イエスが語った物語:金持ちとラザロ(ルカ16:19–31)

著者: ピーター・アムステルダム

7月 22, 2014

[The Stories Jesus Told: The Rich Man and Lazarus, Luke 16:19–31]

July 22, 2014

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金持ちとラザロの話もまた、富とその使い方に対する正しい態度に関してイエスが語られた物語です。愚かな金持ちのたとえ話(以前に私が話したもの)と、不正な管理人のたとえ話(シリーズ次回)もまた、富というテーマに触れています。このたとえ話は、二人の男(一人は金持ち、もう一人は貧乏人)の人生を比較しています。見てわかるように、この対比は今の人生を超えて来世にまで至ります。では、イエスが金持ちをどう言い表されたのか、見てみましょう。

ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。[1]

この短い前書き的な部分にはあまり詳しいことは書かれていませんが、当時この話を聞いていた人たちは、そこから明確な印象を受けたと思います。この男はただ金があるというだけでなく、自分はいかにも金持ちだぞと言わんばかりの服装をしていました。大金持ちしか買えない紫の衣を毎日身に着けていたのです。アクキガイという貝から紫の染料のもとを抽出する行程は非常に手間がかかることから、紫の衣はとても高価でした。王族や身分の高い人たちしか、紫の衣を身につけることはできませんでした。

金持ちの男は、柔らかい麻布もまとっていました。ここで「柔らかい麻布」と訳されているギリシャ語は、繊細で柔らかで、白い、非常に高価な麻布を指します。紫の上着の下に白い麻の衣を着るというのは、かなりの有力者であることを表していました。その上、彼は毎日ぜいたくに遊び暮らしているというのですから、おそらく毎日か、そうでなくとも頻繁に来客をもてなしていたのでしょうが、それには非常にお金がかかります。この箇所や、物語の後の方で明確にされているのは、この男性が大金持ちで勝手気ままに振舞っていたということです。

この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。[2]

たとえ話は簡潔なものなので、ここでもラザロについての情報はごくわずかです。けれども、彼の名前が述べてあるというのは、一つ際立った点でしょう。イエスのたとえ話で登場人物の名前が書かれているのはここだけです。さらに、ユダヤ人の父であるアブラハムの名前も挙げられています。ラザロという名前は、エレアザルあるいはエラザルというヘブル語の名前がギリシャ語化したものであり、「神に助けられる人」という意味です。

ラザロはとても貧しかったので、食べ物を乞わなければなりませんでした。彼はまた病気で、全身ができもので覆われており、歩くこともできません。足がまひしているか、体がとても弱って病気だったために、歩くことができませんでした。「横たわり」と訳されているギリシャ語の言葉は受動態(受け身)であり、ラザロは誰かに頼んで、金持ちの家の門の前に横たわらせてもらわなければならなかったということです。1世紀のパレスチナでは、政府が貧しい人たちのケアを提供するような制度はなかったので、地域社会や個人がそのようなケアをしなければなりませんでした。

施し、つまり貧しい人に与えられる金銭や食物が、ラザロのような人が生き残るための主な方法だったのです。ラザロは他の人が金持ちの玄関まで毎日運んでくれるのを頼っていました。そこで食べ物を乞い、金持ちの食卓から落ちる食物をもらおうとしていたのです。

客はごちそうを食べる時に、パンをちぎって取り皿から食べ物をすくいました。食事の間に手をきれいにしたい時も、パンを小さくちぎって、それを使って手を拭い、それから食卓の下に捨てました。ラザロはその食べ物をもらおうとしていたのです。

ラザロは毎日金持ちの玄関の前にすわりに行きました。彼らが毎日そこでごちそうを食べることや、床に捨てられた食べ物を少しもらえるだけでも飢えがしのげるとわかっていたからです。彼はその食べ物がほしかったのですが、もらえなかったので、食べるものが何もありませんでした。あるいは、時折もらえたとしても、飢えが満たされるほどの量ではありませんでした。

犬が来て、ラザロのただれたできものをなめました。聖書の解説者のほとんどは、おそらくそれはうす汚れて不潔な野良犬であったと推測しています。一人の解説者は、これは金持ちの家で飼っている番犬かもしれない、また、犬にできものをなめさせると治りが良くなるのではないかと述べています。[3] いずれにせよ、そのようなできものがあって犬になめられるのですから、ラザロは儀礼的に不浄なものとなったことになります。金持ちが実際に番犬を飼っていたとしたら、おそらく食卓からのくずをもらっていたのはラザロではなく、犬の方だったのではないでしょうか。

