キリストに従う者にとっての美徳: 喜び

著者: ピーター・アムステルダム

6月 4, 2024

[Virtues for Christ-Followers: Joy]

May 14, 2024

クリスチャンである私たちにとって、喜びとは、聖書が教えていることに対する信仰から生まれるものです。つまり、神が私たちの創造者であること。人類は罪のゆえに神から遠ざかっているけれど、神は、イエスの犠牲的な死を通して私たちの罪を赦すことによって、私たちが神と和解する道を作ってくださったこと。その和解によって、私たちは神との関係を始め、御霊が私たちの内に住んでくださり(内在)、そして、私たちの関係が永遠に続くこと、です。

神への信仰、そして神の約束に対する深い信頼が、心の平安と自信ある態度を持つ助けとなります。その約束とは、救いや和解、聖霊の内在、そして救いの究極の結果である、神と永遠に共に過ごすことについての約束です。そのような信仰が希望を生み出して、来るべき良きことへの望みを抱かせ、私たちが喜びを持って生きられるようにしてくれます。

キリスト教的喜びは、私たちの信仰と関連しており、またその結果でもあります。私たちは、創造主としてだけではなく、父としても、神を信じています。神とその性質について、また、私たちに対する深く変わらぬ神の愛について教えている神の言葉を信じています。神との継続的な双方向の関係を持っており、それは永遠に続きます。神の聖霊は私たちの内に住んでおられ、喜びはその内在の実です。

マイケル・ジガレーリは、このような喜びを持つとはどういう意味かについて、次のように書いています。「聖書的観点からすれば、喜びは、『日々、すべての状況において喜ぶ霊を持っていること』であると定義できます。それは精神的な満足感以上のもの、感謝の気持ちや、人生に対する全般的な充足感以上のものです。」 [1]

次に引用する記事で強調されているように、聖書が私たちの力であると教えている主の喜びの豊かさの内に生きているかどうかを確かめるために、この喜びの面で自分自身を吟味することは有益です。

喜びの内に生きる

喜びは、誰もが切望しているけれど、それをつかみ取るのは難しく思えることが多いものです。喜びを経験することは、すべてのクリスチャンの生活の一部であるべきです。喜びは、私たちの内に神が働いてくださることによって生み出される聖霊の実であり、喜ぶことは私たちに対する神の御心の一部です。…

まず第一に、喜びは神からの贈り物であると理解することです。ギリシャ語で喜びを意味する語根は「カラー」で、それは恵みを意味する「カリス」と密接に関係しています。喜びは、神の賜物であると同時に、神の賜物に対する反応でもあります。それは、神の恵みに気づき、神の恩寵を味わう時に訪れます。

このことを考えれば、喜びを経験する方法の一つは、神に焦点を合わせることであるということが明らかです。私たちは、困難や、私たちの満足感を奪っているものばかり考えるのではなく、神に思いを馳せることができます。… 主が近くにおられることを思い起こし、心配事について祈り、私たちの思いを神の良きことの数々に集中させるのです。意識して賛美することで、喜びを経験することができます。ダビデは、神の言葉を学ぶことで、喜びがもたらさせると書きました。(詩篇19:8) 私たちは、祈りによって神と交わることで、喜びを経験することができます。—Gotquestions.org [2]

*

神が私たちのためになされたことに感謝し、神の恵み深さ、愛、世話に思いを留めて、神からの祝福に満足する時、私たちには喜ぶべき理由があります。たとえ、人生の嵐の只中にあっても、また、悩みや嘆き悲しみの中にあっても、です。神の祝福に感謝することは、私たちが喜びと希望を持って生きる助けとなります。

「喜び」は、聖霊の働きです。ピリピの信徒への手紙では、この喜びというテーマが際立っており、クリスチャンは神がすべてのことを共に働かせて益としてくださることを信じるよう求められています。喜びは、人生において、私たちが神に対して示す反応の仕方の一つです。神の祝福や臨在や約束について、神との関係について、神の子でいられることについての反応なのです。それは、神がどのような方であって、いかに私たちの人生に関わり、愛してくださっているかということへの反応です。次の引用句が強調しているように。

