著者: ピーター・アムステルダム
12月 3, 2021
弟子たちが祈り方を教えてくださいとお願いした時、イエスは幾つかのことを取り上げた中で、日ごとの糧のためにも祈るよう教えられました。地上の命のもろさや、必要なものが満たされることの大切さを、主ご自身も経験し、理解されていたのです。聖書には、神が私たちの必要を満たしてくださることについて、こんな素晴らしい聖句があります。「わたしの神は、ご自身の栄光の富の中から、あなたがたのいっさいの必要を、キリスト・イエスにあって満たして下さるであろう。」(ピリピ4:19) 神は私たちのことをとても愛しているので、人生の浮き沈みの間も世話することを約束しておられます。また、私たちがどんな境遇にあっても、富んでいる時にも乏しい時にも、その中に主の喜びを見出すことを学ぶよう助けてくださいます。(ピリピ4:11–12)
経済的に苦しい時、またはこれまでそういう時があったなら、それはかなりのストレスにもなりえます。特に、支払いの責任を果たすために必要なお金をどこから手に入れたらいいのかが分からない時です。請求書の支払いを済ませ、家族を養えるよう、全力を尽くして頑張ろうとしている時には、経済状態が安定していないことによってストレスと不安という重荷が生み出されることがあります。また、他の人が抱える困難について耳にした時、それを自分のことのように感じてストレスになる場合もあります。他の人の経営難や不況や苦難についてのニュースを読むだけでも、あなたの霊や心の平安に影響を与えることがあるのです。
私たちは困難な時期にあって、聖書の著者たちが何度もしてきたように、過去を振り返ることにより、将来のための励ましを見出すことができると、私は信じています。神はこれまで私たちを失望させたことがありません。私たちはいつも楽な道を歩いてきたわけではなく、誰もが試練や苦悩や損失を体験しています。それでも私たちは、神は目に見える形であれ、目に見えない所であれ、すべてのことを働かせて益をもたらしてこられたと信じることができます。また、振り返ってみれば、いかに神の力強い手が働いて、何度も私たちの必要を満たしてきてくださったかが分かり、勇気が出てきます。
経済的問題について考え、祈っていた時、神を信じて従い、神がその子らの必要を満たしてくださると確信するという、神の言葉にある原則を思い出しました。重要なのは、神の違わぬ約束であり、神が私たちを世話してくださるということです。また、私たちの今日の状況について、イエスが預言で語られたメッセージにも励まされました。その一つを紹介します:
この世界のほぼ全員が、いつかは経済的なプレッシャーにあうものだが、それに対して他の人よりもうまく対処できる人がいる。多くの場合、その違いは、環境というよりも、彼らが誰に助けを求めるかだ。経済的問題を克服する秘訣とは、実は他のどんな問題をも克服する秘訣と同じで、それは、自分にできることをした後は「神という要素」を頼りにすることだ。
わたしは以前、弟子たちにこう語った。「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである。」[1] 神という要素は、すべてを変えることができる。神という要素をそこに加えるなら、あなたも、何でもできるようになる。なぜなら、神とその約束への信仰が、すべての不可能をくつがえすからだ。
あなたの拠り所となる約束には、次のようなものがある:「神は、ご自身の栄光の富の中から、あなたがたのいっさいの必要を、キリスト・イエスにあって満たして下さるであろう。」[2] 「なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。」[3] 「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。」[4]
父が持っているものは皆、わたしのものなので、わたしは全宇宙の富をすべて自由に使うことができる。また、わたしはあなたの幸福と健康を気遣っているのだから、あなたはまず自分にできることを始めた上で、神という要素をそこに加えて、わたしが介入し、あなたにできないことをするよう求めるといい。
自分にできることをすべてやり、いつもの供給手段を使い尽くしたのに、それでも収入の範囲内でやりくりするのに苦労しているとしても、失望してはいけない。わたしは他の方法で供給できる。他の人があなたに対する経済的責任を果たさなかったり、あなたが他の人の決断から不利な影響を受けているとしても、失望してはいけない。わたしは真実な存在であり続ける。災害に襲われ、予期していなかった請求書が来たとしても、失望してはいけない。保険でまかなえない部分は、わたしが補うことができる。経済状態が厳しく、勤め口があまりない時でも、失望してはいけない。わたしは一見不可能な状況にあっても、必要を満たすことができるのだから。
