著者: ピーター・アムステルダム
7月 9, 2024
使徒パウロは、コリント教会への最初の手紙に叱責を含める必要があると考えました。なぜなら、彼らの不和、嫉妬、争い(特に、指導者や教師についてのもの)は、彼らがまだキリストにある幼な子(乳飲み子)であることを示していたからです。
兄弟たちよ。わたしはあなたがたには、霊の人に対するように話すことができず、むしろ、肉に属する者、すなわち、キリストにある幼な子[乳飲み子]に話すように話した。[1]
パウロは、手紙のこの部分を始めるにあたり、コリントの人たちを兄弟と呼んでいます。ギリシャ語で、「兄弟」という言葉には、男性だけではなく、女性の信徒も含まれていました。彼らを兄弟姉妹と呼ぶことで、パウロはキリストにあって彼らと自分とがどのような関係にあるのかを思い起こさせています。パウロがこれから言おうとしていることは、きつく聞こえるし、彼は確かに、強い語調で彼らをたしなめます。しかし、パウロはこの手紙の全体を通して、彼らが神の家族であり、神が彼らを愛して気にかけておられることを思い出させているのです。[2]
パウロはコリントのクリスチャンを「霊の人」たちと考えていますが、彼らはすべきように振る舞っていないので、「肉の人(肉に属する者)」に話すように話しています。乳飲み子、つまり未熟な子どものイメージを用いて、彼らの言動や態度はクリスチャン的な考え方を持つ人のものではないことを説明しているのです。「肉の人」であることは、他の人と対立したり、けんか腰になったり、特定のクリスチャンが他のクリスチャンより優れているとみなしたり、神の御霊の導きよりも自分の自然な直感に従ったりすることに表れます。
あなたがたに乳を飲ませて、堅い食物は与えなかった。食べる力が、まだあなたがたになかったからである。今になってもその力がない。あなたがたはまだ、肉の人だからである。[3]
あるコリントの信徒たちは自分のことを誇っていたのにもかかわらず、実際には子どものような振る舞いをしており、成長する必要がありました。イエスの十字架での死という福音の「堅い食物」を正しく理解していなかったのです。したがって、パウロは彼らのレベルで話をしなければなりませんでした。ここでパウロは、以前に「乳」を飲ませていた時のことを振り返っています。彼らは「新生児」の信者だったので、堅い食物は与えられませんでした。それを食べる力がまだなかったからです。それは普通と言えます。しかし、パウロはここで、彼らがまだクリスチャンになりたての頃と、固形食(堅い食物)を消化できているはずの現在とをはっきり対比しています。そして、彼らはまだ「肉の人」、つまり世的な人たちなので、今でも固形食を食べることができないと指摘しているのです。
あなたがたの間に、ねたみや争いがあるのは、あなたがたが肉の人であって、普通の人間のように[ただの人として]歩いているためではないか。[4]
パウロが最も懸念している「肉的な」行動とはねたみ(嫉妬)であり、それが分裂をもたらしていることを明確に語っています。コリントの信徒たちは、未信者の世界の人々と同じように振る舞っていました。ねたみは子どもじみた態度であり、自分の地位や所有物のために戦ったり、言い争ったりすることと関係しています。ガラテヤ5:13–26で、パウロは「肉」の働きについて同様のことを書いており、ガラテヤの人たちに「御霊によって歩きなさい」と言っています。彼はそこで、不品行(淫行)、偶像礼拝、争い、ねたみ、そねみなど、通常「肉」の働きとみなされるものを挙げています。[5] ねたみは争いを引き起こします。自分を他者と否定的に比較したり、自分が他者より優れていると言い張ったりするからです。
パウロは、彼らが肉の人ではないかと問いましたが、その答えは当然「そうです」だと考えていました。彼が指摘している、地位やリーダーシップを巡る彼らの争いやねたみは、彼らが「ただの人として」行動していることを示しています。パウロは、ただの人間的な生き方をすることと、霊的な生き方をすることとを対比させました。
すなわち、ある人は「わたしはパウロに」と言い、ほかの人は「わたしはアポロに」と言っているようでは、あなたがたは普通の人間[ただの人]ではないか。[6]
パウロは、第1章12節で言及したパウロ、アポロ、ケパ(ケファ)に話を戻しますが、ただ今回はパウロ自身とアポロだけを挙げています。彼がケパ(ペテロのこと)ではなく、アポロに言及している理由は説明されていません。もしかすると、アポロが雄弁さで知られていたからかもしれません。[7] あるいは単に、アポロとパウロはコリントで宣教したことがあるので、ペテロよりも地元の教会によく知られているためかもしれません。
