著者: ピーター・アムステルダム
11月 26, 2021
人生において困難な時期にある時、孤独に感じ、自分一人で闘っているように思えることがよくあります。そして、孤独で独りぼっちに感じていると、絶望感が生み出されることがあるものです。聖書の冒頭にあるように、神は私たちが神や他の人たちと交流しながら生活するように造られました。他の人、特に他の信者との交流から、目的や意味や説明責任が生まれ、励ましや感謝が得られ、私たちの人生に喜びとインスピレーションがもたらされるのです。また、それによって、毎日の行動にメリハリがつき、日々の仕事がもっとやりがいのあるものとなります。
しかし、他の人とのつながりを感じられなくなると、孤独とは関係ないように思える人生の他の分野にまで連鎖反応が起こり、ネガティブな影響を及ぼすことがあります。テレビ、食事、アルコール、ゲーム、インターネット・サーフィン、ソーシャルメディアといった他のもので、空しさを埋めようとすることもあるでしょう。それによって、精神的、身体的、霊的な健康状態に、影響を受けるかもしれないのです。
他の人からの助けが必要な時、それを認識するのは大切なことです。信頼している誰かが「元気ですか」と尋ねてきた時、もし物事がうまく行っていないのであれば、正直に「あまり元気じゃないです」と告げ、祈りや助けを求めるようにしましょう。自分がどんな気分であるかを知らせることで、相手の人は慰めや助けの手を差し伸べることができるようになるからです。
多くの時、人は自分が孤独だとは言いません。そういった状態にあることを恥ずかしく思ったり、どうせ誰も気にかけてくれないと感じたりするからです。交流がある人に連絡を取り、どうしているか確認することは大切です。悩み、落ち込んでいるようなら、こちらから手を差し伸べて、話を聞き、励ましたり祈ったり、何らかの力になることができます。
誰かと会う時には、「あわれみの心、慈愛[親切]、謙そん、柔和、寛容」を持って一人一人を見るといいでしょう。(コロサイ3:12) 私たちがキリストの使者(使節)として受けている召命(2コリント5:20)は、ただ何かのついでに会っただけの相手だとしても、常に主の愛とあわれみを示し、その人の人生にいい影響を及ぼそうと努めることです。ちょっとした親切な行為によって、その人の孤独を和らげ、自分を気にかけている誰かがいるんだと感じさせてあげることができます。「主は恵みふかく、正しくいらせられ、われらの神はあわれみに富まれる。」(詩篇116:5)
私たちが、さまよい孤独でいる人に手を差し伸べるという任務を与えられていることについて、マリアは次のように説明しています。
イエスの弟子である私たちは、大勢の人の中に乗り出して、さまよい、沈みかけ、溺れかけている人々を探し出し、彼らに命や希望や真理を与えるよう召されています。私たちには神の素晴らしい慰めや、御言葉の力や、主がその子ら全員に約束された将来についての知識があります。そして自分たちが受け取ったものを、希望や慰めをことごとく失い、自分を愛してくださる神のことも、入れるかもしれない天国のことも知らない人々と、分かち合うよう召されているのです。
人々は神の愛や真理を切実に必要としています。私たちがイエスにあって持っている、喜びと心の安らぎと永遠の命を、彼らにも分かち合うために、手を尽くしましょう。主は私たちに、泣く者と共に泣き、まだ主を知らない人々を思って、心砕かれるようにと言われます。
主を見つける前の自分が、どんな風だったか覚えていますか。おそらく絶望感に襲われ、人生が無意味のように思われたのではないでしょうか。主はあなたが助けを必要としていた時に、その心の叫びを聞いて、手を差し伸べ、腕に抱きしめてくださいました。そしてそうするために、おそらく、心が主の素晴らしい愛であふれている誰かを、用いられたことでしょう。主はそれと同じことをするよう、私たちに求めておられます。さまよい、孤独な人に、主の愛と真理を分かち合うようにと。
ほんのわずかな触れ合いであっても、それがどれほどの影響を与えうるかに、私たちは驚かされるかもしれません。相手の孤独を和らげるという点でもそうですが、私たち自身にも、充実感と目的意識をもたらすのです。たとえ自分の知らない相手であっても、誰かとのちょっとした触れ合いは、私たちの人生を豊かにし、相手の人も私たち自身も、人とのつながりを感じて、孤独感が和らぎます。デール・カーネギーは、こう語っています。「あなたには、この世界の幸せの総量を、たった今、増加させる力があります。どのようにかと言うと、孤独な人や落胆した人に、心からの感謝の言葉を一言かければいいのです。あなたは、今日自分がかけた親切な言葉を、明日には忘れているかもしれませんが、相手の人は、その言葉を生涯に渡って大切にするかもしれません。」
