著者: ピーター・アムステルダム
9月 3, 2013
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福音書は、イエスご自身の祈りの手本と、祈りについて教えられたことの両方を通して、祈りについての基本的な教えを伝えています。3番目の福音書であるルカの福音書では、そのような教えの幾つかが11章にまとめられています。その章はイエスが祈られている所から始まり、祈りが終わると弟子たちは祈ることを教えて下さいと言います。その時、イエスは、主の祈り、あるいはよく「天にいますわれらの父よ」と呼ばれる祈りを祈るよう弟子たちに教えられたのです。これは、イエスご自身が祈る祈りではなく、弟子たちに祈るよう言われた祈りなので、「弟子の祈り」とも呼ばれています。
ルカは「祈ることを教えて下さい」のテーマを進める上で、いきなり真夜中の友のたとえ話に移りました。これは短いたとえ話で、そのすぐ後に、祈りについて教えている言葉、あるいは詩が続きます。それでは、たとえ話を見ていきましょう。
そして彼らに言われた、「あなたがたのうちのだれかに、友人があるとして、その人のところへ真夜中に行き、『友よ、パンを三つ貸してください。友だちが旅先からわたしのところに着いたのですが、何も出すものがありませんから』と言った場合、彼は内から、『面倒をかけないでくれ。もう戸は締めてしまったし、子供たちもわたしと一緒に床にはいっているので、いま起きて何もあげるわけにはいかない』と言うであろう。しかし、よく聞きなさい、友人だからというのでは起きて与えないが、しきりに願うので、起き上がって必要なものを出してくれるであろう。[1]
イエスはたとえ話の最初に、修辞的な長い質問をなさいます。1世紀のユダヤ人なら誰でも、「とんでもない!」と答えるような質問です。イエスは、「夜に隣りの人が来て、思いがけない客に出す食べ物を貸してほしいと言われ、『子どもが寝ているし、戸も締めてしまったから、助けることはできない』と答えるなど、想像できるだろうか?」とたずねておられるのです。[訳注:この原文記事で引用されている英訳聖書では、この段落にあるような修辞疑問(反語)の表現となっています]
答えは、断じてそんなことはしない、です。1世紀のパレスチナにおいて、もてなしというのは、深く根付いた道義でした。もてなしは個人に要求されていることであるばかりか、その村落に要求されていることでもありました。村に住む家族に客が来れば、客はその村全体の客と見なされました。この場合、友だちを泊めた人がなにか必要なら、それは村全体の責任ともなるのです。ですから、それがどんなに不都合でも、寝ていた男には、床から出て、近所の人にパンを3つ貸す義務があったのでした。
イエスの話を聞いていた人のうち、それが何時であっても床から出て、困っている近所の人を助けようとしない人は誰一人いないでしょう。彼らは皆、近所の人が客をもてなすことがどれだけ大切かを知っていました。そして、この人は必要な食べ物を持っていなかったので、その友だちは起き上がって、求められたパンをあげるのです。子どもが寝ているとか、もう戸を締めたからという言い訳をする人など誰もいません。イエスはそれを知っておられたし、その話を聞いていた人も全員、それを知っていました。次を見ればわかるように、それはたとえ話の重要点の一つなのです。
近所の人は家に残り物のパンが幾らかあったかもしれませんが、そんなものを客に出すわけにはいきません。客には、まるまる一塊のパンを出さなければなりません。ケネス・ベイリーは、パンがどれだけ大切であるかを、このように説明しています。
パンは食事ではない。食事をするためのナイフであり、フォークであり、スプーンなのだ。食事に出る食べ物は大皿に入っている。そして、各自、一塊のパンが前に置かれている。そのパンを一口大にちぎって、大皿に浸し、そのパンのかけら全体を口に入れる。それからまた、新たにパンをちぎって、同じことを繰リ返すのだ。食べる人は毎回新たにパンをちぎって食べるので、大皿の中身が汚くなる事はない。[2]
客をもてなすことがどれほど大切だったかは、近所の寝ている人に面倒をかけ、その家族を起こしてまで、パンを貸してほしいと頼んだことでわかります。それどころか、彼はパン以外のものも求めたかもしれません。彼が「友だちが旅先からわたしのところに着いたのですが、何も出すものがありませんから」と言ったのは、必ずしも、家に何も食べ物がないという意味ではありません。その場で話を聞いていた人たちは、彼は客に出すにふさわしい食べ物がないと言っているのだとわかったはずです。そのような場合、1世紀の人たちは、たとえ人から借りたり自分にある以上のお金を使わなければならないとしても、来客にはできる限りのことをしてもてなすのです。それはもてなしの文化の一部でした。たとえ話の最後で、イエスは、寝ていた男の人は起き上がって、近所の人に「必要なもの」を出してくれるだろうと言っています。ですから、パン以外にも何か必要なものを与えたのかもしれません。
