イエスが語った物語:不正な家令(ルカ16:1-9)

著者: ピーター・アムステルダム

8月 26, 2014

August 26, 2014

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これは、お金や持ち物の使い方について語っている三つのたとえ話の内の、最後のものです。一つ目は愚かな金持ち、二つ目は金持ちとラザロの話でした。不正な家令(管理人)についてのこのたとえ話は、最も理解し難いたとえ話の一つとして考えられています。過去何世紀にも渡って、また現在でも、矛盾する様々な解釈がどれほどたくさんあるかを見ると、好奇心がそそられるものです。

イエスは、裕福な地主の家令、つまり運営管理人をしていた人の話をしました。この家令は、金持ちの主人に不正がばれたことで解雇されました。そこで家令は、自分の益となるように、さらに主人をだまします。ところが主人はそれを知って、家令をほめるのです。

このたとえ話は、イエスが家令の罪深い行動を容赦している、さらには讃えているとさえ教えているように見えるので、確かに少々面倒ではあります。実際、4世紀に、ローマ帝国最後の非キリスト教皇帝である、背教者ユリアヌスとして知られている皇帝は、このたとえ話を利用して、イエスは自分の信者たちに嘘をつき強盗になるよう教えていると主張しました。[1]

このたとえ話の意味の解釈は多種多様です。これが何を言わんとしているかについては、何世紀にも渡って様々なことが言われてきました。たとえば、貧しい人への施し、お金の正しい使い方、差し迫る危機的状況への警告、負債の取り消し、高利貸しを規制する法律、任務を放棄する家令などについて語っているとか、また、イエスは皮肉を使って要点を突こうとしている、家令よりも金持ちの方が「悪党」である、金持ちも家令も二人とも悪党である、金持ちは愚かで家令が不正直でも気にかけていない、イスラエルへの警告である、といったように。[2] このように異なる様々な解釈を読んで見ると、こじつけに思われるものもあれば、もっともらしいと思われるものもあります。

色々な解釈や、さらには矛盾する解釈が多数ある中で、私自身にとって、このたとえ話の背後にあるメッセージを正確に説明していると思われる解釈について話したいと思います。[3] この解釈しかあり得ないというのではないし、あなたの見方はこれと違っているかもしれません。選択肢は多数あるので、ここでは特定のものだけを取り上げますが、興味がある人は、その他の見解についても調べると良いでしょう。

では、たとえ話の最初の節から始めましょう。ここでは二人の中心人物を紹介し、これから起こる出来事の土台を設定しています。

ある金持のところにひとりの家令がいたが、彼は主人の財産を浪費していると、告げ口をする者があった。

物語が展開していくにつれ、この金持ちはかなりの土地の所有者であることが明らかになります。彼はそれを農地として人に貸し出し、その管理の責任を負う家令をつけていました。ある人がこの金持ちの地主のところに行って、管理人が主人の資産を浪費していると告げました。ここで浪費と訳されているギリシャ語の言葉は、父と二人の息子のたとえ話の中で、弟の方が道楽のために父の財産を無駄遣いしていたことについて使われたのと同じ言葉です。管理人は主人の財産を無駄遣いしていることで非難されていたのです。

そこで主人は彼を呼んで言った、「あなたについて聞いていることがあるが、あれはどうなのか。あなたの会計報告を出しなさい。もう家令をさせて置くわけにはいかないから。」

金持ちはこの管理人に、彼がお金を不正に管理していると人から聞いたことを知らせました。おそらく、自分の地位を利用して、主人のお金で私腹を肥やしているようだということなのでしょう。

1世紀当時のパレスチナやその他の地域にいた古代世界の管理人たちは、地主の名の下に事業を行っていました。彼らは地主の名によって、自分自身が地主であるかのように取引を行うための権限を全面的に有していました。地主の名によって管理人が結んだ契約はすべて、地主に対する法的拘束力を有しました。地主はその人を完全に信用していないかぎり、事業や家庭や経済的な事柄の管理人に任命したりはしません。明らかに、この金持ちは管理人に対してそれだけの信頼を置いていたのですが、その信頼は裏切られてしまいました。金持ちは管理人をすっかり信頼しきっていたので、自分が利用されているとは気づかず、地域の他の人たちが彼に、管理人のしわざについて知らせたのでした。

