弟子の生き方: 前書き

著者: ピーター・アムステルダム

8月 26, 2025

[The Life of Discipleship: An Introduction]

July 15, 2025

キリスト教で、弟子になるとはどういうことでしょうか。また、日常生活における弟子の生き方とはどのようなものなのでしょうか。それをこのシリーズのテーマとして、弟子の旅路に関するさまざまな主題を掘り下げていこうと思います。焦点を当てるのは、弟子たることの核心的な概念で、たとえば、全身全霊で神を愛し、他者を愛するとはどういうことなのか、また、キリストのうちにとどまり、御言葉の原則に従って生きるとはどういうことなのか、という点です。これから、今日の世界において、どのように弟子として生きるのかを考察していきます。日常生活において、弟子としての生き方をどのように実践すれば良いのか、職場におけるキリストの弟子の生き方とはどのようなものなのか、ということです。

「弟子(英語のdisciple)」という言葉の辞書的な定義には、特定の人物や思想の信奉者、他の誰かの教えを受け入れ、広める助けをする人、特定の運動や哲学を熱心に支持する人、などがあります。これをキリスト教に当てはめると、イエスの弟子とは、(1) イエスの教えを受け入れて守る人、(2)イエスの教えを自らの生活に適用する人、(3) 福音という良き知らせ、すなわちイエスのメッセージを他者に伝えることに関わる人のことである、と結論づけることができます。

弟子という言葉は、ギリシャ語で学ぶ者を意味する「マテーテース」から来ています。興味深いことに、新約聖書では、弟子という言葉が福音書と使徒行伝でしか使われていません。特に、ルカの福音書と使徒行伝(どちらも著者はルカ)は、イエスの教えと、それが初代教会においてどのように実践されたかを伝えています。これらの書から、イエスの復活された後の時代に、弟子であるとはどんな意味があったのかを知ることができます。

使徒行伝では、「弟子」という言葉がしばしば「信者」と同じ意味で使われています。ルカは、イエスを信じ、その教えに従う者たちを、「この道」に従う者と表現していますが(使徒9:1–2)、「この道」の者とは、イエスの信者であり、弟子のことでした。

使徒行伝のもう少し後の方では、パウロとバルナバが幾つもの町で宣教をして、「大ぜいの人を弟子とした後」、またそれらの町に引き返して、「弟子たちを力づけ、信仰を持ちつづけるようにと奨励し」たと記されています(使徒14:21–22)。ここでも、信者が弟子と呼ばれているのがわかります。使徒行伝の後半部分や書簡では、信者は共同体として「教会」と呼ばれるようになります。また、ルカは、アンテオケで初めて、弟子たちがクリスチャンと呼ばれるようになったと伝えています(使徒11:26)。

クリスチャンであることが、イエスの弟子であることと同じ意味だという事実は、イエスが弟子たちに教えられたさまざまな原則は私たち全員に適用されるべきであることを理解する助けとなります。イエスが、「もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきである」と言われたとき(ヨハネ14:15)、それは宣教師や牧師、その他のクリスチャンワーカーのようなフルタイムで活動するクリスチャンだけのことを意味されたのではありません。イエスの言葉は、すべてのクリスチャンに向けられたものであり、私たち全員がそれを信じて適用することが求められています。

イエスの弟子たちは、何世紀にもわたり、さまざまな社会的地位、世界の地域、民族や文化、社会経済や教育を背景としており、それは今日の教会においても例外ではありません。弟子としての召命は個人的なものであり、信者一人ひとりに対する神の計画と御心に従って生きるべきものです(ピリピ2:13)。

それでは、今日の世界の文脈において、弟子であることは何を意味するのでしょうか。弟子とは、神にぴったりとついて行く人であり、聖書に記された神の御心に沿った生き方をし、自分の人生やキャリア、家族、個人的関心に関して、神の具体的な御心をたずね求める人のことです。つまり、神の教えにしたがって人生を生きるということです。ティモシー・ケラーは、このように書いています。

