著者: ピーター・アムステルダム
12月 17, 2019
クリスマスが来て、イエスの誕生を祝うたびに、私たちは歴史を振り返って、神がこの世に救い主を送ると誓われた旧約聖書の約束の成就を見ます。この栄光に満ちた出来事を記念するたびに、私たちは救い主の奇跡的な受胎や、その誕生のいきさつを祝い、神の御子が人間の姿となってこの世に来られたことについて感嘆の念に満たされます。神が御子である救い主を送り、私たちの人生が永遠に変わるようにしてくださったことを、私たちは祝うのです。
私たちは過去に目を向けて、救い主が来られたことを振り返るわけですが、旧約聖書時代の信者たちは、未来に目を向けて、約束された方が来られるのを待ち望みました。では、救い主が来られることについて、どのような約束があったのかを見てみましょう。
「あなたの神、主はあなたのうちから、あなたの同胞のうちから、わたしのようなひとりの預言者をあなたのために起されるであろう。あなたがたは彼に聞き従わなければならない。」[1]
「主はみずから一つのしるしをあなたがたに与えられる。見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる。」[2]
「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め…。」[3]
「わたしは彼を見る、しかし今ではない。わたしは彼を望み見る、しかし近くではない。ヤコブから一つの星が出、イスラエルから一本のつえが起り…。」[4]
「『わたしはわが王を聖なる山シオンに立てた』と。わたしは主の詔をのべよう。主はわたしに言われた、『おまえはわたしの子だ。きょう、わたしはおまえを生んだ。わたしに求めよ、わたしはもろもろの国を嗣業としておまえに与え、地のはてまでもおまえの所有として与える。』」[5]
「エッサイの株から一つの芽が出、その根から一つの若枝が生えて実を結び、その上に主の霊がとどまる。これは知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。彼は主を恐れることを楽しみとし、その目の見るところによって、さばきをなさず、その耳の聞くところによって、定めをなさず、正義をもって貧しい者をさばき、公平をもって国のうちの柔和な者のために定めをなし…。」[6]
「ベツレヘム・エフラタよ、あなたはユダの氏族のうちで小さい者だが、イスラエルを治める者があなたのうちからわたしのために出る。その出るのは昔から、いにしえの日からである。」[7]
旧約聖書時代の神の民は、神の約束が成就される未来に目を向けており、自分たちが約束の成就を見ることはなくとも、神は誓ったことをすべて実行されるのだと信じていました。でも、現代に生きている私たちは、過去に目を向けて、神の約束の成就を祝うことができます。聖霊によって受胎し、処女マリアのもとに生まれた神の子であり約束されたメシアであるイエスが、私たちの救い主としてこの世に来て、私たちの罪をご自身の身に負うことによって、私たちが父なる神と和解できるようにしてくださったのです。
その成就の過程は、イエスの誕生によって始まり、イエスの死と復活と昇天によって達成されました。ベツレヘムには泊まる場所がなかったため、産着に包まれて飼い葉桶に寝かされた赤ちゃんとしてお生まれになったイエスの誕生を祝う時、私たちがこの世にいる間だけではなく永遠に渡って人生が変わるようにと、イエスが父のかたわらで持っていた輝きを後にしてくださったことを思い、私たちは喜びに満たされます。イエスの人生は犠牲の人生でした。父の元を離れ、人間となり、十字架刑と死を味わわれたのですが、それはすべて私たちのためだったのです。イエスの誕生の喜びを祝うにあたり、イエスがどのような方であり、私たちやその他数え切れないほど多くの人の人生にどのような影響をもたらされたかについても、思い返してみましょう。そして、イエスが私たちを愛し、私たちのために天の輝きを快く後にしてくださったことを喜び、感謝しようではありませんか。
「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っている。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、あなたがたが、彼の貧しさによって富む者になるためである。」[8]
「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった』という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。」[9]
「確かに偉大なのは、この信心の奥義である、『キリストは肉において現れ、霊において義とせられ、御使たちに見られ、諸国民の間に伝えられ、世界の中で信じられ、栄光のうちに天に上げられた。』」[10]
「このように、子たちは血と肉とに共にあずかっているので、イエスもまた同様に、それらをそなえておられる。それは、死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つためである。…そこで、イエスは、神のみまえにあわれみ深い忠実な大祭司となって、民の罪をあがなうために、あらゆる点において兄弟たちと同じようにならねばならなかった。」[11]
「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。」[12]
「時の満ちるに及んで、神は御子を女から生れさせ、律法の下に生れさせて、おつかわしになった。それは、律法の下にある者をあがない出すため、わたしたちに子たる身分を授けるためであった。このように、あなたがたは子であるのだから、神はわたしたちの心の中に、『アバ、父よ』と呼ぶ御子の霊を送って下さったのである。」[13]
「さて、わたしたちには、もろもろの天をとおって行かれた大祭司なる神の子イエスがいますのであるから、わたしたちの告白する信仰をかたく守ろうではないか。この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。」[14]
「御子は、見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先だって生れたかたである。万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られたからである。これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである。彼は万物よりも先にあり、万物は彼にあって成り立っている。そして自らは、そのからだなる教会のかしらである。彼は初めの者であり、死人の中から最初に生れたかたである。それは、ご自身がすべてのことにおいて第一の者となるためである。神は、御旨によって、御子のうちにすべての満ちみちた徳を宿らせ、そして、その十字架の血によって平和をつくり、万物、すなわち、地にあるもの、天にあるものを、ことごとく、彼によってご自分と和解させて下さったのである。」[15]
私たちが神の御前でいつまでも生きることができるよう、ご自身の命を与えてくださった方の誕生を祝うにあたり、全員が祝福されたクリスマスを過ごせますように。そして、一人ひとりが、主からいただいた愛と真実を他の人たちと分かち合い、それによって、彼らもまた、主を知り、主の救いの恵みの力を知るに至りますように。
注:
聖書の言葉は、特に明記されていない場合、日本聖書協会の口語訳聖書から引用されています。
1 申命 18:15.
2 イザヤ 7:14.
3 イザヤ 9:6–7.〈新改訳〉
4 民数 24:17.
5 詩篇 2:6–8.
6 イザヤ 11:1–4.
7 ミカ 5:2.
8 2コリント 8:9.
9 1テモテ 1:15.
10 1テモテ 3:16.
11 ヘブル 2:14–15,17
12 ピリピ 2:5–8.
13 ガラテヤ 4:4–6.
14 ヘブル 4:14–16.
15 コロサイ 1:15–20.
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