第1コリント:第14章(1–25節)

著者: ピーター・アムステルダム

5月 5, 2026

[1 Corinthians: Chapter 14 (verses 1–25)]

October 14, 2025

第13章の最後に、パウロは、「このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である」と書いています(1コリント13:13)。第14章では、さらに、公同礼拝において霊的賜物を用いる際、愛がいかに重要であるかを強調しました。

愛を追い求めなさい。また、霊の賜物を、ことに預言することを、熱心に求めなさい (1コリント14:1)。

パウロは、コリントの信徒たちに愛を追い求めるよう勧めることで、愛が何よりも重要であって、信徒たちはそれを最優先すべきであることを強調しました。愛は、私たちのすべての行いと志とを導くべきいしずえなのです。私たちは、あらゆる行動や他者との交わりにおいて、愛を指針とするよう求められています。ここでいう愛とは、単なる感情ではなく、神の御心に沿って行動するという選択と献身を意味します。

パウロは、愛を追い求めることと、霊の賜物を熱心に求めることとを関連付けています。少し前の第1コリント12章で、パウロは、霊の賜物はすべて御霊によって与えられており、それはキリストの体に属する他者に仕えるためのものであると教えていました(第1コリント12:7–10)。第14章では、コリントの人々に、彼らが共に集まって礼拝する際には、他者の徳を高め、教会を造り上げるために、御霊の賜物、特に預言を用いるよう勧めています。

異言を語る者は、人にむかって語るのではなく、神にむかって語るのである。それはだれにもわからない。彼はただ、霊によって奥義を語っているだけである (1コリント14:2)。

異言を語る人は、誰かが解釈してくれない限り、他の人には理解できず、わけのわからない言葉を話しています。つまり、異言を語る人は、他の人にではなく、神に向かって語っているのであり、彼らが口にする奥義(神秘)は、他の人に理解されるものではありません。

しかし預言をする者は、人に語ってその徳を高め、彼を励まし、慰めるのである (1コリント14:3)。

祈る際に異言を語ることは、適切で良いことではありますが、この箇所でパウロが焦点を当てていたのは、他者の徳を高めるための霊的賜物でした。この文脈において、パウロは、信者を強め、励まし、慰める手段として、預言を勧めていたのです。初代教会における預言は、今日の教会における説教に近いものでした。ある聖書学者は、次のように語っています。

初代教会の預言は、多くの点で現代の説教に似ていました。神からその民へのメッセージであり、人々の言語で伝えられたものです。預言は数え切れないほどの形で人々の益となり、愛の奉仕のために用いられました。[1]

異言を語る者は自分だけの徳を高める[自分を造り上げる(新共同訳)、自らを成長させます(新改訳2017)]が、預言をする者は教会の徳を高める (1コリント14:4)。

パウロは両者の比較を続け、異言を語ることは神との個人的な交わりの形であるため、自分を造り上げ、自分だけの徳を高めることになると指摘します。もちろん、それ自体に何ら問題はありません。また、パウロがこの章の後半で示唆しているように、自己の霊的成長のために異言を語ると良い場合もあります。しかし、公の礼拝の場合、御霊の賜物は教会を造り上げるために用いられるべきです。そのような共同体としての霊的成長は、語られた内容が会衆に理解される場合にのみ起こります。

わたしは実際、あなたがたがひとり残らず異言を語ることを望むが、特に預言をしてもらいたい。教会の徳を高めるように異言を解かない限り、異言を語る者よりも、預言をする者の方がまさっている (1コリント14:5)。

パウロは、コリントの信徒たちに異言の賜物を用いるよう励まし続けながらも、誰かが異言を解釈して教会の益になるのでない限り、彼らがむしろ預言することを望んでいます。

だから、兄弟たちよ。たといわたしがあなたがたの所に行って異言を語るとしても、啓示か知識か預言か教かを語らなければ、あなたがたに、なんの役に立つだろうか。また、笛や立琴のような楽器でも、もしその音に変化がなければ、何を吹いているのか、弾いているのか、どうして知ることができようか。また、もしラッパがはっきりした音を出さないなら、だれが戦闘の準備をするだろうか (1コリント14:6–8)。

パウロはここで「兄弟たち」(「兄弟姉妹」という訳もあります)という言葉を用いて語調を和らげ、コリントの信徒たちが身構えないよう配慮しています。まず、自分が彼らの所に行ったならという仮定のシナリオを示した上で、そのような訪問は、啓示か知識か預言か教えによって語らない限り、コリントの信徒たちの役に立たないと述べました。パウロの訪問から得られる唯一の益は、彼らに授ける教えだけだということです。

