著者: ピーター・アムステルダム
6月 11, 2024
第1コリント第2章の勉強を続けていきますが、まず9節にはこう書いてあります。
しかし、聖書に書いてあるとおり、「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮びもしなかったことを、神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた」のである。[1]
パウロは、第2章の前の方で、「この世の者」は「隠された奥義としての神の知恵」を理解していないと述べていますが(第6–7節)、かつて隠された奥義(神秘)であったものは、今や啓示されています。神の御子キリストが地上に来て、十字架にかけられたのです。栄光の主であるキリストは、福音の宣教を通して、主に属するすべての人々に啓示されました。
そして、それを神は、御霊によってわたしたちに啓示して下さったのである。御霊はすべてのものをきわめ[探り]、神の深みまでもきわめるのだからである。[2]
パウロは、彼がこれまで書いてきたことのような「神の深み」は、御霊によって啓示されるものであると述べています。御霊だけが、この世の支配者たちには理解できない、十字架につけられたキリストにおける神の計画と犠牲の深みを語ることができます。パウロが用いた「わたしたちに」という言葉には、コリントのすべてのクリスチャンが含まれていますが、特に神を愛する人たちのことを言っています。
第4節で神の計画における聖霊の役割について述べられて以降、第2章の終わりまで、この聖霊の働きが手紙の焦点となっています。コリントのクリスチャンの中には、霊的であることについて大げさに主張する者たちもいました。そこでパウロは、啓示における聖霊の役割を彼らに理解させることによって、この問題に対処しています。
この節の後半で、パウロは御霊の継続的な働きについて述べています。御霊が活発に究めて(探って)いると表現していますが、それは、御霊の働きであり、これからも引き続き御霊がされることです。御霊は、人類と、神の深みとの間にある距離を埋めてくださいます。聖霊は神をよく知り、神の深みを理解しておられるのです。御霊を持つ者(第12節)、神を愛する者、それはすなわちすべてのクリスチャンのことですが、彼らに分かち合われるものがあります。御霊は「すべてのものをきわめ」るとありますが、それは神の計画と目的を探って知り、その知恵を「ご自分を愛する者たち」に伝えるということです。(第9節)
いったい、人間の思いは、その内にある人間の霊以外に、だれが知っていようか。それと同じように神の思いも、神の御霊以外には、知るものはない。[3]
この節は、第10節でパウロが述べたことをさらに発展させたものです。神の御霊だけが、神ご自身、つまり神の考えや目的、願いを真に知ることができます。というわけで、神の深みを知っているのは神の御霊だけであり、それを啓示できるのもただ御霊だけなのです。
ところが、わたしたちが受けたのは、この世の霊ではなく、神からの霊である。それによって、神から賜わった恵み[神から恵みとして与えられたもの]を悟るためである。[4]
パウロは、「この世の霊」に従う人と神の霊を受けた人という2組の人たちがいて、両者を区別しなくてはいけないという主張を続けています。十字架につけられたキリストを信じた人は皆、神からの御霊を受けていると、パウロは考えています。御霊が私たちに与えられたのは、私たちが「悟るため」です。言うまでもなく、これはすべての信者が同じ霊的な知恵を持っているとか、すべての霊的な奥義を理解しているという意味ではありません。
この賜物について語るにも、わたしたちは人間の知恵が教える言葉を用いないで、御霊の教える言葉を用い、霊によって霊のこと[霊の真理]を解釈するのである。[5]
人間の知恵と御霊によって与えられる知恵との対比は続き、ここでは、パウロが自らの教え方に関して述べています。福音を伝える手段は「人間の知恵」とは関係ないものであり、むしろ御霊の与える力によって、福音が宣べ伝えられるべきです。パウロは、何が御霊に属することで、何がそうでないのか、また、どんな人が御霊に属する人で、誰がそうでないのかについて語っています。理解する人もいれば、そうでない人もいるのです。クリスチャンは、自分たちが「霊の人(霊的な人)」であり、彼らには、物事が「霊のこと」であるかどうか、つまり、神の御霊からのものであるかどうかを判断するのを助けてくださる御霊がおられるのだと、理解するのは大切なことです。
