主は生きている!

著者: ピーター・アムステルダム

4月 30, 2011

[He's Alive!]

April 22, 2011

それは弟子が召しに応えて主に従うようになってから3年ほど経った頃でした。召しに応えた時の経緯は、さまざまです。ナタナエルは、彼こそがほんとうのイスラエル人であり、その心には偽りがないと言われました。[1] ペテロとその兄弟アンデレは、海に網を降ろしていた時に、「わたしについて来なさい。あなたがたを人間をとる漁師にしてあげよう」という言葉を聞きました。[2] マタイは取税所に座っていました。[3] それからの3年間は、彼らの人生で最も興奮させられる年月となったのです。

彼らは信じられないような出来事を目にしました。病人が奇跡的にいやされ、悪鬼に取り憑かれた人が救出され[4]、ほんの少しのパンと魚で5千人の人が腹一杯食べ[5]、その後もこのようにして群衆に食べ物が与えられたことがありました。[6] ある日、葬式の列が通りを進んでいた時、イエスは息子を亡くした母親の悲しみに心を打たれ、葬列を止めて棺桶に手を触れられました。すると、青年は息を吹き返して立ち上がったのです。[7] 死人が生き返ったのはその時だけではありませんでした。イエスが部屋に入られた時にはすでに息を引き取っていた少女も、イエスが去られた時には生き返っていたのでした。[8] ラザロも、死後4日経っているのに、墓から呼び出され、生きて出てきました。[9]

イエスはまた、洞察に満ちたたとえ話もされました。それらのたとえ話には奥深い真理が隠されており、それが理解できるほど喜んで受け入れる心を持つ人には、その意味が明らかになったのです。[10] イエスは、話を聞こうとして周りに集まって来た群衆を教えられたことも何度かありましたが、一度、群衆がイエスをとらえて無理矢理王に仕立て上げようとしたことさえありました。[11] また、イエスは最も近く従っていた弟子たちを静かな場所に連れて行き、そこで休んだり、弟子たちを手ずから教えたりされたのでした。[12]

じつに興奮の渦巻く日々でした。

もちろん、毎日このような良い出来事ばかりだったのではありません。反対に遭ったこともありました。イエスに、またイエスの説いた教えに同意しない人たちもいました。そういう人たちはイエスに異議を唱え、イエスの教えが間違っていることを証明しようとしました。けれども、イエスの答えは大いなる知恵と権威、そして何よりも愛に満ちていました。[13] イエスに挑戦していた人たちからすれば、それを愛とはとらえなかったでしょうが、イエスを信じていた人たちはその答えに、そして何よりも、イエスの行動に深い愛を見いだしたのでした。イエスのすべてが、他の人への愛と憐れみに根ざしていたのでした。イエスは彼らにとって最も素晴らしい人だったのです。そして、彼らはイエスを深く愛していました。

次第に、イエスの反対勢力はますます強くなり、彼らは何が何でもイエスを阻止しようとしました。しかし、そのような動きがある中、ある日エルサレムの町の外で群衆がイエスを見つけると、ヤシの葉を振って、「ダビデの子にホサナ!」と叫びました。[14] イエスの宗教的対立者は、イエスの人気ゆえに手を出すことを恐れていましたが、同時に、イエスの行動が原因で当局が介入し、ついには自分たちの有力な立場を失ってしまうことも恐れていたのでした。[15]

その3年間は、不思議、希望、興奮、学びといった素晴らしいことの連続でした。弟子たちはそれが何年も続くと思っていました。イエスが権威ある地位に就く時、自分たちの内、誰が一番偉くなるのだろうかと議論し合ったこともあったほどです。[16]

そしてある時、あの出来事が起こりました。イエスは逮捕され、一日も経たない内に犯罪人として処刑されたのです。弟子たちが抱いていた将来への夢と希望は粉々になってしまいました。愛した主がいなくなったのですから。それまでの年月に終止符が打たれたのです。イエスが語られた通りの将来とはなりませんでした。イエスは死なれたのです。

彼らは悲しみ、混乱していました。怖くてたまらず、家に錠をかけて隠れていました。慣れ親しんでいたことの数々、携わってきた仕事、深く知るようになった愛、そのすべてが不意に終わったことは、彼らにとってショックでした。ほぼ瞬時の内にすべてが終わったのです。将来の展望も真っ暗としか思えませんでした。

それから3日後、朝早く、主の弟子であった女性たちが墓を訪れましたが、イエスの体はそこにありませんでした。他の弟子たちに話しても、誰にも信じてもらえません。[17] ペテロとヨハネは墓まで走って見に行き、その話が本当であることを知りました。そこにはイエスはいなかったのです。なぜかは理解できなくとも、確かに体はそこにありませんでした。[18]

その後、弟子たちが錠をかけて隠れていた部屋の中に、突然イエスが現われました。自分たちの愛し、従ってきたイエス、むごたらしい拷問を受け殺されたイエスが、目の前に立っておられたのです。[19]

イエスは生きておられました!

