著者: ピーター・アムステルダム
3月 11, 2014
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情け深い雇い主のたとえ話は、しばしば、ぶどう園の労働者たちの話とも呼ばれており、これは、神の性質と性格が持つ幾つかの側面を説明するためにイエスが語られた物語です。その側面とは、救いと、神を愛し神に仕える人たちに対する神の尽きることのない世話と報酬とに如実に表れた、神の愛、恵み、憐れみという側面なのです。
このたとえ話は、イエスが語られた他のたとえ話同様に[1]、「天国は‥‥のような」という言葉で始まっています。この出だしは、神がどのような方なのか、また、神の国に住み、神の統治に人生を委ねる人たちがどのように物事を見るべきなのかについて、イエスはこれから教えようとしておられるのだと告げています。では、イエスが何と言われているか、見てみましょう。
天国は、ある家の主人が、自分のぶどう園に労働者を雇うために、夜が明けると同時に、出かけて行くようなものである。 [2]
家の主人という言葉は、聖書の他の訳では、家長、あるいは地主と訳されています。一世紀のパレスチナにおける多くの家長は、近くの土地で農業をしていました。この物語に出て来る家の主人は大きなぶどう園を持っていたので、熟れたぶどうを摘む時のように、急いで作業を終わらせなければならない大切な時期には、余分の人手が必要になりました。
短期で余分の労働者が必要となった主人は、市場に出向きました。そこには、誰かが来て、ほんの一日でも雇ってくれないかと願っている日雇い労働者が集まっていたのです。当時の日雇い労働者の生活は困難なものでした。安定した職はなく、仕事が見つからなければ収入もありません。毎晩家族と顔を合わせる時には、食卓に食べ物を置くだけの収入を持って、喜び勇んで帰って来るか、何も持たずに帰って来るかのいずれかでした。彼らは誰かに雇ってもらうために、自分たちに職がないことが誰からも見てわかるように、町の広場に立ちます。これは屈辱的なことでしたが、家族が生きていくには、誰かに雇われて賃金をもらわなければなりません。日雇い労働者は経済的尺度からいって一番弱い立場にあり、生きていくためにお金が必要だったので、聖書には、その日のうちに労働者に賃金を払うようにと求められているほどです。
申命記24:14–15にはこのように書かれています。
貧しく乏しい雇い人を搾取してはならない。賃金はその日のうちに、日没前に支払わねばならない。彼は貧しく、その賃金を当てにしているからである。彼があなたを主に訴えて、罪を負うことがないようにしなさい。 [3](新共同訳)
ぶどう園の主人は、丸一日働いてもらうため、朝早く人を雇いに出かけました。労働者を何人か選び、その日の労働のために払う賃金を交渉しましたが、当時は時計がなかったので、日雇いの労働は日の出から始まり、夕空に一番星が見える時間で終わりました。これで労働時間はだいたい一日12時間となります。
彼は労働者たちと、一日一デナリの約束をして、彼らをぶどう園に送った。 [4]
一日一デナリというのは、当時、一日の労働に対する標準的な賃金であり、高くはないものの、家族を養うには十分でした。労働者たちはおそらく、この金額に同意し、一日の終わりには、翌朝にもまた来るように言われるだろうと期待していたのではないでしょうか。それで彼らは、その夜、家族にお金を持って帰れることになったのを喜びつつ、ぶどう園へと向かったのでした。
物語は、主人がさらに労働者を雇おうとして市場に戻る場面へと続きます。
それから九時ごろに出て行って、他の人々が市場で何もせずに立っているのを見た。そして、その人たちに言った、『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。相当な賃銀を払うから』。そこで、彼らは出かけて行った。[5]
主人が二度目に市場に行ったのは、午前も半ばの9時頃でした。市場に着くと、まだその日に雇われるのを待っている男たちがいました。主人はその何人かを選んで雇い、ぶどう園に送りました。賃金の交渉はしませんでした。ただ、相当な(ふさわしい)賃銀を払う、つまり払う時には公正さをもってすると言ったのです。労働者はその言葉を信じていることから、この主人は地域で信頼と尊敬を受けていたように思えます。
主人はまた、十二時ごろと三時ごろとに出て行って、同じようにした。 [6]
12時頃と3時頃に、主人はまた市場に行って、そのたびにさらに労働者を雇いました。労働に対して払う金額を話し合ったとはどこにも書かれていません。
しばらくして、主人はまた5時に市場に行きます。陽があと1時間で沈んでしまうという時間です。
