第1コリント:第10章(1–15節)

著者: ピーター・アムステルダム

7月 29, 2025

[1 Corinthians: Chapter 10 (verses 1–15)]

April 8, 2025

パウロは、クリスチャン生活について語り、賞を得るためには一意専心と自己鍛錬が必要であることを強調するために、競走の比喩を用いた後、さらにコリントの信徒たちへの勧告を続けています。

兄弟たちよ。このことを知らずにいてもらいたくない。わたしたちの先祖はみな雲の下におり、みな海を通り、みな雲の中、海の中で、モーセにつくバプテスマを受けた。(1コリント10:1–2)

パウロはここで、「兄弟たち」(「兄弟姉妹たち」と訳している翻訳聖書もあります)という言葉を使って、コリントの信徒たちへの気遣いを見せています。彼らに厳しく接したのは、彼らを愛し、心配しているからこそです。コリントの信徒たちの中で、偶像に捧げられた肉を食べていた人々は、「偶像なるものは実際は世に存在しない」ことや、「唯一の神のほかには神がない」ことを理解して、ある程度の知識は持っていました。(1コリント8:4) しかしパウロは、彼らが旧約聖書の歴史の教訓や、偶像礼拝がもたらす危険について、無知であることを危惧していたのです。

彼は、コリントの信徒たちが経験していることと、イスラエルの民が荒野をさまよったこととを比較することによって、その危険性を説明しています。第一に、神はイスラエルの民をエジプトから導き出すために雲を与え(出エジプト13:21–22)、彼らを救うためにモーセを使って紅海を分けました。(出エジプト14:21–31) パウロは、これらの出来事によって、イスラエルの民が皆、「モーセにつくバプテスマを受けた」と解釈し、バプテスマ(洗礼)を受けているコリントの信徒たちも同様に、キリストにつくバプテスマを受けたことになるという点を強調しました。パウロはこの比喩で、イスラエルの民をコリントの信徒たちに重ね合わせることによって、イスラエルの民の教訓をコリントの人たちに当てはめようとしています。

また、みな同じ霊の食物を食べ、みな同じ霊の飲み物を飲んだ。すなわち、彼らについてきた霊の岩から飲んだのであるが、この岩はキリストにほかならない。(1コリント10:3–4)

パウロが霊の食物と霊の飲み物と表現したものは、神がイスラエルの民に40年間与え続けた天からのマナ(出エジプト16:12–35)と、少なくとも二度にわたって岩から湧き出させた水(出エジプト 17:6; 民数記20:11)のことです。パウロは、キリストと、水を与える岩とを象徴的に結びつけ、「この岩はキリストにほかならない」と述べています。そうすることでパウロは、キリストをイスラエルの民に「ついてきた」方だと表現し、旧約聖書で神の名として使われる「岩」をキリストの称号としています。(申命記 32:4, 詩篇18:2

しかし、彼らの中の大多数は、神のみこころにかなわなかったので、荒野で滅ぼされてしまった。(1コリント10:5)

次にパウロは、自分がおもに懸念している点を述べています。彼は、イスラエルの民が「みな」共通の体験をしたことを、わずか4節の中で5回も言及しました。(1コリント10:1–4) イスラエルの民が神の恵みを共に体験して一つに結ばれたのは、コリントの信徒たちがバプテスマと主の晩餐によって一つに結ばれているのと同様です。

イスラエルの民は皆、神の恵みにあずかったのですが、その大多数は神の御心にかないませんでした。そのため、その人たちは約束の地に入ることを許されず、荒野で死んだのです。パウロはこの件に言及することによって、コリント教会内にあった同じような状況に注意を促しました。コリント教会の人々は皆、キリストにあって霊的な旅を始め、誰もがバプテスマと主の晩餐にあずかっていましたが、それは神を不快にさせるような行動を自由に行ってよいという意味ではありません。そのような行動こそが、イスラエルの民に厳しい裁きをもたらしたものなのです。

これらの出来事は、わたしたちに対する警告であって、彼らが悪をむさぼったように、わたしたちも悪をむさぼることのないためなのである。(1コリント10:6)

コリントの信徒たちは、悪に心を向けないようにすべきでした。パウロはおそらく、民数記11章4–6節の記述をほのめかしているのでしょう。そこには、イスラエルの民が神への忠誠よりもエジプトの食物を重んじたことが記されています。イスラエルはあまりにも多くの罪を犯したため、エジプトを出た成人のうち、たった二人を除いて全員が荒野で死にました。(民数記32:11–13) モーセでさえ、約束の地に入ることを許されなかったのです。(民数記20:12