私たちが人生で孤独に耐える季節にあるなら、信仰の錨の役割を果たす、もう一つ大切なパズルの一片があります。それは、「私たちは決して独りぼっちではない」ということです。どんな状況にあっても、私たちは一人ではありません。イエスが常に、毎日毎秒、私たちと共におられます。「『山は移り、丘は動いても、わがいつくしみはあなたから移ることなく、平安を与えるわが契約は動くことがない』とあなたをあわれまれる主は言われる。」(イザヤ54:10) 主が私たちを忘れることなどありません。
神の子である私たちは、神が私たちを見失うことは決してないと安心していられます。生まれる前にでさえ、神は私たちを見ておられました。「わたしが隠れた所で造られ…たとき、わたしの骨はあなたに隠れることがなかった。あなたの目は、まだできあがらないわたしのからだを見られた。」(詩篇139:15–16)…詩篇34:15には、こうあります。「主の目は正しい人をかえりみ、その耳は彼らの叫びに傾く。」 ある賛美歌作者は、声高にこう言いました。「スズメに目を注がれる主が、私のことも見守っておられると知っている。」
私たちが主の目に留まらないことなどないので、主の頭から離れることもありません。私たちがよく知っている、驚くべき祈りである詩篇139篇は、私たちがどこにいて、どんな心理状態にあろうと関係なく、私たちの創造主が共にいてくださると教えています。私たちがどこにいようと、神は見ておられます。私たちのことを何もかも詳しく知っておられます。ですから、この詩篇にはこうあるのです。「神よ、あなたのもろもろのみ思いは、なんとわたしに尊いことでしょう。その全体はなんと広大なことでしょう。わたしがこれを数えようとすれば、その数は砂よりも多い。」(詩篇139:17–18) もしあなたが最近、広大な海岸を訪れ、どこまでも続く砂浜を歩いたことがあるなら、この詩篇で述べられている天の父の計り知れない世話と配慮を感じ取ることができるでしょう。…
私たちの父が私たちを忘れることはありません。私たちは常に、主の目に留まり、主の頭から離れることがないのです。—ダニエル・ヘンダーソン [1]
ある若い女性が、こう書いています。
孤独に感じている時、イエスは私たちをご自分に引き寄せたいのです。いつでも頼りにでき、決して失望させることのない、私たちの一番の真の親友となりたいと思っておられます。ご自分との友情を固く強いものにするため、イエスはこの孤独の時を用います。この友情があるなら、たとえ人生でどんなことが起こっても、私たちは切り抜けることができるとご存知だからです。
孤独にさいなまれていたとしても、絶望する必要はありません。イエスはあなたのことを誰よりも深く愛し、誰よりもよく理解してくださると自分に言い聞かせるのです。その内に、この孤独の時期は姿を変えた贈り物だと分かるでしょう。主が与えてくださるこの贈り物は、計り知れない愛で包まれており、それによって私たちは、試練を超えて後に残る宝を手に入れることができるのです。[2]
孤独について読んだり祈ったりしている内に、これまで十分に理解していなかったある真実に気づきました。天において永遠にイエスや父と共にいることに定められた、万物の神の子である私たちが、この世において全く孤独に感じなくてすむわけではない、ということです。この地上で完全に満足するよう定められてはいません。どれだけ満ち足りた人生を送り、家族や友人に囲まれていたとしても、常にどこかに空虚感があるものです。クラリッサ・モールは、次のように書いています。
私たちが一人でいる時に、イエスがそばにいてくださると分かってはいますが、だからといって、それが十分な慰めとならないこともあります。それには、いい理由があってのことでしょう。C・S・ルイスが『Mere Christianity(邦題:キリスト教の精髄)』で書いているように、「この世のいかなる経験にも満たされることのない欲求が自分の内にあるとしたなら、その最もいい説明とは、私たちはこことは別の世界のために造られたということでしょう。」
エイミー・シンプソンも、著書の『Blessed Are the Unsatisfied(心の満たされていない人々は、幸いである)』で、ルイスと同様のことを言っています。「神は、私たちが恋しく思う気持ちをまだ取り除きたくはないのでしょう。信仰が深まり、イエスとより親しい関係になるなら、今ここでの人生にあまり満足しなくなるものです。」