イエスは死からよみがえり、弟子たちの所に戻られたのでした。イエスがそこにおられたことで、すべてが変わりました。犯罪者として処刑されたのにも関わらず、イエスが生きてそこに立っておられるという事実は、イエスが語られたすべて、行なわれたすべてが、神からのものであることの実証でした。イエスが御自身に関して語られた言葉は真実でした。よみがえりであり、命であること[20]、3日のうちにこの神殿を建て直すと言われたこと[21]、自分は殺されるが復活すると言われたこと[22]、それらは真実だったのです。これらの言葉が真実であることは、イエスがそこにおられることで明らかでした。彼らの信仰は誤り導かれていたのではありませんでした。イエスは自分たちを裏切るような、偽救世主ではありませんでした。信じた通りの方だったのです。[23] 弟子たちの信仰と希望が新たにされました。主が目の前におられたことで、それまでに起こったすべてのことの意味が新たになりました。その前の数日間についての見方ががらりと変わりました。あれは敗北ではなく、勝利だったのです。

まもなくして、イエスは昇天されました。もはやその体は弟子たちと一緒にはありませんでしたが、聖霊が送られて、彼らの内に留まりました。聖霊はいつも共にいて、彼らを真実と愛に導き、また、彼らがそれまでに得た信仰を分け合うよう導かれました。[24] イエスは肉において一緒におられる間に、弟子たちに多くのことを教えられました。そして、あらゆる所に行って、イエスのこと、イエスの愛、命、死、復活、全ての人が受け取れる救いのことを、人々に伝えるようにとお命じになりました。[25]

イエスと共に暮らし、働くという素晴らしい日々は終わりました。外に出て行って、人々に手を差し伸べる時代が始まったのです。新しい状況に順応するには時間がかりましたが、彼らはイエスが言われたことを行いました。あちこちの町や国に出て行って、今まで会ったことのない人々に出会い、新しい友を作り、人々をイエスに導いたのです。また、コミュニティを築き、イエスから教わったことを他の人に教えました。そして来る日も来る日も、来る年も来る年も、宣教に携わり、人々の心を一つづつ勝ち取っていきました。困難、試練、患難にも出遭いましたが、死に至るまでがんばり通しました。それが、彼らの時代、またその後の時代の世界に大きな影響を与えたのです。

イエスの復活はすべてを変えました! 弟子たちは、イエスがまだ生きておられることで力を与えられ、今まで慣れ親しんだ枠を超え、過去のやり方を捨てて、新しい生き方をするようになったのです。その新しい生き方とは、主の愛と救いを他の人に宣べ伝えることでした。それによって、信仰がその後の全ての世代に効果的に受け継がれていったのでした。

このすべての鍵となるのは、イエスが死からよみがえられたという事実です。それが違いをもたらしたのです。それ以前とは異なり、イエスの肉体は弟子と共になかったものの、聖霊を通して、それまで以上に近くにおられたのです。イエスはなお奇跡を行い、死人をよみがえらせ、助けを必要としている人に驚くべき答えを与え、愛や深い同情、憐れみを表し、救いの良き知らせをもたらすことがおできになりました。ただ、イエス自身が直接それをされるのではなく、弟子たちを通してそうされたのです。どうしてそんなことができたのでしょう。イエスは生きていたからです。イエスは引き続き弟子たちの内にいて、弟子たちを通して働かれたのです。それ以来、イエスはずっと、ご自身を愛し、従ってくる人たちの中で、同じように生きておられます。

イースターはイエスの復活を祝う日です。主が実際、生きておられることをお祝いしているのです。イエスは、死、地獄、サタンに勝利されました。イエスは私たちの罪をあがなってくださいました。イエスは私たち一人一人のために生き、愛し、死んでくださいました。そして2千年前にこの世で弟子たちと一緒におられた時と同様に、今日も私たちと一緒にいてくださるのです。