主人に問いつめられても、管理人は何も言いません。弁解もせず、誰が告げ口をしたのかも尋ねませんでした。否定もしていません。黙っていることは、罪を認めたということになります。[4] 主人は彼をその場で解雇し、会計簿を引き渡すように言いました。その時から、この男はもはや管理人ではないので、主人に代わって取引を行う法的権限はなくなりました。次の二つの節で、私たちは管理人が会計簿をまとめながら、頭の中で自分の将来の職について検討している様を聞くことができます。

この家令は心の中で思った、「どうしようか。主人がわたしの職を取り上げようとしている。土を掘るには力がないし、物ごいするのは恥ずかしい。」

彼は将来の見通しは暗いと判断しました。もし彼が金持ちの奴隷だったならば、どうしようかと自問することはありませんでした。奴隷が何をするかは主人が決めることであって、彼にはおそらく何かつまらない仕事が与えられることでしょう。しかし、彼は奴隷ではないので、職を取り上げられたということは、前の地位から首になったことが間もなく村中に知れ渡るという意味なのです。彼には農作業員や日雇いとして畑で働くほどの体力がありません。また、物乞いするのは恥ずかしいと、自分でも認めています。

ケネス・ベイリーは、管理人のこの独り言について、このように言っています。

農業をするには土堀りをすることもあり、それは新しい作物を植える土を耕すのに必要なことです。狭い高台や鋭角の角地はすきで耕すことができず、掘らなければなりません。彼[管理人]が、自分の肉体的な限界を認めながらも、そのような単純労働をすることも考えてみたというのは、大したことです。次に、こう言っています。「物ごいするのは恥ずかしい。」 誰もが恥じるわけではありません。また、体面に関わるという以外にも、彼は自分が地域社会から受け入れられる物乞いとしての資格(視覚障害、背中の損傷、手足を失ったなど)がないことを知っているのです。[5]

というわけで、見通しはあまり良くありません。ここで、次の独り言が聞こえてきます。

「そうだ、わかった。こうしておけば、職をやめさせられる場合、人々がわたしをその家に迎えてくれるだろう。」

計画を思いつきました。誰かの家に迎えてもらえるようなことをするのです。彼を「家に迎える」というのは、別の地主から仕事をもらうことを意味する慣用句です。彼が不正をはたらいて解雇されたことが人々に知られたとしても、計画通りに行けば、別の仕事につけるかもしれません。

次に彼はその計画を実行し始めます。

それから彼は、主人の負債者をひとりびとり呼び出して、初めの人に、「あなたは、わたしの主人にどれだけ負債がありますか」と尋ねた。「油百樽です」と答えた。そこで家令が言った、「ここにあなたの証書がある。すぐそこにすわって、五十樽と書き変えなさい。」 次に、もうひとりに、「あなたの負債はどれだけですか」と尋ねると、「麦百石です」と答えた。これに対して、「ここに、あなたの証書があるが、八十石と書き変えなさい」と言った。

管理人は主人に負債がある人を一人一人呼び出しました。ここでたとえを聞いた人たちが気づいたのは、この時点で管理人が職を取り上げられたのを知っているのは、主人と管理人本人だけであったということです。主人のしもべたちも、明らかにまだそれを知らないのでしょう。というのも、管理人はおそらく、しもべたちの何人かに、主人に負債がある人たちのところに行くよう命じただろうからです。彼がもう管理人ではないことを知っていたなら、その命令に従いはしないでしょう。

負債者もまた、それを知りませんでした。知っていたなら、おそらく呼び出されてもそれに応えて管理人と一対一で会いにはこなかったでしょうから。負債者であるこれらの人たちは、貧乏人ではありませんでした。彼らはこの金持ちが所有する土地の、大きな区画を借りていたのです。ある人はオリーブ畑を、またある人は麦畑を借りていました。

当時、人々は農地や果樹園やぶどう畑を借りて管理し、合意した量の作物を地主に納めていました。ですから、地主自身はその土地を管理しなくとも、その土地から取れた作物の一部を受け取ったのでした。そのような人の一人が、収穫物から、地主にオリーブ油百樽を、また別の人は麦百石を納めることになっていました。

