著者: ピーター・アムステルダム
6月 26, 2024
今回の美徳リストで、次に来るのは平安(心の平和)です。それは、神と正しい関係にあることに根ざしており、そのような関係を持てるのは、神からの救いの贈り物ゆえです。救いによって、私たちは神との平和を持てるのであり、それが、自分自信や他の人とも平和を持てるようにしてくれます。神を人生の中心に置き、人生を神の配慮に委ねる時、私たちは聖霊の臨在の実である神の平安を経験します。
また、平安は、神に対する私たちの信頼と、神が私たちを愛しておられるという確信の結果として生まれるものです。ジェリー・ブリッジズは、このように書いています。「平和(平安)は、私たちの性格の一部であるべきです。なぜなら、神は私たちに神の平和を下さると約束し、また、私たちの人生や人間関係を平和な状態に保つよう命じておられるからです。そしてまた、平和は御霊の実の一つであり、したがって、神が私たちの人生の中で働いておられる証拠だからです。」[1]
私は『もっとイエスのように』シリーズで、聖書の告げる平安と、単にかき乱すものがない状態における平安との違いについて、以下のように書きました。
私たちは、物事がうまく行っている時に、平安を感じやすいものです。健康で幸せで、金銭面でうまく行っており、大きな困難に直面してもいない時です。しかし、聖書が言う平安は、すべてが順調に行っている時に味わう平安をはるかに超えたものであり、それは、荒れ狂う海にあっても安定させてくれる錨です。真の平安は状況を超越しています。それは、神が私たちと共におられることと関係しています。そして、神の御国に住んでいること、人生を神に支配していただいていること、また、神は私たちの父であって、私たちを愛し、常に私たちのためを思ってくださると信じていることと関係しています。平安があるのは、私たちに神がおられるからなのです。
救いにより、「神との」平和を持っているとしても、それは必ずしも私たちの人生に「神の」平和・平安があるという意味ではありません。私たちは、わりと小さな出来事や困難について心配し、思い悩むために、平安が奪われるということがよくあります。主が共にいて気にかけていてくださると信じ、重荷を主のもとに携えて主に委ねる代わりに、自分で解決しようとしてしまうのです。しかし、イエスは、私たちが主にあって平安を得ると約束されました。イエスがすでに世に勝たれたのですから、私たちは困難で不安定な時にも元気を出すべきです。そう意識することによって、私たちは主に信頼し、平安がもたらされます。
*
平和・平安(シャーローム)とは、外的であれ内的であれ、乱れのない状態と定義されます。かき乱すものがない、つまり、争いや混乱を起こすものがいっさいないということではありません。そうではなく、神から与えられた約束と、私たちに対する神の忠実さを確信しているがゆえに、かき乱そうとするものによって圧倒されたり動揺したりすることがないということなのです。
すなわち、平安とは、困難な状況にあっても、満足し、希望を抱いて自信を持ち、「安らいでいる」という、心の状態を言います。平安があるとは、「安らいでいる」ということであり、神の安息を経験するということです。私たちが神の臨在の中に留まって、神に私たちと共にいていただき、私たちの内に働いていただく時、神は安息を与えてくださいます。
罪のゆえに、自分の力で神の恩寵を得ることも、それに値することもできないのだと悟る時、私たちの内なる霊における動揺や争いに終止符を打つことができます。もはや神と争ったり、あるいは神に受け入れてもらおうと努力したりという闘いがなくなるからです。(ヘブル4:9–10)
クリスチャンの内には聖霊が住んでおられるので、聖霊が慰めを与え(ヨハネ14:15–18 英語欽定訳; 2コリント1:3–4)、弱い私たちを強めてくださいます。(ローマ8:26) 御霊はまた、イエスが教えたすべてのことを思い起こさせてくださいます。(ヨハネ16:13–14) すなわち、イエスはすべてのことにおいて、またすべてのことに対して、あらゆる権威を持っておられるので、私たちの人生において、あるいは私たちの人生に対して、何が起ころうとも、イエスがすべてを支配しており、万事が私たちの益となるようにしてくださる(ローマ8:28)ということです。
