著者: ピーター・アムステルダム
12月 20, 2024
コリントの信徒たちに宛てた手紙のこの部分で、パウロは、一部の信徒が自分は他の信徒よりも偉いと考える原因となっている競争心に反対して語っています。
兄弟たちよ。これらのことをわたし自身とアポロとに当てはめて言って聞かせたが、それはあなたがたが、わたしたちを例にとって、「しるされている定めを越えない」[聖書協会共同訳:書いてあることを越えない]ことを学び、ひとりの人をあがめ、ほかの人を見さげて高ぶることのないためである。[1]
パウロは、なぜ自分自身とアポロを教会の指導者の例として用いたのかを説明しています。彼はコリントで分裂を招いている指導者たちに向けて話していますが、自分のメッセージの原則を自分自身とアポロに当てはめることによって、叱責を和らげようとしたのです。ほとんどの解説者は、パウロが自分自身とアポロを例に挙げたのは、彼が指導者について語っていることで、コリントの信徒たちから反発を招かないようにするためだとしています。
パウロは、自分がアポロといかに協力して働いてきたかに、注目させようとしています。彼らの謙虚さと、互いに自慢したり比べたりしないことは、彼らの宣教がキリストを中心としたものであることを示しています。彼は、信者たちが「高ぶる」こと、つまり他人に対して自分を誇示することを望んでいません。パウロは、コリントの信徒たちが、意識して互いに比べ合おうとしていることを懸念しています。それがコミュニティを分裂させているものだからです。コリントの人たちは、自分がどんな賜物をいただいているかに基づいて、互いに高ぶるべきではないのです。
パウロが彼らに「書いてあることを越えない」よう警告しているのは、聖書のことを言っています。コリントの人たちは、聖書に記されていること(「書いてあること」)を越えるべきではないことを、パウロとアポロから学ぶべきなのです。
いったい、あなたを偉くしているのは、だれなのか。あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか。もしもらっているなら、なぜもらっていないもののように誇るのか。[2]
この3つの質問を通して、パウロはコリント教会が抱える問題の核心に迫っています。まず尋ねたのは、彼らを他の人よりも偉いとみなしているのは誰なのか、ということです。彼らのどこが、他の人よりも特別だというのでしょうか。他の信者にはないどんな資質があるのでしょうか。彼らは何の権利があって、指導者たちを裁いているのでしょうか。彼らは他の信者より偉いわけではありません。神の目には、すべての人が重要な存在なのです。
パウロは次に、彼らの持っているもので、もらっていないものがあるのかと尋ねています。誰であれ、彼らが持っている能力や資質のうち、神から与えられていないものがあるでしょうか。言うまでもなく、その答は「いいえ、ありません」です。あらゆる良い賜物は、神からの贈り物として与えられたものであり、それには彼らの才能や個人的な資質も含まれています。[3]
次に尋ねているのは、彼らにある良いものが、すべて神からの贈り物としていただいたものであるなら、どうしてそれを自慢できるのかということです。彼らの内にある良きものが、自分自身からではなく神の恵みによるものであるなら、自分自身や自分の意見の方が他の信者のものよりも優れていると誇れるでしょうか。
あなたがたは、すでに満腹しているのだ。すでに富み栄えているのだ。わたしたちを差しおいて、王になっているのだ。ああ、王になっていてくれたらと思う。そうであったなら、わたしたちも、あなたがたと共に王になれたであろう。[4]
この節から13節まで、パウロは皮肉っぽく語っています。パウロは、彼自身や使徒たちがたどる十字架の道と、コリント教会の中でも自分は霊的に優れているのだと考える人たちの道の間には、大きな違いがあることを示しています。「すでに」という言葉を使ったことで、状況を強烈かつ明確に表現しており、パウロがこれから言おうとしていることの雰囲気と表現方法が方向づけられています。また、パウロは「わたしたちを差しおいて」という言い方をすることで、自分は霊的だと考える人々が、使徒たちでさえ持っていないものが自分たちにはあると主張していることを指摘しています。彼らは、十字架が重要ではないかのように振る舞っているのです。