それは、主が抱いておられる3つの喜びを意識することです。私たちをあがなうという喜び。私たちの救い主、また実を結ばせる力として、私たちの内に宿るという喜び。そして、ご自身の花嫁また喜びのもととして、私たちを所有するという喜びです。この3つの主にとっての喜びを意識することこそが、私たちの真の力なのです。主に対する私たちの喜びは揺れ動くかもしれませんが、私たちに対する主の喜びは変わることがありません。—ジェームズ・ハドソン・テーラー

次の記事は、聖書にあるパウロやネヘミヤが私たちに示してくれた、試練の時でさえ喜びを味わえることの手本を取り上げています。

揺るぎない喜び

聖書に登場する人々がそうであったように、私たちは皆、様々な難局や困難に直面します。… 不安や予期せぬ問題は、喜びを簡単に押しのけてしまうように見えます。… しかし神は、私たちが外からの影響にもかかわらず、内なる喜びを持つことを望んでおられるのです。私たちと同様に困難に直面した聖書の登場人物に、そのような喜びの源が見出だせます。…

ネヘミヤが喜びの秘訣を分かち合う。(参照:ネヘミヤ8:9–10) 捕囚から戻り、エルサレムの城壁再建を監督した後、彼は人々に神の言葉を聞かせました。すると、人々は自分たちが神に従っていなかったことを悟り、涙を流しました。しかしネヘミヤは、彼らの心を喜びに向けさせたのです。神の言葉を読む日は聖なる日であり、主を喜ぶことが彼らの力であると説明した上で、彼らに、お祝いをするよう、また、何も備えのない人には食べ物をあげるよう促しました。力と訳された言葉は「マオズ」で、それは砦(守りの拠点)を表す言葉です。それから、大きな宴会が始まりました。宴会を行い、祝福を分かち合うことは、祝いと喜びの時であるべきです。このように、あなたにもっと喜びが必要であるなら、聖書を開いてください。

パウロが獄中で大きな喜びを知る。パウロは、投獄、殴打、嵐の中での難破、鞭打ちなど、多くの苦難に遭いました。しかし、彼は常に喜びについて語っています。パウロの喜びの源は様々ですが、特に、彼が思いを集中させた方法がその源となっています。

これらの原則を当てはめることは、私たちが不安を手放し、より多くの喜びをもって生きる助けとなります。… 一日一日と、それがもたらす喜びや希望について神に感謝すると共に、困難な時にも新たな気づきと成長があることを感謝するのです。—カレン・ホワイティング [3]

大衆文化では「幸福」とその追求についてよく耳にしますが、それは主の喜びと同じなのでしょうか。以下は、主の喜びの賜物についての有益な洞察を与えてくれます。

クリスチャンの喜びの鍵

聖書には、「喜び」という言葉が頻繁に出てきます。例えば、詩篇は喜びに関する記述であふれています。詩篇作者は、「夜はよもすがら泣きかなしんでも、朝と共に喜びが来る」(詩篇30:5後半)、また「全地よ、神にむかって喜び呼ばわれ」(詩篇66:1)と記しました。同様に、新約聖書には、喜びは聖霊の実(ガラテヤ5:22)、つまりクリスチャンの美徳であると記されています。聖書がこのように喜びを強調しているのですから、私たちは喜びとは何かを理解して、それを追求する必要があります。…

新約聖書の概念の核心とは、人は、嘆き悲しみ、苦しみ、困難な状況を経験している時でも、聖書的な喜びを持てるということです。なぜなら、人の嘆き悲しみは一つの関心事に向けられていますが、その同じ瞬間に、その人にはある程度の喜びもあるのです。

使徒パウロは、ピリピの信徒たちへの手紙で、喜びについて、またクリスチャンの義務として喜ぶことについて、幾度も語りました。例えば、「あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい」と書いています。(ピリピ4:4) パウロは、クリスチャンは時々、定期的に、あるいはたまにではなく、常に喜ぶべきだと言うのです。そして、こうつけ加えています。「繰り返して言うが、喜びなさい。」(4:4後半) パウロは獄中からこの手紙を書いていて、その中で、自分が殉教していけにえのように血を注ぐ可能性(2:17)といった、かなり重苦しい事柄を取り上げています。それでも、彼の境遇がどうあれ、ピリピの信徒たちは喜ぶべきであると語っています。

