著者: ピーター・アムステルダム
2月 20, 2024
これは本シリーズの最後の記事であり、パウロがガラテヤの信徒たちに宛てた手紙の最後の章を取り上げていきます。
御言を教えてもらう人は、教える人と、すべて良いものを分け合いなさい。[1]
パウロは、指導を受ける人は教師を経済的に支える責任があると述べています。また、指導者の役割は信者を忠実に教えることだと強調しています。パウロが、教師を助けるよう信者に指導しているのは、そうすることで、教師が研究したりメッセージを説いたりすることに必要な時間を費やせるようにとのことでしょう。教えの恩恵を受ける人は、教師を支援すべきであり、パウロはそのことを、ローマの信徒に宛てた手紙でも、次のように教えています。「異邦人は彼らの霊的なものにあずかったのですから、物質的なもので彼らに奉仕すべきです。」[2]
まちがっては[思い違いをしては]いけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。[3]
パウロは、ここだけではなく他の箇所でも[4] 信者は思い違いをすべきではないと指摘しています。キリストにおける自由は、その自由を神が意図されたとおりに利用する責任を伴います。モーセの律法の下にいないからといって、過ちの結果を刈り取らないわけではありません。それぞれの人は、自分の考えや意図をご存知である神の御前で申し開きをすることになります。
神は、人は自分のまいたものを刈り取ることになるという基本原則を定めておられます。この文脈において、まくことと刈り取ることは、特に惜しみなく与えることに関して語られています。パウロはこの点を、他の手紙でも次のように述べています。「惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。」[5]
ここでパウロが語っているのは、与えることに限定されているわけではなく、人生全般に当てはまる基本原則です。ただ、この場合は与えることに焦点が当てられているということです。他者のため、また神の栄光のために生きる者は、永遠の報い、永遠の命を受けます。
すなわち、自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊[御霊]にまく者は、霊[御霊]から永遠のいのちを刈り取るであろう。[6]
ここでは、2種類の「まき方」について述べられており、それは、肉にまくか、御霊にまくかということです。肉にまく者は、自分が「今の悪の世」(1:4)に属していることを示しており、滅びに至ります。御霊にまく者は、自分が「新しく造られた」者であることを示しており(6:15)、永遠の命を受け取ることになります。
この節で言う「肉にまく」とは、この世における自分の財産を、自分の利益のため、利己的な欲望に従って使うことを意味します。「御霊にまく」とは、別の言い方をすれば、「御霊によって歩く」((5:16)、「御霊に導かれる」(5:18)、「御霊と歩調を合わせて進む」(5:25)ということです。御霊にまく者は、御霊の実(5:22–23)を結びます。この文脈において、御霊にまくことは、他者に惜しみなく与えることに現れます。
ここでは、人が自分の財産をどうするかに焦点が当てられていますが、パウロの語ることはより広い範囲に適用される基本原則を反映しており、「肉にまく」ことにはすべての悪行が含まれます。割礼やトーラー(モーセの律法)の遵守に救いの望みを置く者は、救いを逃してしまうのです。「肉の働き」(5:19–21)は、肉にまく者の内に現れます。御霊にまくことには、御霊の実のリスト(5:22–23)に要約されているような、素晴らしく良きことがすべて含まれます。
肉にまく者は、「滅びを刈り取り」ます。未来形(~であろう)が使われているのは、これが最後の審判についてであることを示しています。「滅び」とは、最終的な滅びを指すものです。「永遠の命」と「滅び」が対比されているので、後者は来たるべき世での命にあずかることができないという意味になります。
わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる。[7]
パウロはガラテヤの信徒たちに、終わりの時に報われるようになるのだから、失望せずに善を行い続けるよう勧め、くじけることのないよう励ましています。ここでの「善を行う」とは、他者の苦しみを和らげたり、必要を満たしたりするために、金銭や物資を与えることに焦点が当てられたものです。彼らは、惜しみなく他者を助けるべきであり、そうすることにうみ疲れてはなりません。「善を行う」とは、他者を金銭的に助ける以上のことですが、この場合、必要とされていたのは金銭的支援だったということです。
