著者: ピーター・アムステルダム
8月 19, 2025
第1コリント10章後半で、パウロはまず、コリントの信徒たちに対して、異教の神殿での食事にあずかることと、主の晩餐にあずかることとは、両立しないことを強調しています。
わたしたちが祝福する祝福の杯、それはキリストの血にあずかること[キリストの血との交わり(聖書協会共同訳)]ではないか。わたしたちがさくパン、それはキリストのからだにあずかることではないか。(1コリント10:16)
パウロの最初の質問では、主の晩餐に関する記述(マタイ26:26–28; 1コリント11:23–26)と似た言葉を用いて、感謝の坏と彼らが食べたパンが取り上げられています。杯から飲むことはキリストの血にあずかることであり、パンを食べることはキリストの体にあずかることです。「あずかる」と訳された言葉は、新約聖書で、イエスとの交わり(1コリント1:9)や互いとの交わり(1ヨハネ1:7)を指すためにも用いられています。
パンが一つであるから、わたしたちは多くいても、一つのからだなのである。みんなの者が一つのパンを共にいただく[皆が一つのパンにあずかる(聖書協会共同訳)]からである。(1コリント10:17)
パウロは、クリスチャンが多くいても、彼らは一つの体である、そして、それが真実なのは、みんなの者が(キリストの体を表す)一つのパンにあずかるからだ、と述べています。パウロの著述において、「一つの体」とは、クリスチャンがキリストと霊的に一体となること、またクリスチャン同士がキリストにあって霊的に一体となることを指す、専門的な表現です。パウロはローマ人への手紙で、こう書いています。「私たちも数は多いが、キリストにあって一つの体であり、一人一人が互いに部分なのです。」(ローマ12:5 聖書協会共同訳) クリスチャンはキリストと霊的に結びついているので、それはすなわち、すべてのクリスチャンがキリストにあって互いに霊的に結びついているということになります。
肉によるイスラエルを見るがよい。供え物を食べる人たちは、祭壇にあずかるのではないか。(1コリント10:18)
旧約聖書において、感謝の犠牲や和解の犠牲を捧げる際、祭壇は神に食物を捧げる台として使われ、祭司たちはその捧げ物を食べました。(レビ6:17–18) パウロは、そのような犠牲を食べる人たちは、神殿の祭壇が持つ霊的な意義にあずかると強調しています。同様に、主の晩餐にあずかる人たちは、神との交わりを持つのです。
すると、なんと言ったらよいか。偶像にささげる供え物は、何か意味があるのか。また、偶像は何かほんとうにあるものか。そうではない。人々が供える物は、悪霊ども、すなわち、神ならぬ者に供えるのである。わたしは、あなたがたが悪霊の仲間になる[悪霊と交わる(聖書協会共同訳)]ことを望まない。(1コリント10:19–20)
パウロは、この手紙の前の方で、異教は誤っており、彼らの犠牲は真の神々に捧げられるものではないと論じて、「偶像なるものは実際は世に存在しない」、「唯一の神のほかには神がない」(1コリント8:4)と述べています。同時に、彼は「たとい神々といわれるものが、あるいは天に、あるいは地にあるとしても、そして、多くの神、多くの主があるようではある」と付け加えていました。(1コリント8:5-6) こちらの節では、パウロは自分が言ったことの意味をより完全に説明しています。彼は、異教の犠牲には超自然的な何かが働いており、それは最終的に、神ではなく悪魔に捧げられたものだと言うのです。したがって、人々が偶像に犠牲を捧げるとき、それは何の意味もない行為であると単純に考えることはできません。
パウロは、異教徒が犠牲を捧げている神々はクリスチャンが恐れるべきものではなく、そういった意味において、偶像は何ものでもなく、偶像に捧げられた食物も何ものでもないと指摘しています。しかしながら、パウロは異教徒の犠牲は悪霊に捧げられたものであると断言し、コリントの信徒たちが悪霊との交わりを持つべきではないと強く主張しました。
主の杯と悪霊どもの杯とを、同時に飲むことはできない。主の食卓と悪霊どもの食卓とに、同時にあずかることはできない。(1コリント10:21)