近所の人は、なぜその寝ている男がパンを持っていると知っていたのでしょう。村の女性たちはしばしば他の女性の手を借りて、パンをまとめて焼きました。それで、近所の人で最近パンをまとめて焼いたのが誰なのか、また誰が幾らか分けてくれることができるかを知っていたのです。
寝ていた男が子どもが起きないかと気にしていたことについては、農家には普通一部屋しかなく、家族全員が床に敷いた床の上に寝ていました。床から起き上がり、パンを取り出して戸のかんぬきを開ければ、おそらく家族全員が目を覚ますでしょう。しかし、近所の人の所に来た客をきちんともてなすために、食卓にまともな食べ物を出すという正当な要請があれば、たとえそのような不便さにも目をつぶって当然だったのです。
[訳注:以下に、聖書の訳語についての考察が書かれていますが、それはギリシャ語や英語の聖書での訳語についてであり、必ずしも日本語の聖書の訳に正確に当てはまるとは限りません]
たとえ話は「あなたがたのうち誰かに」という質問で始まり、それに対し、聞き手は「そんな人は誰もいません」と考えます。イエスはそれから、その答えを言葉で言い表します。寝ている男は、たとえその近所の人が友だちだという理由で、起き上がって彼にパンをあげなかったとしても、その人がしきりに求めるなら、そうするだろうと言います。
聖書学者の間で「anaideia」というギリシャ語の意味についての討論が交わされています。これは英語欽定訳では「importunity」(しつこく、しきりに)と訳され、その他の多くの訳書では「persistence」(粘り強く)と訳されています。聖書でこの言葉が使われているのはこの箇所だけで、たとえ話にこの言葉がこのように使われていることは、物語を解釈する上で多少の困難を招いています。「anaideia」という言葉の意味は、恥知らずとか、厚かましいという意味で、正確に言えばどちらも粘り強くとかしきりにという意味はありません。「しきりに」という意味はたとえ話の初期の解釈に基づいていますが、現在では異なる見方がされています。[3] たとえ話では、近所の人が寝ている男に対し、起きてパンをくれるようしきりに要求したとは言っていません。何度も戸を叩き続け、繰り返し頼み続けたとはどこにも書いていないので、粘り強くやしきりにという言葉はこのたとえ話にぴったり合っているとは言えません。
恥知らずや厚かましいという言葉の意味を調べてみると、人の気を害するほど大胆な行為とか、他人の存在や意見を無視した自信、恥じないこと、ずうずうしさ、といった言葉が出てきます。
パンを借りなければならない近所の人を粘り強いと見るよりも、良い理由があるなら人に面倒をかける危険を冒すこともいとわない人、近所の人を起こすのは無礼であるように思えるけれども、きっと頼みを聞いてもらえると確信していた人として見るべきでしょう。その男は、恥ずかしいと思わずに大胆に頼んだのです。
弟子たちの「祈ることを教えて下さい」という当初の願いと照らしてみると、イエスの物語は私たちに、必要なものを求める時には大胆になり、恥ずかしがらずに神の御前に行くよう励ましています。
ユダヤ教のラビが教える時には、小から大に、軽いものから重いものへと教える技法を用いていました。つまり、結論が容易いケースに適用されるなら、それはより重要なケースにも適用されるということです。[4] イエスはこのたとえ話を伝える時にもこの方法を使われました。イエスが伝えようとしておられた要点は、もし寝ている男が起きて困っている近所の人の頼みごとを聞いたとしたら、私たちが神に願い事を携える時に、神はどれだけ私たちの祈りに答えられるだろうか、ということです。
このたとえ話は日常生活の物語であり、神が祈りに答えられることを教えています。神は寝ている男がしたように起き上がって、私たちが必要とするものを寛大に与えて下さいます。イエスはちょうど主の祈りを弟子たちに教えたところで、それには「私たちに日ごとのパン[日本語訳では食物]をお与えください」という言葉が含まれていました。イエスはパンを必要とする人についてのたとえ話で、それをフォローされたのです。ここでの要点は、私たちは願い事を大胆に神に知らせるべきであり、神は答えて下さるという確信を持つべきだということです。
イエスは次の2節でさらにそれを強調しておられます。
そこでわたしはあなたがたに言う。求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。[5]
この2節の後に、父の良き贈り物についてのたとえが続き、そこにはさらに祈りについて書かれています。このたとえ話には、真夜中の友に似た筋書きが提示されています。それはまず、質問から始まっています。
あなたがたのうちで、父であるものは、その子が魚を求めるのに、魚の代りにへびを与えるだろうか。卵を求めるのに、さそりを与えるだろうか。[6]
