もっとイエスのように:忠実と正直

著者: ピーター・アムステルダム

4月 21, 2018

[More Like Jesus: Faithfulness and Honesty]

April 10, 2018

忠実・誠実

旧約聖書でも新約聖書でも、忠実について多くが語られています。定義上、忠実とは、いかなる状況においても、誰か、あるいは何かに対して常に真心をもってことを行うという概念を表しています。また、自分のした約束をしっかりと実行することも表しています。

聖書全体を通して、神は忠実・誠実な方であると書かれています。[注:和訳聖書では多くの場合、同様の意味で「真実」や「まこと」と表現されています。] シナイ山でモーセに姿を現した際、神はご自身についてこう表明されました。

主、主、あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、まこととの豊かなる神‥‥。[1]

他のところでは、このように書かれています。

あなたは知っているのだ。あなたの神、主だけが神であり、誠実な神である。主を愛し、主の命令を守る者には恵みの契約を千代までも守られる‥‥。[2]

神は「真実なる神」 [3] であって、「主のまことはとこしえに絶えることがない」 [4] とも書かれています。

新約聖書を見ると、イエスは忠実な方と呼ばれています。

さて、モーセは、後に語らるべき事がらについてあかしをするために、仕える者として、神の家の全体に対して忠実であったが、キリストは御子として、神の家を治めるのに忠実であられたのである。[5]

またわたしが見ていると、天が開かれ、見よ、そこに白い馬がいた。それに乗っているかた[イエス]は、「忠実で真実な者」と呼ばれ‥‥。[6]

忠実(誠実)は、聖霊の実の一つにも挙げられています。[7] 明らかに、父なる神、御子なるイエス、そして聖霊は、忠実・誠実であり、私たちに対する約束や愛に関して、揺るがれることはありません。私たちの信仰が弱まったり失われたりしたとしても、「彼は忠実であり続ける。自身を否むことができないから。」 [8]

キリストに似た者となろうとする上で、忠実は、イエスに対して忠誠を尽くすことと捉えることができます。それは、夫婦が、互いへの愛のゆえに、また、互いに交わした誓約のゆえに、相手に対して忠誠を守ることと似ています。忠実とは、神の言葉に従って生活し、神を第一に置き、何事も神への献身よりも優先することはしないという誓約のとおりに行動することです。この概念は、十戒の冒頭で次のように表現されています。

あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。[9]

私たちクリスチャンにとっての誓約とは、神に自分の第一の忠誠、また愛と献身を捧げることによって、神に対して忠実であることです。

忠実・誠実とは、信頼できる、当てになるということでもあります。約束したことは守り、自分の義務を果たすことです

主よ、あなたの幕屋にやどるべき者はだれですか、あなたの聖なる山に住むべき者はだれですか。‥‥誓った事は自分の損害になっても変えること‥‥[をしない人である]。[10]

主に誓いや約束をする時、それは主に対して誓約しているわけであり、それを守る強い決意をしていることになります。

もし人が主に誓願をかけ、またはその身に物断ちをしようと誓いをするならば、その言葉を破ってはならない。口で言ったとおりにすべて行わなければならない。[11]

誰かに誓約した場合、すると言ったことを最後までやり通す道義的責任があります。それには、自分自身への約束や決意も含まれます。

次の聖句で、イエスは人格について教え、忠実や不忠実の生む結果について話しておられます。

小事に忠実な人は、大事にも忠実である。‥‥だから、もしあなたがたが不正の富について忠実でなかったら、だれが真の富を任せるだろうか。また、もしほかの人のものについて忠実でなかったら、だれがあなたがたのものを与えてくれようか。[12]

私たちは、大きなことも小さなことも、どんなことにおいても同様に忠実であることが求められています。イエスは、もし私たちがお金(「不正の富」)を正しく使うことができないなら、より大きな真の富の管理を任せられることはないと指摘されました。誰か他の人のものを世話できないなら、自分自身のものとして責任を任せられることはありません。人の行動は、その人の人格を表します。忠実で、約束を守り、高潔な振る舞いをする人は、どんな状況でもそのように行動します。日々の小さな事柄における私たちの決断や選択、またそれに伴う行動は、私たちの忠実さや人格について、自分自身にも他の人にも多くを語ります。

