第1コリント:第8章(1–13節)

著者: ピーター・アムステルダム

4月 18, 2025

[1 Corinthians: Chapter 8 (verses 1–13)]

February 25, 2025

パウロがコリントの信徒たちに送った書簡のこの章から、彼らの間で論争が起こっていたことがわかります。論点となっているのは、クリスチャンが偶像に供えられた肉を食べることの是非でした。

偶像への供え物について答えると、「わたしたちはみな知識を持っている」ことは、わかっている。しかし、知識は人を誇らせ、愛は人の徳を高める。(1コリント8:1)

パウロの時代のギリシャ文化では、家族はよく異教の神殿に犠牲(いけにえ)の動物を捧げていました。そのような犠牲の多くは、肉の一部だけが焼かれ、残りは祭司と犠牲を捧げた家族が受け取ることになっています。この供え物の肉は、家に持ち帰られるか、市場で一般に売られていました。

また、異教の神殿の多くは、肉販売所や宴会場、食堂としても機能しており、商売人団体やクラブ、プライベートな晩餐会などの食事会が、神殿の食堂で定期的に開催されていました。第1コリント書のこのセクションで、パウロはそのような食物の扱いについて指針を与えています。エルサレム会議は、クリスチャンがそのようなものを食べることを禁じて、「偶像に供えたもの … を、避ける」べきだとしました。(使徒15:29) しかし、コリント教会では、信者が供え物にされた肉を食べることができるかどうかで論争が起きていたのです。パウロがここでおもに取り上げているのは、偶像の犠牲として捧げられた後に、異教の神殿で食べられていた肉です。

パウロは、「わたしたちはみな知識を持っている」と言うことによって、彼らが、偶像は何ものでもなく、ただ唯一の神だけがおられると知っているのだ、ということを認めています。パウロはさらに、知識のある人たちに対して、知識は人を高慢にするが、愛は人を造り上げると戒めました。愛は知識よりも優れていると指摘したのは、知識は慎重に扱われなければ、罪につながることがよくあるからです。

パウロは、知識によって高慢になる傾向に対して、自分は何か知っていると思い込んでいる人の本質を指摘しています。自分は特定の主題について熟知していると思い込んでいる人は、高慢になる可能性があると警告しました。

もし人が、自分は何か知っていると思うなら、その人は、知らなければならないほどの事すら、まだ知っていない。(1コリント8:2)

パウロは、知識を持っている人を非難しているのではありません。そうではなく、特定の主題について極めたと思い込んでいる人は高慢になる恐れがある、と警告したのです。パウロは、そのような人は知らねばならぬことをまだ知らないのだ、と言います。そういった人が気づいていないのは、人間の知識はすべて断片的なものであり、そのような知識があるからといって、高慢になって得意がるようなことではないということです。

しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのである。(1コリント8:3)

パウロは、コリントの信徒たちが、知識よりも愛に重きを置くことを望みました。そして、神を愛する人は神に知られていることを、彼らに思い起こさせています。「神に知られている」は、パウロの著作の他の箇所を見ると、贖いを表現する言葉であることがわかります。(ガラテヤ4:9) つまり、知識の習得を中心として高慢に信仰生活を送る人とは異なり、愛を中心に据える人は、自分が贖われたことを他者に示しているのです。

さて、偶像への供え物を食べることについては、わたしたちは、偶像なるもの[偶像の神]は実際は世に存在しないこと、また、唯一の神のほかには神がないことを、知っている。(1コリント8:4)

ここでパウロは、このセクションの主題である、偶像に供えられた物を食べることに話を戻しています。偶像はまったく何ものでもなく、真の唯一の神の他には神がいないことを彼らが知っている、とパウロは言います。そう述べることで、偶像に供えられた肉の問題に決着をつけました。存在しないものに捧げられた肉なのだから、食べても問題はないと。

