著者: ピーター・アムステルダム
2月 15, 2022
イエスに従うとは、受身的で気楽なことではなく、余暇に自己満足で行うようなことでもありません。それはチャレンジであり、ライフスタイルであり、召命です。幸いなことに、私たちは、神の言葉に従って歩みながら、できるかぎり証をして神の愛の手本となり、相手をイエスに導こうとすることで、私たちの生き方によって人々に良い影響を与えることができると知っています。当然ながら、毎日が感動と興奮に包まれているわけではなく、ものすごい成果や勝利ばかりでもありません。日常すべきことをただこなしていく、どちらかと言えば単調な日もあります。しかし、大きな違いは、私たちを愛し、私たちのために死んでくださった方のために生きているのだと知っており、その方や他の人たちのためにすることは大切なのだと分かっていることです。私たちはいつか、「良い忠実な僕よ、よくやった。主人と一緒に喜んでくれ」というイエスの言葉を聞く日を楽しみに生きています。(参照:マタイ25:23)
神の約束への信頼と、天国でイエスや救われた主の子どもたちと過ごす栄光に満ちた未来への確信があれば、頑張るための強い意欲が生まれます。私たちは霊の戦いを戦っているのですから、それは大切なことです。私たちは十字架の戦士なのです。
第1テモテ6章12節には、こうあります。「[悪に対して]信仰の戦いを立派に戦い、永遠の命を獲得しなさい。あなたはそのために召され、また、多くの証人の前で[そのために]立派な[信仰の]告白をしたのです。」(英語詳訳聖書)
神とその子どもたちに敵対する、サタンやその悪霊たちという、悪の霊的勢力が存在します。神に反逆する者たちです。彼らは、救いの真実を世にもたらそうとする私たちの働きを妨害し、私たちを主とその奉仕とから引き離そうとします。しかし、神は悪の勢力を含め、すべての被造物を支配しておられ、敗者となるのはサタンです。
チャック・ローレスは、霊的戦いを次のように説明しています:
私たちは、まさに諸々の支配や権威と戦っているのですが(エペソ6:12)、悪魔とその軍勢がこれまで神の支配から抜け出せたことはありません。
エデンの園での堕落以来、悪魔は偽りの教えで私たちを罠にかけ、罪を犯すよう誘惑し、私たちを互いに反目させようとしてきました。悪魔がそうする目的は、私たちが神の栄光を現し、大いなる委任(大宣教命令)を遂行するのを妨げることです。悪魔は、私たちが失われた世界に対する光であり続けることができないよう、私たちを食い尽くそうとしています。(1ペテロ5:8) 私がよく要約して言うことですが、敵である悪魔は、私たちがしくじり(罪に陥り)、あきらめ(がっかりし)、うぬぼれ(傲慢な生き方をし)、引き裂かれ(分裂し)、口を閉ざす(福音を説くのをやめる)ことを望んでいます。
しかし、私たちはこの戦いにおいて、守勢に立っているわけではありません。…私たちが神の武具で全身を固めるのは、自らを守れるようにではなく、敵の王国に進撃し、大いなる委任の仕事を成し遂げられるようになのです。[1]
私たちは一人で戦っているのではないと知ると、勇気が出てきます。イエスご自身も、宣教を開始する前に、サタンと対決されました。イエスの経験を読んで私たちが学べるのは、イエスは神の言葉の真理を引用することによって打ち勝たれたということです。
さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。そして、四十日四十夜、断食をし、そののち空腹になられた。すると試みる者がきて言った、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい。」
イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある。」
それから悪魔は、イエスを聖なる都に連れて行き、宮の頂上に立たせて言った、「もしあなたが神の子であるなら、下へ飛びおりてごらんなさい。『神はあなたのために御使たちにお命じになると、あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう』と書いてありますから。」
イエスは彼に言われた、「『主なるあなたの神を試みてはならない』とまた書いてある。」
次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華とを見せて言った、「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう。」
するとイエスは彼に言われた、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある。」
そこで、悪魔はイエスを離れ去り、そして、御使たちがみもとにきて仕えた。—マタイ4:1–11
霊の領域において、善と悪の間で、つまり、神やその良き軍勢とサタンやその邪悪な軍勢との間で、過酷な戦いが行われていること、そして、私たちは信仰の戦いを勇敢に戦うよう求められていることを、私たちは知っています。使徒パウロは、私たちが神の真理の光を輝かせるため世に出て行くにあたり、争いに飛び込むための支度と備えをするよう指示しています。
最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。—エペソ6:10–12