私たちが孤独に感じる時、イエスがそばに来てくださるのは確かです。孤立して荒野にいる時に、私たちに会いに来て、魂を生き返らせ、喜びをもたらし、心を慰め、平安を与えると約束しておられます。イエスと共にいる最中でさえ、孤独にさいなまれることはあります。それは独りぼっちのしるしというよりも、霊が休まっていないしるしであり、正常なことであると知って、安心してください。ずっとなくならないこの孤独感は、私たちが交わりを激しく切望していることの表れであり、その切望は、私たちがいつの日か顔を合わせてイエスと会う時に初めて[完全に]かなうのです。」[3]
他にも、この概念をうまく説明している人がいました。私たち一人一人が、この人の書いていることを自分にどう当てはめられるのか、じっくりと考えてみる価値があると思います。これは、私たちの人生の困難な時期において慰めをもたらすような洞察を与えてくれることでしょう。それは、スティーブ・デウィットの書いた、次の言葉です。
創世記1章27節で明らかなように、人類が存在し、デザインされた最初の時から、私たちは神によって、神のために造られています。それによって私たちには、神との関係を持つための霊的な関係構築能力が与えられており、神だけがその関係を完全で満足の行くものにすることができるのです。アウグスティヌスの有名な言葉にあるように、「私たちの心は、あなたの内に休息を見出すまで休まることがありません。」
私たちは孤独のことを、どんなことをしてでも回避すべき敵であるとみなしています。しかし、贖いが完成するまでは、私たちの人生から孤独感がなくなることはありません。神は、私たちの注意を引くために、それを用いられます。ですから、孤独の波に見舞われる時、私は意識してこう考えるようにしています。「このように感じる理由は何だろうか。それは、私が神のために造られたからだ。」 エリザベス・エリオットの助言に従い、私も孤独の時を一人の時に変え、一人の時を祈りの時に変えるようにしています。そうすれば、孤独は悪魔のような存在ではなくなります。それどころか、案内人となり、友人となるのです。…
私には妻がいなくても、キリストがいます。夫がいない人でも、キリストがいます。家族から離れている人でも、キリストがいます。夫と死別した人でも、キリストがいます。夫や妻から相手にされない人でも、キリストがいます。あなたも私も主のために造られたのですから、主がいるということは、いつの日か二度と孤独を感じなくてすむことを保証する主の御霊がいてくださるということです。…心が寂しく感じる時、主はそこにおられるのであり、主と共に孤独の谷を通り抜ける道があるのです。[4]
私には、かなり人付き合いの良い社交的な友人がいます。しばらく前に夫と死別し、この一年は一人で暮らしていました。それはたやすいことではなく、かなり孤立した感じがし、彼女自身の言葉で言えば、「ひとり時間が多すぎた」とのことです。でも彼女は「パパやイエスとのおしゃべり」と呼ぶ、新しい習慣を築き上げたのです。それは、毎日2時間かかる犬の散歩の時に行われます。
この習慣が特別なものである理由として話してくれたのは、毎日のこの時間を、散歩しながら「声に出してイエスや神に話しかける」時としたことです。そうしながら、自分自身や他の人たちのために祈って、心にあることを打ち明けるのですが、まるで「自分のすぐそばに」いるかのように、主と父に話しかけるのです。時には一緒に笑ったりもするし、その臨在はとてもリアルで、パパとイエスが手を握ってくれているように感じるほどだと教えてくれました。(犬しかいないのに話をしたり笑ったりしている姿を見た人からは、「頭のいかれたおばあさん」と呼ばれるかもしれないけれど、実際には、霊の内で闘う戦士なのだと、彼女は言っていました。)
「この状況について素晴らしいのは、孤独に感じることの多かった困難な一年を振り返ってみるとはっきりしているように、イエスやパパとの関係がますます親密なものになり、私の人生における主の臨在をしっかりと認識できるようになったことです。イエスとパパが、私や私が愛する人たちの人生のすべての詳細に関心を持っておられると、今まで以上に確信しています。この親密さは、私がこれまで受け取ったどんな贈り物よりも素晴らしいものです。」
そして彼女は、こんな記事の抜粋を送ってくれました。
あなたにはイエスという友がいること(ヨハネ15:15)、また、あなたの内には御霊が宿り、この孤独の季節にうまく対処するための力を与えてくださることを忘れてはいけません。…デイン・オートランドは、『Gentle and Lowly(柔和でへりくだった者)』にこう書いています。「キリストが私たちに心を寄せるとは、私たちが地上でどのような友人を持つかどうかに関わらず、キリストが決して裏切ることのない友となってくださるということです。私たちの孤独の苦悩を一緒に耐えるような友情をくださるのです。苦悩は消え去らなくとも、イエスが示される深い友情によって、その痛みは十分耐えられるものとなります。」—ジョー・カーター [5]
