著者: ピーター・アムステルダム
6月 12, 2018
先の2つの記事では、父なる神に向けられる栄光、誉れ、礼拝、祈りが、子なる神であるイエスにも同じく捧げられていることを見てきました。また、全知全能や遍在という神の属性も、イエスは同じく有しておられます。その他、神の名前についても、イエスは同じ呼ばれ方をされているのです。
神がモーセに、イスラエルの民を解放するためにエジプトへ戻るよう語られた時、モーセは神にこう言いました。
「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」 神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」 [1]
「わたしはある」とは、(ラテン文字に翻字すると)YHWHというヘブル語の言葉を訳したものです。この4文字は「テトラグラマトン(神聖四文字)」として知られ、「ヤハウェ」と読みます。それから1,100年ほど経ち、紀元前3世紀頃からは、ユダヤ人がヤハウェという名前を口にすることはなくなりました。口に出すには、あまりにも畏れ多いと考えたからです。そして、YHWHという言葉が出てくるたびに、「主」を意味する「アドナイ」に読み替えました。旧約聖書の英訳版のほとんどでは、神を指す「Lord(主)」という言葉は、全て大文字で「LORD」と表記されており、それはヤハウェのことです。
旧約聖書は、主(YHWH)が唯一の真の神であることをかなり明確に告げています。
主、イスラエルの王、イスラエルをあがなう者、万軍の主はこう言われる、「わたしは初めであり、わたしは終りである。わたしのほかに神はない。‥‥」 [2]
わたしは主である。わたしのほかに神はない、ひとりもない。[3]
わたしは神である、わたしのほかに神はない。わたしは神である、わたしと等しい者はない。わたしは終りの事を初めから告げ、まだなされない事を昔から告げて言う、「わたしの計りごとは必ず成り、わが目的をことごとくなし遂げる」と。[4]
旧約聖書で、主の名を呼ぶという表現は、神への祈りを指しています。
わたしに賜わったもろもろの恵みについて、どうして主に報いることができようか。わたしは救の杯をあげて、主のみ名を呼ぶ。[5]
わたしは感謝のいけにえをあなたにささげて、主のみ名を呼びます。[6]
[アブラム]はネゲブから旅路を進めてベテルに向かい、ベテルとアイの間の、さきに天幕を張った所に行った。すなわち彼が初めに築いた祭壇の所に行き、その所でアブラムは主の名を呼んだ。[7]
使徒行伝で、ステパノは石打ちによって殺されようとしている時に、祈ってイエスに語りかけ、イエスを主と呼びました。
こうして、彼らがステパノに石を投げつけている間、ステパノは祈りつづけて言った、「主イエスよ、わたしの霊をお受け下さい。」 そして、ひざまずいて、大声で叫んだ、「主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないで下さい。」 [8]
使徒パウロは救いについて、次のように書いています。
自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。[9]
そう書いた後に、パウロは旧約聖書から「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」 [10] という言葉を引用しています。
このように、神は主であるというのと同じ使われ方で、新約聖書の随所にイエスは主であると書かれていることが分かります。[11]
「主の言葉」という表現は、旧約聖書に200回以上出てきます。それは、神の指示や教え、あるいはまた、神が預言者に語られたことを指しています。
モーセは主の言葉にしたがって、イスラエルの人々に命じて言った‥‥。[12]
ダビデが朝起きたとき、主の言葉はダビデの先見者である預言者ガデに臨んで言った‥‥。[13]
主の言葉が‥‥祭司エゼキエルに臨み‥‥。[14]
主の言葉が‥‥預言者ゼカリヤに臨んだ‥‥。[15]
ペトエルの子ヨエルに臨んだ主の言葉。[16]
新約聖書では、イエスの教えを指して、主の言葉と呼んでいます。
使徒たちは力強くあかしをなし、また主の言を語った後、サマリヤ人の多くの村々に福音を宣べ伝えて、エルサレムに帰った。[17]
パウロとバルナバとはアンテオケに滞在をつづけて、ほかの多くの人たちと共に、主の言葉を教えかつ宣べ伝えた。幾日かの後、パウロはバルナバに言った、「さあ、前に主の言葉を伝えたすべての町々にいる兄弟たちを、また訪問して、みんながどうしているかを見てこようではないか。」 [18]