次に、パウロは音楽の例を用いて説明しています。笛や竪琴で音を鳴らしても、その音が変化していかない限り、何を奏でているのか、誰にもわかりません。第3に、パウロは戦いの合図に用いられるラッパに言及し、はっきりした音を出さなければ合図は理解されず、その目的を果たせないと述べます。パウロはこれらの例を用いて、異言は解釈されない限り意味がわからず、知識を伝えることも、教えを授けることもないと指摘しています。それはむしろ、音程の外れた楽器のようなもので、誰の役にも立たない音を出しているにすぎません。

それと同様に、もしあなたがたが異言ではっきりしない言葉を語れば、どうしてその語ることがわかるだろうか。それでは、空にむかって語っていることになる (1コリント14:9)。

パウロは、他者の徳を高めるためには明確なコミュニケーションが必要であると結論づけ、それをコリントの状況にそのまま適用しました。つまり、コリントの信徒たちは、理解できない異言を話していたけれど、結局のところ、それはただ空に向かって話しているようなものだったということです。[2]

世には多種多様の言葉があるだろうが、意味のないものは一つもない。もしその言葉の意味がわからないなら、語っている人にとっては、わたしは異国人であり、語っている人も、わたしにとっては異国人である (1コリント14:10–11)。

パウロは、世にはさまざまな言語があるけれど、その目的は互いに意思疎通をすることだと強調しました。もし、語られていることを相手が理解できないなら、つまり、同じ言語を話していないなら、聞き手と話し手はまるで他国人同士のようなものです。互いに意思疎通をしようとしても、それはかなわず、結局は誰の役にも立たないのです。

だから、あなたがたも、霊の賜物を熱心に求めている以上は、教会の徳を高めるために、それを豊かにいただくように励むがよい (1コリント14:12)。

パウロは、コリントの信徒たちが聖霊の現れを追い求める姿勢を是認しました。一方では、教会を造り上げ、徳を高めるものを豊かにいただくよう励みなさいと呼びかけています。

このようなわけであるから、異言を語る者は、自分でそれを解くことができるように祈りなさい。もしわたしが異言をもって祈るなら、わたしの霊は祈るが、知性は実を結ばないからである (1コリント14:13–14)。

パウロは、異言の限界を指摘した上で、異言で祈る際、その祈りは霊によってのみなされるのであって、知性や理性は関わっていないと述べました。したがって、その人が自分でもメッセージを理解して益を得られるように、異言を解き明かせるようにも祈るほうが、より有益なのです。

パウロは、異言は解釈されない限り、それを語っている本人を含め、誰にも理解されることがないと結論づけています。もしパウロが、異言で祈っているときに自分が何を言っているのか理解していなかったのなら、聞いた人がどうやってそれを理解し、益を受けることができたでしょうか。

すると、どうしたらよいのか。わたしは霊で祈ると共に、知性でも祈ろう。霊でさんびを歌うと共に、知性でも歌おう (1コリント14:15)。

異言で祈ることには限界があるため、パウロは霊と知性の両方で祈り、歌い、賛美すると決心しました。異言で歌い祈ることは、個人的な祈りや礼拝においては適切なものであっても、公の礼拝においてはそうではなかったのです。

そうでないと、もしあなたが霊で祝福の言葉を唱えても、初心者[異言を知らない人々(新改訳第三版)]の席にいる者は、あなたの感謝に対して、どうしてアァメンと言えようか。あなたが何を言っているのか、彼には通じない。感謝するのは結構だが、それで、ほかの人の徳を高めることにはならない (1コリント14:16–17)。

パウロは、礼拝における明確なコミュニケーションの重要性を強調し、解き明かしのないまま異言で語るなら、その言語を理解しない人々は祈りに加われないと指摘しています。

わたしは、あなたがたのうちのだれよりも多く異言が語れることを、神に感謝する。しかし教会では、一万の言葉を異言で語るよりも、ほかの人たちをも教えるために、むしろ五つの言葉を知性によって語る方が願わしい (1コリント14:18–19)。

パウロは、この賜物が祝福であることを個人的な礼拝の中で体験していましたが、公の場では、異言で1万の言葉を語るよりも、聞いている人たちに理解される5つの言葉を語ることを選びました。彼の関心は、他の人を教え、導くのに役立つ言葉を語ることであり、それによって神があがめられることでした。