神は、ご自身の民が受動的な信者ではなく、積極的な弟子であることを望んでおられます。イエスは使徒たちに、全世界に出て行って、福音を伝え、バプテスマを施すように求めておられ、その究極の目的は、単なる回心者ではなく、弟子を生み出すことでした(マタイ28:19–20)。「弟子」という言葉には多くの意味がありますが、新約聖書から明らかなように、それはまず第一に、イエスに学ぶ者を意味しました。彼らはイエスに従い、イエスから学んだのです(ルカ10:38–42)。第二に、それは人生において、イエスへの忠誠を最優先することを意味しました(マルコ1:16–20)。最後に、それは男女を問わず、言葉(ルカ10:1–20)と行い(ルカ10:25–37)の両面で、すなわち、信仰を伝えながら隣人を愛することによって宣教を行うために、使命を受けて世に遣わされた人たちを意味していたのです。[1]

イエスの教えの多くは非常に挑戦的であり、弟子としての旅路が努力と献身と犠牲を要すること、またそれは生涯をかけた学びと成長の過程であることが確実です。自分を否定すること、日々自分の十字架を負うこと、イエスの足跡をたどること、神の国をまず求めること、そして、物質的な富に対する見方を調整し直すことといったイエスの教えは、世界観と生活様式の深い変化を求めます。

弟子となることの代償は大きいですが、その報いはそれよりもはるかに大きいものです。使徒ペテロがこう書いているように。「あなたがたは、イエス・キリストを見たことはないが、彼を愛している。現在、見てはいないけれども、信じて、言葉につくせない、輝きにみちた喜びにあふれている」(1ペテロ1:8)。イエスは私たちに豊かな命を約束し(ヨハネ10:10)、来るべき世では永遠の命を約束しています(マルコ10:30)。

弟子は非常に重要な存在です。弟子を通して、人々はイエスと救いに導かれるからです。献身的な弟子がいることで、キリスト教は成長し、神の光が世界に輝くのであり、そうやって人々は私たちの良い行いを見て、天にいます私たちの父をあがめるようになるのです(マタイ5:16)。弟子は、キリスト教を広め、イエスが最初の弟子たち(当時の世界に良き知らせを携えるという任務を負った人たち)に与えた仕事を果たす上で、極めて重要な役割を果たします。現代の弟子として、私たちはこの時代の世界に福音を伝えるという任務を負っているのです。

弟子とは何か

キリスト教での弟子とは、イエス・キリストに従い、イエスによる救いの良き知らせを受け入れ、それを広める手助けをする人のことです。キリスト教において弟子として生きるとは、その人が主イエス・キリストのもとで成長していく過程です。… 聖書によれば、キリスト教において弟子でいるには、以下のような個人的な成長を伴います。…

すべてのことにおいてイエスを第一にすること(マルコ8:34–38)。キリストの弟子は、この世から分離した存在である必要があります。私たちの焦点は、主に、そして、人生のあらゆる面で主を喜ばせることに、当てられるべきです。自己中心的な考えを捨て、キリスト中心の考え方を身に着けなければなりません。

イエスの教えに従うこと(ヨハネ8:31–32)。… イエスはこう言われました。「わたしのいましめを心にいだいてこれを守る者は、わたしを愛する者である」(ヨハネ14:21)。

他の人を弟子とすること(マタイ28:18–20)。弟子は増えていくものです。イエスが昇天される前、弟子たちに最後に言われたことの一つは、「あなたがたは行って、すべての国の人々を弟子としなさい」という命令でした。…

キリスト教における弟子とは、イエスを第一に置き、主に従い、良い実を結び、他者を愛し、さらに多くの弟子を作る人です。そのような人は、この堕落した世界において、神の栄光のために影響を与えていくに違いありません。—Got Questions [2]

弟子としての成長: 生涯にわたる旅路

弟子になるとは、キリストに自分を合わせていく過程であると理解できます。その過程で、私たちの優先順位は変化していくのです。弟子となるには、イエスに第一の場所を捧げ、イエスとその教えを最優先する必要があります。それは、これまでの目標や願望が重要ではなくなったということではなく、もはや同じ優先順位にはないという意味です。

