著者: ピーター・アムステルダム
1月 30, 2025
この章は2つの部分に分かれています。最初の部分(第1–8節)では、パウロが近親相姦という形での性的不品行[1] を取り上げており、彼はそれを深く憂慮すべきこととみなしています。コリント教会でそれが容認されていたことは深刻な事態であり、パウロは罪を犯した者を除名することによって、そのような行いを教会から取り除きたかったのです。章の後半(第9–13節)で、パウロは、聖くあることが神の民の重要な特徴の一つであることを力説しています。
現に聞くところによると、あなたがたの間に不品行な者があり、しかもその不品行は、異邦人の間にもないほどのもので、ある人がその父の妻と一緒に住んでいるということである。(1コリント5:1)
パウロはこの書簡の第5–6章、そして第7章の一部で、性的不品行について語っており、そのような行いがコリント教会で容認されているようであることに、ショックを表明しています。「現に聞くところによると」という言葉に、そのことを聞いて彼が覚えたショックが示されています。彼らが主の民として振る舞い始めない限り、パウロは「むちをもって」彼らのもとに行かなければならないかもしれません。(1コリント4:21)
パウロの書簡が書かれた当時、コリントの文化で性的不品行とされていたものは、旧約聖書に定められた行動規範とは異なっていました。男女間の結婚が法律で保護されていた一方で、結婚外の性行為については、自然かつ必要なことであり、正当と認められるという考え方が一般的だったのです。既婚男性であっても、相手が他人の妻でなければ、婚外交渉が認められていました。
しかし、聖書が言う性的不品行とは、モーセの律法で述べられているように、異性同士の結婚の外で行われるあらゆる性行動を指していました。結婚外でどのような性行為が容認され、あるいは容認されないかについて、聖書の律法は明確な定義を示していましたが、それはローマ世界のいかなる行動規範とも異なるものでした。そのためパウロは、コリントの信徒たちの間で起こっていることと、それが容認されていることを、深く憂慮していたのです。ユダヤ教の背景を持つクリスチャンは、そういった行為は卑しむべきものだと考えるでしょうが、異邦人信者でさえ、それを許すことはないので、パウロはそのような行為は「異邦人の間にもないほどのもの」だと言っています。
パウロはコリントの信徒たちへの手紙の中で、聖書がこの問題について述べていることが最終的な基準であることを明確にしています。レビ記(第18章)では近親相姦が禁じられており、特にその第8節では、「あなたの父の妻の裸をあらわにしてはならない」(新改訳2017)と定められています。
パウロはさらに、こう続けます。
それだのに、なお、あなたがたは高ぶっている。むしろ、そんな行いをしている者が、あなたがたの中から除かれねばならないことを思って、悲しむべきではないか。(1コリント5:2)
彼は、信徒たちがこの罪を真剣に受け止めていないと叱責しています。彼らはむしろ、神の前での自分たちの地位に対する自信に満ちた高ぶりのせいで、彼らの中にある悪を無視していました。パウロは、「悲しむべきではないか」と尋ねています。この教会の人々は、自分たちのただ中にある罪のことで嘆き、当事者たちに悔い改めを呼びかけるべきでした。コリントの信徒たちは、共同体全体を代表して、改悛の念を示すべきだったのです。この罪を犯した者たちは、その罪の性質ゆえに、コリントのクリスチャン共同体から排除されるべきでした。
しかし、わたし自身としては、からだは離れていても、霊では一緒にいて、その場にいる者のように、そんな行いをした者を、すでにさばいてしまっている。(1コリント5:3)
彼は物理的にコリントにいたわけではありませんが、霊的には、手紙を通してこの教会と共にいると考えていました。教会で読まれている自分の手紙には、御霊の力が宿っていると信じていたのです。
ここで言及されている、コリント教会に在籍する男性は、自分の父親の妻と関係を持っていました。それは近親相姦にあたり、律法に従うユダヤ人にとっても、ローマ社会にとっても、容認されるものではありませんでした。それにもかかわらず、コリントのクリスチャンたちは、それを止めることなく、自分たちの中で継続させていました。