ラザロは惨めな状態でした。歩くこともできず、体中できもので覆われ、いつも空腹で、人の手を借りなければ場所を移動することもできず、金持ちの玄関の外で毎日食べ物を乞い求めていたのです。しかも、その金持ちは明らかにラザロを無視していたようでした。ラザロは儀礼的に不浄な社会ののけ者だったのです。

たとえ話はこのように続きます。

やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。 [4]

「アブラハムのすぐそばに」いる、あるいは別の翻訳にあるように、アブラハムの「ふところに」いるというのは、死んだ後に祝福された状態にあることを表しており、マタイ8:11で見られるように、族長たちと共に宴会の席につくことと見比べることができます。

なお、あなたがたに言うが、多くの人が東から西からきて、天国で、アブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席につく‥‥ [5]

一度も金持ちの宴会に呼ばれたことはなく、金持ちの食卓から落ちたものを食べたいと思っていたラザロが、今や宴会の席で、信仰の父アブラハムのすぐそばにすわっているのです。その一方、金持ちの男はそれとは非常に異なる悲運を味わっていました。

金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。そこで、大声で言った。「父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。」 [6]

名前が述べられていないこの金持ちも、死んで葬られました。葬式は疑いなく立派なものだったことでしょう。しかし、今や彼の存在は地上にいたときとは非常に異なるものとなっています。毎日ごちそうやぶどう酒をたらふく飲み食いしていた金持ちが、今では人に助けてもらわなければならない立場になったのです。

金持ちは声をあげてアブラハムを呼びました。忘れずにアブラハムを「父」と呼んだのはおそらく、アブラハムがユダヤ人の先祖であることを思い起こさせるなら、彼を助けなければという義務感をアブラハムが感じてくれるかもしれないと望んでいたのでしょう。

たとえ話のこの箇所でわかるのですが、驚いたことに、金持ちはラザロの名前を知っていたのです。彼は明らかに、毎日必死の思いで家の前にいたラザロを良く知っていたようでした。けれども、ラザロを無視したことへの自責の念は全く表さず、逆にアブラハムに対し、ラザロをつかわして自分を助けさせるように言いました。

ケネス・ベイリーはこの状況を上手く説明しています。

金持ちがした最初の要求は信じがたいものです。ラザロが苦しんでいた時、金持ちはそれを無視しました。ところが、今度は金持ちが苦しんでおり、何かが為されなければならないというのです。それも、すぐに! 何しろ、彼はそういう境遇には慣れていないのですから。自分が大金持ちであるのに関わらず助けてやろうとしなかった相手に対し、謝罪するどころか、自分のために何かをするよう要求しています。自分はラザロに「犬の餌」でさえあげようとしなかったというのに。金持ちはこのように言っているのと同じです。「今ラザロは元気で自分で歩けるのですから、幾つかやってほしいことがあります。私の地位と、彼が下層階級であることからして、それぐらいのことをしてもらって当然でしょう。アブラハムよ、彼をつかわして下さい。今すぐに。ラザロと違って、私は不快な状況には慣れていません!」 [7]

ここには自責の念のひとかけらもなく、ゆるしを求めてもいません。今まで通り自分のことしか考えず、自己中心なだけです。

しかし、アブラハムは言った。「子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。」 [8]

アブラハムは厳しい口調で答えたのではなく、むしろ金持ちを「子」と呼びました。それから金持ちに、自分の人生を振り返るよう言いました。生前に受けたありとあらゆる良いものと、それに対してラザロが味わったつらい経験を思い出すようにと。アブラハムは、彼が持っていたものは実際には彼のものではなく、神から借りたものであることを思い出させました。彼はそれを賢く使うべきだったのです。今、彼の地上の人生は終わり、その人生における行動ゆえに、彼はもだえ苦しんでいます。

一方ラザロは、今慰められています。つらい人生を生きてきましたが、今はもう苦しみや痛みはありません。もうないがしろにされていないのです。彼は死んだ後、慰められました。

アブラハムは次にこう言いました。

「そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。」 [9]

たとえラザロが憐れみの心で、指を水で濡らして金持ちの舌を冷やしたいと思ったとしても、それはできません。ラザロをつかわして苦痛を和らげるよう金持ちが頼むのはいかに馬鹿げているかを指摘する権利が、ラザロには十分あったでしょう。ラザロは毎日金持ちの玄関の前で苦しみながら座っていたのに、何ももらえなかったのではないですか? それなのにラザロは何も言いませんでした。このたとえ話全体を通して、何も言わなかったのです。