樽と訳されている油の量の単位は、ヘブル語では「バト」(bath)で、およそ39リットルでした。ですから、一人の負債者は3,900リットル、つまり850ガロン[6] ほどのオリーブ油を納めると誓約していたということです。それはおよそ150本のオリーブの木から取れる量で、1,000デナリほどの価値がありました。1デナリは未熟練労働者が稼ぐ1日分の賃金に相当します。もう一人の負債者は、収穫された麦から27トンを地主に納めると誓約していました。つまり、100エーカーの畑に実る作物の量です。負債に相当する麦の価値は、およそ2,500デナリでした。[7]

不正な家令は、負債となっていた油の量を5割、つまり500デナリ分減らしました。麦は2割減らしましたが、こちらも500デナリ分になります。そして家令は一人ひとりに、元々負っていた負債よりも500デナリ分少ない量に証書を書き換えるよう指図したのですが、これはかなりの金額です。すでに主人のお金をごまかして自分の利益とした後、家令はまたもや主人をあざむいて、1,000デナリ分もごまかしたのでした。ただ今回はそれを着服するためではなく、これらの人たちに良く思われれば、自分が解雇されたことが知れた時に、仕事をもらえるかもしれないと考えたからでした。

負債者たちは地主がそんなにもよくしてくれたことや、これほども寛大な措置をとるよう地主を説得したであろう管理人のことを喜んで、満足して帰って行きました。

ある意味では、管理人は主人を難しい立場に追い込んだのです。管理人が負債の額を変更したことを主人が知ったなら、彼には、減額された金額を無視して、収穫の時に全額支払うよう要求する法的権利があります。管理人はもう彼のために働いておらず、そのような減額をするための法的権限はないからです。けれども、もし証書の修正を地主が撤回すれば、先ほど賃借人たちから好感を得たばかりなのに、それをすべて失ってしまいます。それに、疑いもなく村人たちはそのことを聞くでしょうし、そうなったときには、村人たちからの好感をも失うでしょう。管理人はまたしても地主のものを盗み取ったわけですが、それを抜け目なく、自分にとって利益になり、地主にとってもプラスになるようなやり方で行ったのでした。

物語はこのような結末を迎えます。

ところが主人は、この不正な家令の利口なやり方をほめた。

ここには明確に、家令が不正であったことが述べられており、彼が善人であるとか義人であるとか、後悔しているからほめられたのだというほのめかしはされていません。彼は主人から、その「利口なやり方」、つまり人を扱う上での抜け目のなさや巧妙さゆえにほめられたのでした。

このたとえ話の趣旨を把握するには、金持ちの人格について少し知っておくと良いでしょう。彼は色々な面で道徳に反した人だったのではないかとしている聖書解説者も幾らかいるものの、たとえ話にはその反対を示す部分も何カ所かあります。まず、誰かが金持ちの所に来て、管理人が彼を騙していると言った所です。これは、金持ちが賃借人たちに対して不当な扱いをしていなかったということでしょう。彼らは、地主が管理人に騙されないようにするほどに忠義を尽くしたのですから。

もう一カ所、主人の人となりがわかる箇所とは、わがままな管理人をどう扱ったかです。主人には、管理人を訴えたり、さらには妻や子どもを奴隷として売るだけの権利がありました。しかし彼はそうせずに、単に管理人の職を取り上げたのです。

ケネス・ベイリーは、このたとえ話の中で、金持ちの地主の性質がどういった意味を持つのかを説明しています。

彼は寛大な人でした。家令から職を取り上げたものの、牢屋には入れなかったのですから。さらに、家令とその家族を奴隷として売り飛ばして自分の損失を取り戻すこともできたのに、そうしませんでした。彼はその寛大な性質により、そのいずれも行わなかったのです。

とてつもない恵みを示された家令は、一発勝負に全てを賭けることにします。主人は絶対に寛大な人であるという認識に基づいて、策略を巡らしました。「恵みが増し加わるために、罪にとどまる」ことにしたわけです。後にわかるように、彼はその行為についてとがめを受け、主人の恵み深い性質を信じていたことでは賞賛されました。[8]

管理人はその利口なやり方ゆえにほめられました。彼がしたことは間違っており、職を取り上げられるという罰を受けたものの、地主の人となりや性格を正しく判断したことと、抜け目なく巧妙な計画についてはほめられたのです。