パウロは再び、キリスト教と偶像礼拝とは両立し得ないことについて語っています。「主の杯」は、十字架での犠牲を通して可能となった、クリスチャンとキリストとの交わりを表し、罪の赦しのために流されたキリストの血を象徴しています。この杯は、救いの象徴なのです。市場で売られている肉のように、偶像に捧げられたものをクリスチャンが食べても罪にならない場合はありました。しかし、だからといって、偶像礼拝が行われる異教の祝祭に参加することまで許されるというわけではありません。
それとも、わたしたちは主のねたみを起そうとするのか。わたしたちは、主よりも強いのだろうか。(1コリント10:22)
パウロはその点を明確にするため、コリントの信徒たちに、主にねたみを起こさせるつもりなのか、また自分たちの方が主よりも強いと考えているのか、と問いかけました。聖書で神は、妻を自分だけのものとしたい夫として描かれています。(エレミヤ31:32; ホセア2:1–13) 神はご自分の民に、忠誠を求めておられるのです。コリントの信徒たちは、モーセの時代のイスラエルの民がそうだったように、神の怒りを招く危険があるので、偶像礼拝をやめるべきだというわけです。
すべてのことは許されている。[「すべてのことが許されている」と言いますが(新改訳2017)]しかし、すべてのことが益になるわけではない。すべてのことは許されている。しかし、すべてのことが人の徳を高めるのではない。だれでも、自分の益を求めないで、ほかの人の益を求めるべきである。(1コリント10:23–24)
ここでパウロは、先ず、第1コリント6章12節でもすでに言及していた、当時のコリントの信徒たちの間で流行っていた「すべてのことは許されている」というスローガンに触れています。キリストにあって、クリスチャンは多くの自由を持っているので、このスローガンにはある程度の真実がありますが、バランスを必要としています。そこでパウロは、すべてのことが有益で役立つわけではないと付け加えているのです。パウロはここで、キリスト教共同体にとって益となり、築き上げるようなこと、そして隣人の利益を求める行動にのみ、自由を用いるべきだとしています。先にパウロは、クリスチャンは自分の利益を求めるのではなく、他者に益をもたらし、福音を広めることを求めるべきだという原則を強調していました。(1コリント9:19–23)
すべて市場で売られている物は、いちいち良心に問うことをしないで、食べるがよい。地とそれに満ちている物とは、主のものだからである。(1コリント10:25–26)
パウロは、偶像礼拝の問題が生じない限り、クリスチャンは市場で購入した肉を何でも食べてよいと教えました。その肉は偶像への犠牲だという話が出た場合、クリスチャンは他の人たちのことを考えて、食べることを控えるべきです。ギリシャの食肉市場には、偶像に捧げられた後に売られる肉もあれば、捧げられたことのない肉もあり、店主は必ずしもその違いを明らかにしていたわけではありません。
ラビたちは、コリントのような異教徒の町に住むユダヤ人に制限を課して、ユダヤ教の食品規定を守る店からのみ肉を購入するよう求めていました。しかし、パウロの方針は、そうではありません。彼の考えは、クリスチャンはどんな肉でも、それが偶像に捧げられたものかどうかを尋ねることなく、食べてよいというものでした。詩篇24篇1節の「地と、それに満ちるもの … とは主のものである」を引用し、神こそがすべてのものを所有しておられる唯一の真の神であり、偶像は取るに足らないものだと断言しました。つまり、クリスチャンはその肉が偶像に捧げられたものかどうかを気にすることなく、自由に食べてよいということです。
もしあなたがたが、不信者のだれかに招かれて、そこに行こうと思う場合、自分の前に出される物はなんでも、いちいち良心に問うことをしないで、食べるがよい。しかし、だれかがあなたがたに、これはささげ物の肉だと言ったなら、それを知らせてくれた人のために、また良心のために、食べないがよい。良心と言ったのは、自分の良心ではなく、他人の良心のことである。(1コリント10:27–29a)
市場の話をした後、パウロは、クリスチャンが信者ではない人の家に招かれた場合について述べました。クリスチャンは、良心の問題を問うことをせず、出されたものは何でも食べてかまいません。ただし、もし誰かが、その肉は偶像に捧げられたものであると言ったなら、良心のために、つまり、そう話してくれた人のために、食べてはならないということです。そのような状況で食べるなら、偶像礼拝を受け入れているように見えてしまうかもしれません。使徒パウロのこの助言によれば、クリスチャンは自分の自由を、他人への害や、自分への非難を引き起こすような使い方をしないよう注意すべきです。食べるにも、飲むにも、また何をするにも、私たちは神の栄光のためにそれを行い、神を喜ばせ、敬うことを目指すべきなのです。