弟子として成長することは、生涯にわたる過程であり、私たちは日々、行動や決断の中心にキリストを置き、「主と同じかたちに変えられて」いき、よりキリストのようになることを選択していきます(2コリント3:18 聖書協会共同訳)。この世のあり方に倣うことなく、心を新たにすることによって造り変えていただくことを学んでいくのです。(ローマ12:2)。

パウロはいくつかの書簡で、イエスに従う上で「脱ぎ捨てる」ことと「身につける(着る)」ことについて書いています。例えば、エペソ4章22–24節では、「以前の生活に属する … 古き人を脱ぎ捨て、心の深みまで新たにされ」なさいと語っています。また、コロサイ3章9–10節(新共同訳)には、「造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達する」ようにとあります。これは、信者がキリストに似た者へと次第に成長し、変えられていく過程の一部です。

もっとイエスのようになることにおいて鍵となる要素は、神の教えにかなった性質を育むことです。クリスチャンは誰も完璧ではありません。私たちは皆間違いや罪を犯すし、この人生において、キリストに似た性質を完全に身につけられる人もいません。私たちの目標は、聖霊に私たちの内に働いていただき、考え方やゴール、願い、人生全体を、もっとイエスに似たものへと変えていただくことです。

キリストに似た者へと成長するには、私たちの性質や物事の見方全体を聖霊に変えていただこうという意識的な選択をする必要があります。そのためには、神の言葉にある原則に基づいて決断することが第二の天性となり、あなたという人間の一部になるまで、そのような決断を何度も繰り返し下していかなければなりません。パウロはそれを、「信心のために自分を訓練」することと表現し、それは「今のいのちと後の世のいのちとが約束されてあるので、万事に益となる」と教えています。(1テモテ4:7–8

以下の抜粋は、私たちの霊的成長の過程について、有用な洞察を述べています。

キリストのようになる

あなたは、キリストのようになるために造られました。時の始まりから、神の計画は、あなたを御子イエスに似た者とすることだったのです。神は創造の時点で、その計画を語っておられます。「神は仰せられた。 『さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう』」(創世記1:26 新改訳2017)。… 完全な「神のかたち、似姿」とは、どういうものなのでしょうか。それは、イエス・キリストのような姿をしているのです。聖書は、イエスは神の似姿そのもの、すなわち「見えない神の[目に見える]かたち」であり、「神の本質の真の姿」であると教えています(コロサイ1:15; ヘブル1:3)。…

地上におけるあなたの人生に対する神の究極の目標とは、快適な生活ではなく、人格の成長です。神は、あなたが霊的に成長し、キリストに似た者となることを望んでおられます。キリストに似た者になるとは、あなたの品性が変革されることに他なりません。… 神は、あなたがイエスの至福の教えや御霊の実(ガラテヤ5:22–23)、パウロによる偉大な愛の章(1コリント13)、そして、効果的で実り豊かな人生の資質としてペテロが挙げたリスト(2ペテロ1:5–8)にあるような性質を、あなたが身につけることを望んでおられます。…

キリストのようになるには、長くゆっくりとした成長の過程が必要です。霊的な成熟は、瞬時に起こるものでも、おのずと得られるものでもありません。人生の残りの時間をかけて、徐々に進行していくものです。この過程について、パウロはこう言いました。「これは、私たちが … キリストと同じように成熟し、完全にキリストのようになるまで続いていく」(エペソ 4:13 英語NLT訳)。

あなたは成長過程の途上にあります。イエスの性質を身につけるという霊的変革を遂げるには、これから先、一生かかるでしょう。さらに言えば、この地上で完成することさえないでしょう。それが完成するのは、あなたが天国に行くときか、イエスが再臨されるときなのです。…