「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。」[5] それはずっと昔にわたしがした約束だが、今でもそれを果たしてあげよう。何が必要かをわたしに告げ、それを満たすようわたしに求めなさい。あなたが自分の分、つまり求め、捜し、門をたたくことをするなら、わたしはわたしの分を果たそう。
お金が乏しい時には、あなたの必要を満たすというわたしの能力に対する信仰が試されることがよくある。わたしの約束は信頼できず、すると言っていたとおりに必要を満たしてはくれないと感じることもあるだろう。しかし、そういった疑いに負けてはいけない。わたしはあなたのために約束を果たすからだ。
あなたや他の人たちが下す選択を含め、数多くの要素が、あなたの祈りの答えられ方に影響するし、あなたの必要を満たすのにわたしが使う手段にも影響する。だから、わたしが気にかけてないとか、必要を満たしてくれないと思って、落胆し、忍耐を切らしてはいけない。時には、条件が整うまで待たなければならないこともあるのだ。
それまでは祝福を数えなさい。わたしがすでにあなたのためにしたこと、あなたに与えたもののゆえに、わたしに感謝しなさい。物質的な安楽よりも大切にすべき物事について、深く考えなさい。たとえば、あなたにとって大切な人たちの愛、真の友、心と思いの平安、また、わたしを知り、わたしを愛することからくる充実感と満足といった、お金では買えないものをだ。そういったものを大切にしなさい。そうすれば、物質的な状況がどうであれ、わたしにあって喜びを見出すだろう。
自分にある祝福を数え、主がすでにしてくださったことを感謝すると言えば、ある友人が、最近取り掛かっていることを教えてくれました。それは、二つのリストを作成することで、一つは「飛び抜けた奇跡」と名付けられており、主が長年、彼女の人生で行われた驚くべきことをすべてまとめたものです。もう一つは、「日々の恵みといつくしみ」と名付けられています。こちらには、主の愛のちょっとした表れ、開かれた扉、祈りの答えといった、日常的な出来事が記されています。神が彼女の人生に臨在し、世話をしてくださっていることを示す、ちょっとしたことの数々です。彼女は最近、とりわけ困難な経験をしていたのですが、その際、主は決して彼女を失望させたことがないと自分に思い出させるために、このリスト作りを始めたそうです。
会話をしている内に、誰かが「ほら、あんなことがあったよね」と熱心に話を始め、主の供給や開かれた扉、癒し、主の介入などについての驚くべき証を語り出したというという経験が、きっとあなたにもあるでしょう。主が過去に私たちをいかに導き案内してこられたか、また私たちの人生を祝福してこられたかを思い起こすことは、私たちの霊にとっていいことです。それは、以前起こったことは、再び起こりうるということを思い出させてくれます。「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない。」(へブル13:8)
今日、そして毎日、主を頼りにし、また、私たちの必要を満たしてくださるという主の約束を頼りにしていいのです。マシュー・ヘンリーもこう語っているように:「能動的な信仰は、まだ果たされる前であっても、約束を感謝できます。神から約束されたということは、手元にお金があるも同然だと知っているからです。」 以下の証は、この原則の良い例です:
ダラス神学校は、創立されて間もなく、経営を続けるために1万ドルを緊急に必要としていました。祈りの会が開かれ、有名な聖書教師であり、当校の講師を務めるハリー・アイアンサイドがこう祈りました。「主よ、あなたは千の丘に家畜を持っておられます。何頭か売りに出して、私たちの必要を満たしてください。」
祈りの会が終わって間もなく、1万ドルの小切手が学校に届きました。それは、緊急の必要があることも、アイアンサイドの祈りの言葉もまったく知らない後援者が、何日か前に送ったものでした。その人はただ、このお金は家畜を何頭か売ってできたお金だと説明してきたのです。[6]
私はこの証を読んでいて、過去に神が良くしてくださったことを思い出すことがいかに祝福であるかと、あらためて思いました。ある親しい友人は、よくこの同じ詩篇50篇10節[7] を引き合いに出して、いたずらっぽく目を輝かせ、こう言います。「さあ、主よ、家畜を売っていただく時が来ました。今回もよろしくお願いします!」