私たち誰もが、生涯いくども、何らかの霊的・情緒的な戦いに直面します。たとえば、将来の不安、落胆、不満、絶望と失望、怒り、恨み、誘惑、依存、傲慢、不信仰、無気力、信者間の不和、などです。お金のことが心配でたまらず、そのせいで、眠れない夜を過ごしたこともあるでしょう。あるいは、思いがけない病気にかかって、体が弱まり、動けなくなったという人もいるでしょう。そんな時、神のいつくしみや、あなたのために神が持っておられる計画を疑いたくなったかもしれません。将来どうなるのか、誰が世話してくれるのかが心配で、最悪の事態を想定している人もいるでしょう。あるいは、物事がどうもうまく行かず、それは自分または他の誰かの責任だと感じて、後悔や非難の念に悩まされている人もいるかもしれません。また、誰かとぶつかり、恨みで心が蝕まれていることもあるでしょう。
あなたは目に見える敵に直面してはいなくても、霊の敵に直面しているのは確かです。繰り返しになりますが、特に「荒野」にいる時、あなたを滅ぼそうとしている非常にリアルな敵[サタン]がいることを覚えておくと助けになります。食い尽くせるものを、常に探し回っているのです。…敵は、あなたを誘惑して、神に背を向けさせ、この世に答えを求めさせ、さらに悪いことに、ただあきらめて罪に屈服させたくてたまらないのです。[2]
私たちは、生涯を通して常に霊的な戦いに直面します。イエスの再臨が起こるまで、この堕落した世界における人生とは、そういうものです。イエスは、こう祈られました。「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、彼らを悪しき者から守って下さることであります。わたしが世のものでないように、彼らも世のものではありません。…あなたがわたしを世につかわされたように、わたしも彼らを世につかわしました。」(ヨハネ17:15–18) 私たちは、堕落した世界に生きているというだけではなく、他の人たちをイエスのもとへと連れて行くために、主の光となり塩となるべく、この世につかわされているのです。
では、霊的戦いに直面する時、私たちには何ができるでしょうか。まず、戦い方を学ぶことができます。前進し続け、決してあきらめまいと心に決めるのです。
悪魔は、神やイエスとは違い、遍在(時間と空間のすべての範囲に存在)しているわけではないことを、私たちは知っています。悪魔は同時にすべての場所にはいられませんが、その悪の軍勢が神の子どもたちに対して戦争をしかけているのです。心(思い)は、霊的戦いが行われる大戦場となっています。人の思考に影響を与え、その思考を通して行動に影響を与える戦いです。
聖書は、以下の聖句にあるように、自分の心の思いに気をつけ、キリストの思いを身につけるよう教えています。
「キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい。」(ピリピ2:5)
「あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない。」(コロサイ3:2)
「あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。」(ローマ12:2)
「肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。」(ローマ8:6)
「なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである。」(ローマ8:7)
イエスが望まれているような強い弟子になるつもりであるなら、完全に主のものとならなければいけないし、完全に主のものとなるには、自分の思いを自制し、「心の腰に帯を締め」なくてはいけません。(1ペテロ1:13) それはつまり、神の真理と救いのメッセージを世に届けるという使命に取り組むにあたり、戦闘に備え、心を落ち着けていなさいということです。
心の思いについて、主からのこんな洞察があります。
イエス:人はよく、心の思いとは、ふと浮かんでは消える価値のないものだと見なすことがあるが、わたしにとって、あなたの思いは大切であり、それを一つ一つ読み取っている。わたしがあなたの思いをすべて読み取れると聞いて、戸惑うかもしれない。他の人たちとなら、話をしながらも、ひそかな思いを胸に秘めておくことはできても、わたしにそうすることはできないのだ。…わたしがあなたのすべての思いも含めて、あなたのあらゆる面を気にかけているということは、あなたがわたしにとっていかに重要な存在であるかを示している。
頭の中を駆け巡る思いをコントロールすることがいかに難しいか、わたしは知っている。あなたの心は戦場だ。…あなた自身の罪深さも、心の思いにかなり現れてくる。油断せず、悪に対して戦わなくてはいけない。わたしはあなたのために戦い、死んだのだから、確信をもって救いのかぶとをかぶり、自分が誰なのか、また誰のものであるのかを覚えておきなさい。このかぶとは、あなたの心を守るだけではなく、わたしが十字架の上であなたに保証した勝利を思い起こさせるものだ。
あなたはわたしの宝であるので、あなたの思いがわたしの方へ向く時、わたしはそれにすぐ気づいて、喜ぶ。あなたがわたしに思いを向ければ向けるほど、ますますわたしの喜びにあずかることができる。わたしは悪い思いの攻撃力を無力化する。そうした上で、あなたが「真実なこと、気高いこと、正しいこと、清いこと、愛すべきこと、評判のいいこと、徳と言われるもの、称賛に値するもの」を心に留めるよう助ける。わが臨在の平安の内に休みつつ、それらのものについて思いを巡らせなさい。—サラ・ヤング 『Jesus Lives』