イエスが十字架で死なれたのは、私たちが快適でうまく順応した生活を送れるようにするためではありません。イエスの目的は、はるかに深いものであり、私たちを天国に連れて行く前に、ご自身に似た者に造り変えることなのです。これこそが、私たちの最大の特権であり、差し迫った責任であり、究極の使命でもあります。—リック・ウォレン [3]

このシリーズでは、神を愛し、神に従うことを決意し、神の教えに沿った人生を歩もうとする私たち一人ひとりにとって重要な原則を取り上げ、イエスの教えと、私たちの世界観を形成するためにある聖書の原則とを、掘り下げていきます。

新約聖書に記録されたイエスの教えが、世界を変えてきました。イエスが語った言葉は、最初の弟子たちの心に植え付けられ、福音を世界中に広める動機となりました。イエスが自分の「友」と呼んだ弟子たち(ヨハネ15:15)に語った言葉は、イエスの心、ビジョン、そしてイエスに従う者たちへの委任を述べています。それらは、私たちの霊的な生活を導く基礎となる原則を表しており、弟子としての旅路において、私たちの足のともしびとなり、 私たちの道の光となる(詩篇119:105)ことが意図されています。私たち一人ひとりが、弟子として成長するよう努めながら、神の言葉を忠実に学び、守っていくことができますように。

噛みしめるべき言葉

弟子であるとは、救い主であり主であるイエス・キリストに献身し、日々従っていくことに全力を注ぐことです。それはまた、体と心と魂を律することでもあります。—ビリー・グラハム

キリスト教において弟子であるとは、着実に断固として主の道を歩むと決意し、それから、その道が私たちの関心や情熱、賜物、人間的な必要、永遠に抱く願望のすべてを統合するものであると気づくことです。その人生の道を歩むために、私たちは創造されたのです。—ユージン・H・ピーターソン

イエスの弟子となることは、福音の核心です。人類にとって真の良き知らせとは、イエスが今や、人生の上級特別クラスに生徒を受け入れておられるということです。イエスへの信頼から始まる永遠の命は、今この地上にあり、すべての人に開かれている、イエスの王国における命です。—ダラス・ウィラード

聖書は何と言っているか

「神は初めから、ご自分がなそうとしておられることをご存知でした。最初から、ご自分を愛する者たちの人生を、御子の人生に似たものにしようと定めておられたのです。… 私たちは、御子の内に、私たちが本来あるべき姿を見るのです」(ローマ8:29 英語MSG訳)。

「もしわたしに仕えようとする人があれば、その人はわたしに従って来るがよい。そうすれば、わたしのおる所に、わたしに仕える者もまた、おるであろう。もしわたしに仕えようとする人があれば、その人を父は重んじて下さるであろう」(ヨハネ12:26)。

「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである。これらのことを命じるのは、あなたがたが互に愛し合うためである」(ヨハネ15:16–17)。

弟子の祈り

愛情深い主である天のお父さま、私は今日、私という存在のすべて、私が持っているすべて、私が行うことのすべて、私の苦しみのすべてを、あなたのものとして捧げます。今日も、そして永遠に。主よ、あなたの聖なる御心であると私が知っていることを、それが何であっても行えるよう、恵みをお与えください。私の心を清め、考えを聖別し、願いを正しく導いてください。今日の働きと試練と喜びのすべてにおいて、誠実な賛美、純真な信頼、即座の従順をもって応えることを教えてください。そうすることで、あなたの聖霊の力によって、私の主であり、すべてである御子イエス・キリストの御名で、私の人生が真に生きたささげ物となりますように。アーメン。—エリザベス・エリオット (1926–2015)


1 Tim Keller, “Only Believers? Or Disciples?” Timothykeller.com, January 1, 2011, https://timothykeller.com/blog/2011/1/1/only-believers-or-disciples.

2 “What is Christian discipleship?” GotQuestions.org, July 29, 2022, https://www.gotquestions.org/Christian-discipleship.html.

3 Rick Warren, The Purpose-Driven Life: What on Earth Am I Here For? (Zondervan, 2012).

 

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