そこで暗に伝えられているのは、そのような父はどこにもいないという答えです。
魚の代わりにへびを与えたり、卵の代わりにさそりを与えたりする父親、あるいはマタイの福音書にあるように、パンの代わりに石を与える父親はどこにもいません。 それは聞き手にとって明白です。イエスはその後、このようにたとえ話を締めくくります。
このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか」。[7]
ここでもまた、イエスは小から大への技法を用いておられます。父なる神の完璧さに比べれば悪い者である人間の父が、子どもに良い贈り物をするのであれば、なおさら神は求めてくる者に聖霊という素晴らしい贈り物をくださらないことがあるでしょうか?
親に食べ物を求める子どもが有害な物を与えられることがないとしたら、私たちはなおのこと、人間のすべての親よりもはるかに偉大な父なる神が、私たちの祈りに応えて良きものを下さると信頼できるのではないですか? その良きものには、聖霊を通して私たちの内にいます神の存在も含まれます。
ルカ11章は、祈りについての重要な原則の多くに光明を投じています。私たちは祈りによって堂々と神に御前に行き、求めるなら受け取ると確信して、必要なものを大胆に求めるべきであるという原則、そして、扉を叩けば開けられるという原則です。イエスはまた、私たちを愛し、世話している人たち、つまり親が、毎日の糧である食料など必要不可欠のものを与えてくれると期待できるとしたら、天の父である神も同じことを、そしてそれよりもはるかに多くをして下さると当てにすることができると述べておられます。私たちは神が私たちを世話して下さると知って、祈りによって大胆に神の御前に行くことができるのです。
真夜中の友(ルカ11:5-8)
5 そして彼らに言われた、「あなたがたのうちのだれかに、友人があるとして、その人のところへ真夜中に行き、『友よ、パンを三つ貸してください。
6 友だちが旅先からわたしのところに着いたのですが、何も出すものがありませんから』と言った場合、
7 彼は内から、『面倒をかけないでくれ。もう戸は締めてしまったし、子供たちもわたしと一緒に床にはいっているので、いま起きて何もあげるわけにはいかない』と言うであろう。
8 しかし、よく聞きなさい、友人だからというのでは起きて与えないが、しきりに願うので、起き上がって必要なものを出してくれるであろう。
父からの良い贈り物(ルカ11:9-13)
9 そこでわたしはあなたがたに言う。求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。
10 すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。
11 あなたがたのうちで、父であるものは、その子が魚を求めるのに、魚の代りにへびを与えるだろうか。
12 卵を求めるのに、さそりを与えるだろうか。
13 このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか」。
マタイ7:9-11
9 あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか。
10 魚を求めるのに、へびを与える者があろうか。
11 このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。
聖書の言葉は、特に明記されていない場合、日本聖書協会の口語訳聖書から引用されています。
[1] ルカ 11:5–8.
[2] Kenneth E. Bailey, Poet & Peasant, and Through Peasant Eyes, combined edition (Grand Rapids: William B. Eerdmans, 1985), 123.
[3] 考察の全体については以下を参照。Kenneth E. Bailey, Poet & Peasant and Through Peasant Eyes, combined edition (Grand Rapids: William B. Eerdmans, 1985), 125–133, and Craig L. Bloomberg, Interpreting the Parable (Downers Grove: InterVarsity Press, 1990), 275–276.
[4] Klyne Snodgrass, Stories With Intent (Grand Rapids: William B. Eerdmans, 2008), 441.
[5] ルカ 11:9–10.
[6] ルカ 11:11–12.
[7] ルカ 11:13.
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