パウロは、彼らが迅速に行動すべきであると書いています。その男性を直ちに集まりから除外すべきであると。これは、パウロからの単なる提案ではありません。彼はキリスト・イエスの使徒としての権威をもって、そう言っているのです。そして、この手紙とキリストにおける一致によって、自身が霊では彼らと一緒にいるのだと宣言しています。その男性が父親の妻と関係を持っていることに疑問の余地はなかったようです。教会のメンバーたちはそのことを知っていました。パウロは自分の権威によってその男性を裁き、その判断の理由を以下の節で説明しています。
すなわち、主イエスの名によって、あなたがたもわたしの霊も共に、わたしたちの主イエスの権威のもとに集まって、彼の肉が滅ぼされても、その霊が主のさばきの日に救われるように、彼をサタンに引き渡してしまったのである。(1コリント5:4–5)
コリント教会が、主の御名と力とにより、パウロの霊と共に集まった時、彼が期待したのは、彼らも自分と同じ結論に達し、その男性が近親相姦を犯したという理由で教会から追い出されることでした。
この箇所でパウロは、「教会に行く」という考えを、単に志を同じくする人たちが主イエスの名によって集まる集会に参加するということ以上のものとしています。信仰者たちが物理的に集まることは、単なる選択肢や提案ではなく、命令でした。また、この人物を教会から除くのは、彼が悔い改めて、やがて戻ってこられるのを願ってのことであると明確にしています。
あなたがたが誇っているのは、よろしくない。あなたがたは、少しのパン種が粉のかたまり全体をふくらませることを、知らないのか。新しい粉のかたまりになるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたは、事実パン種のない者なのだから。わたしたちの過越の小羊であるキリストは、すでにほふられたのだ。(1コリント5:6–7)
彼らが誇っているのはよくないと述べることで、パウロは不品行に対する彼らの向き合い方が間違っていることへの懸念を示しています。これはただ一人の問題ではなく、むしろ共同体全体の問題なのです。パウロは、「~を知らないのか」と、反語的な質問をしており、その答えは、「もちろん知っています」であるべきです。(パウロはこの書簡の中で、この質問の仕方を10回しています。)
パウロは彼らに、古いパン種を取り除くよう指示しています。ユダヤ人は毎年、エジプトからの解放を記念する過越の祭を行う際、家の中のパン種をすべて取り除き、7日間、家をパン種なしの状態にしました。パウロはコリントの教会に、それと同様に古いパン種を取り除くよう促しています。この古いパン種は、彼らの間に存在していた罪深い行いを象徴しています。パウロは、彼らが新しい粉のかたまりとなるにはこの清めが必要であると考えていますが、この新しい粉のかたまりとは、聖く汚れのない共同体を象徴するものです。
ゆえに、わたしたちは、古いパン種や、また悪意と邪悪とのパン種を用いずに、パン種のはいっていない純粋で真実なパンをもって、祭をしようではないか。(1コリント5:8)
教会からこの不品行な人という古いパン種を取り除く理由は、キリストの死の重要性に根ざしています。キリストは、私たちの過越の小羊です。モーセの時代に行われた最初の過越(出エジプト12:21)、そしてその後毎年の過越(出エジプト12:42)で、小羊がほふられたように、キリストは十字架の上でいけにえとして捧げられました。エジプトでイスラエルの民の家の入口に塗られた血が彼らを災いから守ったように、キリストの血は信者を神の怒りから守ります。(出エジプト12:7, 13)
過越の祭の間、パン種のない状態にすることは、ヘブル人がエジプトでの苦境から急いで解放されたことを思い起こさせるものでした。(出エジプト12:33–34, 39) 同様に、パウロはコリントの信徒たちに、彼らはキリストが過越のいけにえとなってくださった時代に生きているのだから、自分たちの教会から不品行という古いパン種を取り除くべきことを思い出すよう促しています。そういった意味で、教会は過越の祭を毎日守るべきなのです。
わたしは前の手紙で、不品行な者たちと交際してはいけないと書いたが、…(1コリント5:9)