兄弟たちよ。物の考えかたでは、子供となってはいけない。悪事については幼な子となるのはよいが、考えかたでは、おとなとなりなさい (1コリント14:20)。

ここでもパウロは、コリントの信徒たちを「兄弟たち」と呼んでおり、これは彼らに対する訴えの切実さを表しているのしょう。パウロは、物の考え方において子どもであってはいけないとたしなめることで、コリントの信徒たちが異言を語ることに固執していることは、彼らの霊的な未熟さを示すものだとほのめかしています。

聖書は時に、イエスが子どもが示す信頼を信仰の手本として取り上げたときのように(マルコ10:15)、信者のうちにある子どものような姿勢を称賛しています。しかし、ここでパウロが述べているのは、クリスチャンは悪事については幼な子のように純真であるべきだということです。言い換えれば、信者は悪に不慣れで、悪とは無縁でいるべきだと。もちろん、クリスチャンは悪についてうぶであってはならず、それは、イエスが弟子たちに「へびのように賢く、はとのように素直であれ」と言われたとおりです(マタイ10:16)。そしてパウロは、クリスチャンはキリスト教の教理や実践に関しては、成熟した考え方でいるべきだと主張しました。

律法にこう書いてある、「わたしは、異国の舌と異国のくちびるとで、この民に語るが、それでも、彼らはわたしに耳を傾けない、と主が仰せになる。」 このように、異言は信者のためではなく未信者のためのしるしであるが、預言は未信者のためではなく信者のためのしるしである (1コリント14:21–22)。

コリントの信徒たちが異言について正しい考え方をする必要があることを強調するために、パウロはイザヤ28章11–12節を少し言い換えて説明しました。もとの箇所で、イザヤは北イスラエル王国に対し、神が彼らを捕囚として連れ去り、その地で、未知の言語と異国人を用いてご自分の民に語られる、と警告しています。ところが、そのような懲罰にもかかわらず、彼らはなお、主の声に耳を傾けようとはしませんでした。

もし全教会が一緒に集まって、全員が異言を語っているところに、初心者か不信者かがはいってきたら、彼らはあなたがたが気が変になったと言うだろう (1コリント14:23)。

パウロは、共に集まって礼拝する際に、解き明かしのないまま異言が語られても、会衆にとっては益にならないと主張した上で、それがいかに未信者を遠ざけ、福音伝道を妨げうるかを強調しています。教会全体が一緒に集まって、全員が異言で話しているところに、部外者や信者でない人が出席したらどうなるか、という仮定のシナリオを提示しているのです。キリスト教について何も知らない人は、彼らが正気を失ったのだと思い込み、福音のメッセージを聞かないまま、その場を立ち去ってしまうかもしれません。

しかし、全員が預言をしているところに、不信者か初心者がはいってきたら、彼の良心はみんなの者に責められ、みんなの者にさばかれ、その心の秘密があばかれ、その結果、ひれ伏して神を拝み、「まことに、神があなたがたのうちにいます」と告白するに至るであろう (1コリント14:24–25)。

パウロは、前述のシナリオと対比させて、預言により、理解できる言葉でメッセージが語られている礼拝に、未信者が入ってくるというシナリオを提示しています。その場合、結果はまったく異なるものとなるでしょう。なぜなら、その訪問者はメッセージによって罪を自覚し、神がそのメッセージを通してその人に語りかけられるからです。訪問者は自分が罪人であることを悟り、神を礼拝し、会衆のただ中に神の臨在があることを認めるでしょう。

ある聖書注解者の言葉を借りれば、こういうことです。

これらの新しい回心者たちは、キリスト教の集会で宣べ伝えられる神の言葉にあまりにも驚いて、『まことに、神があなたがたのうちにいます』と宣言することでしょう。… 失われた者の回心は、クリスチャンの集まりの目的の一部なのです。[3]

(続く)


1 Richard L. Pratt, Holman New Testament Commentary—1 & 2 Corinthians. Vol. 7 (B&H Publishing Group, 2000), 244.

2 Leon Morris, 1 Corinthians: An Introduction and Commentary, vol. 7, Tyndale New Testament Commentaries (InterVarsity Press, 1985), 767.

3 Pratt, Holman New Testament Commentary—1 & 2 Corinthians.

 

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