パウロは彼らに対し、あたかも自分が彼らの父親であるかのように話しています。彼らを自分の愛する子どもと考え、子どもが親にするような反応の仕方をするよう期待しているのです。彼らとの関係が深く個人的なものであることや、彼らがパウロの話を聞くだけではなく、「私に倣いなさい」という呼び掛けに従うことを求めるのに、十分な権威が自分にはあることを知っていました。
彼は、現実になることのない願いを口にしています。もし彼らが「王に」なるのなら、自分も彼らと共に王になりたいというのです。パウロは、いずれ、人々が満ち足りて豊かになり、神と共に「王になる(支配する)」時が来ると知っています。コリントの人々は、この栄光はキリストが来られる時に初めて訪れるものであり、彼らの世俗的な栄光の概念とは何の関係もないことを理解する必要がありました。
わたしはこう考える。神はわたしたち使徒を死刑囚のように、最後に出場する者として引き出し、こうしてわたしたちは、全世界に、天使にも人々にも見せ物にされたのだ。[5]
神は使徒たちを、死刑判決を受けた犯罪者のように引き出し、見世物にされました。パウロの時代には、死刑を宣告された者がしばしば円形闘技場に引き出され、人々を楽しませるための見世物とされました。ここでパウロが焦点を当てているのは、自分自身ではなく、すべての使徒たちです。パウロは使徒たちの苦しみを、神にとって称賛に値する人生であるとしています。
わたしたちはキリストのゆえに愚かな者となり、あなたがたはキリストにあって賢い者となっている。わたしたちは弱いが、あなたがたは強い。あなたがたは尊ばれ、わたしたちは卑しめられている。[6]
キリストのために愚か者となるには、福音に対する強い献身が必要です。キリストに従う者たちは、世俗的な知恵や称賛よりも、キリストへの忠誠を優先する生き方をしなければなりません。世俗的な知恵よりもキリストへの忠誠を優先し、謙虚さと犠牲と奉仕を受け入れるよう求められているのです。キリストのために愚か者となるという選択は、たとえそれがこの世の期待に反することであっても、福音のために謙虚さと自己犠牲と奉仕を受け入れるということです。
今の今まで、わたしたちは飢え、かわき、裸にされ[聖書協会共同訳:着るものがなく]、打たれ、宿なしであり、苦労して自分の手で働いている。[7]
パウロは苦難のリストを載せるに当たり、「今の今まで」という表現をしていますが、それはコリントの信徒たちに、パウロの生活は、彼らの元を去って以降も変わっていないことを思い起こさせるものです。パウロたちの苦難は、使徒たちがより霊的になるにつれて乗り越えられるような、一時的な段階のものではありません。むしろ、これを書いていた時でさえ、パウロたちはキリストのために苦難を味わっていました。
彼は、迫害され、殴られ、食べ物や飲み物を欠き、定住の場所がないなど、使徒としての自分の人生に関する苦難を挙げています。そうすることで、殴られることも、自らの手で働く必要もないコリントの栄誉ある市民と、彼自身との違いを示しているのです。
パウロは、自分の人生経験を話すことで、コリントの信徒たちが従うべき手本を示しています。彼が模範としたのは、キリストの教えでした。「飢え、かわき」というのは、おそらく彼が福音を広めるために旅をし、投獄された時の経験を言っているのでしょう。
イエスは、空腹の弟子たちについて話されました。[8] さらに、弟子たちが社会から憎まれ、追い出され、ののしられることについても話されましたが、[9] それは、パウロや使徒たちが後に経験していたことです。「着るものがなく」という表現は、新約聖書でここにだけ見られるものです。いわゆる「賢い者」であれば、コミュニティにおける彼らの地位にふさわしい服装をしていることでしょう。「打たれ」という動詞は、群衆から、または牢獄で受けた身体的危害を指しているものと思われます。
「宿なし」は、絶えず旅をしていた多くの宣教師たちの状態を指しています。そう訳された言葉には「放浪者」、すなわち一定の住居を持たずにあちこち移動する人という意味もあります。パウロはこれを、コリントの信徒たちが彼に倣うべき点として指摘しました。
