イエス、その生涯とメッセージ:弟子(パート2)

著者: ピーター・アムステルダム

5月 5, 2015

May 5, 2015

(このシリーズの目的と概要については、こちらの前書きを読んで下さい。)

宣教を始めてしばらくすると、イエスは弟子の中から12人を選び出し、使徒として任命されました。ルカの福音書にはこのように書かれています。

このころ、イエスは祈るために山へ行き、夜を徹して神に祈られた。夜が明けると、弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選び出し、これに使徒という名をお与えになった。すなわち、ペテロとも呼ばれたシモンとその兄弟アンデレ、ヤコブとヨハネ、ピリポとバルトロマイ、マタイとトマス、アルパヨの子ヤコブと、熱心党と呼ばれたシモン、ヤコブの子ユダ、それからイスカリオテのユダ。このユダが裏切者となったのである。[1]

マルコの福音書では12人の名前があげられる他に、イエスが彼らを選ばれた理由も書かれています。

さてイエスは山に登り、みこころにかなった者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとにきた。そこで十二人をお立てになった。彼らを自分のそばに置くためであり、さらに宣教につかわし、また悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。[2]

マタイは簡単に「イエスは十二弟子を呼び寄せて」 [3] と書いてから、名前をあげています。[4] ヨハネの福音書では、その12人の話はよく出てきますが、選ばれたときのことは書かれておらず、全員をまとめたリストもありません。使徒行伝には12人全員の名前があげられています。[5] 12人のうち10人は、すべてのリストに出てきます。あとの2人はリストによって違うのですが、それはまた後ほど説明したいと思います。

12使徒の任命はイスラエルの12部族と関連しており、それになぞらえて行われたものだというのが一般的な見方です。[6] 紀元前722年に北イスラエル王国が滅んで以来、イスラエルにはもともとの12部族のうち2部族半(ベニヤミン族、ユダ族、レビ族の半分)だけが残りました。[7] そこで、解説者の中には、12使徒の任命は旧約聖書に約束されたイスラエルの回復(再興)を象徴するものだったと考える人たちがいます。[8] 他にも、 それは神がイスラエルを裁いて退け、代わりに「新しいイスラエル」を興すことの象徴だとする人たちもいます。[9] ロバート・ステインは、次のように説明しています。

どちらの見解にも、もっともな点があります。神の国の到来には旧約にある約束の成就も含まれるので、そういった意味でイスラエルの「回復」であると言えます。しかし、1世紀のユダヤ人のほとんどが抱いていた国家的・政治的希望に沿った形でイスラエルを「回復」したわけではありません。同じように、新しい民が実際に呼び出されました。それはユダヤ人もギリシャ人も含まれていましたが、それが明らかになるのは復活の後になってからです。[10]

マルコは、イエスが彼らを選ばれたのには二つの理由があると書いています。ひとつの理由は「彼らを自分のそばに置くため」 です。イエスが宣教をされるあいだ、弟子たちはイエスのそばについて行きました。そうすることで、彼らはイエスのされることを見、教えを聞き、イエスから学び、また手伝うようになりました。そして、イエスの親しい仲間ともなりました。ベン・ウィザーリントンはこのように語っています。

これは、この福音書の中で完全に人間となられた方として描かれているイエスのひとつの側面です。この場合、イエスはサポートグループを必要としており、交わる仲間を求めておられたのです。イエスは孤立した預言者としてではなく、コミュニティの一員として生きられたのです。彼らは単にイエスの生徒(『弟子』とは実際のところ、学ぶ人を意味するので)ではなく、友だちであり、仕事仲間であったのです。[11]

二つ目の理由は、「宣教につかわし、また悪霊を追い出す権威を持たせるため」 でした。「つかわす」というギリシャ語の動詞は「アポストロ」で、それが使徒を意味する「アポストロス」のもとになっています。これはユダヤ的概念での代理人(ヘブル語では「シャリアク」で、使者・使節の意味)を表しています。それは、依頼主の代理としてその権威をもって行動することを委託された、正式な代理人として送り出されることです。使徒たちはある意味でイエスの「延長」であり、悪霊を追い出す権威、イエスがそのために地上に来られた任務を遂行する権威を与えられています。その任務とは、宣べ伝え、教え、いやすことであり、それをイエスの権威と力とで行うのです。[12]

