失意に直面する

著者: ピーター・アムステルダム

6月 8, 2013

[Facing Disappointment]

June 8, 2013

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私たちの人生にはそれぞれ、あの、失意の辛いトゲの痛みを感じることが何度かあります。それが起こる時は、とても耐え難いものです。聖書には、「望みを得ることが長びくときは、心を悩ます」とあります。(箴言13:12)望みがいつまでもかなえられなかったり期待が外れたりすると、そこから立ち直るのは非常に難しいものです。

仕事の面であれ、経済的な面、人間関係、子どものことであれ、望んでいたチャンスを逃して物事が思った通りにならないというのは、とても辛く、がっかりしてしまうものです。そして、孤独を感じることもあります。

信仰が損なわれることもあります。ものすごくほしかった仕事に就けなかった時や、とてもうまく行っていたように見えた恋愛関係が、急に辛い別れになってしまった時、また、重要な試験で落第点を取ったり、課題の評点が悪かったり、ミッション・プロジェクトの資金が下りなかったなど、思いがけない挫折を味わうと、主の愛や心づかいを疑い始めることもあるでしょう。

そのような状況にある時には、現在困難だというばかりか、将来も暗く思えてきます。「主よ、あなたはどこにいらっしゃるのですか? 私の状況にお気づきですか? 少しでも気にしていらっしゃるんですか?」と思うこともあるかもしれません。

その上、さらに悪いことに、周りを見て、なぜ神を信じてさえいない人たちがあんなに恵まれているんだろうと思ってしまうこともあります。すべてがむちゃくちゃに見えるのです。

失意の深みに陥ると、心配やストレスが生じ、一晩中、何度も寝返りを打ちながら、次にどうなるのかとか、自分はやっていけるのだろうかなどと考えて、睡眠不足になることもあります。そういう時には、何かのしるしがあるように、必死に願うものです。神があなたを見守っていてくださることを証明する、何かの突破口や良い知らせが。

望みがいつまでもかなえられなかったり期待が外れたりすると、そこから落胆、うつ、絶望につながることがあります。たとえその時は神から見捨てられたと感じていても、失意という重く冷たい毛布がかかっている時に頼るべきは、神です。あなたは、神に対して腹を立てているかもしれません。ないがしろにされたとか、捨てられたと感じているかもしれません。わからないことだらけかもしれません。もしそうなら、神と話しなさい。腹が立っていて、それをぶちまければ助けになると感じるなら、神にぶちまけなさい。心の底からどう思っているかを神に話すことができます。神は気を害したりなさいません。落胆と失意の渦にはまっている時に行くべきなのは、神の所です。神を締め出してはいけません。むしろ、中に入れ、あなたの気持ちを知っていただき、助けを求めなさい。神にあなたの失意をあずけ、それから、たとえまだ勝利が見えず、感じられず、決してこの失意から抜け出られるように思えないとしても、いずれ訪れる勝利ゆえに神を賛美し、感謝しなさい。

ダビデ王が失望していた時に、神に自分の問題をどう語ったかを聞いてください。詩篇31篇から一部を読みます。

わたしのいのちは悲しみによって消えゆき、わたしの年は嘆きによって消えさり、わたしの力は苦しみによって尽き、わたしの骨は枯れはてました。わたしはすべてのあだにそしられる者となり、隣り人には恐れられ、知り人には恐るべき者となり、ちまたでわたしを見る者は避けて逃げます。わたしは死んだ者のように人の心に忘れられ、破れた器のようになりました。

まことに、わたしは多くの人のささやくのを聞きます、「至る所に恐るべきことがある」と。彼らはわたしに逆らってともに計り、わたしのいのちを取ろうと、たくらむのです。しかし、主よ、わたしはあなたに信頼して、言います、「あなたはわたしの神である」と。わたしの時はあなたのみ手にあります。わたしをわたしの敵の手と、わたしを責め立てる者から救い出してください。み顔をしもべの上に輝かせ、いつくしみをもってわたしをお救いください。主よ、わたしはあなたに呼ばわります、わたしをはずかしめないでください。

