著者: マリア・フォンテーン
8月 30, 2014
私は、マイク・ブリーンというイングランド国教会の聖職者がイエスの信者たちの人生を表して、それには「上方向」「内方向」「外方向」の3方向への広がりがあるとした表現が気に入っています。[1]
「上方向」とは、祈り、瞑想、聖書やその他のデボーショナルな読み物を読んだり学習したりすること、主を賛美して愛することなど、主との一対一の欠くことのできない相互関係です。
「内方向」というのは、他の信者に意識を向けることです。それについて、聖書はこのように書いています。「見よ、兄弟が和合して共におるのはいかに麗しく楽しいことであろう。」 [2]
「内方向」というのは、私たちがキリストの花嫁であり、ひとつの体となった信者の集まりであるとの事実に意識を向けることです。すると、私たちは互いを思いやり、霊の内にしっかりと組み合わされ結び合わされたひとつの体であることを確かめることによって、団結や兄弟愛を築く努力を注ぐようになります。[3]
「外方向」への広がりとは、主を知らない人たちへのアウトリーチです。それは人々が私たちの日常生活を通して見たり、私たちが主の愛と真理を分け合って、他の人をイエスに引き寄せる証しを通して見る、信仰の実例です。
この記事で、私はイエスのために生きる上での、「内方向」の部分に焦点を合わせたいと思います。私は大勢の皆さんが、困っている人を助けるためにどれほどの犠牲を払い、互いに愛し合うことによって主の弟子であることを表しているかに、深い感銘を受けています。[4]
そのような愛情深い相互関係をそれほども特別なものにするのは、それを受ける側の人からのお返しを期待せずに与えるという点です。時には、受け取る側が自分にできる方法で困っている人に与えるという形でそれを「次に渡す」ことをし、祝福を広めることもあります。
たとえば、私は日本にいるイーライとティルザと連絡を取り合っていました。彼らには懲役5年の判決を受けたアーロンという息子さんがいるのですが、最近、彼にはどうすることもできない、ある出来事があって、そのために40日間独房監禁されていました。彼は、そんなにも長い期間独房にいて気が狂ってしまった人たちの話をたくさん聞いていたので、前もって母親に、自分は最後まで頑張り通せないかもしれないと告げました。「おかしくなった」人の中には、小さな個室の壁に鎖でつながれて、一日中立ったままの人もいるそうです。
ティルザの心は痛み、自分が息子の立場にいるかのように、彼が味わっているのと同じ深い苦しみを味わいました。彼女は主が息子を守って下さるよう、必死でした。その状況について彼女とコミュニケーションを取り合う中で、主は私に、彼女が経験していることがきっと理解できるだろうというTFIメンバーを思い起こさせて下さいました。彼は多くの苦しみを経験し、それが彼に他の人たちへの深い憐れみを与えたのでした。
ティルザとアーロンのために祈ってもらえないか、彼に書いてたずねると、彼は熱心に祈りはじめ、毎日主に呼ばわってくれました。
そして、彼はティルザにこう書きました。
「アーロンのことであなたが味わっている辛い経験について祈っていた時、私はあなたの苦しみが自分のことのように思えてきました。今もそうです。あなたがそんなに泣かなくていいように、そんなに苦しまなくていいように望みます。本当にお気の毒です。それがどんなに辛いことか、私にはわかります。私の母も、亡くなる前に、8年間刑務所に入れられていた私の兄に刑務所に面会に行って、とても悲しい思いをしたからです。
あなたとアーロンのために心から祈っています。私たちの素晴らしい神は、あなたとアーロンのすぐそばにいて下さるはずです。きっと、アーロンもあなたのことを思って苦しんでいるでしょう。あなたのことをしょっちゅう考えているのだと思います。そして、私と同じように、彼も、主があなたのことを世話して下さるよう、主にお願いしていることでしょう。」
この男性は最近、切羽詰まった状況に直面し、他の人が介入して彼を助けてあげなければなりませんでした。兄弟が犠牲を払って自分を救い出してくれたことは、彼に深い感銘を残し、彼も、誰かが助けを必要としている時にはできる限りのことをして、「次に渡す」ことをしたいと思ったのです。
彼からのメッセージはティルザの心に触れ、彼女は感謝の言葉を送りました。そこから二人のコミュニケーションが始まったのです。そして、彼女は最近私に、彼とはとても親しくなって、彼とその息子のことを「養子に迎えた」と言いました。
彼女は彼に、こう告げました。
「あなたは、子どもが苦しんでいる時に母が味わう苦しみを知っているようですね。だからこそ、あなたの祈りはとても力強くなるのだと思います。あなたは神に心を注ぎ出し、全身全霊でとりなすからです。」
私はもう一人のTFIメンバーであるマリーにも、ぜひティルザを祈りで支えてほしいと説明しました。彼女もまた、この祈りを責任として熱心に引き受けました。彼女は子どもを失うという深い悲しみを経験しています。だから、ティルザが経験しているような苦しみが理解できたのです。
多くの場合、祈っている相手の気持ちがわかる場合、その祈りには特別にパワフルな効果があるように思われます。たぶん、相手の苦しみや必要がわかっていることで、その人の立場に立つことができ、全身全霊を込めて祈るよう動機づけられるからかもしれません。本人にとっても、それが理解されているとわかるなら、重要な意味を持つことでしょう。詩篇51:17は私たちに、主は砕けた悔いた心をかろしめられないと、思い起こさせています。主は、私たちが人生において感じた砕きをとって、それを他の人のために祈る時の深い同情心に変えることを、大いに好まれます。
