著者: ピーター・アムステルダム
11月 20, 2018
『パリサイ人との衝突』のパート2では、マタイ23章の最初の12節を掘り下げて見てきました。その中でイエスは群衆や弟子たちに、パリサイ(ファリサイ)派の人たちは自分の説くことを実行しないので、彼らの手本にならうなと言っておられます。彼らは自分に従う者たちに重い荷物を負わせるけれど、それを運ぶのを助けようとはしないと、イエスは非難されたのです。そして、彼らは自分に注目を向けるためなら何でもし、上座に座りたがり、人から仰々しく挨拶されるのを好んでいると言われました。
13節からは、イエスが律法学者やパリサイ人たちに直接話しておられます。他の人たちに律法学者やパリサイ人について話しておられた時の言葉遣いは、強くはあっても、かなり事実に即したものでした。しかし、彼らに直接話し始めると、イエスの口調は変わり、その言葉ははるかに厳しいものとなりました。イエスは7回、彼らは「わざわいだ」(新共同訳:不幸だ、新改訳:忌わしい)と言っておられます。そして、彼らを偽善者と2回称し、ものが見えていないと5回述べ、蛇と2回呼び、他にも彼らを不快な気持ちにさせる発言を幾度も口にされました。
イエスの非難は、個々の律法学者やパリサイ人というよりも、彼らが代表する運動の本質や、自己中心的な宗教性の本質に向けられたものでした。おもに強調されたのは、彼らの宗教的生活の捉え方です。彼らを偽善者と呼ばれた時、イエスが話しておられたのは、彼らの誠実さに欠ける行動というよりも、実際には要点を見逃しているのに自分たちは神の御心を行っているという誤った信念を持っていることでした。彼らは外面的な振る舞いや、規則・規定に細心の注意を払うことを重視するあまり、神の優先順位を理解できていませんでした。彼らの理解のしかたは根本から誤っていたので、その宗教的熱心さは、益以上に害をもたらしていたのです。[1]
「わざわいだ」という言葉は旧約聖書の預言者たちの言葉にも見られ(英語欽定訳のイザヤ書には「woe」として21回出てきます)、それはおもに、神に敵対する人たちに神の裁きが下ろうとしていることを彼らが宣言する時に用いられました。それはある意味では、相手に有罪の宣告をし、裁きと罰が訪れると申し渡していることです。この言葉(英語の「woe」)は、マタイ書では12回、ルカ書では14回、黙示録では7回用いられています。
偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、天国を閉ざして人々をはいらせない。自分もはいらないし、はいろうとする人をはいらせもしない。[2]
天国(天の国)に入ることについては、マタイの福音書の随所に言及されています。
はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。[3]
はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。[4]
イエスはここで、天国への入り口を、入ろうとしている人たちに対して閉ざされている門や扉にたとえておられます。律法学者やパリサイ人は、ユダヤ教の指導者の立場にあるものとして、人々が天国に入れるよう、いかにして神の御心に沿って生きるべきかを指導する責任がありました。しかし、イエスは、彼ら自身が天の国に入らないし、天国の扉を閉ざして自分たちに従ってくる人々を入らせもしないと、非難しておられます。ルカの福音書には、次のように書かれています。
あなたがた…は、わざわいである。知識のかぎを取りあげて、自分がはいらないばかりか、はいろうとする人たちを妨げてきた。[5]
彼らはその教えや手本によって、また規則遵守に主眼を置くことによって、自分自身も、従ってくる者たちも、神の国に入ることができないようにしたのです。
多くの翻訳版聖書(英語欽定訳などを除く)では、次のマタイ23:14は本文から外されて脚注に入れられているか、カッコに入れられたり斜体表記になっていたりします。その理由は、信頼性がより高いとみなされている、年代がより古い新約聖書写本の幾つかにはこの節が含まれていないからです。ある聖書学者たちは、この節がマルコ12:40やルカ20:47と非常によく似ているので、後に手書きで写本を作成する段階でマタイ書に挿入された可能性があると考えています。
偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、やもめたちの家を食い倒し、見えのために長い祈をする。だから、もっときびしいさばきを受けるに違いない。[6]