クリスチャンの喜びの鍵は、その源である主にあります。キリストが私の内におられ、私がキリストの内にいるのであれば、その関係は時々だけ経験すべきものではありません。クリスチャンは常に主の内におり、主は常にクリスチャンの内におられます。それこそが、どんな時も喜びの理由なのです。クリスチャンが苦しみや悲しみ、嘆きを味わっている時、たとえその境遇にあって喜べないとしても、キリストにあって喜ぶことはできます。私たちは主にあって喜ぶのであり、主は私たちを決して離れず、捨てないので、私たちは常に喜ぶことができるのです。—R・C・スプロール [4]

*

以下の2つの記事の抜粋は、福音メッセージを世界に届けるという使命を果たそうと努める私たちの人生において、喜ぶことや賛美に満ちた喜びがどれほど大切であるかを思い起こさせてくれます。

喜びに導かれた人生

カール・バルトは、次のように書いています。「驚くべきことに、旧約聖書にも新約聖書にも、歓喜、喜び、至福、喜び歌うこと、楽しく過ごすこと、喜ぶことへの言及はかなり多く、詩篇からピリピ人への手紙に至るまで、それらが強く求められています。」

実際、「全地よ、主にむかって喜ばしき声をあげよ」(詩篇100:1)から、「主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい」(ピリピ4:4)に至るまで、また、その前や後や間の何十もの箇所で、私たちは喜びに満ちた人生を送るよう促されています。…

[しかし、現在の世界の有り様から言って、]まともな心で喜びを語れる人などいるでしょうか。人類の破滅的状況がいくらかでも改善されたなら、喜ぶ時間はあるでしょうけれど。

しかし、私たちがまず喜びを再発見しないかぎり、人類の破滅的状況が改善されることはない、と言う方が真実ではないでしょうか。福音は、実際のところ、スキャンダルであり続けます。なぜなら、すべてが崩壊しつつあるその時に、福音は喜びを告げているからです。今日の専門家たちが、「現状を冷静に判断」し、幸福感に浸っている時には「慎重ながらも楽観的」であり続けるとしか言えないというのに。

福音の論調は、これらとは全く異質なものです。天使は、震え上がる羊飼いたちに、「恐れるな」と告げました。「すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える」と。世界に対する教会の天使的な宣教も、それと何ら変わりありません。私たちは暗闇に震える世界に向かって、「恐れないでください」と宣言します。「私たちは、すべての人に与えられる大きな喜びを伝えます」と。

私たちがどれだけ熱心になっても、世界を正すことはできません。その「正し」はすでに済んでいて、キリストが再臨される際に明らかになります。それまでの間、私たちには実に重要な仕事が与えられています。それは、とりわけ、社会的に病んでいる人を癒やし、霊的に死んでいる人をよみがえらせることです。しかし、至って真剣に弟子となることは、それには含まれません。

私たちは、イエスがどのように宣教を始められたかを思い起こすといいでしょう。… 『カラマーゾフの兄弟』の中で、パイーシイ神父[の福音書朗読を聞いているアリョーシャ]はこう言います。「これは、ガリラヤのカナ、最初の奇跡の話だ。ああ、あれは奇跡、素敵な奇跡だよ。キリストが訪れたのは、人々の悲しみの場ではなく、喜びの場だった。最初の奇跡を起こしたのは、人々の喜びに力を貸すためだったんだ。」

厳しい悪の現実について深く考え、たまには哀歌を書くべき時もあります。しかし、G・K・チェスタトンはもっと大きな真実があることを知っており、そのため、聖書はその点を何度も繰り返しています。チェスタトンは、人が完全に人間であるのは、「喜びがその人の根本的なものであり、悲しみが表面的なものである時」だと言います。「憂鬱は無邪気な間奏、一時的な傷つきやすい心境であるべきであり、賛美が魂に永遠に脈打つべきものです。悲観主義はせいぜい感情的な半日休暇にすぎず、喜びはすべてのものが生きていくための賑やかな労働です。」