すると金持ちはラザロに別の事を頼もうとしました。

金持ちは言った。「父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。」 [10]

金持ちは自分の苦境は何も変わらないとわかって、兄弟たちのところにラザロをつかわして、警告させてほしいと頼みました。金持ちは、自分の兄弟たちも困った人たちのことなどおかまいなしで、利己的な快楽を追い求め、自分と同じような生き方をしているので、同じ運命になるだろうとわかったのでしょう。

しかし、アブラハムは言った。「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。」 [11]

アブラハムは、彼らにはトーラーとして知られるモーセ五書があるし、ヘブル語でネビームと呼ばれる預言者たちの書もあると言っています。アブラハムは、文書となった神の言葉である聖書は、兄弟たちを正しい生き方と信仰に導くのに十分だと言っているのです。もし彼らがそこに書かれた言葉に「耳を傾ける」なら、つまりそれに従い、守っているなら、死んだ兄弟である金持ちの男のような運命にはならないということです。

この答えでも、金持ちは納得できません。人々が自分の言いなりになることに慣れていたからです。そこで、議論がましい反応を見せています。

金持ちは言った。「いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。」 [12]

皮肉なことに、金持ち自身が、「死んだ者の中からの誰か」、つまりアブラハムと一緒に食卓でくつろいでいるラザロを見ていながら、悔い改めの兆しを全く見せていません。それなのに、彼はラザロが自分の兄弟たちの前に現れれば、彼らが悔い改めると思い込んでいるのです。アブラハムは、そうはならないと彼に言います。

アブラハムは言った。「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。」 [13]

金持ちは5人の兄弟たちにしるしを送ってほしいと頼んでいます。彼は、ラザロがすでに死んでいることは兄弟たちも知っているので、そのラザロが彼らのところに行くなら、きっと信じるだろうと思ったのです。金持ちの兄弟たちはもう何年も、ごちそうを食べに家に入る時に、ラザロのすぐ隣りを通り過ぎたので、きっと気づくはずです。金持ちは、自分の兄弟たちが自分と同じようにラザロを無視したことや、彼らも自分と同じ運命をたどるであろうことがわかっています。

彼はまた、兄弟たちが神の言葉を読んだり信じたりしていないことも知っています。それで、兄弟たちにしるしを与えてくれないかと頼んでいるのです。聖書の言葉では、しるしを求めるのは信じていないことを表しています。ヨハネ6:30をはじめとする聖句がそれを示している通りです。[14]

彼らはイエスに言った、「わたしたちが見てあなたを信じるために、どんなしるしを行って下さいますか。」 [15]

たとえ話にはあまり詳細や歴史的事実が書かれていないものであり、ここでも明確にはされていませんが、金持ちとその兄弟たちはサドカイ派だった可能性があります。サドカイ派はイスラエルの上流階級で、その多くが非常に裕福でした。当時の大祭司はサドカイ派の出です。あの金持ちは紫の服を着ており、それは上級階級の一員だったことを表している可能性があり、ゆえに、サドカイ派だったかもしれません。あるいは少なくともイエスはサドカイ派の信条についてほのめかしていたのかもしれません。

サドカイ派は死後に人生が続くことを信じていません。この人生の後に何らかの人生があるものとは全く思っていないのです。ですから、人が豊かに幸せに生き、安らかに死に、立派に葬られたなら、その人は、人間が求めうるすべてを手に入れたということになります。[16] しかし、イエスのたとえ話は、そうではないことを示しています。あの金持ちは、サドカイ派の信条とは反対に、墓の向こうにも人生があり、地上の人生での行動は、実際、死後の人生に関係することを知ったのです。[17]

T・W・マンソンはこのように書いています。

金持ちは今、自分と同じように生き、自分と同じことを信じ、それによって自分が味わっているのと同じ苦しみに遭う運命にある兄弟たちのことを考えています。彼はラザロを兄弟たちのところにつかわして、証言するように頼みます。何を証言してほしいのでしょう。死からよみがえった人しか証言できないこと、墓の向こうにも人生があり、その本質は応報だということです。5人の兄弟たちは死後の世界を信じないがために、死んだ後に罰される恐れがあるのです。・・・5人の兄弟たちの信条は、サドカイ派の信条なのです。[18]

