著者: ピーター・アムステルダム
11月 21, 2023
使徒パウロは、引き続き、旧約聖書の律法から解放されて自由に生きるよう、読者に勧めています。彼は、ガラテヤの信徒たちに、律法に逆戻りすることの愚かさを理解させようとしており、(律法よりも)神の約束に信頼する者は、聖霊の働きに信頼を置いているので、大きな希望があるのだと指摘しています。
律法の下にとどまっていたいと思う人たちよ。わたしに答えなさい。あなたがたは律法の言うところを聞かないのか。[1]
ガラテヤの信徒たちの中には、「律法の下」にいたい者がいました。彼らは、信者は割礼を受けて当然だと考えるだけではなく、律法全体を遵守しようとしており、それは、彼らが旧約聖書の暦を忠実に守っていることに表れていました。律法の下にとどまる者は、モーセの律法の古い時代に生きています。それでパウロは、「律法」すなわち旧約聖書の言うところを聞くべきだと言っているのです。
この節に続く箇所で、パウロは、律法の下で生きることは聖書の教えにかなっていないことを説明しようとしています。モーセの律法の下で生きていた人は、罪の束縛の中で生きていたのであり、その束縛からの解放は、福音が伝えられることによってもたらされました。
そのしるすところによると、アブラハムにふたりの子があったが、ひとりは女奴隷から、ひとりは自由の女から生れた。 [2]
パウロはここで旧約聖書に言及していますが、具体的な箇所は示していません。パウロは、アブラハムのことをすでにこの書簡の中で触れていますが、ここでは、2人の女性(ハガルとサラ)から生まれた2人の息子(イシマエルとイサク)の父親としての役割に目を向けています。イシマエルの母親であるハガルは奴隷であり、イサクの母親であるサラは自由の身でした。
女奴隷の子は肉によって生れたのであり、自由の女の子は約束によって生れたのであった。[3]
パウロは、実際の名前を用いる代わりに、引き続き、この2人の女性を女奴隷と自由の女と呼んでいます。彼は、むしろその2人の息子の出生に焦点を当てているのです。女奴隷ハガルの息子(イシマエル)は、自然な出生のプロセスで生まれ、サラの息子(イサク)は、神の約束に従って生まれました。アブラハムとサラはハガルによって子どもを得ようとしましたが、それは信仰の欠如でした。人間的な努力によって神の約束を実現させようとしたのです。
イサクの誕生は、人間の努力によってもたらされうるものではありません。アブラハムとサラに男の子が生まれるという約束はあまりにも驚きだったので、アブラハムはそれを聞いた時に信じることができず、笑ってしまいました。「アブラハムはひれ伏して笑い、心の中で言った、『百歳の者にどうして子が生れよう。サラはまた九十歳にもなって、どうして産むことができようか。』」[4] そして、アブラハムは、イサクが生まれなくても、イシマエルが約束を実現できると、主を説得しようとします。しかし、アブラハムの考えは却下され、神はイシマエルではなくイサクと契約を立てると宣言されました。イシマエルは、アブラハムの子として別の形で祝福を受けることになります。
ユダヤ教主義者たちは、自分たちをイサクの子孫と見ていたことでしょう。しかし、パウロは、彼らをイシマエルの子孫とみなし、ガラテヤの信徒たちをイサクの子孫とみなしました。律法や人間的な努力に頼って、神といい関係を保とうとする者は、契約の子ではありません。むしろ、キリストにあって約束に頼る者こそ、真の契約の子です。
さて、この物語は比喩としてみられる。すなわち、この女たちは二つの契約をさす。そのひとりはシナイ山から出て、奴隷となる者を産む。ハガルがそれである。[5]
「比喩(アレゴリー)としてみられる」(新共同訳「別の意味が隠されています」)と訳された言葉は、聖書でこの箇所だけに用いられています。アレゴリーとは、道徳的あるいは政治的な意味が隠されている文章のことです。パウロのこの言葉は、彼が今からアレゴリー的解釈をしようとしていることを示しています。そのような解釈の仕方は、文字の上ではあるものを意味することが実際には別のものを意味すると解釈されていた古代世界において確立された伝統的な解釈法であり、特に聖典や正典を読む際に用いられていました。つまり、「この女たちは二つの契約をさす」という言葉が、そのような解釈の仕方だということです。