適切な時、つまり、神だけがご存知のしかるべき「時が来れば」、惜しみなく与えてきた者は報いを刈り取ることになります。この報いはくじけずに続ける者のために用意されるものなので、パウロは彼らに、助けを必要とする人たちに惜しみなく与えるという形で、御霊と歩調を合わせ続けるよう教えています。
だから、機会のあるごとに、だれに対しても、とくに信仰の仲間に対して、善を行おうではないか。[8]
パウロはここで、6–9節の内容を短くまとめています。命がある間に善を行う機会について話していますが、ここでの「善」とは、他者の日々の必要が満たされるよう、物質的にその人を助けることです。パウロは、信徒たちの資産が限られており、すべての必要を満たすことは不可能であることを承知しています。そこで、まず信者仲間、つまり信仰の家族を優先するように言っているのです。信者は、信者以外の人の必要も満たすよう努めるべきです。もしそのための資産があるのなら、「だれに対しても」善を行うべきだとあり、それには信者でない人も含まれるからです。
ごらんなさい。わたし自身いま筆をとって、こんなに大きい字で、あなたがたに書いていることを。[9]
ここでパウロは、手紙の締めに入ります。自分の言ったことを書き留めてくれていた筆記者からペンを受け取り、自らの手で結びの言葉を書いているのですが、パウロがそのように自分の手で手紙を締めくくっていることは、他の書簡にも見られます。[10] 彼は、結びの前に、手紙に書かれた主なテーマの多くを要約しています。また、今回は、大きな字でこれを書いています。彼が自らの手でこの結論の部分を書いたのは、その重要性を示し、読者が彼の最後の言葉に特別な注意を払うようにです。
いったい、肉において見えを飾ろうとする者たちは、キリスト・イエスの十字架のゆえに、迫害を受けたくないばかりに、あなたがたにしいて割礼を受けさせようとする。[11]
パウロは、彼に反対する者たちの動機を暴露して、彼らは迫害を避けるために割礼を奨励しているのだと言います。ユダヤ教主義者たちが割礼を奨励することでガラテヤの信者たちを混乱させたので、その結果、パウロはこの手紙を書くことになりました。ここに来てパウロは、割礼せよとの要求が彼の反対者たちからのものであることを、単刀直入に述べています。
パウロは彼らの動機を批判して、彼らがガラテヤの人たちの割礼を皆に知らせたいのは、「肉において見えを飾ろう」としているからだと断言しています。彼らは人からの称賛や感嘆を欲しかったのです。また、ガラテヤの人たちが割礼を受ければ、それはユダヤ教主義者たちをユダヤ人による迫害から守ることになります。自分たちが律法に忠実である証拠として、「ガラテヤの人たちに割礼を受けさせた」と言えるので、敵対者たちは、彼らが律法を守ることを拒んでいると言えなくなるということです。
パウロは、彼らが迫害を避けるのは、キリストの十字架を退けたことを反映していると指摘します。パウロからすれば、人は割礼によって義とされるか、キリストの十字架によって義とされるか、つまり、律法によって義とされるか、キリストによって義とされるか、二つに一つなのです。彼の反対者たちは、割礼を奨励することによって、十字架のつまずきを避けました。(5:11) しかし、そうすることで、キリストが成してくださったことによる益をすべて失いました。(5:2–4) 割礼と十字架とに、同時に頼ることはできません。十字架はイエスによる救いを表しているのに対して、割礼は人間による従順に焦点を当てているからです。
事実、割礼のあるもの自身が律法を守らず、ただ、あなたがたの肉について誇りたいために、割礼を受けさせようとしているのである。[12]
パウロは先ほど、この反対者たちが割礼に固執しているのは、悪い動機によるものだと言いました。純粋に律法を守ろうとしていたわけではないと。彼らの目的は、ガラテヤの信徒たちに割礼を受けさせることによって、迫害を避けることだったのです。パウロは、彼らが律法の告げることを実行しない一方で、他の人たちには律法を守るよう要求していると言います。
しかし、わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない。この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである。[13]