イエスは、いつも私たちと共におられるので(マタイ28:19–20)、私たちが一人ぼっちで試練を味わうということはありません。イエスは永遠に、また今も、「わたしだ(わたしはある)」という方なので、「恐れることはない」のです。(ヨハネ6:20)
そして、私たちはイエスの内に永遠に保証されているので(ローマ8:35–39)、イエスからも、また、私たちに対するイエスの無条件の愛からも、決して引き離されることがありません。イエスによって証印を押され、聖霊を通して保証されているのです。(2コリント1:22; エペソ1:13–14) 神の言葉であるイエスは真実な方であり、私たちの贖いの日まで、私たちを支えると約束されたことをすべて実行してくださいます。(ピリピ1:6)
私たちはどんな状況にあっても、私たちをいこいのみぎわに導いて、魂を生き返らせ(詩篇23:2–3)、慰めと安息を与えて、嵐の只中で平安を得させる(ヨハネ14:27; ピリピ4:7; イザヤ26:3)「それらのもの」を心に留めることができます。(ピリピ4:8)…
私たちクリスチャンは、神の平安を経験し、神の家族の中で互いに愛して仕え、すべての人と平和に過ごせるように外にいる人たちに神の愛を示す(ローマ12:18)というように、人生における御霊の実を成長させ、神の平安を経験して、それを示すのです。—ランディ・デボール [2]
*
イエスは、私たちがイエスにあって平安を得られると約束されました。イエスがすでに世に勝たれたのですから、私たちは困難で不安定な時にも元気を出すべきです。そう意識することによって、私たちは主に信頼し、平安がもたらされます。次の記事は、その点をよく説明しています。
イエスに働いていただく余地を与える時、イエスはあなたに最高の贈り物の一つを与えてくださいます。「わたしはあなたに贈り物を残していこう。それは思いと心の平安である。わたしが与える平安は、この世が与えるようなはかない平安ではない。だから、心配したり、恐れたりしてはいけない。」(ヨハネ14:27 英語TLB訳)
この世が与える平安は、完全に状況次第のものです。良い仕事についているなら、平安があります。しかし、その仕事がなくなれば、もはや平安ではいられません。銀行口座にお金があれば、平安があります。しかし、そのお金が尽きたら、もはや平安ではいられません。
イエスが与える平安は、違った種類のものです。聖書はそれを「人知[人間の知恵や理解]ではとうてい測り知ることのできない神の平安」と呼んでいます。(ピリピ4:7)
それはどういう意味なのでしょうか。あなたが平安でいるべき明白で目に見える根拠がなくても、平安があるということです。周りのすべてが混乱状態にあったとしても、何らかの説明できない理由によって、あなたには平安があります。それは人知をはるかに超えた平安であり、平和の君であるイエスからしか得られないものです。
イエスは、あなたが心を騒がせたり恐れたりしないように、そのような平安を与えたいと願っておられます。
イエスが部屋に入ってくると、そのたびに、部屋を平安で満たしてくださいます。あなたの心の中には、心配や動揺、不安、恐れでいっぱいの部屋があるでしょうか。あなたはその部屋に、まだイエスを招いていないのです。思い煩いは、あなたがどの部分で神に委ねていないのかを明らかにします。たとえば、経済、恋人との交際、キャリア、子育て、スケジュール、ミニストリーなどの分野です。それが何であれ、手放す必要があります。それをイエスに委ねなければなりません。
真の平安を得る唯一の方法とは、あなたの人生のあらゆる部分を神に委ねて、神のご計画のために使っていただくことです。そうすれば、人生のあらゆるプレッシャーに耐えられる平安を得ることができます。—リック・ウォレン [3]
「恐れるな」は、聖書の中で最も頻繁に出てくる命令です。… 日々の恐れに直面した時、イエスは野のユリやスズメに目を向けさせて、「信頼しなさい」と穏やかに言われます。まず天の国を求めなさいと。
私たちの恐れを最初に引き起こしたものが何であれ、信頼したからといって、起こり得る悪いことが排除されるわけではありません。信頼は単に、不安の新たなはけ口、また自信の新たな拠り所としての神を見出します。日々の細々とした心配事は、神にお任せしましょう。どちらにせよ、そのほとんどは私たちの手に負えないものです。パウロは、こう書いています。「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(ピリピ4:6–7 新改訳2017)