それからダビデ王は続けて信仰を語り、神を賛美します。

主はほむべきかな、包囲された町のようにわたしが囲まれたとき、主は驚くばかりに、いつくしみをわたしに示された。わたしは驚きあわてて言った、「わたしはあなたの目の前から断たれた」と。しかしわたしがあなたに助けを呼び求めたとき、わたしの願いを聞きいれられた。すべての聖徒よ、主を愛せよ。主は真実な者を守られるが、おごりふるまう者にはしたたかに報いられる。すべて主を待ち望む者よ、強くあれ、心を雄々しくせよ。(詩篇 31:10–17, 21–24)

神は私たちを愛しておられます。心の叫びを聞かれます。それに、私たちの問題や欠点について何かをする力をお持ちなのです。神は、私たちが必要や困難や落胆を、祈りと信仰の内に神の下に携えることを期待しておられます。

がっかりさせられる出来事に対する反応には色々あります。「主よ、なぜですか? なぜ私が? 私がこんな目に遭うなんて」と言うこともできれば、現在の状況を見越して、神は私たちには理解できない方法で私たちの人生に働きかけておられるのかもしれないと信頼することもできます。ですから、「主よ、なぜ私が?」よりももっと良い反応は、「主よ、次は何ですか? あなたは私の人生に何をしておられるのですか? 今、私は何をすればいいのですか?」でしょう。神が扉を閉められる時は、窓を開けられることがよくあると覚えていましょう。

私たちの親愛なる友が、私とマリアに、彼女の息子さんの話をしてくれました。大家族を抱えて、今借りている家を出なければならなかったのだそうです。彼と奥さんは家を買うことに決め、探していた通りの家を見つけました。持ち主は彼らのことが気に入り、彼らの申し込みを喜んで承諾しそうな様子でした。持ち主は、彼らの払えるのは自分の希望額には満たないことを知っていましたが、それでも、家の購入を申し込んでほしいと言ったのです。翌日、その家を買うべきなのかどうか祈っていると、主は、それが主が彼らのために用意された家だと示されました。

家を買うという最終決断をするや否や、不動産会社から電話が来ました。持ち主は、別の申し込みを承諾したのです。ああ! 彼らは意気消沈してしまいました。どういうことなのでしょう? 神はそれこそ、その家だと示され、持ち主は事実上、申し込みを受け入れると言ったも同然でした。それなのに、他の人の申し込みを受け入れたのです。失望感でいっぱいです。

しかし、話はここで終わりではありません。持ち主が数日後電話して来て、彼らの申し込みを承諾したものと勘違いしていたと説明したのです。そうでないと気づいて、彼は別の申し込みの承諾を撤回し、彼らに家を売りたいので正式に申し込んでほしいと言いました。他にも、銀行関係で、交渉が決裂しそうになり、家の扉は閉じられかけましたが、最終的に解決し、今彼らは新居に引っ越すことができるようになりました。扉は閉じられました。失意で満たされました。でも、その後、神は窓を開けられたのです。

ここに、物事が思い通りに運ばなかった時に持つべき、助けになる反応の仕方や心構えを幾つか挙げましょう。

  1. 失意に真っ向から、信仰を持って立ち向かう。困難な時を恐れてはいけない。むしろ、それをチャレンジとして見る。困難な時にこそ、しばしば最も成長することを覚えていましょう。
  2. 腹を立ててはいけない。不平や愚痴を言い始めないこと。自己憐憫の態度になったり、だれかれ構わず自分のイライラを口にしてはいけない。忍耐を持ち、信仰を語りなさい。神は失意を私たちにとって良いものに変えることができるし、しばしばそうしてくださる。
  3. 感謝の態度と信頼の態度を保つ。「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。‥‥いつも感謝していなさい。」(コロサイ 3:15)
  4. あきらめない。熱意を消してはいけない。ゴールに向かって取り組み続けなさい。私たちがよく言うように、夜明けの直前は最も闇が濃い。

ある人が最近教えてくれたのですが、その点について主が彼女に語られたそうです。フォーチュン・クッキー(おみくじ入りクッキー)を割って、そこに書いてあることを見ると、「人生は頂上の手前が最も困難である」とあったのです。このフォーチュン・クッキーのように、主がいかにおもしろく変わった方法で私たちに語られるかに、驚きを禁じ得ません。

私たちには「この世ではなやみがある」ことを、神ははっきりと言われました。なやみとは、問題や失意のことでもあります。(ヨハネ16:33)でも、そこで終わりではありません。確かに人生には落胆がつきものですが、その落胆は行き止まりではありません。人生の道は先に続きます。そして、旅するにつれ、私たちは失意やテストや試練を超えていくのです。