もう一つ、覚えておくべき重要な原則は、与えることに関してです。イエスはこう言われました。「与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう。あなたがたの量るその量りで、自分にも量りかえされるであろうから。」(ルカ6:38) クリスチャンとして、私たちは神の仕事に、また困っている人を助けるために、自分にできる範囲で時間や愛やお金を与えるよう求められているのです。あなたが与え続けるにつれ、主が豊かに与え返してくださるよう、私たちは祈っています。
マリアは、次のように語りました:
私たちの戦いは、時として困難で大変なものに思われるし、実際に困難で大変なこともあります。人生は確かに、私たちの誰にとっても、楽なものではありません。けれども、私たちにはイエスがおられるということを覚えておくべきです。神と共に永遠に生きることができるという約束を持たずに大勢の人々が直面する、苦悩や激しい孤独、焦燥感や絶望、愛や目的の欠如に比べたら、私たちの数々の問題など、大したことではないように思われるでしょう。
主は私たちが他の人々を親身に思いやることを願っておられます。私たちは皆、苦悩や混乱や困難を味わうことがあるので、主から慰めていただいたその慰めで他の人を慰めることができるのです。(参照:2コリント1:4) また、神の愛と御言葉を与えることで、彼らの心の奥深くにある必要が満たされるよう助けることができます。主は私たちが他の人に与えるなら、素晴らしい報いがあると約束しておられるのです。「あなたがたは御国をつぐことを、報いとして主から受けるであろう。あなたがたは、主キリストに仕えているのである。」
何という素晴らしいサイクルでしょう。主は、私たちが他の人に与えるなら、主が私たちに力や信仰や喜びを与えると約束されています。
私たちが主の約束の数々によって勇気づけられますように。神はこれまで常に私たちの窮地を救ってくださったし、「ご自身の栄光の富の中から、あなたがたのいっさいの必要を、キリスト・イエスにあって満たして下さる」という神の約束は、今も有効なのですから。(ピリピ4:19) 祈り続け、扉をたたき続け、新しいことを試して、主が道を開かれると信じ続けましょう。私たちには、「主を求める者は良き物に欠けることはない」という主の約束があるのです。(詩篇34:10)
時々私は、過去のクリスチャンの生涯について考えてみます。私を特に励してくれるのは、ジョージ・ミュラーです。[8]
ジョージ・ミュラー(1805–1898)は、キリスト教福音伝道者であり、ブリストル(イギリス)にある複数の孤児院の運営者です。信仰と祈りによって(お金を誰かに求めることなく)、12万人以上の孤児を助けることができました。また、(船で)32万キロメートルを旅して、42ヶ国でイエス・キリストの福音を宣べ伝え、信者たちに、世界宣教と神への信頼を促しました。ミュラーの日誌には、神の供給の奇跡や叶えられた祈りが、数多く記録されています。
何と驚くべき足跡を残してくれたのでしょう。そういった奇跡の一つを、ここで紹介したいと思います:
ある朝、テーブルの上に皿とコップとボウルは並んでいたけれど、中には何も入っていませんでした。貯蔵室には食料がなく、食べ物を買うお金もなかったのです。朝食はまだかと立ち尽くす子どもたちに、ミュラーは言いました。「子どもたち、学校へは、ちゃんと時間通りに行かないとね。」 そして、手を上げて、こう祈りました。「天の父よ、あなたが今、私たちに与えようとしておられる食事を感謝します。」
その時、玄関をノックする音が聞こえました。ドアを開けると、パン屋がそこにいます。「ミュラーさん、私は昨晩眠れませんでした。こちらには朝食のパンがないような気がしてならなかったんです。主が私に、パンをこちらに届けるよう言っておられるようでした。そこで、2時に起きてパンを焼き上げ、出来たてをお持ちしたんですよ。」
ミュラーから感謝されて、パン屋が立ち去ったかと思えば、またもやドアをノックする音がしました。今度は、牛乳屋です。牛乳運搬車が孤児院の真ん前で故障したので、修理に出すため、子どもたちに新鮮な牛乳をあげて運搬車を空にしたいと言うのです。[9]
チャールズ・スタッド(1860–1931)の偉大な信仰も、称賛に値するものです。スタッドはイギリスの宣教師で、中国とインドとアフリカで、忠実に救い主に仕えました。彼のモットーは、こうでした:「イエス・キリストが神であり、私のために死なれたのであれば、主に捧ぐべき犠牲に大きすぎるものなどない。」[10]