五時ごろまた出て行くと、まだ立っている人々を見たので、彼らに言った、『なぜ、何もしないで、一日中ここに立っていたのか』。彼らが『だれもわたしたちを雇ってくれませんから』と答えたので、その人々に言った、『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい』。 [7]
この男たちがどれほど仕事に切羽詰まっていたか、また誰かに雇ってもらえるのを待って一日中公共の場で立っていたのに、それが徒労に終わりそうだというのがどれほど落胆させられることかは、想像するのみです。この人たちは何が何でも仕事を見つけようとしていたのでしょう。そうでなければ、そんな時間まで市場で待っていたりしなかったでしょうから。もうすぐ手ぶらで家に帰り、家族と顔を合わせなければならない、という時間です。
主人から、なぜまだそこに立っているのかと聞かれて、彼らは、誰も雇ってくれないから、と答えました。それで主人は彼らをぶどう園に送り出しました。5時に雇われた労働者がほんの1時間だけ働くのに対して、幾ら受け取るのかは、どこにも書かれていません。おそらく彼らは、どれだけ賃金が少なくてもこの時間から喜んで仕事に行けば、翌日また雇ってもらえるだろうと思ったのかもしれません。
まもなく仕事時間は終わり、労働者が賃金を受け取る時間となりました。
さて、夕方になって、ぶどう園の主人は管理人に言った、『労働者たちを呼びなさい。そして、最後にきた人々からはじめて順々に最初にきた人々にわたるように、賃銀を払ってやりなさい』。 [8]
ここで、新たに意外な事実が明るみに出ます。主人にはその土地を管理している管理人がいて、その人が主人に代わって物事を取り仕切っていたのです。ここで、当時その話をじかに聞いていた人たちの頭には、なぜ管理人ではなくて主人が労働者を雇いに行ったのかという疑問が湧いたことでしょう。土地の管理人を雇っている地主たちは、普通、農場の毎日の運営には携わらないし、労働者を雇いに一日5回もわざわざ市場まで足を運んだりしません。そもそも、主人は、一日5回も市場に行ったりする代わりに、なぜ、朝に十分な人数の労働者を雇わなかったのでしょう。
もちろんイエスが話していたのはたとえ話です。実際の出来事を再現していたのではありません。そういうわけで、この話に出て来るぶどう園の主人が自分で人を雇いに行き、しかも一日5回もそうした理由は、後でわかるように、イエスが何かの要点をわからせようとしておられたからなのです。
当時この話を聞いていた人たちは、おそらく、労働者への賃金について管理人に与えた風変わりな指示について、好奇心をそそられたことでしょう。管理人は、最後に雇われた人たちに最初に賃金を払い、最初に雇われた人には最後に払うよう指示されたのです。見てわかるように、この順番で賃金を払うことは幾つかの問題を引き起こしました。
そこで、五時ごろに雇われた人々がきて、それぞれ一デナリずつもらった。 ところが、最初の人々がきて、もっと多くもらえるだろうと思っていたのに、彼らも一デナリずつもらっただけであった。 [9]
私たちも知っているように、たとえ話にはほとんど詳細が含まれておらず、このたとえ話では、最初に雇われた人と最後に雇われた人に払われた賃金が書かれているだけです。どうやら、その日に働いた人は全員、何時間働いたのかに関わらず、一日分の賃金である1デナリを受け取ったのだと推測されます。一日中働いた人たちは、ほんの1時間しか働いていない人たちが一日分の賃金をもらっているのを見て、自分たちはもっともらえるものと思いました。彼らの立場からすれば、当然のことでしょう。けれども、彼らも他の全員と同様に1デナリしか受け取りませんでした。
主人がもし一日中働いた人たちに最初に払っていたとしたら、彼らは先に家路につき、他の人たちが幾らもらったかなど、何も知らなかったことでしょう。誰もが満足して家に帰ったはずです。けれども、最初に雇われた人たちは、12分の1しか働かなかった人たちが一日分の賃金をもらっているのを見て、それはずるいと思いました。当時は、パンディオン[10]という、1デナリの12分の1の価値の貨幣が出回っていました。一日中働いた人たちは、ほんの少ししか働かなかった人たちの賃金は1パンディオンが妥当だと思ったことでしょう。あるいは、もし主人が公平だとしたら、自分たちにはもっと多く払うべきだと。それで、彼らは主人に自分たちがどう思っているかを知らせました。
もらったとき、家の主人にむかって不平をもらして言った、『この最後の者たちは一時間しか働かなかったのに、あなたは一日じゅう、労苦と暑さを辛抱したわたしたちと同じ扱いをなさいました』。 [11]