12使徒は、数多くいる弟子の内部グループです。イエスの生涯で正確に何人の弟子がイエスに従ったのかはわかりませんが、ルカの福音書には次のように書かれています。「主は別に七十二人 [13] を選び、行こうとしておられたすべての町や村へ、ふたりずつ先におつかわしになった。」 [14] そこで、少なくとも他に72人いたことがわかります。

福音書の他の箇所に書かれていることから、イエスについて行った者の中には女性もいたことがわかります。

そののちイエスは、神の国の福音を説きまた伝えながら、町々村々を巡回し続けられたが、十二弟子もお供をした。また悪霊を追い出され病気をいやされた数名の婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出してもらったマグダラと呼ばれるマリヤ、ヘロデの家令クーザの妻ヨハンナ、スザンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒にいて、自分たちの持ち物をもって一行に奉仕した。[15]

イエスが十字架にかけられたときにも、女性たちがいました。

また、遠くの方から見ている女たちもいた。その中には、マグダラのマリヤ、小ヤコブとヨセとの母マリヤ、またサロメがいた。彼らはイエスがガリラヤにおられたとき、そのあとに従って仕えた女たちであった。なおそのほか、イエスと共にエルサレムに上ってきた多くの女たちもいた。[16]

クレイグ・キーナーは次のように書いています。

その文化において、女性たちはせいぜい弟子の底辺の役割しか与えられず、ラビの弟子になることなど許されていませんでした。しかしこれらの女性たちは、弟子として、何でも自分にできる方法でイエスに従っていたのです。…彼女らがイエスの必要とされることに対して行った「奉仕」というのは、おそらくその文化において女性やそういった社会階級に求められていた役割を果たしたということが主だったでしょう。…それでも、イエスの弟子として女性たちに与えられた特別の役割や、イエスに対して彼女らが見せた忠誠は、非常に意義深いものです。[17]

リチャード・フランスはこのように書いています。

イエスのおられた当時の文化では、女性も含まれた結束の強い集団は、おそらく社会的に不適切であると見なされたことでしょう。それでもマタイ27:55–56によれば、それまで話に出てこなかったものの、女性たちがずっとイエスの活動に関わってきたことがわかります。ガリラヤにいた時からイエスに「従ってきた」と書かれていますが、それはマタイの福音書において、弟子であることの意味として使われているのと同じ言葉です。というわけで、特別な任務を与えられた12人の中に女性がいないからと言って、女性の弟子はいなかったということではありません。[18]

12使徒は弟子全体のうちにいる小集団でしたが、ペテロとゼベダイの子ら(ヤコブとヨハネ)は12使徒の中の一部でした。この3人だけがイエスに同行したことが幾度かあります。ヤイロの娘のいやし[19]、イエスの変容[20]、そしてゲッセマネの園での祈りです。

12使徒それぞれについての情報を簡単に説明したいと思います。[21]

シモン・ペテロは12人の中でも際立った地位を与えられており、常にリストの最初に名前をあげられています。元の名はシモンでしたが、新しい名前(ギリシャ語でペテロ、アラム語でケパ)をイエスから与えられました。それは岩や石を意味する名前で、おそらくいずれ初代教会において指導者となることを象徴していたのでしょう。

こうして名前を変えることは、旧約聖書で神が特定の人に新しい名前を与えられたことを思い起こさせるものです。(アブラムからアブラハムへ、創世 17:5。サライからサラへ、創世 17:15。ヤコブからイスラエルへ、創世 32:28) また、それはシモンの名前を変えるにあたってのイエスの地位を確証し、名前を変えられた者の人生が新たなステージに移行することを確証するものでした。[22]

イエスがいつシモンに新しい名前をお与えになったのかは、はっきりしていません。ヨハネはそれを、イエスが初めてペテロにお会いになった時の記述に含めており[23]、マタイは、イエスが宣教を始められてからしばらくした頃に、ペテロがイエスはメシア(キリスト)だと言った時のこととして書いています。[24] ルカとマルコには、ただイエスが彼に新しい名前をお与えになったことだけが記されています。

アンデレはペテロの兄弟で、ペテロと同じく漁師でした。二人はベツサイダの出身であり[25]、ある時点でカペナウムに引っ越しています。アンデレは福音書に数回と使徒行伝に1回だけ、名前が出てきます。[26]