昔、イスラエルが最も困難で落胆させられる状況にあった時、神は彼らに言われました。「わたしがあなたがたに対していだいている計画は‥‥災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。」(エレミヤ 29:11)

神はイスラエル民族に約束の地を与え、彼らをご自身の民と言われ、神が宿り、民が神を礼拝する神殿を建てられました。しかし、彼らはバビロニア王国に完全に打ち破られてしまったのです。国は乗っ取られ、神殿は破壊され、大半の民は強制的にバビロンに移住させられました。神の約束は彼らの罪ゆえに撤回されたかのようでした。彼らはもはや、約束の地を所有していませんでした。神殿もなく、どう礼拝するかもわからず、神殿なしにどうゆるしを見いだすかも知りませんでした。彼らは神はなお自分たちを愛してくださっているのかという疑問にさいなまれました。彼らはなおも神の民だったのでしょうか? 夢も信仰も希望も全て、粉々に砕け散りました。

この敗北と失意の時、預言者エレミヤは彼らに手紙を書き、バビロンに送りました。そして、彼らの信仰が危機に瀕していたその時に、神がなんとおっしゃったかを告げたのです。エレミヤは彼らに、そこで暮らしを続け、家を建て、畑で栽培し、結婚し、子どもを作るように言いました。そして、御心の時に、神は今の状況から彼らを救い出し、良い方向への変化をもたらしてくださると。今日というわけではないが、いずれそうなると神は約束されたのです。主はこう言われました。「わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。その時、あなたがたはわたしに呼ばわり、来て、わたしに祈る。わたしはあなたがたの祈を聞く。あなたがたはわたしを尋ね求めて、わたしに会う。もしあなたがたが一心にわたしを尋ね求めるならば」(エレミヤ 29:11–13)

粉々になった望みや夢が最終目的地だったのではありません。神はあなたのために計画をお持ちだと言われます。災を与える計画ではなく、良きことを与える計画です。ある聖書(英語NKJV訳)では、「主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている思いは、わたしが知っている。それは災いの思いではなく平安の思いであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである」(エレミヤ 29:11 )と訳されています。

私たちが失意のさなかにいる時、神は私たちを見捨てたりしません。神はそこにおられます。神は私たちに対して良い思いを抱いておられます。そして、私たちの将来のための計画を持っておられます。たとえ今日、散々な状況に思えても、神は私たちがあきらめずに生き続け、将来を待ち望むよう願っておられます。鍵となるのは、神に助けを求めること、神は私たちを愛し、気にかけておられ、将来に至るまで私たちを支えてくださると承知していることです。私たちは、生きることをやめ、望みを捨てるべきではありません。むしろ、信仰と信頼を持って進み続けるべきなのです。神はいやしてくださいます。物事は変わります。人生は続いて行き、前途には希望があります。

大失敗し、永久的な恐ろしい損失があったように見えて、それを元通りにすることなど到底できないと感じても、しばしば、目に見える以上の解決策があることを覚えておくと良いでしょう。時として、神は非常に不可思議な、私たちには理解できない方法で働かれます。

多くは神が送られた落胆にどう反応するかにかかっています。私たちは底力を発揮して、戦うのでしょうか? 私たちを愛する神からの良きものと祝福を見ると信頼して。それとも、自己憐憫に浸って泣き言を言うのでしょうか? リック・ウォレンが「The Purpose Driven Life」(邦題:人生を導く5つの目的―自分らしく生きるための40章)で言ったように、試練の時には「どうか私を慰めてください」、つまり、「主よ、私の気分が良くなりますように」といったタイプの祈りはあまり祈らず、もっと、「私が順応できるよう助けてください」と祈るべきです。「イエスよ、これを使って私をもっとあなたのようにしてください」と祈るのです。

ビリー・グラハムは言いました。「クリスチャンの人生は常に高揚しているわけではありません。私も深く落胆したことが何度もあります。目に涙をためて神の下に行って祈り、『神よ、私をゆるしてください』、『神よ、私を助けてください』と言わなければなりませんでした。」

