著者: ピーター・アムステルダム
7月 31, 2018
マルコとルカの福音書で、イエスは2つの別々のたとえを用いて、ご自身の再臨(時の終わりに再び来られること)について語っておられます。内容は若干異なりますが、どちらも同じことを伝えているので、一緒に取り上げたいと思います。
最初のたとえは、マルコ13:34–37にあります。たとえ自体はその箇所の最初のセンテンスで語られ、その後に、たとえをどのように当てはめるべきかに関する弟子への説明が続きます。たとえを語る前に、イエスはパルーシア(再臨)に先立って起きる出来事について話しておられます。また、その時がいつになるのかは父なる神だけが知っておられるので、弟子たちはそれまで「気をつけて、目をさましていなさい」 と言っておられます。「その時がいつであるか、あなたがたにはわからないからである。」 [1]
それから、このたとえを語られました。
それはちょうど、旅に立つ人が家を出るに当り、その僕たちに、それぞれ仕事を割り当てて責任をもたせ、門番には目をさましておれと、命じるようなものである。だから、目をさましていなさい。いつ、家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、にわとりの鳴くころか、明け方か、わからないからである。あるいは急に帰ってきて、あなたがたの眠っているところを見つけるかも知れない。目をさましていなさい。わたしがあなたがたに言うこの言葉は、すべての人々に言うのである。[2]
家の主人は、自分の不在中に、僕たちがそれぞれ自分のすべきことを知っているよう仕事を割り当てます。門番には特に、目をさましていて、自分が帰宅するのに備え、到着時に門を開けられるようにしておくようにと言いました。一般的に、門番の務めは侵入者らしき人を中に入れないことですが、[3] この場合は、主人が帰宅する際に門を開けるのに備えて起きていなさいとの指示を受けました。ただ、それがいつになるのか、目安は与えられていません。
イエスはそこで門番の話を終え、弟子たちに、彼らも自分たちの主人であるイエスがいつ帰ってくるか分からないのだから、油断せずに目を覚ましているべきであることを話されました。イエスが話しに出された、夕方、夜中、鶏の鳴くころ、明け方とは、ローマ軍が用いていた夜警時間の4区分のことです。
主人が「急に」帰ってくるかもしれないとイエスは言われました。それは「すぐに」ではなく「不意に」ということであり、いつ帰ってきてもおかしくはなく、正確な到着時間を知る者は誰もいないということです。主人が到着した時に眠っている僕は、職務を怠っていることになります。油断なく目をさましていなさいという、これと同様の呼びかけが、福音書の随所に見られます。
これらの起ろうとしているすべての事からのがれて、人の子の前に立つことができるように、絶えず目をさまして祈っていなさい。[4]
だから、目をさましていなさい。いつの日にあなたがたの主がこられるのか、あなたがたには、わからないからである。[5]
だから、目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないからである。[6]
務めを果たしているべき時間中に眠っているところが見られるのは、自分の義務を怠っているのであり、恥ずかしいことであるとみなされました。イエスが十字架につけられる前夜、正にこれが起きたことが書かれています。イエスは、ペテロ、ヤコブ、ヨハネに、次のように話されました。
「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、目をさましていなさい。」 そして少し進んで行き、地にひれ伏し、もしできることなら、この時を過ぎ去らせてくださるようにと祈りつづけ[られた。]‥‥それから、きてごらんになると、弟子たちが眠っていたので、ペテロに言われた、「シモンよ、眠っているのか、ひと時も目をさましていることができなかったのか。」 [7]
イエスは、ご自身が帰って来られるのはいつのことか、誰にもわからないのだから、弟子たちが油断なく目を覚まし、寝ることなく、また気を抜かずにいるべきことを、強調されました。イエスが弟子たちに言われたことは、全ての時代の全てのクリスチャンに言われたことであり、それには今日の私たちも含まれています。イエスは私たちに、主に会う備えができているような、油断のない信仰の生き方をするよう求めておられるのです。
霊的生活がいつの間にか脇道にそれて、信仰や神との関係をおろそかにしてしまうということは容易に起こり得ます。日々の暮らしには心配ごとが持ち上がるものなので、毎日の務めや仕事、家族や友人、そして日常生活の尽きることのない出来事に対して集中することが必要になります。活発に信仰を実践し、自分の魂を養い、霊的生活を活気あふれる生き生きとしたものとし、「目を覚ましていなさい」というイエスの呼びかけを全うするには、強い意図とともに、時間と努力を要します。