言うまでもなく、パウロは、聖書にあるとおり、異教の偶像崇拝の背後には邪悪な霊が実在しており、偶像崇拝者たちが悪霊を拝んでいると信じていました。「彼らは神でもない悪霊に犠牲をささげた。それは彼らがかつて知らなかった神々、近ごろ出た新しい神々、先祖たちの恐れることもしなかった者である。」(申命記32:16–17) パウロはこの書簡の後の方で、異教徒が「供える物は、悪霊ども … に供えるのである」と書いています。(1コリント10:18–22

神と比べれば、悪霊は無力だし、恐れるに足りません。クリスチャンは、偶像に供えられた食べ物など、偶像崇拝に関連するものに対して、迷信を抱くべきではないのです。使徒ヨハネも、こう書いています。「あなたがたのうちにいますのは、世にある者よりも大いなる者なのである。」(1ヨハネ4:4) それゆえパウロは、コリントの信徒たちが偶像に捧げられた肉を食べることを許してもいいと考えたわけです。

というのは、たとい神々といわれるものが、あるいは天に、あるいは地にあるとしても、そして、多くの神、多くの主があるようではあるが、わたしたちには、父なる唯一の神のみがいますのである。万物はこの神から出て、わたしたちもこの神に帰する。(1コリント8:5–6)

パウロに反対する人たちは、「ある意味では、他の神々は存在する」と容易に主張できたでしょう。パウロ自身も、世界中の人々が崇拝している「神」や「主」が多くあると述べています。しかし、クリスチャンには、唯一の神のみがおられるのです。この唯一の神とは、万物の源である父なる神です。そして、唯一の主、イエス・キリストがおられます。

真の神が唯一であることを強調するため、パウロは父なる神と子なる神の両方に共通した特質を述べています。万物は父と子から出ており、私たちは父と子の内に、また父と子によって、生きているのです。他に「神」や「主」と呼ばれるものが多くあっても、キリスト教の神の前では、取るに足りない存在です。

しかし、この知識をすべての人が持っているのではない。ある人々は、偶像についての、これまでの習慣上、偶像への供え物として、それを食べるが、彼らの良心が、弱いために汚されるのである。(1コリント8:7)

どうやら、コリントの信徒の中には、偶像に供えられた食べ物について、考え方を改めるのが難しい人たちがいたようです。食事をするとき、彼らはまだその食べ物が何らかの超自然的存在や「神」に捧げられたものだと信じていました。そのため、彼らは犠牲の供え物から恩恵を得ることを期待していたのかもしれません。彼らがそれを食べたとき、キリストへの忠誠をないがしろにし、キリストだけに完全に信頼を置いていなかったため、彼らの良心は汚されてしまいました。

食物は、わたしたちを神に導くものではない。食べなくても損はないし、食べても益にはならない[聖書協会共同訳:食べなくても不利にはならず、食べても有利にはなりません]。(1コリント8:8)

パウロの考えでは、食べ物はただの食べ物です。何を食べて何を食べまいと、それは神にとって重要なことではありません。特定の食べ物や飲み物そのものに罪があるわけではないのです。とはいえ、信者には何の制約もないと言っているわけでもありません。パウロはさらに、食べる際の動機や、神の前にやましいところのない良心をもって食べるかどうかが重要であることを明らかにします。パウロは別の箇所でも、信仰によらない行為は、良心に反するがゆえに罪であると述べています。 「疑いながら食べる者は、信仰によらないから、罪に定められる。すべて信仰によらないことは、罪である。」(ローマ14:23)

しかし、あなたがたのこの自由が、弱い者たちのつまずきにならないように、気をつけなさい。(1コリント8:9)

パウロは、食べ物は善でも悪でもなく、ただの食べ物であることに同意しています。また、偶像自体は実際には神ではないことにも同意しました。パウロはさらに、神が重視されるのは、私たちが食べる動機と、それをやましいところのない良心をもって行っていることだと教えています。それを食べることは罪だと確信しながら食べるのは、間違っています。ある行為が神に許されているという確信なしに、その行為に及ぶことは、たとえその行為自体が悪いものではなくても、それは罪を犯すことです。これは、キリスト教信仰の重要な側面です。