確かに真剣な目的を持つべきです。しかし、賛美が脈打つようにもしましょう。—クリスチャニティ・トゥデイ [5]

浮かない顔つきでイエスを宣べ伝えることはできない

聖霊はキリスト教的喜びの「創始者」であられ、私たちが福音を宣べ伝えるためには、神の御霊から賜った喜びを心に持っている必要があります。悲しみによって特徴づけられるクリスチャン生活も、ある程度理解はできますが、浮かない顔つきでイエスを宣べ伝えることなどできません。ただ喜び、神を賛美することだけが、福音を広めていく唯一の道です。

教皇は、こう述べています。「私たちクリスチャンは、喜びや幸せを語ることがあまり習慣になっていません。それよりも不満を口にしたい時がよくあると思います。そして、聖霊こそが、私たちに喜びを与えてくださるのです。」

「私たちを導くのは御霊です。御霊こそが喜びの創始者であり、創造者なのです。そして、聖霊にあってのこの喜びは、真のキリスト教的自由を与えてくれます。喜びがなければ、私たちクリスチャンは自由になれず、自分の悲しみの奴隷となってしまいます。パウロ6世は、悲しく、絶望的で、落胆したクリスチャンでは、福音を広めることはできないと言いました。…」

そこで、どのように神を賛美するのでしょうか。私たちは自分を忘れて神を賛美するのです。教皇フランシスコは、「神が私たちに与えてくださる恵みが自由なものであるように、私たちも自由に」神を賛美するのだと言います。「あなたは神に賛美を捧げますか。それとも、神に嘆願するだけなのでしょうか。… あなたは神を賛美しますか。これは何か新しいこと、私たちの新しい霊的生活における新しいことです。神に賛美を捧げ、賛美を捧げるために自分を忘れるということ、また、賛美を捧げることにいくらかの時間を費やすということです。」—バチカン放送 [6]

今日の賛美

主よ、私は祈りと賛美と感謝をもって、心と思いと霊とをあなたに向けて持ち上げます。あなたはすべて良きものを与えてくださる方であり、私にとっては、あなたこそが「すべて良きもの」なのです。

あなたは私の創造主であり、父であり、命と力の源です。太陽を昇らせ、光を輝かせ、夜を来たらせてくださいます。私を腕に抱き、悲しみを慰め、あなたの愛で温めてくださいます。そして、私を保護し、守り、必要なものを与えてくださいます。

いかなる平安、満足、祝福も、すべてあなたの御手から来ます。私はあなたをほめたたえ、あがめ、感謝します。アーメン。[7]

思考の糧

「あなたは、いのちの道をわたしに示し、 み前にあって、わたしを喜びで満たして下さるであろう。」(使徒2:28)

「神は、幸福と平安をご自身から切り離して私たちに与えることはできません。なぜなら、神なしにそういうものないからです。」—C・S・ルイス

「わたしはみ言葉を与えられて、それを食べました。み言葉は、わたしに喜びとなり、心の楽しみとなりました。」(エレミヤ15:16)

「私たちは多くを与えることはできないかもしれませんが、神を愛する心に湧き出る喜びを与えることはいつでもできます。」—マザー・テレサ

(このトピックについて、さらに詳しくは、『もっとイエスのように:喜び』のパート1パート2をご覧ください。)

(続く)


注:

聖書の言葉は、特に明記されていない場合、日本聖書協会の口語訳聖書から引用されています。


1 Michael A. Zigarelli, Cultivating Christian Character (Colorado Springs: Purposeful Design Publications, 2005), 49.

2 https://www.gotquestions.org/joy-Christian.html

3 https://www.crosswalk.com/faith/bible-study/bible-characters-who-teach-us-about-joy.html

4 https://www.ligonier.org/learn/articles/key-christians-joy

5 Christianity Today editorial, December 7, 2009.

6 Vatican Radio quoting Pope Francis, May 31, 2013.

7 Activated, November 2012.

 

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