カペナウム出身のヤコブとヨハネは兄弟で、イエスに従うために漁師としての仕事と父を後にしました。母親(『ゼベダイの子たちの母』)も主に従っており、イエスの十字架刑の現場にもいました。[27] ヤコブは初代教会の殉教者のひとりです。[28] 学者が全員同意しているわけではありませんが、ヨハネは「イエスの愛しておられた弟子」[29] であると伝統的に考えられています。

ピリポについてわかっているのは、ヨハネの福音書に書かれていることだけです。[30] 使徒ピリポと伝道者ピリポとを混同する人もいますが、後者は使徒行伝で使徒たちに選ばれた7人の執事のひとりです。[31]

バルトロマイは父称(本人の父または男系祖先の名に基づく呼び名)で、「トロマイの子」を意味します。[32] 彼には別の名前があったと推測され、おそらくナタナエルのことだろうとされています。その理由としてあげられるのは、1) この父称はおそらく彼の本名ではない。2) 共観福音書にはナタナエルという名前が出てこず、ヨハネの福音書にはバルトロマイという名前が出てこない。3) 使徒 1:13 以外のリストでは、バルトロマイとピリポが並べて記載されている。4) ヨハネ 21:2 に出てくるのは全員が使徒であり、そこにナタナエルの名前もあげられている。そういったわけで、バルトロマイはナタナエルであるという可能性が非常に大きいのです。

マタイはほぼ間違いなくレビの別名です。レビは、イエスから召しを受けた後、イエスのために宴会を催した取税人で、そのためにパリサイ人はイエスが罪びとと食事を共にしていると批判しました。マタイという名はマタイ9:9–11に、レビはルカ5:27–30に出てきており、どちらも同じ出来事を記述しているようです。

トマスは「双子」という意味です。ヨハネの福音書ではデドモとも呼ばれ、それは「二重、二つ」という意味です。

十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれているトマスは、イエスがこられたとき、彼らと一緒にいなかった。[33]

トマスについて私たちが知っているのは、ヨハネの福音書に書かれていることです。まず、イエスがどこかへ行かれることについて話しておられた時のことです。「トマスはイエスに言った、『主よ、どこへおいでになるのか、わたしたちにはわかりません。どうしてその道がわかるでしょう。』 イエスは彼に言われた、『わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。』」 [34] イエスが復活後、初めて弟子たちに会われた際、トマスは部屋にいませんでした。そこでトマスは他の弟子たちにこう言っています。「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない。」 [35] この発言から、キリスト教が始まって以来ずっと、トマスは「疑い深いトマス」というあだ名で呼ばれてきました。しかし、彼は他にも、キリスト論的に新約聖書中最も重要な言葉も発しています。それは復活の主に会った時のことで、トマスはイエスが神であることを明言しているのです。

トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ。」 [36]

アルパヨの子ヤコブのはっきりとした素性はわかっていません。マルコには「酒税所に座っていたアルパヨの子レビ」 [37] という記述があるので、レビ(マタイ)の兄弟ではないかと言う人もいます。しかし、アルパヨは当時よくある名前だったかもしれず、ふたりが兄弟であったという決定的な証拠はありません。

[多くの英訳で]シモンは、ルカ書では「熱心党(員)」と呼ばれ、マルコ書やマタイ書では「カナン人」[日本語訳では、どちらも熱心党(員)]と呼ばれています。ボックは次のように述べています。

1539年のトマス・クランマーにまでさかのぼり、初期の英訳の多くでは、マルコ[およびマタイ]において「カナン人」という誤訳がされています。[38]

シモンは熱心党員だったのだろうとする解説者もいます。熱心党とは、ユダヤ民族をローマの支配から解放するために暴力をふるうことを信じる宗教・政治団体です。しかしこの団体は、イエスの十字架刑の後までは、正式に存在してはいませんでした。シモンは熱心党員ではなかったかもしれませんが、このあだ名は彼が愛国主義者であったことを表しているのかもしれません。ただ、使徒行伝では、ルカがそれと同じ「ゼロテ」というギリシャ語を、律法に熱心な人[39] や神に対して熱心[40] という意味で使っています。そういうわけで、ルカが意味していたのは、シモンが聖書に関して熱心な人であるということだったのかもしれません。