このアレゴリーでは、2人の女性がまったく異なる2つの契約を表しています。「シナイ山から出て」いる契約(シナイ契約)を表しているのは、ハガルです。この契約は、神がモーセおよびイスラエルの民と結ばれたものでした。イスラエルの民は、シナイ山でエジプトからの解放を祝いましたが、パウロはシナイ山を奴隷状態と結びつけています。パウロの手紙を読んだガラテヤの信徒たちは、特に驚きもしなかったことでしょう。パウロはこの手紙で何度も、律法は罪からの解放をもたらさず、むしろ彼らを奴隷にするものだと指摘しているのですから。古い契約の一部である律法は、神の民を罪から解放するものではありません。
ハガルといえば、アラビヤではシナイ山のことで、今のエルサレムに当る。なぜなら、それは子たちと共に、奴隷となっているからである。[6]
パウロは、ハガルがシナイ山に相当すると考え、また、ハガルと当時のエルサレムとの間にも関連性を見ていますが、それは、ユダヤ人が律法の奴隷となっているとみなしたからです。ユダヤ教主義者たちは、異邦人改宗者に旧約の律法を課すことを望んでおり、それはつまり、異邦人が回心するには割礼を受けなければいけないということになります。パウロは、奴隷というテーマを強調し、エルサレムはその子たちと共に奴隷となっていると言いました。ユダヤ人の一般的な見方では、律法は自由への道でしたが、パウロは、律法は結局人々を奴隷にすると指摘しました。律法は従順を要求しますが、その原則を守る力を与えはしません。
しかし、上なるエルサレムは、自由の女であって、わたしたちの母をさす。[7]
パウロは、地上のエルサレムと上なる(天の)エルサレムとを対比しています。上にあるエルサレムは自由の女であり、キリストを信じる者たちの母です。そして、クリスチャンは天のエルサレムの住民です。
新約聖書の他の箇所では、天のエルサレムは信者を待つ天の国を表しています。パウロによれば、上にあるエルサレムは「今の悪の世」の中に広まっています。天のエルサレムはまだ完全に到来してはいませんが、「来るべき世」はすでに「今の悪の世」に入り込んでいたのです。イサクがサラの子であったように、信者たちは御霊の新時代の一員となっています。彼らはユダヤ教主義者たちのように奴隷ではなく、御霊の働きによって、自由の子なのです。
すなわち、こう書いてある、「喜べ、不妊の女よ。声をあげて喜べ、産みの苦しみを知らない女よ。ひとり者となっている女は多くの子を産み、その数は、夫ある女の子らよりも多い。」 [8]
パウロはこのガラテヤ4:27で、これまでの内容を裏付けるためにイザヤ54:1から引用しており、ガラテヤの異邦人クリスチャンは上にあるエルサレムの子であると指摘しています。彼らは、子どもを産めるとは思われていなかった「不妊の女」の子だからです。彼らは奇跡的に、新しく生まれたのでした。
イザヤからの引用箇所とガラテヤのこれまでの節との関連性を言えば、それはサラが不妊だったという点です。彼女が子どもを産めないことは、アブラハムが子孫を残すという約束の実現を妨げるものでした。同じ状況が、イサクとリベカ(創世記25:21)やヤコブとラケル(創世記30:1)の生涯にも見られます。
パウロは、この「平和の契約」(イザヤ54:10)が彼の時代に成就したとみなしています。捕囚からの帰還は、イエスのメッセージの内に実現しました。この約束は、ガラテヤなどにおける異邦人クリスチャンの回心によって実現したのです。ガラテヤの異邦人クリスチャンは、この約束の実現の一部であり、彼らは真に主の子となりました。
兄弟たちよ。あなたがたは、イサクのように、約束の子である。[9]
パウロはここで、彼のアレゴリーの意味を説明し始めています。ユダヤ教主義者たちは、ガラテヤ人が割礼を受けない限り、真のクリスチャンとはなり得ないと考えました。パウロは、ガラテヤ人クリスチャンはイサクのようであり、サラの真の子であると言います。彼らは聖霊の働きのおかげで神の子とされ、約束のものを受けたのです。
しかし、その当時、肉によって生れた者が、霊によって生れた者を迫害したように、今でも同様である。[10]
イシマエルがイサクを迫害したように、ユダヤ教主義者たちもガラテヤで神の霊に満たされた者たちを迫害していました。ガラテヤの信徒たちがサラの真の子であったなら、ガラテヤにやって来て、信者は割礼を受けるべきだと主張したユダヤ教主義者たちは何なのでしょう。彼らは自分たちをサラとアブラハムの子だと考えていましたが、パウロは彼らを、イサクを「からかって(あざ笑って)」迫害したイシマエルになぞらえました。[11]