私たちはクリスチャンとして、他の人との会話や交流において、忠実で高潔、信頼できて当てになる存在として知られるべきです。それによって、私たちは他の人に対して主を反映することになるのです。

いつくしみと、まこととを捨ててはならない、それをあなたの首に結び、心の碑にしるせ。そうすれば、あなたは神と人との前に恵みと、誉とを得る。[13]

正直

イエスのようになることに関して、もう1つ大切な要素は、真実を語り、正直であることです。[注:和訳聖書では、「真実」が「真理」「まこと」とも表現されています。] イエスはこう言われました。

わたしは道であり、真理であり、命である。[14]

ヨハネの福音書には、「神の言」であるイエスが「肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」 [15] と書かれています。また、イエスは二度、聖霊を「真理の御霊」と呼んでおられます。

真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。[16]

わたしが父のみもとからあなたがたにつかわそうとしている助け主、すなわち、父のみもとから来る真理の御霊が下る時、それはわたしについてあかしをするであろう。[17]

真実を語ることは、神の性質の一部なのです。

エペソ書では、正直になることについて使徒パウロが次のように書いています。

こういうわけだから、あなたがたは偽りを捨てて、おのおの隣り人に対して、真実を語りなさい。わたしたちは、お互に肢体なのであるから。[18]

すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当を胸につけ[なさい]。[19]

詩篇には、神が正直を好まれることが書かれています。

見よ、あなたは真実を心のうちに求められます。[20]

ヘブル書には、「神が偽ることはありえません」 [21] と書かれています。真にキリストに似た者となりたければ、正直であり、真実を語ることは、私たちの優先事項リストの上位にあるべきです。

嘘や不正直は、旧約・新約全体を通して、明確に、また強く非難されています。また、聖書は正直さや真実を語ることを励ましています。真実を語ることについての聖句をいくつか見ていきましょう。

主よ、あなたの幕屋にやどるべき者はだれですか、あなたの聖なる山に住むべき者はだれですか。直く歩み、義を行い、心から真実を語る者‥‥。[22]

主よ、あなたの道をわたしに教えてください。わたしはあなたの真理に歩みます。[23]

あなたがたのなすべき事はこれである。あなたがたは互に真実を語り、またあなたがたの門で、真実と平和のさばきとを、行わなければならない。[24]

聞け、わたしは高貴な事を語り、わがくちびるは正しい事を語り出す。わが口は真実を述べ、わがくちびるは悪しき事を憎む。[25]

真実と平和とを愛せよ。[26]

[愛は]真実を喜ぶ。[27]

愛にあって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達するのである。[28]

聖書は、正直になって真実を語ることを励ますと共に、嘘や欺きを非難し、偽りを捨てるよう教えています。

偽りを言うくちびるは主に憎まれ‥‥る。[29]

主の憎まれるものが六つある、否、その心に、忌みきらわれるものが七つある。すなわち‥‥偽りを言う舌、‥‥偽りをのべる証人‥‥がこれである。[30]

欺くことをする者はわが家のうちに住むことができません。偽りを言う者はわが目の前に立つことができません。[31]

あなたは偽りを言う者を滅ぼされる。主は血を流す者と、人をだます者を忌みきらわれる。[32]

あなたの舌をおさえて悪を言わせず、あなたのくちびるをおさえて偽りを言わすな。[33]

くちびるをもって欺いてはならない。[34]

互にうそを言ってはならない。あなたがたは、古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨て‥‥。[35]

だから、あらゆる悪意、あらゆる偽り、偽善、そねみ、いっさいの悪口を捨てて‥‥。[36]

偽る者は争いを起し‥‥。[37]

心の曲がった者は幸いを受けない。舌をもって欺く者は災難に陥る。[38]

