと結びつくこと(結合)を表現しているのでしょう。ペテロやパウロのようなユダヤ人が、キリストとの結合によって、終わりの日に神の前で義とされるのを待ち望むのであれば、それは、ユダヤ人としての彼らには異邦人に対して何の優位性もないことを意味します。彼らも異邦人と同じく罪びとでしたモーセの律法は、救いをもたらすのに十分ではなかったということです。
… キリストは罪に仕える者なのであろうか。断じてそうではない。
パウロは、ユダヤ教やその律法を捨て、代わりに救いをイエスに求めたユダヤ人クリスチャンの「罪」について、キリストに責任があるのかと尋ねています。反対者たちによれば、キリストはモーセの律法をもはや必要としないという「罪」を助長していましたが、パウロは、イエスが罪に仕える(罪を助長する)者ではないと説明しています。
もしわたしが、いったん打ちこわしたものを、再び建てるとすれば、それこそ、自分が違反者であることを表明することになる。[11]
キリストにあっての救いが訪れた以上、パウロにとっても、どの信者にとっても、再びモーセの律法の遵守に立ち返るのは、無益なことです。救いは、旧約聖書の律法を守ることによって得られるものではありません。「いったん打ちこわしたもの」とは、旧約聖書の律法を指しています。もしパウロが、救いを得て、神の前で義とされるために、旧約聖書の律法を「再び建てる」とすれば、それはキリストが来て、新しいあがないの時代が訪れた今、すでに廃棄されているものなので、それこそ、彼は違反者とみなされるということです。ですから、ペテロは実質的に、異邦人が神の民に属するには旧約聖書の律法に従わなければならないと言っていたようなものですが、それは神の御心に反することでした。
律法の遵守に立ち返ることは、キリストにある義を否定することです旧約時代は律法と罪に焦点が当てられていましたが、キリストにあっての新しい時代の特徴は、恵みによる救い、そしてキリストを信じる信仰です。パウロは、キリストと共に死ぬことによって、すでに律法に対して死んでいるので、もし律法に立ち返るなら、違反者になってしまいます。律法や預言者を成就するために来たと言われたキリストの死と復活によって、律法はすでに終わりを告げました。(マタイ5:17)
わたしは、… 律法によって律法に死んだ。[12]
キリストが十字架上での死によって律法の時代を終わらせたことで、パウロは律法に死にました。イエスは律法の下で生き、それを完全に守った後、その死によって、信じる者たちを律法から解放されたのです。
パウロは、律法に立ち返って、異邦人に律法を守るよう要求することは、なぜ義ではなく罪なのか、その理由を説明しています。ここで彼は、ユダヤ人クリスチャンを代表して、「わたしは」という言葉を用いています。ペテロは、異邦人に律法を守ることを要求することによって、神に喜ばれる生き方をするには律法を守る必要があると示唆していたことになります。一方、パウロは、そのような姿勢は、イエスの死がもたらした新しい契約と矛盾すると言ったのです。ユダヤ人信者も含めて、どんな信者も、律法の下にはいません。彼らは、律法に死んだのです。ローマの信徒への手紙でも、パウロは同様のことを書いています。「あなたがたも、キリストのからだをとおして、律法に対して死んだのである。」[13] 律法には、もはや彼らを支配する権威がありません。
イエスは律法の下で生き、罪のない生活によって律法を成就されたので、罪と律法の支配下で生きる者たちを解放することができました。イエスは十字架の上で死ぬことによって、ご自分は罪を犯していなかったけれど、律法による罰をその身に負われました。イエスの死が、律法の時代に終わりをもたらしたのです。
… 神に生きるために、… [14]
律法に対して死ぬ目的が述べられています。クリスチャンはもはや律法の下にいないので、救いの新しい時代に生きています。新しいアダムであるキリストが来られ、信じる者たちは新しい人となったのです。クリスチャンにとって、律法との婚姻関係は終わり、今はキリストと結婚して、神のために実を結ぶ者となっています。[15]
わたしはキリストと共に十字架につけられた。[16]
救いの歴史における最も重要な瞬間、それはキリストの死です。イエスが十字架で死なれた時に、律法の時代は終わりました。クリスチャンは、キリストと共に死んだ時に、律法の支配に対して死にました。キリストの死においてキリストと結ばれることで、信者に新たな人生の始まりがもたらされます。ペテロは、異邦人に律法に従うことを求めることによって、十字架の重要性を否定してしまいました。異邦人と食事をする際に、彼らが律法に従うことを求めるのであれば、イエスの十字架上の死はあがないの中心的な役割を果たさないということになります。その場合、キリストではなく律法が救いの中心になってしまいます。そのような考え方は間違っており、イエスの十字架での死を軽視するものです。