それからパウロは、彼と使徒たちは自分の手で働いていると語ります。これは、多くの時間を教えたり説教したりして過ごし、しかも、夜遅くまでそうしていたことも度々ありながら、同時に生活費を稼ぐための仕事もしていたパウロ自身が経験していたことなのでしょう。「兄弟たちよ。あなたがたはわたしたちの労苦と努力とを記憶していることであろう。すなわち、あなたがたのだれにも負担をかけまいと思って、日夜はたらきながら、あなたがたに神の福音を宣べ伝えた。」[10]
はずかしめられては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられ[新改訳2017:中傷され]ては優しい言葉をかけている。わたしたちは今に至るまで、この世のちりのように、人間のくずのようにされている。[11]
パウロのこの言葉には、ペテロがイエスについて書いた次の言葉との類似点が見られます。「ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた。」[12] ののしられ、はずかしめられた際にクリスチャンが示す反応とは、相手を祝福し、優しい言葉を返すことです。迫害が起こった時、彼らはそれを耐え忍んだのであり、反撃することはありませんでした。ペテロとパウロは、キリストの弟子は迫害されるが、耐え忍ぶことによって命を勝ち取るという主の教えを守っていました。[13]
「中傷」とは、誰かに対して虚偽の非難をすることであり、パウロはそれに対して優しさのこもった懇願で応じるべきだと言います。パウロが語っているのは、使徒たちが中傷される時、たとえ対立者たちによって故意にメッセージが歪められたとしても、キリストについて真実を語り続け、他の人たちに優しく接したということです。
「この世のちりのように、人間のくずのようにされている」という表現は、新約聖書ではここでのみ使われています。この言葉には、削り落とされた、拭き取られた、という意味合いがあります。パウロはコリントの信徒たちに、「神への奉仕に費やす人生は、この世の目から見た富や地位を伴うものだ」と期待すべきではないことを、わかってもらいたいのです。
わたしがこのようなことを書くのは、あなたがたをはずかしめるためではなく、むしろ、わたしの愛児としてさとすためである。[14]
パウロの手紙は、コリントの信徒たちにとってかなり厳しいものでした。それでも、パウロは子を思う父親のように、彼らのことを気にかけているのです。これまで彼らを「兄弟(と姉妹)たち」と呼んでいましたが、[15] ここで、この手紙を書いている目的は、父親が子どもたちにするように警告することなのだと力説しています。父親は、時には子どもたちに強く注意しなければならないこともありますが、それはその子を愛しているからです。パウロは、コリントの人々がこのことを理解し、彼との関係を維持してくれることを願っていました。
彼は、彼らを「はずかしめる」ためにこのようなことを書いているのではないと説明しています。「恥をかかせられた」と彼らに感じさせようとしているわけではないことを、はっきりさせたかったのです。彼の意図は、互いの前で彼らの面目をつぶすことではありません。そうではなく、彼らの「帰属」が確かなものであると理解するのを助けることでした。「キリストにあって」、その帰属はこの世には理解されにくい形で表れるものではありますが。
(続く)
注:
聖書の言葉は、特に明記されていない場合、日本聖書協会の口語訳聖書から引用されています。
1 1コリント 4:6.
2 1コリント 4:7.
3 ヤコブ 1:17.
4 1コリント 4:8.
5 1コリント 4:9.
6 1コリント 4:10.
7 1コリント 4:11–12.
8 ルカ 6:21.
9 ルカ 6:22.
10 1テサロニケ 2:9. こちらも参照:1テサロニケ 4:11, 2テサロニケ 3:6–10.
11 1コリント 4:12–13.
12 1ペテロ 2:23.
13 ルカ 21:12–19.
14 1コリント 4:14.
15 1コリント 1:10, 26; 2:1; 3:1; 4:6.
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