兄弟たちがサドカイ派だったかどうかは別として、ひとつはっきりしているのは、金持ちは、彼らが神の言葉が教えることに従って生きておらず、しるしを受け取らなければ自分と同じ状態に陥るとわかっていたことです。しかし、アブラハムは、彼らにはしるしは与えられない、なぜなら彼らには神の言葉があり、それで十分だからだと言っています。彼らは、トーラーによって、聖書によって、正しい生き方をし、貧しい人たちをどう扱うかについて、神がなんと言っておられるかを十分知っていたのです。

では、イエスはこのたとえ話によって何を教えておられたのでしょう。

イエスの話を聞いていた人たちの多くは、最初、金持ちは神から祝福されており、ラザロは裁かれているのかと思っていたでしょう。なぜなら、彼らは繁栄とは神の祝福であって、繁栄していないのは神の裁きだと信じていたからです。しかし、必ずしもそうではないということをイエスは述べておられます。金持ちであるというのは必ずしもその人が神の祝福を受けているとか、その人が正しいというしるしではないし、あまり持ってない人や病気や貧困に苦しんでいる人は神から裁きを受けているということでもありません。

もう一つ、イエスが指摘しておられた点とは、アブラハムの子孫というだけでは、金持ちも苦悩から逃れられなかったということです。別の時に別の場所で、イエスはアブラハムの血筋を引いているだけでは不十分であり、人はアブラハムのように生きなければならないと言っておられます。

彼らはイエスに答えて言った、「わたしたちの父はアブラハムである。」 イエスは彼らに言われた、「もしアブラハムの子であるなら、アブラハムのわざをするがよい。」 [19]

このたとえ話は、裕福な人が取るべきではない行動をも示しています。金持ちは、ラザロと彼が抱える必要を知っていたのに、彼に対して無関心でした。助けることができたのは明らかなのに、そのための行動は全く取りませんでした。物乞い、それも特に、見た目のひどい状態なら、目をそらしてしまいがちです。ちょうど、イエスが使われた生々しい実例にあるように、膿でただれたできものを犬になめられているというラザロのような人なら。神の姿に似せて創造され、神に愛されている人間として見るよりも、避けたり、目をそらしたり、無視したり、無関心でいる方が簡単です。しかしクリスチャンであり弟子である私たちは、助けを必要とする人たちの状況を見た時には、愛と思いやりの反応をすべきです。

イエスはこのたとえ話で、裕福な男を悪い例として使っておられますが、金持ちであることには本質的に何も間違ったことはありません。アブラハムでさえ裕福でした。しかし、富がその人の態度に悪影響を与える時が、危険なのです。それは財産をどれだけ重視するか、またそれをどのように使うかなのです。ルカ12章に書かれている、大豊作の穀物をたくわえて、自分のために使おうとしている愚かな金持ちのようだろうか? お金や財産に仕えているのか、それともそれを神の栄光のために使うのか? このたとえ話に出て来る金持ちのように、身勝手な生き方をするのか、それとも他の人たちを助けるのか? たとえ金銭的に多くを与えられるほどのお金がなくても、困っている人を助けるために、できる限りのことをするだろうか? たとえば、少し時間を割いてあげたり、関心を示したり、あるいは何らかの方法でその人の必要を満たしてあげようとするだろうか? 貧しい人や困っている人に対して、どのような態度を取っているだろうか? 無関心だろうか? そういう人たちを見下しているのだろうか? そんな境遇にいて当然だという態度で裁いているだろうか? それとも、行動によって思いやりや気遣い、関心を示しているだろうか?

このたとえ話は、神の言葉を無視したり、拒んだりすることに対する警告も発しています。金持ちは何も信じていないか、間違ったことを信じていました。そして、兄弟たちも同じ状態であることを知っていました。彼は兄弟たちにしるしを与えてくれと頼みましたが、アブラハムは、彼らにはすでに神の言葉があるので、しるしは与えられないと言いました。神はその金持ちに責任を問われたのです。なぜなら、彼には神の言葉があったのに、それに沿った生き方をしなかったからです。そのことは、彼が貧しい人に対し、聖句に従った扱い方をしなかったことでわかります。

私たちがどう人生を生きるかは、永遠の将来に影響します。私たちの行動や、行動しないことは、今の人生のみならず、永遠の人生に影響を及ぼすのです。私たちは自分の選択や、どう生きるか、お金や物をどう使うか、困っている人にどう接するかに気を配るべきです。私たちの決断、選択、行動が積み重なったものが今の私たちであるばかりか、それらは将来、この人生の後に来る来世にも影響するのです。