パウロは、神の祝福の本質について、コリントの人々に警告するために、これらの例を挙げました。もし彼らが意図的に神に背くなら、神はイスラエルを裁かれたように、彼らをも裁かれるかもしれないのです。パウロは、コリントの信徒たちが、自分たちのわがままな欲望によって、神への忠誠心を台無しにすることのないように願っていました。

だから、彼らの中のある者たちのように、偶像礼拝者になってはならない。すなわち、「民は座して飲み食いをし、また立って踊り戯れた」と書いてある。(1コリント10:7)

第二に、パウロは信者たちに、(彼らの一部が明らかにそうであったように)偶像礼拝者とならないよう警告しました。ここで彼は、出エジプト記32章6節のことを考えており、論点を明確にするため、その聖句を引用しています。モーセがシナイ山で十戒を受け取っている間、イスラエルの民は自分たちが作った金の子牛の前で異教的な宴にふけり、それには、コリントの信徒たちが異教の神殿で行っていたのと同様の異教的な食事も含まれていました。そのような偶像礼拝のために、神はイスラエルの民を滅ぼしかけました。実際、神の命令により、モーセは3千人を処刑しています。(出エジプト32:28)。こうしてパウロは、コリントの信徒たちに、偶像礼拝的な飲食の誘惑を真剣に受け止めるよう警告したのです。

また、ある者たちがしたように、わたしたちは不品行をしてはならない。不品行をしたため倒された者が、一日に二万三千人もあった。(1コリント10:8)

三番目の例で、パウロは民数記に記録されている出来事を引き合いに出して、性的不品行を戒めました。イスラエルの民が偶像崇拝と豊穣儀礼にふけった後、2万3千人が死んだという出来事です。(民数記25:1–9) 民数記の記述によれば、これらの罪に対する神の罰として疫病が下り、2万4千人が死にました。パウロがあげた数は、若干異なりますが、要点は明らかであり、それは、多くの人々が異教の豊穣儀礼に参加したため命を落としたということです。

豊穣信仰を実践した人々は、宗教的な売春や乱交に参加することが、健康、豊穣、繁栄をもたらすと信じていました。パウロの時代のコリントで行われていた偶像礼拝には、そのような豊穣儀式が含まれていたのです。パウロの警告は明確でした。異教の神殿で偶像に捧げられた肉を食べ、その儀式に参加することは、性的不品行につながる可能性があり、それは、コリントの人たちが陥りがちだったことです。(1コリント6:15–16

また、ある者たちがしたように、わたしたちは主を試みてはならない。主を試みた者は、へびに殺された。(1コリント10:9)

第四の例において、パウロはコリントの人々に、イスラエルの民が過去にマナを拒んで神を冒涜したときのように、主を試してはならないと警告しています。(民数記21:4–9) パウロがこのたとえを用いたのは、コリントの一部の人々が、キリストにあって神が与えてくださったものに満足していなかったからです。昔のイスラエルの民がマナ以外の食物を求めたように、コリントの信徒たちは肉を強く求めるあまり、他の考慮すべき事柄をすべて無視していました。古代イスラエル人に神が与えた懲罰は、コリントの人々にとって、そのような行いを戒める警告となりました。

また、ある者たちがつぶやいたように、つぶやいては[不平を言っては(聖書協会共同訳)]ならない。つぶやいた者は、「死の使」[滅ぼす者(聖書協会共同訳)]に滅ぼされた。(1コリント10:10)

パウロの五番目の警告は、コリントの信徒たちは、一部の者たちがしていたように、不平を言うべきではないということでした。神とその指導者たちに不平を言うことは、荒野で何度も起こったことです。(出エジプト15:24; 申命記1:27) 聖書には、イスラエルの民が荒野にいたときに、「滅ぼす者」または「滅ぼす御使い」が現れた、というような特定の出来事は記されていませんが、同様の概念は、旧約聖書のさまざまな箇所に見られます。[1] パウロが意味していることは明白で、それは、神に対して不平や文句を言うことは、神の裁きと彼らの滅びを招いたということです。

これらの事が彼らに起ったのは、他に対する警告[前例(新共同訳)]としてであって、それが書かれたのは、世の終りに臨んでいるわたしたちに対する訓戒のためである。(1コリント10:11)

パウロはここで再び、荒野においてイスラエルの民が罪を犯して、裁きを受けたのは、他に対する警告としてであり、それが旧約聖書に記録されたのは、クリスチャンに対する訓戒のためであると指摘しています。これらの出来事が記録されたのは、旧約時代の神の民のためだけではないのです。新約時代の教会も、これらの教訓から益を得ることができました。キリストに従う者たちには、自らの恵みの体験を「罪の許可証」として受け止めてしまうという危険が常につきまといますが、旧約聖書にある前例は、そのような許可証を禁じています。