管理人の行動は、賃借人たちに対して、地主をよく見せました。地域の人たちもおそらく、地主はとてつもなく心が広いという話を耳にするでしょう。管理人がしたことは、いずれ結局は外に漏れて、地域に住む人々は彼の大胆な計画と、いかに賢くそれを実行したかを思って、笑みを浮かべるでしょう。彼らはまた、地主はそもそも管理人を罰して家族を売り飛ばすこともできたのに、そうしなかったことに気づくでしょう。家令は不正をはたらいたので、地元で管理人として雇われる可能性はあまりないでしょうが、その抜け目のなさゆえに、何か他の仕事で雇われる可能性は高いでしょう。そして、それが彼の狙いなのです。彼は、自分にとっても、地主にとっても、プラスとなる計画を立てたのです。ただし、金持ちにとっては高くつくプラスでしたが。

ある著者はそれをこのように説明しています。

不正な手段で自分のために根回しをした管理人はとても賢く、知恵があったので、土地の持ち主である金持ちは、驚きを禁じ得ませんでした。金持ちがどう反応したかは、ただ想像するしかありません。膝を叩いて、こう言ったかもしれません。「あのろくでなしめ! 不正をはたらいたので数日前に首にしたばかりなのに。それがどうだ。わしの賃借人を味方にしておる。しかも、わしの財産を利用して。ずうずうしいにも程がある! しかし、それにしても頭がまわるものだな。あいつはくせ者だが、極めて利口なやつだ!」 [9]

その場でこのたとえ話を聞いた人たちは、おそらくにっこり笑ったのではないでしょうか。ちょうど、現代でも、とても抜け目なく、複雑で想像力に富んだ計画を立てた強盗についての映画や本を見たり読んだりした人がするように。しかし、彼らはまた、地主が寛大で優しいという点にも気づいたことでしょう。地主は、管理人がはたらいた不正に対して、法的な罰によって報いを受けさせようとしませんでした。むしろ、憐れみ深くも、その寛大さにより、非常に高い代価を払うことになっても管理人が自由の身でいられるようにし、本人とその家族を救ったのでした。

物語がすんだ時、イエスはそれをどう当てはめるかについてさらにこのように語られました。

この世の子らはその時代に対しては、光の子らよりも利口である。またあなたがたに言うが、不正の富を用いてでも、自分のために友だちをつくるがよい。そうすれば、富が無くなった場合、あなたがたを永遠のすまいに迎えてくれるであろう。

この理解し難い言葉で、イエスはこの世の子らと光の子らとを比較しています。この世の子らは光の子らよりも、この世にいる人たちに対して抜け目なくふるまっています。この世の子らは、この管理人のように、この世の体制の中でいかにして利口にはたらくかを知っています。彼らは、いかにして良い取引をするか、お金をもうけるか、富を手にするか、この世のやり方と原則に従って成功するかを知っています。彼らはこの世の物質的な富を使って、地上にいる間の将来に備えます。[10] しかしイエスは、異なるやり方を提案しています。イエスは光の子らに、異なる原則、つまり神の愛情深く、寛大で、恵み深い性質に基づいた、神の御国の原則に従って賢くはたらくよう告げています。光の子らは、「神の前に豊かになって、天に宝を積む」ために、神の御旨に沿って行動し、他の人に対して愛と寛大さをもって行動するという神の御国のやり方でことを行うべきなのです。

信者たちは、この世の金や富(聖書の訳によっては、不正の富、世の富などと言われている)を使って、この世で「友だちをつくる」ようにと言われています。つまり、お金を使って良いことをするようにということであり、物惜しみせずに分け合い、困っている人に与え、助けられる人を助けるのです。お金にはもう価値も重要性もなくなる時が来ます。あなたがこの世から去って来世に移る時のことです。神の御国の原則に沿って生きているなら、あなたが天国に着いた時には、前に助けてあげた、すでに他界した人たちがあなたを歓迎し、永遠のすまいへと迎え入れてくれるでしょう。

このたとえ話で、イエスは今一度、あの地主のように恵み深く寛大な、神の性質を明らかにしておられます。また、信者や弟子たちは、不正な家令から何かを学ぶべきだと指摘しておられます。不正な家令がしたことは明らかに悪いことでしたが、彼は少なくとも地主の性質を理解していたし、その理解に基づいて行動しました。ましてや、信者である私たちは、愛情深く寛大な神の性質をよく理解しているべきだし、その理解に基づいて、神の愛と恵みと寛大さに大いなる信仰をもって人生を生きるべきです。また同時に、神の特質にみならい、他の人に対して寛大になり、人を許す態度を示すべきです。