ヤコブの子ユダは、ルカの福音書にある12使徒のリスト[41] や使徒行伝のリスト[42] に出てきます。マルコとマタイの福音書ではユダではなく、タダイと記されています。[43] 英語欽定訳聖書では、マタイの福音書に「タダイと呼ばれるレバイ」 と書かれています。(ギリシャ語でレバイは「心の人」、タダイは「心の寛い人、勇敢な人」という意味です。) より最近の英訳では、新欽定訳聖書のみがタダイの別名としてレバイを残し、他の訳では外されています。多くの解説者は、ユダとタダイが同一人物であると信じています。他にも4人の使徒が名前を二つ持っていたからです。(シモンはペテロ、トマスはデドモ、マタイはレビ、バルトロマイはナタナエル。)

エレミアスは次のように説明しています。

リストに2つ目の名前が記載されているのが7カ所あり、分かっている限り、そのすべてはアラム語です。当時のユダヤ文化においては、2つ目の名前を持つことがかなり一般的でした。なぜなら、同じ名前の人が沢山いたので、区別するのに2つ目の名前が不可欠だったのです。…同じ名前がリストに2回出てくる弟子についてのみ、2つ目の名前が記載されています。12人の中で同名の弟子がいるのは6人で、シモンという名の弟子が2人、ヤコブが2人、(ルカによれば)ユダが2人です。この6人にとって、お互いを区別するために別の名前を持つことが不可欠でした。…復活の後、2人目のユダが仲間内で別名[タダイ]で通るようになったのは、まったく理解できることです。…それはイスカリオテのユダと区別するためです。もうひとりのユダについて、ルカが伝えているのは本名[ユダ]のままであり、マルコが伝えているのはあだ名[タダイ]ということになります。[44]

イエスを裏切った弟子であるイスカリオテのユダの「イスカリオテ」については、様々な学説があります。最も可能性があるのは、ユダヤ地方にあるケリオテ(ケリヨテ、ケリヨト)という町[45] から来ているとするものです。もしそうであるなら、ユダは12人の中でガリラヤ出身ではない唯一の弟子ということになります。 [46] 別の可能性は、それが「嘘つき」という意味のアラム語から来ているというものです。もしそうなら、彼の特徴を表現するために使われたことになります。また別の可能性ですが、短刀を持つ者・暗殺者を意味する「シカリオス」というラテン語から来ているというものもあります。そうであるなら、イエスの十字架刑の後にこの呼び名が使われるようになったということになります。ほとんどの学者は、イスカリオテはユダヤのケリヨテに由来した名字であると考えています。

12使徒はイエスの宣教の初期段階からイエスと共にいました。いつもイエスと一緒におり、見たり聞いたり、学んだりしていたのです。イエスの教えられたことの意味を理解できないことがよくあったし、メシアの役割についての理解も1世紀のユダヤ人が一般に理解していたものと同様だったので、誤解もかなりありました。しかし、イエスが辛抱強く教えて下さったし、イエスと共に長い時間を過ごしてきたので、やがて彼らも理解が深まり、イエスからの質問に対して次のように答えるほどになりました。

「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか。」 シモン・ペテロが答えて言った、「あなたこそ、生ける神の子キリストです。」 すると、イエスは彼にむかって言われた、「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である。」 [47]

弟子たちはイエスが誰であるのかを完全に理解してはおらず、またイエスの教えられたことの意味をすべて悟ったわけでもありませんでしたが、イエスが復活後に聖書から彼らに説明なさったので、弟子たちはその意味をすっかり理解できるようになったのです。「そこでイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて…」 [48] 聖霊によって満たされた後、彼らは罪の許しと神との和解という良き知らせを宣べ伝えました。そのために彼らのほとんどは殉教しましたが、それでもイエスから次のように委任されたことを忠実に果たしたのです。「それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。」 [49]

弟子として、イエスに従う者として、私たちにも同じことが委任されています。

「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ。」 [50]

最初の弟子たちと同様、神やイエス、神学について、知るべきすべてを完全に理解していなくとも、私たちは弟子として、イエスを愛し、イエスのために生き、その教えを人生で生かし、他の人たちをイエスのもとへ連れて行くということに最善を尽くすに足るだけのことは知っています。主は、「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」[51] と言われたのですから。


注:

聖書の言葉は、特に明記されていない場合、日本聖書協会の口語訳聖書から引用されています。

また、聖書に登場する人名や地名も基本的に口語訳聖書での表記に基づいていますが、必要に応じて、一般的な表記がそのまま用いられたり、口語訳聖書にある表記とともに( )内に併記されたりしています。


参考文献

Bailey, Kenneth E. Jesus Through Middle Eastern Eyes. Downers Grove: InterVarsity Press, 2008.