彼らは1時間しか働かなかった人たちと同じ賃金しかもらえず、彼らと同等だと見られたことで異議を唱えました。彼らは、主人は彼らが働いた時間数や、炎天下で働き通したことを考慮していないと不平をもらしました。また、主人は不正をしており、彼らを不公平に扱っていると非難しました。
その非難を聞いてから、主人はその一人に答えて言いました。おそらく代表格の人に向けて言ったのでしょう。
そこで彼はそのひとりに答えて言った、『友よ、わたしはあなたに対して不正をしてはいない。あなたはわたしと一デナリの約束をしたではないか』。 [12]
この「友」という言葉は、ギリシャ語の「ヘタイロス」(hetairos)から翻訳されており、それはマタイ書にある他の2つの節でも使われています。一度はある男が礼服を着ずに婚宴の席について追い出された時と、もう一度はイエスがユダを「友」と呼んだ時で、それはユダがイエスを裏切ろうとしていた時でした。[13] つまり、ぶどう園の主人はその男を良い意味で「友」と呼んだのではありませんでした。
主人の質問に対しては、それを肯定するしかありませんでした。1デナリというのは、その労働者たちが一日分の労働に対して同意した金額そのものだったからです。主人はその額をあげたので、約束は守ったわけです。
たとえ話によくあるように、イエスが伝えようとしていた要点は、最後に出てきます。主人がこのように言っている箇所です。
自分の賃銀をもらって行きなさい。わたしは、この最後の者にもあなたと同様に払ってやりたいのだ。 自分の物を自分がしたいようにするのは、当りまえではないか。それともわたしが気前よくしているので、ねたましく思うのか』。[14]
欽定訳聖書(KJV)や新欽定訳聖書(NKJV)、新アメリカ標準訳聖書(NASB)など、他の英語訳では、「わたしが気前よくしているので、ねたましく思うのか」という箇所は、「わたしが良くしているので、あなたは悪い目をしているのか」と表現されています。これはヘブル語の慣用句をギリシャ語で言い表したものの直訳です。ある著者はそれをこのように説明しています。
寛大な主人の言葉は、「悪い目」と「良い目」というヘブル語の言い回しを表すものであり、親切心あふれる寛大な人と、しみったれで利己的な人との明確な対比を暗示しています。「良い目」を持った寛大な人は、他の人を助け、必要を満たしてあげたいという気遣いに突き動かされて行動しています。利己的な人は、何が自分の取り分かばかり気にして、そのことで頭がいっぱいになっています。[15]
一日中働いた労働者は、主人が困っている人に対して気前よくしているのだという要点に気づきませんでした。彼らは一日の遅い時間に雇われた人たちの幸運を喜びませんでした。逆に、自分自身に目を留め、雇い主から不公平な扱いをされていると思って、利己的な見方をしていました。
主人は彼らに、自分の物をしたいようにしてはいけないのかと尋ねました。彼は困っている人に自分の物を与えることを選んだのです。それから彼らに、自分が気前良くしているので憤慨しているのかと尋ねました。
この人たちは、主人が他の人に与えた祝福を妬んでいたのでしょうか。
一般的な基準からすると、主人の行動は不公平と見なされるでしょう。しかし、主人は通常期待される基準によって行動していたのではありません。同意した金額を払うという約束を守ったという意味で、公正だったのです。その金額で働くと同意した人たちは、賃金をごまかされたわけではありません。自分が最初に賃金をもらって、他の人が幾らもらったかを知らなかったなら、懐に一日分の賃金を入れて、家に戻って堂々と家族に顔を合わせていたことでしょう。
しかし、他の労働者たちはどうなのでしょう。彼らにも養うべき家族がいます。彼らもまた、堂々と家族に顔を合わせなければなりません。そして、今それができるのです。一日中働いたわけではないので、一日分の賃金をもらうには値しません。けれども、主人の気前良さにより、彼らは自分に値しないものをもらったのです。主人は公正であり、同時に憐れみ深くもあったというわけです。
このたとえ話は、神がどのような方であるかを物語っています。神は公正なる方であり、約束を守られます。また、憐れみ深い方でもあります。憐れみ深くなることは、公平さとは全くの別物です。憐れみ深さとは、その人が稼いだ分やその人が受けるに値する分をきっちりと与えることではありません。そうではなく、愛の行為です。値しない人に与えることであり、神の愛と恵みと救いは、まさにそういうものなのです。
神は人間の考える公平さに制限されてはいません。もしそうだとしたなら、救いの望みはなく、罪のゆるしもないでしょう。私たちが受けるにふさわしいものだけが与えられるとしたなら、私たちは皆、滅びに定められます。しかしそうではなく、一日分の賃金に値しない労働者たちのように、私たちは、救いを通して、神の寛大さ、憐れみ、恵み、恩寵を受けているのです。