異邦人たちはこれを聞いて喜び、主の言葉を賛美した。そして、永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った。こうして、主の言葉はその地方全体に広まった。[19]
神の言葉と同様、イエスの教えも「主の言葉」と呼ばれているのです。
神は、旧約聖書の多くの箇所で救い主として言及されています。
わたしはあなたの神、主である、イスラエルの聖者、あなたの救主である。[20]
わたし、わたしが主である。わたしのほかに救い主はない。[21]
この事をだれがいにしえから示したか。だれが昔から告げたか。わたし、すなわち主ではなかったか。わたしのほかに神はない。わたしは義なる神、救主であって、わたしのほかに神はない。[22]
主なるわたしが、あなたの救主、また、あなたのあがない主、ヤコブの全能者である‥‥。[23]
イエスも、新約聖書の随所で救い主と呼ばれています。
きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。[24]
神は‥‥「わたしはエッサイの子ダビデを見つけた。彼はわたしの心にかなった人で、わたしの思うところを、ことごとく実行してくれるであろう」と言われた。神は約束にしたがって、このダビデの子孫の中から救主イエスをイスラエルに送られた‥‥。[25]
わたしたちは、父が御子を世の救主としておつかわしになったのを見て、そのあかしをするのである。[26]
わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう。[27]
パウロはテトス書で、各章1回ずつ、つまり合計で3回、神が私たちの救い主であると語っており、また、イエスについても私たちの救い主と呼んでいます。第1章では、「わたしたちの救い主である神の命令によって、わたしはその宣教をゆだねられた」、[28] さらにそのすぐ後に「父である神とわたしたちの救い主キリスト・イエスからの恵みと平和とがあるように」 [29] と書いています。
第2章では、「祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望む」 [30] とパウロは書いています。また、第3章では、同じ箇所に、神が私たちの救い主であり、イエスも私たちの救い主であることを書いています。
わたしたちの救主なる神の慈悲と博愛とが現れたとき、わたしたちの行った義のわざによってではなく、ただ神のあわれみによって、再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて、わたしたちは救われたのである。この聖霊は、わたしたちの救主イエス・キリストをとおして、わたしたちの上に豊かに注がれた。これは、わたしたちが、キリストの恵みによって義とされ、永遠のいのちを望むことによって、御国をつぐ者となるためである。[31]
使徒ペテロは、イエスが神であり救い主であることを幾度も書いています。
イエス・キリストのしもべであり使徒であるシモン・ペテロから、私たちの神であり救い主であるイエス・キリストの義によって私たちと同じ尊い信仰を受けた方々へ。[32]
このようにあなたがたは、私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの永遠の御国にはいる恵みを豊かに加えられるのです。[33]
私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。このキリストに、栄光が、今も永遠の日に至るまでもありますように。アーメン。[34]
このように、神が救い主と呼ばれており、イエスもまた救い主と呼ばれていることが分かります。
聖書は、神が最高権力者であり、神が持っておられるものよりも大きな力や栄光、威光は存在しないことを教えています。
主よ、大いなることと、力と、栄光と、勝利と、威光とはあなたのものです。天にあるもの、地にあるものも皆あなたのものです。主よ、国もまたあなたのものです。あなたは万有のかしらとして、あがめられます。[35]
主はもろもろの国民の上に高くいらせられ、その栄光は天よりも高い。われらの神、主にくらぶべき者はだれか。主は高き所に座し‥‥。[36]
神は、最高権力者であり、全ての主また神である方として、神の神、王の王、主の主と呼ばれています。
あなたがたの神である主は、神の神、主の主、大いにして力ある恐るべき神‥‥。[37]
もろもろの神の神に感謝せよ、そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。もろもろの主の主に感謝せよ、そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。[38]