アポロは、いったい、何者か。また、パウロは何者か。あなたがたを信仰に導いた人にすぎない。しかもそれぞれ、主から与えられた分に応じて仕えているのである。[8]
パウロは自分自身とアポロを例に挙げて、彼らは神の同労者(一緒に仕事をする仲間)なのだから、2人の間に競争心はないことを説明しています。彼らの召命や賜物は異なっているのです。この点については、パウロが後に詳しく書いて、神が御霊を通して与える賜物にはさまざまなものがあることを指摘します。
パウロは、彼らが信仰に導かれたのはパウロとアポロの働きによるものであることを、コリントの信徒たちに思い起こさせています。そして、彼らが2人のいずれにも執着しないように、自分たちは単に「仕えている」者にすぎないことも思い出させています。コリントの信徒たちに対する2人の働きは神から与えられたものであり、彼らは神の指示に従っただけです。
わたしは植え、アポロは水をそそいだ。しかし成長させて下さるのは、神である。[9]
ここでパウロは、栽培の例えを用いて、彼が初めてコリントを訪れた頃のことを話しています。彼らが当時のことを思い出す時に、彼らの間で主のためになされた働きに目を向けることを、パウロは望んでいるのです。まずパウロがそこに行って、神の働きの種をまきました。アポロはその働きを引き継ぎ、さらに植え付けもしており、彼の宣教によって信仰に導かれた人もいました。アポロが具体的に何をしたかは語られていませんが、おそらく信仰について教え、聖書を説いていたことでしょう。ここで焦点となっているのは、2人が具体的に何をしたかということではありません。大切なのは、パウロが植え、アポロが水を注いでいる間、成長させてくださったのは神だということです。人々が注目すべきなのは神です。指導者たちはさまざまな仕事を神から割り当てられるがままに、現れては去って行きますが、神こそがその働きを継続させる方だからです。
だから、植える者も水をそそぐ者も、ともに取るに足りない。大事なのは、成長させて下さる神のみである。[10]
パウロが栽培の例えで説明している第1のポイントは、このプロセスにおいて唯一大切な存在は神であるということです。コリントの信徒が自分たちの指導者をどう見ていたかというと、それは肉的、つまり「ただの人」の見方であり、指導者たちは何者で、何をしてきたかが重要視されていました。しかし、パウロにすれば、神だけが大切な方だったのです。彼はコリントの人たちに、神の働きは私たちがいてもいなくても続いていくことを思い起こさせています。彼らが受ける祝福と、信者の収穫とについて、すべての称賛を受けるに値するのは神です。
植える者と水をそそぐ者とは一つであって、それぞれその働きに応じて報酬を得るであろう。[11]
パウロが農芸の例によって指摘する2つ目の点は、植える者と水をやる者という2人の労働者は、2つの異なる仕事をしながらも、「一つである」ということです。パウロは、彼とアポロは「一つである」と言っています。共に神の同労者なのです。団結して1つの仕事にあたっており、それぞれ、神が自分に与えられたことを成し遂げています。
わたしたちは神の同労者である。あなたがたは神の畑であり、神の建物である。[12]
パウロが指摘する3つ目のポイントは、彼とアポロは同労者だということです。2人の間には団結があり、それはコリントの信徒たちにも明らかだったことでしょう。2人とも神のしもべであり、神の御心を果たすために力を合わせていたのです。
コリント教会は神の畑であり、神こそが教会の究極の指導者です。パウロはコリントの信徒たちを神の建物と呼ぶことで、教会は神に所有されており、神の指導の下にあることを告げています。神は一致した教会を建てておられたのです。
(続く)
注:
聖書の言葉は、特に明記されていない場合、日本聖書協会の口語訳聖書から引用されています。
1 1コリント 3:1.
2 1コリント 1:10, 11, 26; 2:1; 3:1; 4:6, 14–15; 6:5, 8; 7:24, 29; 10:1; 11:33, その他多くの箇所(第1コリント書に計28回)
3 1コリント 3:2–3.
4 1コリント 3:3.
5 ガラテヤ 5:19–20.
6 1コリント 3:4.
7 使徒 18:24.
8 1コリント 3:5.
9 1コリント 3:6.
10 1コリント 3:7.
11 1コリント 3:8.
12 1コリント 3:9.
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