パウロがどのような意味で、信者たちを「世[諸時代(英語ESV訳)]の終りに臨んでいる」者たちと呼んだのかについて、学者たちの見解はさまざまです。ある人たちは、キリストの到来とその贖いによって、それまでの時代が定められた終りを迎えた、ということだと考えています。また、この表現は、新約聖書のさまざまな著者たちが用いた、「この終りの時に至って」(1ペテロ1:20–21)、「今は終りの時」(1ヨハネ2:18)、「終りの時には」(2テモテ3:1)といった表現と同様の、終末論的な言及であるようにも見えます。

だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。(1コリント10:12)

自信過剰で、自分はしっかり立っていると思い込んでいるクリスチャンは、荒野でイスラエルの民がそうなったように倒れないよう気をつけなければなりません。パウロは、そのような人が救いを失うと言っているのではありません。そうではなく、神が禁じた行為にふけってもかまわない、という誤った考え方をしている人々への警告として語っているのです。

パウロは、偶像の神殿で食事をする自由があると信じていた人々に向けてこの言葉を語ったのでしょう。彼らは、そうすることで自分が「倒れる」ことはないという確信を持って行動していましたが、実際には、偶像崇拝や性的不品行に陥る危険に自らをさらしていたのです。パウロが考えていたのは、彼らを見て、自分たちも偶像の神殿で食事をしてもかまわないと思うようになった弱い兄弟姉妹のことかもしれません。パウロは、少し前の章で、これらの兄弟姉妹がそのような行為によって滅ぼされる可能性があることに懸念を示しています。

あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。(1コリント10:13)

この節にある「試練」という言葉は、試練と誘惑の両方を指す、広い意味で使われています。ある著者はこう説明しています。「これは、起伏の多い地域で厳しい状況に追い込まれた軍隊が、峠を通ってそこから脱出するというイメージです。」[2]

パウロのこの言葉は、クリスチャンが耐えられない誘惑に直面することはないことを明確にしています。第一に、クリスチャンが直面するすべての誘惑は、偶像礼拝の誘惑を含めて、誰にでも起こり得るもの(世の常)であると指摘しました。コリントの信徒たちが直面した、偶像に捧げられたと分かっている食物を食べることで妥協してしまう誘惑は、珍しいことではなく、むしろ誰にでもあることです。また、それは克服できない誘惑や試練でもありません。他のクリスチャンは偶像礼拝への誘惑に抵抗してきたのであり、コリントの信徒たちも同様にそうすることができるのです。

第二に、神は真実なお方であり、ご自分の民を見捨てることはありません。ですから、クリスチャンが耐えられないほどの誘惑にあうのを、神がお許しになることはない、と信じていいのです。神は常に誘惑から逃れる道を備えてくださるので、クリスチャンはそれに立ち向かうことができ、罪に陥らないですみます。神ご自身は、誰をも誘惑することがないし(ヤコブ1:13)、ご自分の子どもたちへの深い愛ゆえに、クリスチャンを打ち負かすほど強い誘惑を許すことはありません。むしろ、クリスチャンが罪に陥ってしまうのは、それに立ち向かうことを怠り、神が備えてくださった逃れる道を探し求めないときなのです。

それだから、愛する者たちよ。偶像礼拝を避けなさい[偶像礼拝から逃げなさい(英語ESV訳)]。(1コリント10:14)

パウロはコリントの信徒たちに、親しみを込めて「愛する者たち」と呼びかけました。パウロの助言は、シンプルながらも劇的な、「偶像礼拝から逃げなさい」というものでした。他の書簡でも、パウロは読者に対して、誘惑に陥りそうなときには罪を「避けなさい」(罪から逃げなさい)と教えています。(1テモテ6:11; 2テモテ2:22) これまでの節が示すように、偶像礼拝は深刻な問題です。クリスチャンは、それを軽く考えるべきではありません。罪に関して唯一賢明な行動とは、罪と関わりを持たず、むしろ罪から逃げ去ることなのです。

賢明な[分別ある(新共同訳)]あなたがたに訴える。わたしの言うことを、自ら判断してみるがよい。(1コリント10:15)

パウロは、コリントの信徒たちには分別があると考え、彼らがこの問題を自分で判断することを願いました。彼が主張していたことに含まれる知恵によって、彼らが自分の見解に納得してくれるようになるだろうと考えたのです。

(続く)


注:
聖書の言葉は、特に明記されていない場合、日本聖書協会の口語訳聖書から引用されています。


1 例えば、次のような聖句です: 出エジプト12:23, 歴代上 21:15, 詩篇78:49.

2 Leon Morris, 1 Corinthians: An Introduction and Commentary, vol. 7, Tyndale New Testament Commentaries (Downers Grove, IL: InterVarsity Press, 1985), 142.

 

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