また、神が何かサプライズを用意しておられるかもしれないことも忘れずにいましょう。神が、あなたに見えない方法か、あなたには理解できない方法で、舞台裏で働きかけておられる可能性も十分あります。ですから、私たちはただ神に信頼し、たとえ私たちに理解できなくとも、神はすべてご存知の上でそうしておられると知っていなければなりません。

ブレット・トーマンはある説教で、この強く心打たれる話をしました。

ルビー・ハミルトンという50代の女性実業家は、32年間連れ添った夫を交通事故で亡くし、呆然としていました。けれども、彼女の怒りと失意は、典型的な悲しみの表れ方よりもずっと深いものでした。彼女は20代後半でキリストに従う者となりましたが、夫は彼女が新たに興味を抱いた霊的な事柄には無関心でした。それでも、彼女は夫が主を知るようにと、熱心に、たゆまず祈り続けたのです。ある日、彼女が祈っていると、平安の波に洗われるのを感じました。そして、あの小さく静かな声が、彼女の夫は大丈夫だから、と安心させるのでした。彼女は夫がイエスに人生を委ねる日を切に待ちこがれていました。それなのに、今、夫は早すぎる死を迎えたのです。

信仰なんて意味がないと思える時、あなたはどうしますか? 神は答えてくださらないし、扉を開けてもくださらないと思える時は? ルビー・ハミルトンは神のために生きるのをやめました。

さて、ロジャー・シモンズという人が、ある時、家までヒッチハイクをしていました。5月7日の、その日のことを彼は決して忘れないでしょう。重いスーツケースを下げてくたくたになった彼は、もう二度と着ることのなくなる軍服を脱ぐのを待ち遠しく思っていました。彼は近付いてくる車に向かって親指を立てたのですが、大きくて黒くピカピカに光っているキャデラックを見て、これはだめだ、と思いました。でも、驚いたことに、その車は止まってくれたのです。

後部座席が開きました。ロジャーは車に駆け寄ってスーツケースを後ろに放り込み、きちっとした身なりで顔立ちのいい男性に礼を言い、助手席に滑り込みました。

「もう軍には戻らないんですか?」

「そうなんです。」

「それはよかったですね。私はこれからシカゴへ行くんですが。」

「ああ、そこまで遠くには行かないんです。シカゴにお住まいですか?」

運転している男性は答えました。「そこで事業をしているんですよ。ハミルトンと言います。」

二人はしばらくおしゃべりをすると、クリスチャンであるロジャーは、50代と見える、明らかに成功したビジネスマンであるその男性に、信仰を分かち合うようにとの衝動に駆り立てられました。しかし、それを伸ばし伸ばしにしているうちに、もう30分で家に着くという所まで来てしまい、今を逃せばもうこのチャンスはないことに気づきました。

「ハミルトンさん、とても大切なことをお話ししたいのですが。」それから彼はただ、ハミルトン氏に、救いとはどういったものかを話し、最後に、イエスを救い主、主として受け入れたいかどうかたずねました。

キャデラックが道路の脇に寄せられたので、ロジャーはきっと車から放り出されるのかと思いました。ところが、そのビジネスマンは頭を垂れてキリストを受け入れたのです。それから、彼はロジャーに礼を言いました。「これは私にとって今までで最高の出来事ですよ。」

それから5年が経ちました。ロジャーは結婚し、子どもも2人でき、自分の会社を起こしました。シカゴへ行くためにスーツケースの荷造りをしていると、5年前にハミルトン氏から受け取った名刺が見つかりました。シカゴに着いて、彼はハミルトン・エンタープライズを探し出しました。受付係は彼に、ハミルトン氏には会えないけれど、奥さんになら会えると言いました。少し戸惑ったまま、きれいなオフィスに通されると、そこにはきりっとした目つきの50代の女性がいました。

彼女は握手をしながら言いました。「夫をご存知でしたか?」

ロジャーは戦争から帰って家に戻る途中、ヒッチハイクで彼に拾ってもらったことを言いました。

「それは何日だったかわかりますか?」

「もちろんです。5年前の5月7日、除隊した日です。」

「その日に何か変わったことはありましたか?」と彼女はたずねました。

ロジャーは彼女の夫にイエスについてのメッセージを分け合ったことを言うべきかどうかわからず、ためらいました。「ハミルトンさん、私はご主人に福音のことを説明したのです。ご主人は車を脇に寄せて、ハンドルにもたれて泣いておられました。その日、ご主人はキリストに命を捧げたのです。」