チャールズ・スタッドは、中国で彼の必要を主が満たすためになされたある奇跡について、このように説明しています:
私の家族は私たちの状況について、中国の奥部にいるということ以外、いっさい知りません。備えが底をつき、どんな形であれ、必要なものが誰かから送られてくるという希望はあまりありませんでした。郵便が来るのは2週間に一度だけです。集配人は午後に出発したばかりなので、返信を持ち帰るのは2週間後になります。子どもたちを寝かしつけた後に、夫婦でこの事実を直視しました。郵便集配人が戻ってきて、郵便の中に何もなければ、私たちは飢えに瀕することになります。
その夜は祈りの時間とすることにし、ひざまずいて祈りました。再び立ち上がるまで、20分はその体勢でいたと思います。その20分の間に、言うべきことをすべて神に伝え、私たちの心は軽くなりました。神にそれ以上話し続けることは、畏敬の念を示すことでも、良識あることでもないように思えました。それは、まるで、神は耳が聞こえていないとか、私たちのつたない言葉遣いや状況の厳しさを理解していない、また、「神は私たちが求めない先からすべてご存知である」と御子が言われた言葉の重みを、神は理解していないと言っているようなものです。神ご自身も、「彼らが呼びかけるより先に、わたしは答える」とおっしゃっています。そして、神は確かにそうしてくださいました。
郵便集配人は、決まった時刻に戻ってきました。私たちは素早く郵便の袋を開け、手紙に目を通しましたが、何もないので、顔を見合わせました。私はもう一度袋を手に取り、角を持って振ってみると、また一通の手紙が出てきましたが、その字にまったく見覚えはありません。封を開けて読み始めました。その手紙を読んで、私たちは変わりました。人生全体が変わったと言えます。その手紙には、こう書いてありました:
「理由は分かりませんが、あなたたちに100ポンドの小切手を送るよう、神から命じられました。お会いしたことはありません。あなたたちの話を聞いたことがあるだけで、しかも何度も聞いたわけではないのですが、今晩、神はこの命令を私に与えて、寝かせてくれないのです。なぜこの100ポンドをあなたたちに送るよう命じられたのか、私には分かりません。きっとあなたたちの方がよく知っていることでしょう。とにかく、これを受け取ってください。あなたたちのお役に立つよう望みます。」[11]
主は、長年宣教師をしている人の必要だけを気にかけておられるのではありません。短期間であれ数十年であれ、主に従ってきた人は皆、主が私たちの必要を忠実に満たしてくださることを知っています。神は天の窓を開いて奇跡的に必要を満たすことができるし、私たちの人生の最もささいな細部に至るまで気遣いを示すことができることを、私たちは知っています。神は必ずそうしてくださいます。神がこれまでしてくださったことを忘れずにいましょう。そして、私たちが体験した主の忠実さを思い出して、将来主がしてくださることに関する信仰を強めようではありませんか。
ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか。—ローマ8:32
1 マルコ 10:27.
2 ピリピ 4:19.
3 マルコ 11:24.
4 マタイ 6:33.
5 マタイ 7:7.
6 Today in the Word, MBI, January 1990, p. 36. https://www.sermonsearch.com/sermon-illustrations/4796/cattle-on-a-thousand-hills/
7 「森のすべての獣はわたしのもの。千の丘の家畜らも。」(詩篇 50:10 新改訳2017)
8 主の供給の奇跡に関する話を、こちらのGeorge Muller.orgサイト(英語)で読むことができます:https://www.georgemuller.org/devotional/trusting-god-for-daily-supplies
9 George Muller: Trusting God for Daily Bread, https://harvestministry.org/muller
10 https://www.wholesomewords.org/biography/biorpstudd.html
11 Norman Grubb, C. T. Studd: Cricketer and Pioneer (Christian Literature Crusade, 1982).
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