イエスは、律法学者やパリサイ人たちが、夫を失ったやもめという、当時最も弱い立場にあった人たちを虐待しているとして非難されました。「やもめたちの家を食い倒す」が正確に何を意味するかは、様々に解釈できます。律法学者たちがどのような形でそうしていたのか、次のような可能性があります。(1) 禁じられているにもかかわらず、法的支援や助言に対する報酬を受け入れること、(2) 夫の財産後見人としての役割において、そのやもめをだますこと、(3) やもめの厚情に付け込んでうまい汁を吸うこと、(4) やもめの財産を不適切に管理すること、(5) やもめのために長々とした祈りをして、そのために金銭を受け取ること、(6) 返済不能の借金のかたにやもめの家を担保に取ること。
この言い回しが正確に何を意味するのかはわかりませんが、宗教指導者たちが何らかの形で、弱い立場にある女性たちを金銭的に利用していたことや、やもめたちの面倒を見、彼女らを利用してはならないという、次にあげる旧約聖書の戒めに従っていなかったことは明白です。
万軍の主はこう仰せられる、真実のさばきを行い、互に相いつくしみ、相あわれみ、やもめ、みなしご、寄留の他国人および貧しい人を、しえたげてはならない。互に人を害することを、心に図ってはならない。[7]
寄留の他国人と、みなしごと、やもめをしえたげること…をしないならば、わたしはあなたがたを、わたしが昔あなたがたの先祖に与えたこの地に永遠に住まわせる。[8]
この宗教指導者たちに対するイエスの非難は続きます。
偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたはひとりの改宗者をつくるために、海と陸とを巡り歩く。そして、つくったなら、彼を自分より倍もひどい地獄の子にする。[9]
たしかに彼らは、多大な努力を費やすことで、改宗者を得ようとする熱意を示していました。旅をするのが困難であった当時、海と陸とを巡り歩くという表現をすることによって、イエスは彼らが改宗者を得るために並々ならぬ努力を払ったことを強調しておられます。
改宗者とは、自分の信じる宗教をそれまでのものから他のものに改めた人のことであり、ここでは、ユダヤ教の信仰、道徳規範、教義にあずかり、それを守ることを選択した非ユダヤ人ということです。イエスの時代、パリサイ人は異邦人をユダヤ教に改宗させようとしていたようです。改宗した人は、パリサイ人の教えに従って信仰の指導を受けますが、それ以外のユダヤ教信仰の背景や聖書の知識は教えられません。改宗者は、生涯信仰を持ってきた人よりもはるかに信仰熱心である場合がよくあります。イエスは彼らのことを「自分より倍もひどい地獄の子」と表現しておられます。これは、信仰に引かれたけれど、自分の教師の手本に従ったことで間違った方向に導かれてしまったために、凄まじい結果を刈り取ることになるという悲しい結末です。
[ものの見えない]案内者たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは言う、「神殿をさして誓うなら、そのままでよいが、神殿の黄金をさして誓うなら、果す責任がある」と。愚かな[ものの見えない]人たちよ。黄金と、黄金を神聖にする神殿と、どちらが大事なのか。また、あなたがたは言う、「祭壇をさして誓うなら、そのままでよいが、その上の供え物をさして誓うなら、果す責任がある」と。[ものの見えない]人たちよ。供え物と供え物を神聖にする祭壇とどちらが大事なのか。祭壇をさして誓う者は、祭壇と、その上にあるすべての物とをさして誓うのである。神殿をさして誓う者は、神殿とその中に住んでおられるかたとをさして誓うのである。また、天をさして誓う者は、神の御座とその上にすわっておられるかたとをさして誓うのである。[10]
山上の説教で、イエスは弟子たちに、誓ってはならないと教えておられます。
いっさい誓ってはならない。…あなたがたの言葉は、ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ。それ以上に出ることは、悪から来るのである。[11]
ここでは、律法学者やパリサイ人たちの宗教的実践について話しておられますが、彼らはよく人の誓いに関わっていたのでしょう。誓いの際には、真実を語っていることの証人として、神にかけて誓っていました。パリサイ人たちは、神ご自身にかけてではなく、神を象徴する他の言葉を用いて誓いました。そうすることで、誓いを破っても裁きを受けないですむようにです。これはこじつけ、つまり、何かを正当化するための、狡猾で、時に不正な理屈づけです。このこじつけによって彼らがしたかったのは、自分が守らないかもしれない誓いのことでした。