Biven, David. New Light on the Difficult Words of Jesus. Holland: En-Gedi Resource Center, 2007.

Bock, Darrell L. Jesus According to Scripture. Grand Rapids: Baker Academic, 2002.

Bock, Darrell L. Luke Volume 1: 1:1–9:50. Grand Rapids: Baker Academic, 1994.

Bock, Darrell L. Luke Volume 2: 9:51–24:53. Grand Rapids: Baker Academic, 1996.

Brown, Raymond E. The Birth of the Messiah. New York: Doubleday, 1993.

Brown, Raymond E. The Death of the Messiah. 2 vols. New York: Doubleday, 1994.

Carson, D. A. Jesus’ Sermon on the Mount and His Confrontation with the Word. Grand Rapids: Baker Books, 1987.

Charlesworth, James H., ed. Jesus’ Jewishness, Exploring the Place of Jesus Within Early Judaism. New York: The Crossroad Publishing Company, 1997.

Chilton, Bruce, and Craig A. Evans, eds. Authenticating the Activities of Jesus. Boston, Koninklijke Brill. 1999.

Edersheim, Alfred. The Life and Times of Jesus the Messiah. Updated Edition. Hendrickson Publishers, 1993.

Elwell, Walter A., and Robert W. Yarbrough. Encountering the New Testament. Grand Rapids: Baker Academic, 2005.

Evans, Craig A. World Biblical Commentary: Mark 8:27–16:20. Nashville: Thomas Nelson, 2000.

Evans, Craig A., and N. T. Wright. Jesus, the Final Days: What Really Happened. Westminster John Knox Press, 2009.

Flusser, David. Jesus. Jerusalem: The Magnes Press, 1998.

Flusser, David, and R. Steven Notely. The Sage from Galilee: Rediscovering Jesus’ Genius. Grand Rapids: William B. Eerdmans Publishing Company, 2007.

France, R. T. The Gospel of Matthew. Grand Rapids: William B. Eerdmans Publishing Company, 2007.

Gnilka, Joachim. Jesus of Nazareth: Message and History. Peabody: Hendrickson Publishers, 1997.

Green, Joel B. The Gospel of Luke. Grand Rapids: William B. Eerdmans Publishing Company, 1997.

Green, Joel B., and Scot McKnight, eds. Dictionary of Jesus and the Gospels. Downers Grove: InterVarsity Press, 1992.

Grudem, Wayne. Systematic Theology, An Introduction to Biblical Doctrine. Grand Rapids: InterVarsity Press, 2000.

Guelich, Robert A. World Biblical Commentary: Mark 1–8:26. Nashville: Thomas Nelson, 1989.

Jeremias, Joachim. The Eucharistic Words of Jesus. Philadelphia: Trinity Press International, 1990.

Jeremias, Joachim. Jerusalem in the Time of Jesus. Philadelphia: Fortress Press, 1996.

Jeremias, Joachim. Jesus and the Message of the New Testament. Minneapolis: Fortress Press, 2002.

Jeremias, Joachim. New Testament Theology. New York: Charles Scribner’s Sons, 1971.

Keener, Craig S. The Gospel of John: A Commentary, Volume 1. Grand Rapids: Baker Academic, 2003.

Keener, Craig S. The Gospel of John: A Commentary, Volume 2. Grand Rapids: Baker Academic, 2003.

Keener, Craig S. The Gospel of Matthew: A Socio-Rhetorical Commentary. Grand Rapids: William B. Eerdmans Publishing Company, 2009.

Lewis, Gordon R., and Bruce A. Demarest. Integrative Theology. Grand Rapids: Zondervan, 1996.

Lloyd-Jones, D. Martyn. Studies in the Sermon on the Mount. Grand Rapids: William B. Eerdmans Publishing Company, 1976.

Manson, T. W. The Sayings of Jesus. Grand Rapids: William B. Eerdmans Publishing Company, 1957.

Manson, T. W. The Teaching of Jesus. Cambridge: University Press, 1967.

Michaels, J. Ramsey. The Gospel of John. Grand Rapids: William B. Eerdmans Publishing Company, 2010.

Milne, Bruce. The Message of John. Downers Grove: InterVarsity Press, 1993.

Morris, Leon. The Gospel According to Matthew. Grand Rapids: William B. Eerdmans Publishing Company, 1992.


Ott, Ludwig. Fundamentals of Catholic Dogma. Rockford: Tan Books and Publishers, Inc., 1960.