ある著者は、ぶどう園の主人が何度も市場に足を運んだのは、もっと労働者が必要だったからではなく、仕事を探している男たちが助けを必要としているのを知っていたからだと推測しています。主人の動機はぶどう園の手入れやぶどう摘みをしてもらうことではなく、労働者とその家族への思いやりだったのです。
この物語の素晴らしい所は、雇い主である主人の憐れみ深さと気前良さゆえに、すべての人が必要な分を得られたということです。誰かに余分に払ったとか、十分に払わなかったとかいう話ではありません。肝心なのは、愛と、必要を満たしてあげることだったのです。
私の見方では、このたとえ話は、救いへの神の呼びかけを見事に描いていると思います。召されたり、機会を与えられたりするのが人生の始めの方であるという人もいれば、それがもっと後であったり、あるいは死の床においてという人もいます。神はこの主人のように、何度も市場に足を運んで、そこに誰がいるか、誰が準備ができていて首を長くして待っているかを見られます。その人が救いにもたらされるのが早くても遅くても、全員が同じ救いを受け取るのです。
このたとえ話は、救いと、神の愛情深く憐れみ深い性質について告げていますが、その他にも重要な主題を扱っています。話の聞き手である私たちに対し、このたとえ話は、神が他の人たちに愛と祝福を現された時に取るべき態度について問いかけています。日中の暑さの中、汗水流して働いた労働者は、その日の賃金という祝福を受け取り、約束は守られました。それに対して、自分ほど長時間、懸命に働いていない人が同じ祝福を受け取ったのを見た時、彼らは憤りました。
興味深いことに、このたとえ話は、ペテロがイエスに、彼らは主に従うためにいっさいを捨てたのだから、何をもらえるのかと尋ねたすぐ後に書かれています。[16] たとえ話を追ってみると、ヤコブとヨハネの母がイエスに対し、自分の息子たちは神の国でイエスの右左に座るのかと尋ね、他の弟子たちは憤慨しました。[17] その時イエスは、彼らのうちで最も大いなる者はしもべにならなければならないと言われました。[18]
このたとえ話は、神の性質に対する洞察を与える以外にも、救われた人、それも特に主に仕えている人たちに対して、報酬が約束されているからといって、果たして誰が大きな報酬をもらうのだろうかと憶測すべきようなものではないことを思い起こさせています。このたとえ話は、神の報酬システムは、公正さに対する人間の見方をはるかに越えていることを教えています。神の道、神の思い、神の裁きと報酬の手段は、私たちのそれよりもはるかに高い水準で行われています。神は、働いた時間数を数えたり、労働の厳しさを考慮に入れるだけの方ではありません。
ある著者がこう書いています。
公正さの域を越えて貧しい人たちに与える善人のことで誰もねたましく思うべきではないのと同様、誰一人として、まるで神の報酬が厳格な勘定に縛られているかのように、神の慈しみと恵みについてねたましく思うべきではありません。[19]
他のたとえ話では様々な報酬のレベルについて語っていますが、ここで扱っているのはその主題ではありません。人がいつクリスチャンとしての生涯や奉仕を始めたかに関わらず、彼らは報酬を受けます。このたとえ話では、神は公正であられると同時にとても気前の良い方であるのがわかります。「後で来た人たち」は、思っていたよりはるかに多く受け取ったのです。このたとえ話の前の幾つかの節で、イエスはこう言われています。
おおよそ、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、もしくは畑を捨てた者は、その幾倍もを受け、また永遠の生命を受けつぐであろう。[20]
ですから、日中の暑い中で汗水流して働いた人たちは、神の御手から正当な報酬を受け取ることでしょう。神はご自身のもとに来る人たち全員を、公平かつ寛大に扱われるでしょう。
ある著者は、たとえ話を現代の主の働き人に当てはめて、このように言いました。
イエスのための現代の弟子たちも、天国の報酬をこれと同じ見方で見るべきです。私たちがなにがしかの報酬を受ける唯一の理由とは、神が私たちを働き人になるよう召されたからです。私たちは、神に仕えたのが一生涯だとしても、あるいは後になって神の弟子になって短期間だけ仕えたのだとしても、神が私たちを公正さをもって、親切に、寛大に扱って下さると当てにすることができます。[21]