生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。[17]
パウロは「キリストと共に十字架につけられた」ので、新しい人になりました。古い「わたし」は、もはや生きていません。罪と死の古い時代は、イエスの犠牲的な死によって終わりを告げました。クリスチャンは、キリストと共に死んだので、今はキリストにあって「新しい自分」なのです。
新しい時代が幕を開けたのであり、その特徴はキリストが信者の内に宿っておられること(内住)です。ほとんどの場合、パウロが内住について語る時、それは聖霊のことですが、キリストが信者の内に内住されていることについて語る箇所もあります。「イエス・キリストがあなたがたのうちにおられることを、悟らないのか。」[18] 「もし、キリストがあなたがたの内におられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊は義のゆえに生きているのである。」[19] 「あなたがたのうちにいますキリスト…栄光の望み…。」[20]
しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。[21]
十字架と復活によって神の約束が果たされたからといって、罪や悪がなくなったわけではありません。パウロはまだ「肉」(肉体)において生きています。クリスチャンはキリストを信じる信仰によって生きているのです。「肉」という言葉は、かつての悪の時代の支配下に生きるという意味では使われていません。ここでは、肉体を意味しており、罪の中で生きることと同一視されるべきではありません。それでも、肉体において生きることは古い時代を象徴する弱さを表しており、新しい時代がまだ完全には到来していないことを示しています。
パウロは、自分のために(そしてすべて信じる者のために)十字架上で命を捧げることによって愛を示してくださったキリストに信頼しています。これは、彼がエペソの信徒に書いたことに似ています。「キリストもあなたがたを愛して下さって、わたしたちのために、ご自身を、…ささげられたのである。」[22] 「キリストが教会を愛してそのためにご自身をささげられた…。」[23] この愛は、イエスがパウロのために(そして、私たち全員のために)命を捧げてくださった十字架に根ざしています。「わたしのために」という表現は、キリストがパウロに代わって死なれたという身代わりの概念を意味します。
わたしは、神の恵みを無にはしない。もし、義が律法によって得られるとすれば、キリストの死はむだであったことになる。[24]
義は、律法によってもたらされるものではありません。もしそういうことがありうるとしたら、律法を守ることによって神の前で義とされるということであり、イエスの十字架上の犠牲は必要なかったことになります。
ペテロの振る舞いは、異邦人が神に対して義となるには律法を守らなければならないという、間違った手本になっていました。
ペテロはパウロの忠告を聞き入れたようです。もしそうでなければ、パウロはペテロを偽兄弟とみなしていたことでしょう。しかし、パウロはコリントの信徒への第1の手紙で、ペテロについて肯定的な書き方をしているし、[25] ペテロも、同様に彼の手紙の一つでパウロを称賛しています。[26]
これで、ガラテヤの信徒への手紙第2章は終わりとなります。
注:
聖書の言葉は、特に明記されていない場合、日本聖書協会の口語訳聖書から引用されています。
1 ガラテヤ 2:11.
2 ガラテヤ 2:12.
3 ガラテヤ 2:13.
4 2ペテロ 3:15–16.
5 ガラテヤ 2:14.
6 ガラテヤ 2:3–4.
7 ガラテヤ 2:15.
8 ガラテヤ 2:16.
9 Thomas R. Schreiner, Exegetical Commentary on the New Testament: Galatians (Zondervan Academic, 2010),167.
10 ガラテヤ 2:17.
11 ガラテヤ 2:18.
12 ガラテヤ 2:19a,c.
13 ローマ 7:4.
14 ガラテヤ 2:19b.
15 ローマ 7:4.
16 ガラテヤ 2:19d.
17 ガラテヤ 2:20a.
18 2コリント 13:5.
19 ローマ 8:10.
20 コロサイ 1:27.
21 ガラテヤ 2:20b.
22 エペソ 5:2.
23 エペソ 5:25.
24 ガラテヤ 2:21.
25 1コリント 1:12; 3:22; 9:5; 15:5.
26 2ペテロ 3:15.
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