Pentecost, J. Dwight. The Words & Works of Jesus Christ. Grand Rapids: Zondervan, 1981.

Sanders, E. P. Jesus and Judaism. Philadelphia: Fortress Press, 1985.

Sheen, Fulton J. Life of Christ. New York: Doubleday, 1958.

Spangler, Ann, and Lois Tverberg. Sitting at the Feet of Rabbi Jesus. Grand Rapids: Zondervan, 2009.

Stein, Robert H. Jesus the Messiah, Downers Grove: InterVarsity Press, 1996.

Stein, Robert H. Mark. Grand Rapids: Baker Academic, 2008.

Stein, Robert H. The Method and Message of Jesus’ Teachings, Revised Edition. Louisville: Westminster John Knox Press, 1994.

Stott, John R. W. The Message of the Sermon on the Mount. Downers Grove: InterVarsity Press, 1978.

Witherington III, Ben. The Christology of Jesus. Minneapolis: Fortress Press, 1990.

Witherington III, Ben. The Gospel of Mark: A Socio-Rhetorical Commentary. Grand Rapids: William B. Eerdmans Publishing Company, 2001.

Wood, D. R. W., I. H. Marshall, A. R. Millard, J. I. Packer, and D. J. Wiseman, eds. New Bible Dictionary. Downers Grove: InterVarsity Press, 1996.

Wright, N. T. Jesus and the Victory of God. Minneapolis: Fortress Press, 1996.

Wright, N. T. Matthew for Everyone, Part 1. Louisville: Westminster John Knox Press, 2004.

Wright, N. T. The Resurrection of the Son of God. Minneapolis: Fortress Press, 2003.

Yancey, Philip. The Jesus I Never Knew. Grand Rapids: Zondervan, 1995.

Young, Brad H. Jesus the Jewish Theologian. Grand Rapids: Baker Academic, 1995.


1 ルカ 6:12–16.

2 マルコ 3:13–15.

3 マタイ 10:1.

4 マタイ 10:2–4.

5 使徒 1:13,16.

6 Stein, Mark, 168.

7 さらに詳しい説明は、こちらを参照:『イエス、その生涯とメッセージ:時代背景

8 イザヤ 11:10–16; 49:6; 56:8; エゼキエル 45:8; ミカ 2:12.

9 参照:ローマ 9–11.

10 Stein, Mark, 168.

11 Witherington, The Gospel of Mark, 151.

12 Witherington, The Gospel of Mark, 424, 426.

13 70人と翻訳している訳本もあります。例:日本語の新改訳聖書

14 ルカ 10:1.

15 ルカ 8:1–3.

16 マルコ 15:40–41. こちらも参照:マタイ 27:55–56.

17 Keener, The Gospel of Matthew, 689–90.

18 France, The Gospel of Matthew, 375.

19 マルコ 5:37.

20 マルコ 9:2.

21 使徒に関する説明は次の本から要約:Bock, Luke Volume 1: 1:19:50, 543–547.

22 Stein, Mark, 171.

23 ヨハネ 1:42.

24 マタイ 16:17–18.

25 ヨハネ 1:44.

26 マルコ 1:16, 29; 13:3; ヨハネ 1:40; 6:8; 12:22; 使徒 1:13.

27 マタイ 27:56.

28 使徒 12:1–2.

29 ヨハネ 13:23; 19:26; 20:2; 21:7, 20.

30 ヨハネ 1:43–48; 6:5–7; 12:22; 14:8–9.

31 使徒 6:5–6.

32 Stein, Mark, 173.

33 ヨハネ 20:24.

34 ヨハネ 14:5–6.

35 ヨハネ 20:25.

36 ヨハネ 20:28.

37 マルコ 2:14.

38 Bock, Luke 1:19:50, 545.

39 使徒 21:20.

40 使徒 22:3.

41 ルカ 6:13–16.

42 使徒 1:13.

43 マタイ 10:3, マルコ 3:18.

44 Jeremias, New Testament Theology, 232–33.

45 ヨシュア 15:25, エレミヤ 48:24.

46 Bock, Luke 1:19:50, 546.

47 マタイ 16:15–17.

48 ルカ 24:45.

49 マタイ 28:19–20.

50 マルコ 16:15.

51 マタイ 4:19.

 

Copyright © 2024 The Family International. 個人情報保護方針 クッキー利用方針