報酬と神の気前よさについて語ると共に、このたとえ話には、日常生活に当てはめられる原則もあります。人の祝福や成功をねたむこと、神が他人の必要をどれだけ良く世話し、供給しているかを嫉妬することは、ぶどう畑の主人の寛大さに不満を言った人たちの態度を映し出しています。これは神の国の方法とは正反対です。私たちはねたむ代わりに、神がいかに寛大で親切な方であるかを喜ぶべきなのです。私たちは神が祝福しておられる人たちのことを喜ぶべきです。[22]
他にも、心に焼き付けておくべきことは、ぶどう園の主人のように、神はご自分の理由によって、誰でもご自分が選んだ人を祝福することができるということです。私たちは、自分の目から見ればそれほども値しない人がなぜそんなにも祝福されているのか、また、なぜ自分や、誰か祝福を受けるのにずっとふさわしい人たち、さらにはそれを必要としている人たちが大きな苦難や困難に直面するのかが理解できないかもしれません。物事には、とても不公平で不当に思えるものがあるものです。そのような場合には、主は愛情深く、恵み深く、公正な方であることを思い起こすとよいでしょう。私たちは神のなさるすべてを理解することはできませんが、神への信頼を持ってそれに応じるべきです。この人生では、神の性質や、神がなさるすべてのことについて、私たちの理解は限られています。神の方法を今すべて理解することはできませんが、来世ではずっとはっきり見えるようになります。今理解できないことでも、その時に理解できるでしょう。そして、理解できるようになった時には、間違いなく、神の慈しみと愛、知恵、公正さに圧倒されるでしょう。今日、私たちがすべきなのは信頼することです。明日には理解し、喜ぶようになるでしょう。
イエスは私たちに、神と、神が与えられる祝福と報酬に関しては、何が公正であるかについての私たちの限られた概念を脇に置くよう求めておられます。私たちは皆、自分が午後5時に来た労働者であることを覚えているべきです。あなたや私よりも、神の奉仕においてもっと多くをした人はいつだっているはずです。使徒たち、殉教者たち、あるいは何世紀も前に主に仕えたクリスチャンの兄弟姉妹、あるいは現在私たちと肩と肩を並べて主に仕えている兄弟姉妹を見てごらんなさい。
私たちは、一人ひとりがその行動ゆえにではなく、神が神であられるがゆえに、神から愛され、受け入れられていると悟って、大いに喜ぶべきです。神は私たちのわざのゆえではなく、神の愛情深い恵みゆえに、私たちを救われました。それは私たちの努力によるものではなく、神の恵みによるのです。私たちのうち誰一人として、努力によって神の愛や祝福や報酬を獲得できる者はいません。私たちは皆、寛大で憐れみ深い父なる神から、私たちが受けるに値するよりもはるかに多く与えられています。そしてできる時はいつでも、他の人たちと接する上で、神の愛と憐れみを倣うべく、自分たちにできることは何でもすべきなのです。
注:
聖書の言葉は、特に明記されていない場合、日本聖書協会の口語訳聖書から引用されています。
[1] マタイ 13:31, 33, 44, 45, 47; ルカ 6:47–49, 7:31–32, 13:18–21.
[2] マタイ 20:1.
[3] また、こちらも参照:「あなたの隣人をしえたげてはならない。また、かすめてはならない。日雇人の賃銀を明くる朝まで、あなたのもとにとどめておいてはならない。」(レビ記 19:13)
[4] マタイ 20:2.
[5] マタイ 20:3–5.
[6] マタイ 20:5.
[7] マタイ 20:6–7.
[8] マタイ 20:8.
[9] マタイ 20:9–10.
[10] T.W. Manson, The Sayings of Jesus (Grand Rapids: William B. Eerdmans, 1979), 220.
[11] マタイ 20:11–12.
[12] マタイ 20:13.
[13] マタイ 22:12, 26:50.
[14] マタイ 20:14–15.
[15] Brad H. Young, Jesus the Jewish Theologian (Grand Rapids: Baker Academic, 1995), 136.
[16] マタイ 19:27.
[17] マタイ 20:20–24.
[18] マタイ 20:25–28.
[19] Arland J. Hultgren, The Parables of Jesus (Grand Rapids: William B. Eerdmans, 2000), 377.
[20] マタイ 19:29.
[21] Thomas L. Constable, Notes On Matthew, 2013 edition.
[22] ローマ 12:15.
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