マリーが私に送ってくれた音声メッセージで、彼女はイーライとティルザとその家族のことを、また彼ら全員が味わっている試練のことを思い、どれほど同情しているかを、涙ながらに語っていました。彼女とティルザは直接お互いを知っていたわけではありませんが、この経験を通して連絡を取り合うようになり、二人の間には強いきずなが生まれました。マリーは私にこのように書きました。「私は最近、他の人に助けを与えることができるということは、どういうわけか、自分自身の喪失や苦しみに意味づけを与え、それを負いやすくしてくれるのではないかと、強く感じています。私はそれらを感謝さえしています。それは[試みや試練に]新しい、価値ある次元を与えてくれるのです。」
もう一人、リチャードにも、イーライとティルザとアーロンのために祈りの力を結集するようお願いしました。彼はアメリカで14年間も刑務所ミニストリーをしていました。私は、彼が一緒に祈ったり教えたりしていた受刑者の中に、この状況のための祈りに参加したい人が誰かいないか、たずねたのです。
これらの人々がアーロンのために祈っていると聞いて、ティルザはリチャードに、受刑者の一人から彼に手紙を書いてもらえないかとたずねました。リチャードが主に導き、同じ監房にいる仲間に忠実に証ししている一人の若い受刑者は、投獄されることがどれほど辛いかを知っているので、ぜひ手紙を書きたいと言いました。リチャードはティルザのこともサポートし、助けていました。そして彼女は、これらのコミュニケーションを通して貴い友を得られたと言ったのです。
自分自身では、接するすべての人の必要を満たせないことを神はご存知ですが、神は、ご自身のからだである教会の中から、共にその荷を負うことのできる人々のネットワークをつくって下さいます。時として、自分自身にはできなくても、必要とされているものを持っている別の人を誰か、ひとりであれ大勢であれ、知っているかもしれません。私たちは必要とその供給源とをつなげ合わせることができます。
たとえば、あるTFIの夫婦は、経済的に深刻な必要を抱えていたある人に、自分たち自身が与えるだけでなく、何人かの友人にもそのことを知らせて助けてあげられると気づきました。友人達も、惜しみない寄付をしてくれたのです。そのような状況に関係している全員が、益を被ります。受ける側は必要が満たされるし、与える人とそれを必要とする人をつなげる人は、自分の努力の成果を見るという満足感が得られます。そして、与える側は、贈り物や尽力のための神の祝福を受け取ると共に、助けてあげた人からの感謝と、彼らからの祈りという報酬を受け取ります。
これらは、互いに助け合うために自分にできることをして、自分が持っているものを活用するならどんなことが可能になるかを示す、最近の実例のほんの幾つかに過ぎません。私たちが他のメンバーを助け、彼らの荷をずっと軽くしてあげるのを主がご覧になる時、それはきっと、主に大いなる喜びをもたらすだろうと思います。互いに支え合うための方法をもっと見つければ見るけるほど、私たちの団結のきずなは深まっていくのです。
私たちはすべてを自分自身で負う必要はありません。束にした枝のように、ローマの強さの象徴のようになればいいのです。[5] 枝は一本だけでは強くありませんが、それぞれの枝が互いに支え合うなら、共に強くなります。だから、イエスが私たちを共に結び合わせて下さるなら、主の御旨とご計画に従って、主が私たちを通して何でもおできになるのです。
私たちの団結は、色々な方法で表すことができます。たとえば、慰めと励ましの言葉、親切な行為、助けの手、様々な形のネットワーキング(特に、必要を抱えている人と、それを満たせる人とをつなげる)、金銭面での援助をする、コンピューターやウェブサイトの知識など、自分の熟練分野を使ってそれを必要としている人を助ける、家に人々を迎える、とりなしの祈りをする、イエスからメッセージを受け取るなどといったことです。私たちは、自分が持っているものを他の人たちに分け合うことで、豊かで恵まれた人生を送ることができるのです。
クリスチャンが互いに仕え合っているのを見るのは、いかに麗しいことでしょう。
あなたのまわりには、どのような機会がありますか? 私たちクリスチャンには御霊の富があり、他の人々への愛という富があり、信仰の遺産という富があり、とても多くの面で人々への祝福となるような才能や機会という富があります。あなたはどのように自分の「富」を投資して、人の必要を満たせるでしょうか? そうするならば、私たちは、今も将来も、自分自身の人生に祝福が注ぎ込まれるための機会をつくっていることになるのです。
「与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう。あなたがたの量るその量りで、自分にも量りかえされるであろうから。」 [13]
2 詩篇 133:1.
3 エペソ 4:16を参照.
4 ヨハネ 13:35を参照.
6 1 ペテロ 4:10.
7 ヨハネ 13:35.
8 エペソ 4:16.
9 1 テサロニケ 5:11.
10 ピリピ 2:4, 5.
11 ガラテヤ 6:2.
12 ヘブル 6:10.
13 ルカ 6:38.
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