イエスは生きておられます! 弟子たちは最初、目の前の状況しか見ていなかったので、イエスが十字架にかけられ、先に世を発ち、もう自分たちとは共におられなかった少しの間、それを理解できませんでした。しかし、それはつかの間のことでした。たとえ実際に状況は以前と異なっていても、イエスが生きておられること、イエスの愛、真実、憐れみ、イエスの言葉や行動は以前と変わりなく自分たちと共にあることをいったん悟ると、弟子たちの混乱、恐れ、不安は過ぎ去ったのでした。イエスは生きていて、彼らを通して世界を変え、真実、愛、あがない、救いを広めておられたのでした。

主は今日も変わりなく生き、あなたを通して同じ事を行なっておられます。あなたがどんな状況にいようと、何が変わろうと、どんなに困難な状況だろうと、イエスはあなたの内に生きておられます。イエスの力、塗油、御霊は、あなたと共にあります。イエスは最初の弟子たちや、その後召しに応えた人すべてに使命を果たすための力を与えられましたが、その力は今でも活きています。

私たちがどこにいようと、イエスは私たちと一緒です。いかなる状況でも、いかなる事態でも、遠方の国にいようが、生まれ故郷にいようが、イエスは私たちと共にいて、私たちが主にしていただく分だけ、私たちを通して働かれます。イエスは生きておられます。人々はそれを知らなければなりません。人々はそれを実感しなければなりません。イエスという方があなたの内で生き、あなたの命を通してご自身の命を表しておられるのを見ることは、人々にとってそれを理解する決め手ともなるのです。

イエスを他の人たちに分け合いましょう。イエスの霊があなたの内にいますことを人々に見てもらいましょう。あなたが語る言葉を通して、イエスの言葉を聞いてもらいましょう。あなたの愛ある行為を通して、あなたの深い同情と思いやりを通して、イエスを感じてもらいましょう。人々に主をもたらし、イエスのことを知ってもらい、人々がイエスとつながるとりもち役をすることで、今日の混乱した世界でもイエスが生きておられることを示しましょう。それによって、イエスが生きておられることが皆にわかるようにです。


[1]イエスはナタナエルが自分の方に来るのを見て、彼について言われた、「見よ、あの人こそ、ほんとうのイスラエル人である。その心には偽りがない」。ナタナエルは言った、「どうしてわたしをご存じなのですか」。イエスは答えて言われた、「ピリポがあなたを呼ぶ前に、わたしはあなたが、いちじくの木の下にいるのを見た」。ナタナエルは答えた、「先生、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」。ヨハネ 1:47–49

[2] さて、イエスはガリラヤの海べを歩いて行かれ、シモンとシモンの兄弟アンデレとが、海で網を打っているのをごらんになった。彼らは漁師であった。イエスは彼らに言われた、「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」。すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った。マルコ 1:16–18

[3] さてイエスはそこから進んで行かれ、マタイという人が収税所にすわっているのを見て、「わたしに従ってきなさい」と言われた。すると彼は立ちあがって、イエスに従った。マタイ 9:9

[4] イエスはガリラヤの全地を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった。そこで、その評判はシリヤ全地にひろまり、人々があらゆる病にかかっている者、すなわち、いろいろの病気と苦しみとに悩んでいる者、悪霊につかれている者、てんかん、中風の者などをイエスのところに連れてきたので、これらの人々をおいやしになった。マタイ 4:23–24

[5] イエスは舟から上がって、大ぜいの群衆をごらんになり、彼らを深くあわれんで、そのうちの病人たちをおいやしになった。夕方になったので、弟子たちがイエスのもとにきて言った、「ここは寂しい所でもあり、もう時もおそくなりました。群衆を解散させ、めいめいで食物を買いに、村々へ行かせてください」。するとイエスは言われた、「彼らが出かけて行くには及ばない。あなたがたの手で食物をやりなさい」。弟子たちは言った、「わたしたちはここに、パン五つと魚二ひきしか持っていません」。イエスは言われた、「それをここに持ってきなさい」。そして群衆に命じて、草の上にすわらせ、五つのパンと二ひきの魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福し、パンをさいて弟子たちに渡された。弟子たちはそれを群衆に与えた。みんなの者は食べて満腹した。パンくずの残りを集めると、十二のかごにいっぱいになった。食べた者は、女と子供とを除いて、おおよそ五千人であった。マタイ 14:14–21