反対者たちとは対照的に、パウロは自分がキリストの十字架のみを誇れるよう祈っています。律法に熱心な者は、律法に背いているにもかかわらず、自分が成し遂げたことや自分のわざを誇ります。一方、十字架を誇る者は、キリストが自分のためにしてくださったことに、全幅の信頼を寄せています。
律法ののろいは、キリストがそののろいを自ら負われたことによって、取り除かれました。(3:13) ですから、十字架を誇りとする者は、この世のもろもろの霊力から解放され、律法から自由になったことを喜ぶのです。(4:3-5) この世はもはや彼らを支配しておらず、彼らはもはや世に縛られていません。
割礼のあるなしは問題ではなく、ただ、新しく造られることこそ、重要なのである。[14]
この世はパウロに対して(またすべての信者に対して)十字架につけられてしまったので、割礼を受けたかどうかは、まったく重要ではありません。割礼は古い契約や古い創造に属しているのです。律法は古い時代に属しており、イエスの十字架での死は新しい時代をもたらします。この新しい時代は、キリストの十字架によって幕を開けました。
割礼を巡る対立において、パウロが、割礼を受けないことが重要だと言っていないのは、興味深いことです。割礼を受けないことを重視する人もまた、古い体制に属しているのです。割礼を受けないことが重要だというわけではないので、パウロはテモテに割礼を授けることをいといませんでした。(使徒 16:3) 救いを得るためではなく、文化的な理由で割礼を受けるのであれば、それは個人の選択の問題となります。
この法則に従って進む人々の上に、平和とあわれみとがあるように。また、神のイスラエルの上にあるように。[15]
以上のことを述べた上で、パウロは祈りを書き加えています。パウロの言う「法則」とは、「新しく造られること」(新しい創造)の重要性であり、そこから、割礼のあるなしは問題ではないという結論につながります。パウロは、神の平和と憐れみとが、この新しい創造に従って進む人の上にあることを祈っています。
だれも今後は、わたしに煩いをかけないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に帯びているのだから。[16]
パウロは、これまで書いてきたことは自分が受けた苦しみに基づいていると言います。彼がキリストに属しているために身に帯びることになった焼き印は、彼が真のイスラエルの一員であることの証拠でした。その傷は、彼が誰に仕えて働いていたかを示しています。それはまた、宣教における彼の誠実さの証でもあります。彼は自分が宣べ伝えたことのゆえに苦しみを受けましたが、神から与えられたメッセージを変えることはしませんでした。神がイエスにおいて成してくださったことを宣べ伝えるためなら、殴られたりムチで打たれたりすることもいとわなかったのです。
兄弟たちよ。わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように、アァメン。[17]
ガラテヤの信徒たちへのパウロの手紙は、キリストの恵みが彼らと共にあるようにとの祈りで締めくくられています。「霊」という言葉は、ここでは人全体を指しており、「恵みが、あなたがたと共にあるように」と言っても、「あなたがたの霊と共にあるように」と言っても、意味は同じです。
パウロが「わたしたちの主」という言い方をしたのは、ガラテヤの人たちが神の家族の一員であり、アブラハムの真の子であることを彼らに確信させたかったからです。イエスが彼らの主であることは、彼らが真に神の民の一員であることを示しています。彼らはまた、「兄弟たち」なので、神の家族の一員です。「アーメン」は、この恵みの祈りの言葉を確認するものです。パウロは、ガラテヤの信徒たちに恵みの力を思い起こさせ、その恵みが彼らの人生に存在し続けるようにと祈ることで、手紙を締めくくっています。
注:
聖書の言葉は、特に明記されていない場合、日本聖書協会の口語訳聖書から引用されています。
1 ガラテヤ 6:6.
2 ローマ 15:27 新改訳2017.
3 ガラテヤ 6:7.
4 1コリント 6:9; 15:33.
5 2コリント 9:6 新共同訳.
6 ガラテヤ 6:8.
7 ガラテヤ 6:9.
8 ガラテヤ 6:10.
9 ガラテヤ 6:11.
10 1コリント 16:21; コロサイ 4:18; 2テサロニケ 3:17; ピレモン 19.
11 ガラテヤ 6:12.
12 ガラテヤ 6:13.
13 ガラテヤ 6:14.
14 ガラテヤ 6:15.
15 ガラテヤ 6:16.
16 ガラテヤ 6:17.
17 ガラテヤ 6:18.
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