万物に命をお与えになる神の御前で‥‥あなたに命じます。わたしたちの主イエス・キリストが再び来られるときまで、おちどなく、非難されないように、この掟を守りなさい。神は、定められた時にキリストを現してくださいます。神は、祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、唯一の不死の存在、近寄り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることのできない方です。この神に誉れと永遠の支配がありますように、アーメン。[39]
ヨハネの福音書では、バプテスマのヨハネ(洗礼者ヨハネ)がイエスを「神の小羊」と呼んでいます。
その翌日、ヨハネはイエスが自分の方にこられるのを見て言った、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」 [40] その翌日、ヨハネはまたふたりの弟子たちと一緒に立っていたが、イエスが歩いておられるのに目をとめて言った、「見よ、神の小羊。」 [41]
黙示録でも、イエスは「小羊」と呼ばれています。
彼らは小羊に戦いをいどんでくるが、小羊は、主の主、王の王であるから、彼らにうち勝つ。また、小羊と共にいる召された、選ばれた、忠実な者たちも、勝利を得る。[42]
黙示録の少しあとの方に、イエスに関して次のような記述があります。
またわたしが見ていると、天が開かれ、見よ、そこに白い馬がいた。それに乗っているかたは、「忠実で真実な者」と呼ばれ、義によってさばき、また、戦うかたである。[43] 彼は血染めの衣をまとい、その名は「神の言」と呼ばれた。[44] その着物にも、そのももにも、「王の王、主の主」という名がしるされていた。[45]
神が王の王であり、主の主であるように、イエスもそうなのです。
イエスはその父と同じく、主であり、救い主であり、王の王であり、主の主です。そして、イエスの言葉と父の言葉は、共に主の言葉です。
(本シリーズは、パート4で完結します。)
注:
聖書の言葉は、特に明記されていない場合、日本聖書協会の口語訳聖書から引用されています。
1 出エジプト 3:13–14.〈新共同訳〉
2 イザヤ 44:6.
3 イザヤ 45:5.
4 イザヤ 46:9–10.
5 詩篇 116:12–13.
6 詩篇 116:17.
7 創世 13:3–4.
8 使徒 7:59–60.
9 ローマ 10:9–10.
10 ローマ 10:13.
11 新約聖書で主や主人と訳されるギリシャ語の言葉は「キュリオス」です。この言葉は、先生と訳すこともできます。また、神つまりヤハウェを指す場合は主と訳されます。キュリオスは、新約聖書でイエスを指す時、その両方の意味で用いられています。ヨハネ 4:11では、井戸のそばの女がイエスを「先生」と呼んでいます(和訳聖書では、新改訳聖書がそう訳しています)。ピリピ人への手紙では、子なる神としてのイエスの完全な神性を指す言葉としてキュリオスが用いられています。「それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、『イエス・キリストは主[キュリオス]である』と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。」(ピリピ 2:10–11)
12 民数 36:5.
13 サムエル下 24:11.
14 エゼキエル 1:2–3.
15 ゼカリヤ 1:1.
16 ヨエル 1:1.
17 使徒 8:25.
18 使徒 15:35–36.
19 使徒 13:48–49.〈新共同訳〉
20 イザヤ 43:3.
21 イザヤ 43:11.〈新共同訳〉
22 イザヤ 45:21.
23 イザヤ 60:16.
24 ルカ 2:11.
25 使徒 13:22–23.
26 1ヨハネ 4:14.
27 ピリピ 3:20–21.
28 テトス 1:2–3.〈新共同訳〉
29 テトス 1:4.〈新共同訳〉
30 テトス 2:13.〈新共同訳〉
31 テトス 3:4–7.
32 2ペテロ 1:1.〈新改訳〉
33 2ペテロ 1:11.〈新改訳〉
34 2ペテロ 3:18.〈新改訳〉
35 歴代上 29:11.
36 詩篇 113:4–5.
37 申命 10:17.
38 詩篇 136:2–3.
39 1テモテ 6:13–16.〈新共同訳〉
40 ヨハネ 1:29.
41 ヨハネ 1:35–36.
42 黙示 17:14.
43 黙示 19:11.
44 黙示 19:13.
45 黙示 19:16.
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