長年にわたってイエスの追随者たちに起こった恐ろしい出来事の数々を思い、この言葉は果たして現実的なのかと疑問を抱く時、私はパウロがローマの牢獄からこの言葉を書いたのだと思い起こすようにしています。神の平安は、実に「すべての理解を超えた」ものなのです。—フィリップ・ヤンシー [4]
*
心配と恐れに対する治療薬は、祈って、思い煩いを主のもとへ持っていくこと、そして、主は私たちのすべての問題を知っており、かつ、私たちを愛してくださっていると信じることです。聖書は、私たちが重荷をイエスのもとに携えていくならば、必ずそれから解放されるとは約束していません。しかし、イエスがご自身の平安によって支えてくださるとの約束がなされています。祈って、自分の願い事を主に知らせたなら、私たちは主からの平安を持つことができます。次の記事が言い表しているように、私たちの役割は、たとえ人生の嵐の真っ只中にあっても、平安を祈り求め、神がそれをかなえてくださるよう信頼することなのです。
片腕しかないにもかかわらず、世界トップクラスの女性サーファーであるベサニー・ハミルトンは、… 神は悲劇的な出来事を、ご自身を讃える機会に変えることができる … と宣言しています。
ハミルトンは『アイ・アム・セカンド』の動画で、彼女がサメに遭遇して左腕を食いちぎられ、瀕死の重傷を負ってからわずか1ヶ月後に、またサーフボードに乗ったことを振り返っています。3度目の挑戦で、当時13歳だった彼女は、波に乗って海岸まで戻ることができました。
2003年のハロウィンの頃、若きハミルトンはサメの襲撃に遭い、「ほんの一瞬」の内に左腕を失いました。この不慮の事故で彼女は血液の60%ほどを失ったのですが、病院へ向かう途中、救急隊員が彼女の耳元で「神はあなたを離れることも見捨てることもないよ」とささやきかけてくれたことを覚えています。
「私はただそこに横たわり、ずっと祈って、神に助けを求めていました。」
しかし彼女は、左腕を失い、血液も半分以上を失ったにもかかわらず、「私の人生のこのクレージーな瞬間にイエスに頼ることができた」ので、「平安と落ち着き」があったと、笑顔で振り返っています。
「それが私を生かし続けてくれた唯一のものだと思います」と、ハミルトンは語っています。—ジェニファー・ライリー [5]
心配を減らしたいですか。それなら、もっと祈りなさい。恐れながら先を見る代わりに、信仰を持って上を見るのです。「どんなことでも思い煩ってはならない。むしろ、何事についても祈りなさい。何があなたに必要なのかを神に告げ、すべてこれまでにしてくださったことを神に感謝しなさい。」(ピリピ4:6 英語NLT訳) この命令は、驚きではありません。聖書は臆することなく、祈りについて語ります。イエスは人々に、「決してやめることなく、絶えず祈り続けるべき」だと教えられました。(ルカ18:1 英語MSG訳) どんなことでも思い煩うことなく、「むしろ、何事についても祈りなさい」とあります。「何事についても」とは言え、おむつ交換やデートはどうなのでしょうか。仕事の打ち合わせも、浴槽の故障も、何かの延期もでしょうか。そう、何事についても祈るのです。平安への道は、祈りによって舗装されています。ろうばいすることを減らし、嘆願の祈りを増やしましょう。不安な思いを減らし、祈りに満ちた思いを増やしましょう。あなたが祈る時、神の平安があなたの心と思いとを守るのです。[6]
信仰に満ちた祈りは、神の平安をもたらします。当てにならず、ぼんやりとしたこの世の平安ではなく、天から輸入された神の平安です。神は、玉座の間を象徴するのと同じ平穏を、あなたに与えようとされています。あなたは、神が不安と闘っていると思いますか。神が不安で手を揉んだり、胃腸薬を求めたりするでしょうか。もちろん、そんなことはありません。象にとっての小枝と同じで、問題は神の力を試すようなものではありません。神が完全な平安を有しているのは、完全な力を有しているからです。そして、神はその平安をあなたに与えようとしておられます。「キリスト・イエスにあって生きる時、あなたがたの心と思いとを[守備隊のように]守ってくれる」平安を。(ピリピ4:7 英語NLT訳) ピリピの人々は、守備隊駐屯都市に住んでいたので、ローマの衛兵がずっと見張りをしていることに慣れていました。神はあなたの世界を見張り、あなたの人生をモニターしておられます。耳を澄ませば、神がこう言われるのが聞こえるでしょう。「すべては安全だ。今は休んでいなさい。」—マックス・ルケード [7]