クリスチャンとして、弟子として、私たちがこのたとえ話から学ぶべきもう一つのポイントとは、私たちの周りには、来世を信じていないか、それがあることに気づいていないこの金持ちのような人たちが大勢いるということです。彼らは神の言葉を信じ、御子イエスを通して救いを受け取ることが、今の人生と永遠の人生を変えることを理解できないかもしれません。私たちの仕事とは、霊的な真理という富を彼らと分かち合うことです。私たちはこのたとえ話に出て来る金持ちのように、自分たちの霊的富や、天国で持つことになる富に満足して、物質的にであれ霊的にであれ困窮しているこの世の「ラザロ」たちを通り過ぎる金持ちのようになるべきではありません。

困っている人たちと分け合うだけのお金や物がたくさんあろうがなかろうが、私たちはクリスチャンとして、人が持ちうる最も貴重なものを持っています。それは、永遠の命と、それを可能として下さるイエスとの個人的な関係です。私たちの周りには、ありとあらゆる背景を持ち、助けを切実に必要としている人が大勢います。そして、私たちには、彼らと分け合うための、信仰、救い、神の深い愛という霊的な富があります。彼らに慰めと救いをもらたすために、私たちの最善を尽くそうではありませんか。


金持ちとラザロ(ルカ 16:19–31)[新共同訳]

19 「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。

20 この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、

21 その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。

22 やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。

23 そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。

24 そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』

25 しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。

26 そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』

27 金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。

28 わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』

29 しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』

30 金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』

31 アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」


注:

聖書の言葉は、特に明記されていない場合、日本聖書協会の口語訳聖書から引用されています。


[1] ルカ 16:19.[新共同訳]

[2] ルカ 16:20–21.[新共同訳]

[3] Kenneth E. Bailey, Jesus Through Middle Eastern Eyes (Downers Grove: InterVarsity Press, 2008), 385.

犬は自分の傷をなめます。愛情のしるしとして人間をなめたりしますが、それ以外にも、近年の科学的研究によると、唾液には内因性のペプチド性抗生物質が含まれており、それが治癒を促すことがわかりました。犬の唾液にはそのようなペプチド性抗生物質が含まれており、昔の人たちはどういうわけか、犬に傷をなめさせればもっと治りが早いことを発見したのです。1994年に、ハーバード大学のローレンス・ステージャー教授は、古代都市アシュケロンで1,300頭の犬が葬られているのを発見しました。墓は、アシュケロンがフェニキア人に支配されていた紀元前5世紀から3世紀までのものでした。これらの犬は、おそらくフェニキア人の癒しの儀式に関係していたのでしょう。犬は皆、傷やできものをなめるように訓練されており、持ち主には料金が支払われました。これは、礼拝者が「犬の稼ぎ」を主の宮に携えることを禁じている、申命記23:18(新改訳聖書を参照)の背景を説明するものとなるかもしれません。

[4] ルカ 16:22[新共同訳]

[5] マタイ 8:11.

[6] ルカ 16:22–24.[新共同訳]

[7] Bailey, Jesus Through Middle Eastern Eyes, 388.

[8] ルカ 16:25.[新共同訳]

[9] ルカ 16:26.[新共同訳]

[10] ルカ 16:27–28.[新共同訳]

[11] ルカ 16:29.[新共同訳]

[12] ルカ 16:30.[新共同訳]

[13] ルカ 16:31.[新共同訳]

[14] 「邪悪で不義な時代は、しるしを求める。しかし、ヨナのしるしのほかには、なんのしるしも与えられないであろう。」 そして、イエスは彼らをあとに残して立ち去られた。(マタイ 16:4)

パリサイ人たちが出てきて、イエスを試みようとして議論をしかけ、天からのしるしを求めた。(マルコ 8:11)

またほかの人々は、イエスを試みようとして、天からのしるしを求めた。(ルカ 11:16)

そこで、ユダヤ人はイエスに言った、「こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せてくれますか。」 イエスは彼らに答えて言われた、「この神殿をこわしたら、わたしは三日のうちに、それを起すであろう。」(ヨハネ 2:18–19)

[15] ヨハネ 6:30.

[16] T. W. Manson, The Sayings of Jesus (Grand Rapids: William B. Eerdmans, 1979), 299.

[17] Manson, Sayings of Jesus, 300.

[18] Manson, Sayings of Jesus, 300–301.

[19] ヨハネ 8:39.

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