生れながらの人は、神の御霊の賜物[神の御霊に属すること]を受けいれない。それは彼には愚かなものだからである。また、御霊によって判断されるべきであるから、彼はそれを理解することができない。[6]
この節は、第1章(18、21、23節)を思い起こさせます。パウロはそこで、「霊の人」でない人とは、霊のものを「愚かである」と考える人だと述べています。そのような人が、「この世の者」と呼ばれていたのかもしれません。この場合、「この世」に属することは、キリストに属さないことであり、それゆえに裁きを受けるようになります。「生まれながらの人は … 受けいれない」とパウロが言ったのは、彼らは神の御霊のものを理解できないということなのでしょう。「神の御霊に属すること」とは、第13節で言及されている「霊の真理」のことであり、これらは「生まれながらの人」が受け入れることのないものです。御霊から出ており、キリストを指し示すものは、彼らによって「愚かなもの」(1:23)とみなされます。「霊の人」でない人は、十字架につけられたキリストが「知恵」であり得ることを理解できません。パウロの考えでは、霊の真理が「生まれながらの人」に受け入れられない理由は、受け入れるには、理解を可能にする聖霊の臨在が必要だからです。「霊の人」でない人は、「霊のこと」を受け入れないので、それを理解することができません。
しかし、霊の人は、すべてのものを判断するが、自分自身はだれからも判断されることはない。[7]
「霊の人」でない人とは対象的に、「霊の人」は「判断」することができるので、正しい判断をなし、「御霊によってわたしたちに啓示」された「すべてのもの」(第10節)を知ることができます。そのような人は、キリストがすべての真理と知恵の中心であることを理解し、その時代の価値観に基づいた誤った判断をすることを避けます。「霊の人」は、恵みによって、すべてのものを正しく判断するのです。
パウロはこの箇所で、「霊の人」が「自分自身はだれからも判断される[裁かれる]ことはない」と述べています。コリントの信徒たちの間には問題があり、他の者を裁いたり、ある者の方が他の者よりも霊的であると考えたりしている人たちがいました。これは多くの場合、信者たちがそれぞれ異なる教会指導者に従っていたためです。パウロは、御霊に満たされているゆえに「霊の人」となったクリスチャンは、他者によって裁かれるべきではないと断言しています。また、ローマ書でも同じことを述べています。「だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。」[8]
「だれが主の思いを知って、彼を教えることができようか。」 しかし、わたしたちはキリストの思いを持っている。[9]
ここでパウロは、イザヤ40:13から引用していますが、その箇所全体ではありません。旧約聖書では、「だれが主の思いを知って」いるかという問いへの答えは、「神」以外にないのですが、ここでパウロは、さらに踏み込んだことを語っています。彼は先ほど、主の御霊は神の思いを知っていると述べています。それゆえ、御霊を持つ者は、御霊が啓示してくださるすべてのものを知ることができるのであり、すなわち、「わたしたちはキリストの思いを持っている」のです。
パウロは、この「思い」、この知性や知識は、御霊を持つすべてのクリスチャンが持つべきものであることを示しました。これは、才能やコミュニティでの地位、コミュニケーション能力などで人を判断する、この世の思いとは対照的です。キリストの思いとは、十字架につけられたキリストこそが人生のすべてであることを理解する思いです。クリスチャン生活とは、信者が持っているものはすべて恵みにより、神から与えられるものであることを受け入れる、謙虚な生き方です。キリストの思いは、人間の意志ではなく神の意志に従うという点で、「神の知恵」と調和したものなのです。
注:
聖書の言葉は、特に明記されていない場合、日本聖書協会の口語訳聖書から引用されています。
1 1コリント 2:9.
2 1コリント 2:10.
3 1コリント 2:11.
4 1コリント 2:12.
5 1コリント 2:13.
6 1コリント 2:14.
7 1コリント 2:15.
8 ローマ 8:33.
9 1コリント 2:16.
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