[6] イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた、「この群衆がかわいそうである。もう三日間もわたしと一緒にいるのに、何も食べるものがない。しかし、彼らを空腹のままで帰らせたくはない。恐らく途中で弱り切ってしまうであろう」。弟子たちは言った、「荒野の中で、こんなに大ぜいの群衆にじゅうぶん食べさせるほどたくさんのパンを、どこで手に入れましょうか」。イエスは弟子たちに「パンはいくつあるか」と尋ねられると、「七つあります。また小さい魚が少しあります」と答えた。そこでイエスは群衆に、地にすわるようにと命じ、七つのパンと魚とを取り、感謝してこれをさき、弟子たちにわたされ、弟子たちはこれを群衆にわけた。一同の者は食べて満腹した。そして残ったパンくずを集めると、七つのかごにいっぱいになった。食べた者は、女と子供とを除いて四千人であった。マタイ 15:32–38

[7] そののち、間もなく、ナインという町へおいでになったが、弟子たちや大ぜいの群衆も一緒に行った。町の門に近づかれると、ちょうど、あるやもめにとってひとりむすこであった者が死んだので、葬りに出すところであった。大ぜいの町の人たちが、その母につきそっていた。主はこの婦人を見て深い同情を寄せられ、「泣かないでいなさい」と言われた。そして近寄って棺に手をかけられると、かついでいる者たちが立ち止まったので、「若者よ、さあ、起きなさい」と言われた。すると、死人が起き上がって物を言い出した。イエスは彼をその母にお渡しになった。人々はみな恐れをいだき、「大預言者がわたしたちの間に現れた」、また、「神はその民を顧みてくださった」と言って、神をほめたたえた。ルカ 7:11–16

[8] イエスが、まだ話しておられるうちに、会堂司の家から人々がきて言った、「あなたの娘はなくなりました。このうえ、先生を煩わすには及びますまい」。イエスはその話している言葉を聞き流して、会堂司に言われた、「恐れることはない。ただ信じなさい」。そしてペテロ、ヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネのほかは、ついて来ることを、だれにもお許しにならなかった。彼らが会堂司の家に着くと、イエスは人々が大声で泣いたり、叫んだりして、騒いでいるのをごらんになり、内にはいって、彼らに言われた、「なぜ泣き騒いでいるのか。子供は死んだのではない。眠っているだけである」。人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスはみんなの者を外に出し、子供の父母と供の者たちだけを連れて、子供のいる所にはいって行かれた。そして子供の手を取って、「タリタ、クミ」と言われた。それは、「少女よ、さあ、起きなさい」という意味である。すると、少女はすぐに起き上がって、歩き出した。十二歳にもなっていたからである。彼らはたちまち非常な驚きに打たれた。マルコ 5:35–42

[9] イエスはまた激しく感動して、墓にはいられた。それは洞穴であって、そこに石がはめてあった。イエスは言われた、「石を取りのけなさい」。死んだラザロの姉妹マルタが言った、「主よ、もう臭くなっております。四日もたっていますから」。イエスは彼女に言われた、「もし信じるなら神の栄光を見るであろうと、あなたに言ったではないか」。人々は石を取りのけた。すると、イエスは目を天にむけて言われた、「父よ、わたしの願いをお聞き下さったことを感謝します。あなたがいつでもわたしの願いを聞きいれて下さることを、よく知っています。しかし、こう申しますのは、そばに立っている人々に、あなたがわたしをつかわされたことを、信じさせるためであります」。こう言いながら、大声で「ラザロよ、出てきなさい」と呼ばわれた。すると、死人は手足を布でまかれ、顔も顔おおいで包まれたまま、出てきた。イエスは人々に言われた、「彼をほどいてやって、帰らせなさい」。ヨハネ 11:38–44

[10] それから、弟子たちがイエスに近寄ってきて言った、「なぜ、彼らに譬でお話しになるのですか」。そこでイエスは答えて言われた、「あなたがたには、天国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていない。おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。だから、彼らには譬で語るのである。それは彼らが、見ても見ず、聞いても聞かず、また悟らないからである」。マタイ 13:10–13

[11] イエスは人々がきて、自分をとらえて王にしようとしていると知って、ただひとり、また山に退かれた。ヨハネ 6:15

[12] イエスは山に登って、弟子たちと一緒にそこで座につかれた。ヨハネ 6:3

[13] そこで、彼らは機会をうかがい、義人を装うまわし者どもを送って、イエスを総督の支配と権威とに引き渡すため、その言葉じりを捕えさせようとした。ルカ 20:20