最後に、主からのメッセージで締めくくりたいと思います。きっと皆さんの心を励ましてくれることでしょう。
わたしが絶え間なくあなたと共にいるということは、あなたが一人になることは決してないということだ。わたしは、あなたがますますわたしを意識するよう導いているところだが、あなたは人間にすぎず、集中力が長くは持たないことも分かっている。苦しみを味わっている時には、自分が独りぼっちだとか、捨てられたとか感じることもあるだろう。しかし、わたしが一人で十字架にかかって苦しんだのは、あなたが一人で苦悩しなくてすむためなのだよ。あなたは常にわたしと共におり、わたしはあなたの右の手をしっかりとつかんでいる。[6]
わたしはあなたが信じる以上に近くおり、あなたの吸う空気よりもさらに近くある。空気は見えないし、いつでもそこにあるものなので、あなたは普段、空気に囲まれていることを意識しない。それと同じように、目には見えないわたしの臨在は常にあなたの人生にあるけれど、あなたはわたしを認識しないことがよくある。そんな時、あなたは孤独に感じやすくなるのだ。…
わたしの近さを、また、それによってもたらされる安らかな充足感を、あなたが常に味わえるよう、わたしは心から望んでいる。孤独を感じることと、わたしの臨在に気づかないことの間には、密接なつながりがある。これは古くからある問題だ。族長ヤコブが家族から離れて荒野にいた時、自分は一人だという意識が強かった。しかし、わたしは壮麗な夢という形でわたしの臨在を示したのだ。眠りから覚めた時のヤコブの反応は、こうだった。「まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった。」
わたしは常にあなたと共にいるばかりか、あなたの内にいる。あなたの心の奥深くに。わたしはあなたをあるがままに完全に知っており、その知識は無条件の愛に縁取られている。
孤独を感じる時には、わたしの顔を尋ね求める必要があることを思い出しなさい。実に人間らしい空しさを感じながらも、わたしのもとに来なさい。そうすれば、わたしの臨在があなたのすみずみまで生気で満たそう。[7]
キリストの臨在をより深く意識することで、決してなくなることのない帰属感を得られるようになります。主は、「わたしは、決してあなたを離れず、あなたを捨てない」と言われたのです。(ヘブル13:5) 主をほめたたえます。神があなたを祝福し、ご自身の近くにあなたを保ってくださいますように。
1 “Never Forget: You Are Not Forgotten,” Strategic Renewal, https://www.strategicrenewal.com/never-forget-you-are-not-forgotten/
2 “The Gift of Loneliness,” Just1Thing.com.
3 “Bloom Where You’re Quarantined,” Christianity Today, April 1, 2020, https://www.christianitytoday.com/ct/2020/april-web-only/coronavirus-covid-19-bloom-where-youre-quarantined.html
4 “Lonely Me: A Pastoral Perspective,” August 4, 2011, https://www.thegospelcoalition.org/article/lonely-me-a-pastoral-perspective/
5 “What Christians Should Know About Loneliness,” The Gospel Coalition, November 21, 2020, https://www.thegospelcoalition.org/article/the-faqs-what-christians-should-know-about-loneliness/
6 Sarah Young, Jesus Always (Thomas Nelson, 2017).
7 Sarah Young, Jesus Lives (Thomas Nelson, 2009).
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