同様のメッセージを伝える2つ目のたとえ話は、ルカ12章にあります。
腰に帯をしめ、あかりをともしていなさい。主人が婚宴から帰ってきて戸をたたくとき、すぐあけてあげようと待っている人のようにしていなさい。主人が帰ってきたとき、目を覚しているのを見られる僕たちは、さいわいである。よく言っておく。主人が帯をしめて僕たちを食卓につかせ、進み寄って給仕をしてくれるであろう。主人が夜中ごろ、あるいは夜明けごろに帰ってきても、そうしているのを見られるなら、その人たちはさいわいである。[8]
英語欽定訳では[和訳聖書でも]、当時の習慣に基づく表現からの直訳で、「腰に帯を締め」という言葉でたとえが始まります。これは「行動できるような服装でいる」という意味であり、常にいつでも行動できる態勢でいることを表しています。古代イスラエルの男性は長衣を身に着けていました。身体的に激しい作業を始める時や、走る必要がある時には、帯を締め、そこに衣の一部をたくし込んで、動きやすくします。このように帯を締めて裾をからげる(腰をからげる)ことについては、旧約聖書・新約聖書の両方に記述があります。
主の御手がエリヤに臨んだので、エリヤは裾をからげてイズレエルの境までアハブの先を走って行った。[9]
預言者エリシャは預言者の仲間の一人を呼んで言った。「腰に帯を締め、手にこの油の壺を持って、ラモト・ギレアドに行きなさい。」 [10]
それだから、心の腰に帯を締め、身を慎み、イエス・キリストの現れる時に与えられる恵みを、いささかも疑わずに待ち望んでいなさい。[11]
いつでも行動できる態勢でいるようにとの指示に続き、イエスはそれと同じことを、「あかりをともしていなさい」 という別の表現で語っておられます。これは、夜の間も、いつでも行動できる態勢でいなさいということです。どちらの表現も、いつでも備えのできた態勢でいることを表しており、イエスはご自身の再臨を待っている間に弟子たちもその態勢でいることを求めておられます。
備えのできた態勢でいるという概念は、次にあげる3つ目の例によって締めくくられます。「主人が婚宴から帰ってきて戸をたたくとき、すぐあけてあげようと待っている人のようにしていなさい。」 当時の婚宴は何日も続き、時には1週間に及ぶこともあったので、僕たちは主人がいつ戻るのか知る由もありませんでした。帰りを待つ間、常に油断なく備えていなければならなかったのです。
イエスは、いつでも行動できる態勢でいること、灯りをともしておくこと、いつ主人が帰ってもいいように備えておくことという、常に備えのできた状態でいることの3つの例を用いて、弟子たちがイエスの教えを反映した生き方をする必要性を述べておられます。私たちは、片方の目を天に向け、イエスの再臨を待ち望みつつ、イエスの言葉に導かれた人生を送るべきです。
それからイエスは、備えのできているものが受け取る報いに話を向けられます。「主人が帰ってきたとき、目を覚しているのを見られる僕たちは、さいわいである。」 主人が帰ってきた時に目を覚ましている僕は神の恩寵を受けます。彼らは霊的に目を覚ました状態で、おのれの信仰を実践しています。黙示録にも、イエスの再臨に関して同様のことが書かれています。
見よ、わたしは盗人のように来る。‥‥目をさまし‥‥ている者は、さいわいである。[12]
この後、イエスは、主人が帰宅して、僕たちが待っているのを見た時の行動について話されました。「よく言っておく。主人が帯をしめて僕たちを食卓につかせ、進み寄って給仕をしてくれるであろう。」 この主人は僕と立場を逆転させ、僕のすべきことをするというのですが、それは要するに、僕たちはもはや、今までの身分ではいないということです。このたとえ話における主人の行動は、最後の晩餐でのイエスの行動と同様のものです。
[イエスは]夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰に巻き、それから水をたらいに入れて、弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手ぬぐいでふき始められた。[13]
彼らに言われた、「わたしがあなたがたにしたことがわかるか。あなたがたはわたしを教師、また主と呼んでいる。そう言うのは正しい。わたしはそのとおりである。しかし、主であり、また教師であるわたしが、あなたがたの足を洗ったからには、あなたがたもまた、互に足を洗い合うべきである。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしは手本を示したのだ。」 [14]
イエスが仕える(給仕する)方だという概念は、福音書の随所に見られます。
あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、すべての人の僕とならねばならない。人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである。[15]
あなたがたの中でいちばん偉い人はいちばん若い者のように、指導する人は仕える者のようになるべきである。食卓につく人と給仕する者と、どちらが偉いのか。食卓につく人の方ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、給仕をする者のようにしている。[16]
イエスは続いてこう言われます。「主人が夜中ごろ[第二夜警時]、あるいは夜明けごろ[第三夜警時]に帰ってきても、そうしているのを見られるなら、その人たちはさいわいである。」 イエスはここで、夜の時間帯について、先ほどのマルコの福音書にあるローマ式の4区分ではなく、ユダヤ式の3区分を用いておられます。イエスが弟子たちに話されたのは、ご自身の再臨がいつになるのかは定まっていないことや、主人がいつ帰ってきたとしても目を覚まして備えをしておく人はさいわいになるということです。
イエスはこのたとえ話によって、ご自身に従ってくる者たちは、霊の内で常に油断なく気を配り、目を覚ましているべきであると言われました。イエスは2回、備えをしていた人たちはさいわいであると言っておられます。「主人が帰ってきたとき、目を覚しているのを見られる僕たちは、さいわいである。‥‥主人が夜中ごろ、あるいは夜明けごろに帰ってきても、そうしているのを見られるなら、その人たちはさいわいである。」 聖書は、イエスは再臨されるけれども、それがいつ起こるのかは誰も知らないと教えています。たとえ話に出てくる僕たちのように、主人であるイエスが帰ってこられる、その日、その時がいつなのか、私たちの誰にも分かりませんが、その時に備えて、霊のうちで常に目を覚ましているよう忠告されています。いずれ主は帰ってこられるのだから、その時に私たちは備えができていたいものです。
私たちがいつ死ぬのかということについても、この同じ原則を真剣に受け止めて、当てはめることができます。キリストの再臨に遭遇したクリスチャンは、歴史上一人もいませんが、この世を去ったクリスチャン全員が、キリストの臨在にあずかっています。私たちがいつ死ぬのか、誰も分かりませんが、いずれ死ぬことだけは分かっています。これらのたとえでイエスが教えられたことによって、私たちは主からいつ天国へ呼ばれるのかは分からないのだから、霊的に常に目を覚まして備えておかなければいけないと気づくべきです。
待っている僕
マルコ 13:34–37
34 それはちょうど、旅に立つ人が家を出るに当り、その僕たちに、それぞれ仕事を割り当てて責任をもたせ、門番には目をさましておれと、命じるようなものである。
35 だから、目をさましていなさい。いつ、家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、にわとりの鳴くころか、明け方か、わからないからである。
36 あるいは急に帰ってきて、あなたがたの眠っているところを見つけるかも知れない。
37 目をさましていなさい。わたしがあなたがたに言うこの言葉は、すべての人々に言うのである。
ルカ 12:35–38
35 腰に帯をしめ、あかりをともしていなさい。
36 主人が婚宴から帰ってきて戸をたたくとき、すぐあけてあげようと待っている人のようにしていなさい。
37 主人が帰ってきたとき、目を覚しているのを見られる僕たちは、さいわいである。よく言っておく。主人が帯をしめて僕たちを食卓につかせ、進み寄って給仕をしてくれるであろう。
38 主人が夜中ごろ、あるいは夜明けごろに帰ってきても、そうしているのを見られるなら、その人たちはさいわいである。
注:
聖書の言葉は、特に明記されていない場合、日本聖書協会の口語訳聖書から引用されています。
1 マルコ 13:32–33.
2 マルコ 13:34–37.
3 Arland J. Hultgren, The Parables of Jesus (Grand Rapids: Eerdmans, 2000), 266.
4 ルカ 21:36.
5 マタイ 24:42.
6 マタイ 25:13.
7 マルコ 14:34–35, 37.
8 ルカ 12:35–38.
9 列王上 18:46.〈新共同訳〉
10 列王下 9:1.〈新共同訳〉
11 1ペテロ 1:13.
12 黙示 16:15.
13 ヨハネ 13:4–5.
14 ヨハネ 13:12–15.
15 マルコ 10:43–45.
16 ルカ 22:26–27.
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