私たちは皆、収支をやりくりし、自分自身や家族を養うためにお金が必要ですが、神から授かったものの一部を使って他の人を助けることは、「友だちをつくる」手段であり、また彼らに、神が彼らを愛して祝福したがっておられることを知らせるための手段なのです。与える時、お金や時間などを分け合う時、私たちは神の寛大さを映し出しています。そうすることで、私たちは他の人たちを助けるばかりか、天に宝を蓄えることになるのです。[11] そして天国に着いた時には、私たちが助けた大勢の人たちがそこにいて、大喜びで私たちを迎え入れてくれるでしょう。

あなたには、他の人たちと分け合うだけのこの世の富はないかもしれませんが、単なるお金よりもずっと価値のある豊かな富を分け合うことができます。あなたには天の富があります。神の言葉の真理、神の愛があり、イエスを通していかに神とつながるかを知っているのです。ことによると、今現在は、金銭的に他の人を助けられる状態ではないかもしれませんが、時間や関心、力添え、祈り、慰め、愛を与えるという形で、助けることができます。あなたには「不正の富」はないかもしれませんが、義の富はあります。つまり、他の人たちにただで分け与えられる、救いに至る方法のことです。どうか私たちが困っている人たちに、金銭的や富や霊的な富を分け合うことができますように。それによって彼らが、私たちの愛情深く寛大な神と、素晴らしい御子イエスを知るに至りますように。

 

不正な家令(ルカ 16:1-9)

1 イエスはまた、弟子たちに言われた、「ある金持のところにひとりの家令がいたが、彼は主人の財産を浪費していると、告げ口をする者があった。

2 そこで主人は彼を呼んで言った、『あなたについて聞いていることがあるが、あれはどうなのか。あなたの会計報告を出しなさい。もう家令をさせて置くわけにはいかないから』。

3 この家令は心の中で思った、『どうしようか。主人がわたしの職を取り上げようとしている。土を掘るには力がないし、物ごいするのは恥ずかしい。

4 そうだ、わかった。こうしておけば、職をやめさせられる場合、人々がわたしをその家に迎えてくれるだろう』。

5 それから彼は、主人の負債者をひとりびとり呼び出して、初めの人に、『あなたは、わたしの主人にどれだけ負債がありますか』と尋ねた。

6 『油百樽です』と答えた。そこで家令が言った、『ここにあなたの証書がある。すぐそこにすわって、五十樽と書き変えなさい』。

7 次に、もうひとりに、『あなたの負債はどれだけですか』と尋ねると、『麦百石です』と答えた。これに対して、『ここに、あなたの証書があるが、八十石と書き変えなさい』と言った。

8 ところが主人は、この不正な家令の利口なやり方をほめた。この世の子らはその時代に対しては、光の子らよりも利口である。

9 またあなたがたに言うが、不正の富を用いてでも、自分のために友だちをつくるがよい。そうすれば、富が無くなった場合、あなたがたを永遠のすまいに迎えてくれるであろう。


注:

聖書の言葉は、特に明記されていない場合、日本聖書協会の口語訳聖書から引用されています。


[1] Kenneth E. Bailey, Jesus Through Middle Eastern Eyes (Downers Grove: InterVarsity Press, 2008), 333.

[2] Klyne Snodgrass, Stories With Intent (Grand Rapids: William B. Eerdmans, 2008), 406–409.

[3] 本記事にある解釈は、すべてではないもののその大部分が、ケネス・ベイリーの著書『Jesus Through Middle Eastern Eyes』(邦題:中東文化の目で見たイエス)に基づいています。

[4] Bailey, Jesus Through Middle Eastern Eyes, 336.

[5] Ibid., 337.

[6] 英ガロンでの量

[7] Joachim Jeremias, The Parables of Jesus (New Jersey: Prentice Hall, 1954), 181.

[8] Bailey, Jesus Through Middle Eastern Eyes, 340.

[9] Arland J. Hultgren, The Parables of Jesus (Grand Rapids: William B. Eerdmans, 2000), 153.

[10] Snodgrass, Stories With Intent, 414.

[11] あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。(マタイ 6:19–20)

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