[14] 弟子たちは出て行って、イエスがお命じになったとおりにし、ろばと子ろばとを引いてきた。そしてその上に自分たちの上着をかけると、イエスはそれにお乗りになった。群衆のうち多くの者は自分たちの上着を道に敷き、また、ほかの者たちは木の枝を切ってきて道に敷いた。そして群衆は、前に行く者も、あとに従う者も、共に叫びつづけた、「ダビデの子に、ホサナ。主の御名によってきたる者に、祝福あれ。いと高き所に、ホサナ」。マタイ 21:6–9

[15] そこで、祭司長たちとパリサイ人たちとは、議会を召集して言った、「この人が多くのしるしを行っているのに、お互は何をしているのだ。もしこのままにしておけば、みんなが彼を信じるようになるだろう。そのうえ、ローマ人がやってきて、わたしたちの土地も人民も奪ってしまうであろう」。ヨハネ 11:47–48

[16] それから彼らはカペナウムにきた。そして家におられるとき、イエスは弟子たちに尋ねられた、「あなたがたは途中で何を論じていたのか」。彼らは黙っていた。それは途中で、だれが一ばん偉いかと、互に論じ合っていたからである。マルコ 9:33–34

[17] イエスと一緒にガリラヤからきた女たちは、あとについてきて、その墓を見、またイエスのからだが納められる様子を見とどけた。そして帰って、香料と香油とを用意した。それからおきてに従って安息日を休んだ。週の初めの日、夜明け前に、女たちは用意しておいた香料を携えて、墓に行った。ところが、石が墓からころがしてあるので、中にはいってみると、主イエスのからだが見当らなかった。そのため途方にくれていると、見よ、輝いた衣を着たふたりの者が、彼らに現れた。女たちは驚き恐れて、顔を地に伏せていると、このふたりの者が言った、「あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ。まだガリラヤにおられたとき、あなたがたにお話しになったことを思い出しなさい。すなわち、人の子は必ず罪人らの手に渡され、十字架につけられ、そして三日目によみがえる、と仰せられたではないか」。そこで女たちはその言葉を思い出し、墓から帰って、これらいっさいのことを、十一弟子や、その他みんなの人に報告した。この女たちというのは、マグダラのマリヤ、ヨハンナ、およびヤコブの母マリヤであった。彼女たちと一緒にいたほかの女たちも、このことを使徒たちに話した。ところが、使徒たちには、それが愚かな話のように思われて、それを信じなかった。ルカ 23:55–56, 24:1–11

[18] そこでペテロともうひとりの弟子は出かけて、墓へむかって行った。ふたりは一緒に走り出したが、そのもうひとりの弟子の方が、ペテロよりも早く走って先に墓に着き、そして身をかがめてみると、亜麻布がそこに置いてあるのを見たが、中へははいらなかった。シモン・ペテロも続いてきて、墓の中にはいった。彼は亜麻布がそこに置いてあるのを見たが、イエスの頭に巻いてあった布は亜麻布のそばにはなくて、はなれた別の場所にくるめてあった。すると、先に墓に着いたもうひとりの弟子もはいってきて、これを見て信じた。しかし、彼らは死人のうちからイエスがよみがえるべきことをしるした聖句を、まだ悟っていなかった。ヨハネ 20:3–9

[19] その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、「安かれ」と言われた。そう言って、手とわきとを、彼らにお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。ヨハネ 20:19–20

[20] イエスは彼女に言われた、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」。マルタはイエスに言った、「主よ、信じます。あなたがこの世にきたるべきキリスト、神の御子であると信じております」。ヨハネ 11:25–27

[21] イエスは彼らに答えて言われた、「この神殿をこわしたら、わたしは三日のうちに、それを起すであろう」。そこで、ユダヤ人たちは言った、「この神殿を建てるのには、四十六年もかかっています。それだのに、あなたは三日のうちに、それを建てるのですか」。イエスは自分のからだである神殿のことを言われたのである。ヨハネ 2:19–21

[22] それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日の後によみがえるべきことを、彼らに教えはじめ、マルコ 8:31

[23] そこでイエスは彼らに言われた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。シモン・ペテロが答えて言った、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。すると、イエスは彼にむかって言われた、「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である」。 マタイ 16:15–17

[24] 五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。 使徒行伝 2:1–4

[25] それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。 マタイ 28:19–20

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