パウロは以前に、「クリスチャン共同体の一員であるためには聖くあらねばならず、それには性的に不品行な人たちと交際しないことも含まれる」といったことを書いたようで、そのことについて誤解されないようにしたいと思っています。
この後に、それは信者がすべての非信者と完全に関係を断つという意味ではないことを明確にしています。そうではなく、クリスチャンは性的不品行を行っている人を自分たちの共同体に所属させないように、と言っているのです。パウロは同様のことをテサロニケの信徒たちにも書いています。「もしこの手紙にしるしたわたしたちの言葉に聞き従わない人があれば、そのような人には注意をして、交際しないがよい。彼が自ら恥じるようになるためである。しかし、彼を敵のように思わないで、兄弟として訓戒しなさい。」(2テサロニケ3:14–15)
… それは、この世の不品行な者、貪欲な者、略奪をする者、偶像礼拝をする者などと全然交際してはいけないと、言ったのではない。もしそうだとしたら、あなたがたはこの世から出て行かねばならないことになる。(1コリント5:10)
ここでパウロは、以前の手紙で言いたかったことは何なのかを明らかにしています。おそらく、コリントの人たちに書いた前回の手紙(現在は失われています)の中でも、パウロはこの問題に言及していたのでしょう。そしてここで、信者が非信者と関わりを持つべきではないという意味ではなかったことを明確にしています。もしクリスチャンが、どんな「罪びと」ともいっさい関わらないとしたら、この世から出て行かなければならなくなります。パウロが言っているのは、罪は真剣に受け止められるべきであり、故意に、繰り返し、また公然と罪を犯す者は、教会の一員であるべきではないということです。
しかし、わたしが実際に書いたのは、兄弟と呼ばれる人で、不品行な者、貪欲な者、偶像礼拝をする者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪をする者があれば、そんな人と交際をしてはいけない、食事を共にしてもいけない、ということであった。(1コリント5:11)[新共同訳:「みだらな者、強欲な者、偶像を礼拝する者、人を悪く言う者、酒におぼれる者、人の物を奪う者」]
パウロはここで、信者であると称しながら罪深い行いをする人々と付き合わないよう助言し、そのような行いの内6つをここで挙げています。彼は、他のクリスチャンが明らかに罪深い行い、例えばこの場合は父親の妻と関係を持つことをしている時に、どのように対応すべきかの指針を示しているのです。パウロはコリントの信徒たちに、その人物を共同体から除くよう指示しており、教会のメンバーたちは一緒に食事さえしてはいけないと付け加えています。パウロが後の方で書いているように、「悪い交わりは、良いならわしをそこなう」からです。(1コリント15:33)
外の人たちをさばくのは、わたしのすることであろうか。あなたがたのさばくべき者は、内の人たちではないか。外の人たちは、神がさばくのである。その悪人を、あなたがたの中から除いてしまいなさい。(1コリント5:12–13)[2]
パウロは、自分もコリントの信徒たちも、教会外の人々を裁く権利はないと断定しています。クリスチャンではないし、クリスチャンであると主張もしていない人たちを裁くのは、ただ神だけです。しかし、コリントの信徒たちに関しては、教会が彼らを裁くことになります。教会内の人々は教会の権威に従うのであり、教会は、そのメンバーがキリストのやり方にあからさまに違反した場合、行動を起こすべきなのです。コリント教会は、自分たちが望まなかったとしても、その男性を追放し、不信者として扱わなければなりませんでした。
注:
聖書の言葉は、特に明記されていない場合、日本聖書協会の口語訳聖書から引用されています。
訳注:
1 本記事で引用されている聖句にある「不品行」という言葉は、性的な不品行を意味しており、他の日本語訳聖書では「淫らな行い」とも訳されています。
2 最後の「その悪人を …」の箇所は、ほとんどの翻訳聖書ではかぎ括弧(引用符)でくくられています。
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