主よ、偽りのくちびるから、欺きの舌から、わたしを助け出してください。[39]

いのちを愛し、さいわいな日々を過ごそうと願う人は、舌を制して悪を言わず、くちびるを閉じて偽りを語らず‥‥。[40]

イスラエルの残りの者は不義を行わず、偽りを言わず、その口には欺きの舌を見ない。[41]

イエスは、「わたしは道であり、真理であり、命である」 [42] と語ることによって、ご自身がただ真実(真理)を語るだけではなく、真理そのものであることを言っておられます。ヨハネの福音書で、イエスは「まことに、まことに、あなたがたに告げます」 [43] という言い回しを25回もしておられます。(「まことに、まことに」〈日本語では新改訳でこのように訳されています〉の部分は、他の訳本では、「よくよく」「アーメン、アーメン」「はっきり」などと翻訳されています。) イエスはこの言い回しをすることによって、これから語ろうとしていることが真実(まこと)であるばかりか、それが真実であるということを直接じかに、そして神として知っているのだと、ほのめかしておられました。イエスは真実であり、また真実を語られたのです。

私たちの日々の証しにおいて重要な要素の一つは、イエスと同様、他の人に真実を語ることです。イザヤ書では、約束されたメシアについて語っている箇所で、「その口には偽りがなかった」 [44] とイザヤが書いています。イエスは真実のみを語られたのであり、私たち信者はその正直さの手本に倣うべきです。

忠実・誠実と正直は似通っています。忠実であるには、誓約を守り、信頼できる者となり、高潔な振る舞いをすることが求められます。正直であることも、信頼できて高潔な者となることにつながります。イエスは真実かつ忠実な方でした。

「わたしは‥‥真理‥‥である。」 わたしが見ていると、天が開かれ、見よ、そこに白い馬がいた。それに乗っているかた[イエス]は、「忠実で真実な者」と呼ばれ‥‥。[45]

私たちが人生のこの分野において、イエスにもっと似た者となるよう最善を尽くせますように。


注:

聖書の言葉は、特に明記されていない場合、日本聖書協会の口語訳聖書から引用されています。


1 出エジプト 34:6.

2 申命 7:9.〈新改訳〉

3 申命 32:4.

4 詩篇 117:2.

5 ヘブル 3:5–6.

6 黙示 19:11.

7 ガラテヤ 5:22.

8 2テモテ 2:13.〈岩波翻訳委員会訳〉

9 出エジプト 20:3–5.

10 詩篇 15:1, 4.

11 民数 30:2.

12 ルカ 16:10–12.

13 箴言 3:3–4.

14 ヨハネ 14:6.

15 ヨハネ 1:14.〈新共同訳〉

16 ヨハネ 16:13.

17 ヨハネ 15:26.

18 エペソ 4:25.

19 エペソ 6:14.

20 詩篇 51:6.

21 ヘブル 6:18.〈新共同訳〉

22 詩篇 15:1–2.

23 詩篇 86:11.

24 ゼカリヤ 8:16.

25 箴言 8:6–7.

26 ゼカリヤ 8:19.

27 1コリント 13:6.〈新共同訳〉

28 エペソ 4:15.

29 箴言 12:22.

30 箴言 6:16–17, 19.

31 詩篇 101:7.

32 詩篇 5:6.

33 詩篇 34:13.

34 箴言 24:28.

35 コロサイ 3:9.

36 1ペテロ 2:1.

37 箴言 16:28.

38 箴言 17:20.〈新共同訳〉

39 詩篇 120:2.

40 1ペテロ 3:10.

41 ゼパニヤ 3:13.

42 ヨハネ 14:6.

43 ヨハネ 1:51; 3:3,5,11; 5:19,24,25; 6:26,32,47,53; 8:34,51,58; 10:1,7; 12:24; 13:16,20,21,38; 14:12; 16:20,23; 21:18.

44 イザヤ 53:9.

45 ヨハネ 14:6; 黙示 19:11.

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