ユダヤ教主義者たちは割礼に固執しましたが、そのようなことは、神の御霊が働いて異邦人をクリスチャンの群れに加えてくださったことを反映するものではありません。ガラテヤにおけるユダヤ教主義者たちの働きは、むしろ迫害と言えるものでした。ガラテヤ人クリスチャンたちは、「来るべき世」の一員です。上にあるエルサレムを自分たちの母としており、神の霊に満たされています。そのようなわけで、彼らは、律法と割礼による奴隷状態を信者たちにもたらそうとするユダヤ教主義者たちの口車に乗らないようにしなくてはいけません。
しかし、聖書はなんと言っているか。「女奴隷とその子とを追い出せ。女奴隷の子は、自由の女の子と共に相続をしてはならない」とある。[12]
ガラテヤの信徒たちは、イサクとイシマエルの物語が彼らの状況を表しているので、それに注目するよう求められました。この物語から、女奴隷に属する者は相続を受けることがないと分かります。
イシマエルがイサクをからかった(あざ笑った)時、イサクの母親であるサラは、イシマエルをわが子の競争相手とみなしました。そして、相続はイサクただひとりのものなので、イシマエルとその母親ハガルを家から追い出すべきだと、アブラハムに訴えたのです。[13] アブラハムは、息子のイシマエルを愛していたので、サラの要求どおりにするのをためらいました。[14] しかし、神はアブラハムに、サラの求めに応じるよう言われました。[15] 相続はイシマエルではなく、イサクによって行われるのであり、約束の子はイサクひとりなのです。
旧約聖書には、女奴隷の息子は相続を受けられないとあります。パウロは、この手紙の読者に対して、シナイ契約の下にとどまる者が相続を受けることはないと伝えているのです。ガラテヤの信徒たちは、サラの子である者だけが相続を受けるのだから、約束の下にとどまるよう勧められています。
だから、兄弟たちよ。わたしたちは女奴隷の子ではなく、自由の女の子なのである。[16]
パウロは、先ほど、「兄弟たちよ。あなたがたは、イサクのように、約束の子である」[17] と言いましたが、ここではその結論を別の言葉で繰り返しています。ガラテヤの信徒たちは肉ではなく御霊によって生まれたので、ハガルの子ではなく、上にあるエルサレムの子であり、約束の子なのです。つまり、彼らは自由の女の子であり、地上のエルサレムではなく天のエルサレムに属しているということです。
自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない。[18]
これは、ガラテヤ書第5章の最初の節です。第5章に入っていますが、文脈は第4章とつながっています。キリストの御業の目的がこの短い文章に要約されており、それは、イエスがその民を解放してくださったのは彼らが福音の自由を享受できるようにだというものです。
「自由」対「奴隷状態」が、ガラテヤ4:21–31の焦点でした。そして、この節、5:1は、第4章の最後の部分と第5章の最初の部分とのつなぎになっています。
ガラテヤの信徒たちが割礼を守るようになれば、それはモーセの律法に立ち戻ることであり、人々を奴隷状態にするシナイ契約に立ち戻ることです。そうするなら、彼らは自らを、イサクの家ではなく、イシマエルの家の者としてしまいます。パウロは、彼らが最初に信者となった際に律法から解放されたのだから、これからも解放されたままでいるべきだと力説しています。ガラテヤの信徒たちはキリストによって律法から解放されたのだから、その自由を固く守るべきであると。
パウロは、最後にこの要点を持ち出して、この箇所を締めくくっています。ガラテヤの信徒たちは、自分たちが得た自由の内に固く立ち、割礼や律法に従えという圧力に抵抗すべきです。彼らは、上にある(天の)エルサレムや自由の女(サラ)に属しています。約束の継承者であり、聖霊を受けています。ですから、キリストによって与えられる自由を享受し、その中で生きるべきなのです。
注:
聖書の言葉は、特に明記されていない場合、日本聖書協会の口語訳聖書から引用されています。
1 ガラテヤ 4:21.
2 ガラテヤ 4:22.
3 ガラテヤ 4:23.
4 創世記 17:15–21.
5 ガラテヤ 4:24.
6 ガラテヤ 4:25.
7 ガラテヤ 4:26.
8 ガラテヤ 4:27.
9 ガラテヤ 4:28.
10 ガラテヤ 4:29.
11 創世記 21:9–10. 「エジプトの女ハガルがアブラハムとの間に産んだ子が、イサクをからかっている…」(新共同訳)
12 ガラテヤ 4:30.
13 創世記 21:10.
14 創世記 21:11.
15 創世記 21:12.
16 ガラテヤ 4:31.
17 ガラテヤ 4:28.
18 ガラテヤ 5:1.
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