なぜなら、わたしの自由が、どうして他人の良心によって左右されることがあろうか。もしわたしが感謝して食べる場合、その感謝する物について、どうして人のそしりを受けるわけがあろうか。(1コリント10:29b–30)
パウロが問いかけているのは、自分の自由が他人の良心によって裁かれるという事態を引き起こすようなことを、なぜすべきなのかということです。クリスチャンには、偶像に犠牲として捧げられた肉を食べる自由がありますが、それが他者の良心を傷つけるときには、その自由を用いるべきではありません。もし信者ではない主人が、偶像に捧げられた肉かどうかについて何も言わなければ、クリスチャンは自由にその肉を食べることができます。パウロは、偶像に捧げられたかもしれない肉であっても、クリスチャンは感謝してそれを食べてよいと言っているのです。「感謝して」食事にあずかればよいと。
だから、飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである。ユダヤ人にもギリシヤ人にも神の教会にも、つまずきになってはいけない。(1コリント10:31–32)
パウロはここで、この章における自分の主張を要約しています。第一に、クリスチャンは、飲食物を口にするにもしないにも、それをすべて神の栄光のために行わなければなりません。人間が主要な目的とすべきは神の栄光であり、神を愛する者たちの最大の関心事は、神の誉れであるべきです。「あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない。」(申命記6:5)[1]
第二に、信者は飲むにも食べるにも、それによって他人をつまずかせたり、罪を犯させたりしてはならず、またそれによって、誰かが福音を受け入れるのを妨げてはなりません。このような他者への配慮は、ユダヤ人にも、ギリシャ人にも、そして教会に対しても示すべきものです。パウロがこれらのグループに言及したのは、それぞれに異なる配慮が必要だったからでしょう。ユダヤ人もギリシャ人も、キリストの教えを信じていませんでしたが、それぞれ異なる基準と期待を持っていました。さらに、隣人愛の原則は、他の理由から、教会に対しても当てはめなければなりません。
わたしもまた、何事にもすべての人に喜ばれるように努め、多くの人が救われるために、自分の益ではなく彼らの益を求めている。わたしがキリストにならう者であるように、あなたがたもわたしにならう者になりなさい。(1コリント10:33–11:1)
パウロは、このセクションの締めくくりとして、自分自身がしたくないことを彼らがするよう期待してはいないことを、読者に伝えています。まず、あらゆる面で、すべての人に喜ばれるよう努めている、と言いました。彼は、自分の益ではなく、多くの人の益のために、もっと具体的に言えば、彼らが救われるために、人々に仕えることを求めていたのです。パウロは、失われた人々の救いに献身していたので、他者のために自分の個人的な好みや自由を最小限に抑えるようになりました。
パウロはこの奉仕を一貫して果たした結果、自分がキリストに倣ってきたように、コリントの信徒たちも自分に倣う者となるよう勧める資格があると感じました。キリストは人々を救うために、ご自身の自由と名誉を捨て、十字架の死に至るまでおのれを低くされました。(ピリピ2:5–8) パウロはコリントの信徒たちに、他者への愛と配慮の模範として、キリストの犠牲を覚えておくよう勧めたのです。「互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです。ですから、愛されている子どもらしく、神に倣う者となりなさい。」(エペソ4:32–5:1 新改訳2017)
注:
聖書の言葉は、特に明記されていない場合、日本聖書協会の口語訳聖書から引用されています。
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