彼女は体を激しく震わせて泣きました。やっと落ち着くと、すすり泣きながら、こう言いました。「夫が救われるよう、何年も祈り続けたんです。神が夫を救ってくださると信じていたんです。」

「ルビーさん、ご主人は今どちらに?」

「夫は亡くなりました。あなたを降ろした後、衝突事故に遭って。家までたどり着けませんでした。私は神が約束を守ってくださらなかったと思っていました。それで、5年前、神のために生きるのをやめたのです。神が約束を守ってくださらなかったと思ったから!」[1]

この感動的な話は、私たちは必ずしも神が見ておられることをすべて見ているとは限らないことを思い出させてくれます。神は、私たちにはまだ理解できない方法で祈りに答えてくださっているのかもしれません。信仰を失ってはいけません。神は失敗されません。約束を守られます。神の計画は私たちが期待しているものとは異なるかもしれませんが、神がなされることは何もかも素晴らしいのです。(マルコ7:37を参照)ルビー・ハミルトンの場合、5年かかったように、しばらく答が見えないことがあっても、それでも私たちは信仰を保ち、あきらめずに神に信頼すべきです。神を愛し、神に従う人のために神がお持ちの計画は良い計画であり、悪い計画ではありません。

次のことを覚えていてください。

神はあなたを愛しています。

神はあなたの味方です。そして、あなたの最善を願っておられます。

神はあなたを慰め、そばに引き寄せてくださいます。

神はあなたのために動いておられ、あなたは何があっても、良い時も悪い時も、神に信頼することができます。

神よりも力強い人はなく、神よりもあなたを愛している人はいません。

あなたは失敗することもあり、私も失敗することがありますが、神は決して失敗されません。

イエスは言われました。「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。」 たとえ落胆に直面していても、です。(ヨハネ 14:27)

(祈り:)主よ、私たちは皆、生きていく上で失意を味わうことがあります。大抵それは一度限りではありません。そして、敗北感にさいなまれ、とても辛く、落胆させられるのです。絶望し、あきらめることもあります。けれども、主よ、私たちが失意を味わう時や、計画していた通りに人生が進んでいないと気づいた時、あるいは何かが起こってすべてが変わってしまい、将来の見込みが変わってしまった時でも、私たちが失望せず、かえってあなたに頼り、あなたがそこにおられることや、あなたが私たちを愛し、気遣い、私たちの最善を願っておられると確信できますように。

私たちは理解できず、腹を立てたり、失望したり、ひどい気分になったり、あなたに疑問を投げかけさえするかもしれません。でもイエスよ、どうか私たちが信頼し、あなたがいつもそこにおられると知ることができるよう助けてください。あなたは私たちが最も暗い闇にいる時に、共におられます。万事がうまく行っている時だけでなく、ひどく困難な時にも共におられます。イエスよ、あなたに信頼を置けるよう、助けてください。私たちの愛をあなたの御手の内に、そして私たちの心をあなたの御手の内に置けますように。また、あなたが私たちを支え、最後まで導き、この暗い時を切り抜けさせてくださること、死の陰の谷には入り口だけではなく出口もあること、つまり、それは永遠に続かないことを知ることができますように。そして、あなたにしがみつくことができれば、私たちは、今はとても醜くひどいように思えるものから、美しいものが生じるのを見るかもしれません。

イエスよ、あなたに信頼するための信仰を与えてください。私たちはあなたを愛しています。あなたが必要です。そして、たった今、困難な時を味わっている人がいれば、誰であれ、その人のために心から祈ります。その人の心に語りかけてください。そして、その人があなたに頼るようになり、あなたが共におられること、あなたが御腕の内にその人を抱き、気遣っておられること、その人のためにあなたが考えておられることや計画されておられることは良いものであり、悪いものではないこと、あなたはその人を祝福し、最後まで助けられることに気づきますように。イエスの御名で祈ります。主よ、感謝します。

皆さんに神の祝福を。


[1] ブレット・トーマンの2011年3月1日の説教「Power to Live the Golden Rule」より。このメッセージは、ジョン・パイパーの「The Spring of Persistent Public Love」DesiringGod.orgが元になっている。

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