*
最近は痛みのレベルが高く、私は心配と闘っていました。そしてたまたま、何百年も前にアッシジのフランチェスコが書いた、こんな言葉を読んだのです。「安んじていなさい。人生の変化を恐れながら将来に目を向けるのではなく、むしろ、それが現れるたびに、希望にあふれてそれを見なさい。あなたはまさに神のものなので、そのあなたを、神はそれらのものから救い出してくださいます。神は過去にもあなたを守られたし、これからも、すべてのことにおいてあなたを安全に導いてくださるでしょう。そして、あなたが耐えられない時には、神があなたを御腕で覆ってくださいます。明日に関して言えば、神はあなたを苦しみから守るか、それに耐えるための揺るぎない強さを与えるか、そのいずれかをしてくださいます。」 これは良いアドバイスだと思います。神がアッシジのフランチェスコにこの言葉を書き記させたのは間違いありません。そもそも、イエスご自身がまず「あなたがたに平安があるように」と言われたのですから。—ジョニー・エレクソン・タダ [8]
*
平安という美徳の面で成長するには、信仰を働かせる必要があります。使徒パウロは、このように書きました。「あなたがたが、わたしから学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことは、これを実行しなさい。そうすれば、平和の神が、あなたがたと共にいますであろう。」[9] 私たちは、主と交わり、主に留まり、主に信頼し、主に従うことで、真の平安の道を見出すことができるのです。持ち物や人間関係、お金、状況が平安をもたらすわけではありません。神の内に留まり、神の言葉を実践し、すべてのことについて神に信頼することこそ、すべての理解を超えた神の平安を見出し、その内に過ごす方法です。
主よ、あなたは弱っている者の砦、貧しい者の苦しみの時の砦、嵐の時の避け所、暑さを避ける陰となられました。(イザヤ25:4 新改訳2017) 日々の生活の喧騒や浮き沈みの中にあっても、あなたに信頼を置くすべての人に、あなたが惜しみなく与えてくださる平安を感謝します。
主よ、あなたが私の人生を築くための堅固な土台であることを感謝します。あなたは私の船を安定させる錨です。私の家、つまり私の人生も身体も霊も支えてくれる強い梁です。そして、平安と信仰と安息をくださいます。この人生で何が起ころうとも、あなたが私をしっかりと支えてくださることを、私は知っています。[10]
「あなたのおきてを愛する者には大いなる平安があり、 何ものも彼らをつまずかすことはできません。」(詩篇119:165)
「イエスは、私たちを取り巻く状況を変えるとは約束されませんでした。そうではなく、神が実際にすべてのものを支配しておられると信じることを学ぶ人たちに、大いなる平安と純粋な喜びが与えられることを約束されたのです。」—マーリン・キャロザース
「これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。」(ヨハネ16:33)
「神を人生の中心に置く時、説明できないほどの喜びと平静と平安を見出します。」—ブリタニー・アン
(続く)
注:
聖書の言葉は、特に明記されていない場合、日本聖書協会の口語訳聖書から引用されています。
1 Jerry Bridges, The Practice of Godliness (Colorado Springs: NavPress, 2010), 175.
4 Philip Yancey, Rumors of Another World: What on Earth Are We Missing? (Nashville: Zondervan, 2009).
5 “One-Armed Surfing Star Bethany Hamilton on Trusting God,” Christian Post, March 23, 2011.
9 ピリピ 4:9.
10 From “Resting in You” and “A Firm Foundation,” To Jesus with Love, adapted.
Copyright © 2024 The Family International. 個人情報保護方針 クッキー利用方針