なぜなら、ある人が、知識のあるあなたが偶像の宮で食事をしているのを見た場合、その人の良心が弱いため、それに「教育されて」[新改訳2017:後押しされて]、偶像への供え物を食べるようにならないだろうか。するとその弱い人は、あなたの知識によって滅びることになる。この弱い兄弟のためにも、キリストは死なれたのである。(1コリント8:10–11)

パウロは懸念点を説明するために、仮説的な状況を例に挙げました。偶像への供え物を食べても、本来何の問題もないと理解しているクリスチャンが、もし異教の神殿で食事をし、その様子を良心の弱い人が見た場合、その人は誤解して、そのような食べ物を自分も口にするようになることでしょう。「知識のある人たちは、偶像への犠牲を食べることには偽りの神々をなだめるという実際の益があるし、偶像崇拝とキリスト教は両立するものだと信じている」と思い込んでしまうからです。そうなると、良心の弱い兄弟は、それに後押しされて、自ら偶像崇拝に手を染めかねません。そういうわけで、偶像に捧げられた肉を食べることが許されてはいても、信仰の弱い者をつまずかせるようであれば、食べないのが最善だということです。

パウロは、この「滅び」がどのような意味で起こるのか説明していません。落胆や混乱といった単純なことを考えていたのかもしれないし、もっと悪い、死のようなことを考えていたのかもしれません。「滅びる」と訳された言葉は、一般的に、死や完全な破壊を指すものです。しかし、この節は、パウロが他の箇所で、良心が汚され(8:7)、良心を痛め(8:12)、罪に陥る(つまずく: 8:13)ことについて書いていることと照らし合わせて考えるのが最善でしょう。

パウロは、知識のある者たちに、キリストは良心の弱い兄弟姉妹のためにも死なれたのだ、と諭しました。だから、知識のある信徒は弱い人々に無関心であってはならない、と。そのようなクリスチャンは、キリストにとって、ご自身の命を捨ててくださったほど尊い存在です。したがって、他の信者たちにとっても尊い存在なのです。

このようにあなたがたが、兄弟たちに対して罪を犯し、その弱い良心を痛めるのは、キリストに対して罪を犯すことなのである。 (1コリント8:12)

パウロは自分の主張を強化するため、そのような行為とキリストとの関連性を強調しました。キリストは、彼らのためにただ死なれたのではなく、彼らを御自身と一つに結びつけられました。それゆえパウロは、「あなたがたが、兄弟たちに対して罪を犯[す]… のは、キリストに対して罪を犯すことなのである」と言うことができたのです。キリストにある人、すなわち、キリストの体の一部である人に対して罪を犯すことは、キリストご自身に対して罪を犯すことなのです。

だから、もし食物がわたしの兄弟をつまずかせるなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは永久に、断じて肉を食べることはしない。(1コリント8:13)

兄弟に対して罪を犯すことや、その良心を傷つけることは、キリストに対して罪を犯すことなので、パウロは、ここで固い決意をしています。クリスチャン仲間とキリストご自身への愛から、もし肉を食べることが兄弟に罪を犯させることになるのなら、二度と肉を食べないと。当時のコリントでは、肉屋で売られる肉のほとんどは、何らかの偶像に捧げられていたものでした。ですから、パウロが「断じて肉を食べることはしない」と言ったのは、大げさなことではなかったかもしれません。ただ、この文脈では、特に異教の神殿で食べることについてです。

第1コリント書の後の章で、パウロは、信者が未信者から食事に招かれたとき、肉を含め、目の前に出されるものは、良心の問題をいちいち問うことなく、何でも食べるべきだと書いています。(1コリント10:27


注:
聖書の言葉は、特に明記されていない場合、日本聖書協会の口語訳聖書から引用されています。

 

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