律法学者とパリサイ人たちは、神殿の祭壇にかけて誓った場合はそれを果たす必要はないが、祭壇の上の供え物にかけて誓った場合はそれを破ることができないと考えていました。イエスは、供え物を神聖なものとする祭壇の方が供え物自体よりも大事なのであり、同様に祭壇にかけて誓うことの方がその上にあるすべての物にかけて誓うよりも大きな事なのだと言うことによって、彼らの理屈付けには無理があることを指摘されました。神殿にかけて誓う者は、そこに住んでおられる神にかけて誓っており、天にかけて誓う者は、神の御座と神ご自身とにかけて誓っています。イエスは、誓いを果たしそこねた場合のために、神の裁きを免れられるような言い方で誓おうとしても、それは無駄であると言っておられたのです。誓いは神の御前でなされたのであり、神は彼らの言葉の責任を問われるのだと。
偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。はっか、いのんど、クミンなどの薬味の十分の一を宮に納めておりながら、律法の中でもっと重要な、公平とあわれみと忠実[誠実]とを見のがしている。それもしなければならないが、これも見のがしてはならない。[12]
イエスはここでもまた、彼らはわざわいだと言われました。今回は、彼らがささいなことに細心の注意をはらいながら、信仰上もっと大切なことを無視していると指摘しておられます。十分の一を捧げることは、モーセの律法以前の時代から族長たちが行っていた習慣であり、[13] 後にモーセの律法の一部となりました。
あなたが種を蒔いて、畑から得るすべての収穫の十分の一を必ず毎年ささげなければならない。[14]
わたしはイスラエルの人々が供え物として主にささげる十分の一を、レビびとに嗣業として与えた。[15]
律法学者とパリサイ人たちは、十分の一を捧げよとの戒めをかなり真剣に捉え、自分たちの産物や利益の十分の一を忠実に納めていました。イエスは、彼らが庭に育つハッカ、イノンド、クミンについてでさえも、きちょうめんに十分の一を納めていることを指摘されました。それ自体を批判しておられたわけではありません。彼らはそのようにして聖書の言葉を守っていたのですから。イエスが言われたかったのは、彼らがそれほどもきちょうめんに薬草の十分の一を納めておきながら、それよりもはるかに大切な事柄に関する神の言葉をないがしろにしているということです。十分の一を納めると共に、神の愛と思いやりを他の人に示す性質である公平(正義)と慈悲(あわれみ)と誠実を重視すべきでした。
[ものの見えない]案内者たちよ。あなたがたは、ぶよはこしているが、らくだはのみこんでいる。[16]
イエスが彼らを「ものの見えない案内者」と呼ばれたのはこれが2度目であり、今回はユーモラスなたとえを付け加えておられます。イエスが何か非常に小さいものと、それよりはるかに大きなものとのユーモラスな対比を用いられたのは、この時だけではありません。たとえば、次のようなことを言っておられます。
なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。 [17]
また、あなたがたに言うが、富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい。[18]
ブヨは、羽のある虫の中でも「四つの足で歩く這うもの」(足の本数と関係なく、四つ這いで移動する生物を指します)なので汚らわしく、食べてはいけないとされていました。[19] ラクダは、パレスチナ地方にある最大の動物で、やはり汚れているので食べてはいけないとされていました。イエスは、この2つの汚れた生物を用いて、律法学者とパリサイ人たちが律法のささいな点に極めて細心の注意を払っていながら、もっと大切な点をないがしろにしていることのたとえとされたのでした。
(続くパート4で完結します。)
注:
聖書の言葉は、特に明記されていない場合、日本聖書協会の口語訳聖書から引用されています。
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1 この段落に要約された内容の元となるR・T・フランスの著書:The Gospel of Matthew, 855.
2 マタイ 23:13.
3 マタイ 18:3.〈新共同訳〉
4 マタイ 19:23–24.〈新共同訳〉
5 ルカ 11:52.
6 マタイ 23:14.
7 ゼカリヤ 7:9–10.
8 エレミヤ 7:6–7.
9 マタイ 23:15.
10 マタイ 23:16–22.
11 マタイ 5:34–37.
12 マタイ 23:23.
13 創世 14:20.
14 申命 14:22.〈新改訳〉
15 民数 18:24.
16 マタイ 23:24.
17 マタイ 7:3.
18 マタイ 19:24.
19 レビ 11:20–23.
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