すべての思いをとりこにするのをイエスが助けておられ、また、それによって、私たちが主とのより親密な関係を持てると知ることは、素晴らしいことです。
本記事の前の方では、エペソ6章10–12節から、私たちは「主にあって、その偉大な力によって、強く」なれる、また、「神の武具で身を固め」られると気付かされました。その武具が、この世で悪の霊的軍勢と戦うにあたり、悪魔の攻撃に打ち勝つ助けとなります。
エペソ6章13–18節には、神が与えてくださる霊的武具が説明されています。私たちは、真理の帯、正義の胸当て、平和の福音、信仰の盾、救いのかぶと、御霊の剣を身に着け、御霊の内に祈りつつ、しっかりと立っているべきです。この霊的武具は、霊の戦いにおいて何を表しているのでしょうか。
私たちは真理を知り、信じ、語るべきです。キリストが犠牲を払ってくださったゆえに義とされているという事実に、心安らいでいるべきです。どれほど激しい反対を受けようと、福音を宣べ伝えるべきです。どれほど激しい攻撃を受けようと、神の約束を信じ、揺るぎない信仰を持っているべきです。私たちの究極の防御手段は、救いの確信であり、それは、いかなる霊的軍勢にも取り去ることのできないものです。攻撃用の武器は、神の言葉であり、私たち自身の意見でも感情でもありません。そして、私たちは聖霊の力と御心によって祈るべきです。
イエスは、霊的戦いで試みに抵抗するという点において、究極の手本です。イエスが荒野で試みを受けた時、サタンの直接の攻撃にどのように対処されたか、よく見てください。(マタイ4:1–11) 試みられるたびに、「~と書いてある」と相手に告げて、戦われたのです。生ける神の言葉は、悪魔の試みを打ち負かすのに、最も力強い武器です。「わたしはあなたにむかって罪を犯すことのないように、心のうちにみ言葉をたくわえました。」(詩篇119:11)[3]
…エペソ6章18節には、神の武具で全身を固めるのに加えて、御霊によって(つまり、キリストの思いと心を抱き、キリストの優先順位をもって)祈るよう書かれています。祈りは、神から霊的な力を引き出す手段なので、それをなおざりにすることはできません。祈りなしには、つまり、神に頼ることなしには、霊的戦いにおける私たちの努力はむなしく、役に立ちません。神のすべての武具(真理、正義、福音、信仰、救い、神の言葉、そして祈り)は、神が私たちに与えてくださった戦闘道具であり、それを使って、私たちは霊的に勝利し、サタンの攻撃や試みに打ち勝つことができます。[4]
主は以下のメッセージで、霊的戦いのさなかにおいて、気を落とし、希望を失わないように励ましておられます。主は毎日の毎瞬間、私たちと共におられ、勝利を収めるために必要なすべてを与えてくださるのです。
イエス:あなたは霊的戦いを戦っている。かつて戦われた内で最も重要な、最も正しい理由のための戦いであり、永遠に続く結果、つまり人類の救い、わたしの国が地上に訪れるための備えという結果のための戦いである。戦いとは対立することだ。相手に立ち向かい、自分が勝者になろうと決意した二つの対立し合う軍隊が互いにやり合う。
あなたには、普通の軍隊よりも利点がある。世の始めから、あなたの勝利は預言されているのだから。あなたの成功は保証されており、天国で定められている。戦いを立派に戦い続け、霊の武器を使い、あなたが直面する戦いを勝ち抜くと決心するかぎり。
自分は戦闘中であるという考え方を持っているなら、その戦いがどのような形を取ろうと、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しんだりしない。(1ペテロ4:12) むしろ、それは霊的戦いにつきものであると知っているのだ。そして、わたしの霊の力によって戦いに臨み、あなたの自由になる霊の武器を用いる時、どんな脅威や困難に直面しても、勝利を収めることができる。
戦いに見舞われるたびに、自分にこう言い聞かせなさい。「わたしは、神の子どもだ。サタンの敵であり、サタンの王国に対する脅威なのだ。」 日々戦闘態勢でいようとしているなら、時折何らかの反対に遭ったとしても、ショックを受けることはない。信仰の盾を巧みに扱うことで、悪しき者があなたの信仰を傷つけようとして放つ火の矢をことごとく消すことができる。(エペソ6:16)
いかなる霊的戦いにも打ち勝つ手段とは、信仰だ。わたしが舵を取っているのだと信じなさい。あなたの船に打ち付ける波がどれほど強くても、わたしが嵐から切り抜けさせてあげよう。船を襲う波が大きいとか、自分にはその困難に見合う能力がないといったことには関係なく、わたしの願いは、あなたのあらゆる戦いが何らかの形で共に働いて、あなたの益になることである。
わたしにあって、わたしの偉大な力によって、強くあり、すべてを成し遂げて、しっかりと立とうと決心しなさい。(エペソ6:10, 13) あなたのためにわたしが定めた競争を走り抜こうと決心しなさい。善を行うことに、うみ疲れてはならない。あきらめないなら、時が来れば、あなたの信仰が報われるのを知っているのだから。(ガラテヤ6:9)
私たちが皆、イエスに身を委ねることで喜びと力を見いだし、日々主と共に歩み、主の愛と恵みの器であれますように。主はたえず共にいて、私たちを強め、導き、助けて、私たちが主の真理の証となれるようにしてくださいます。神は、私たちがしっかりと立ち、この世に対する主の証人となれるように、この霊的な戦いにおいて必要とされるものをすべて与えてくださいました。それには、真理、正義、福音の備え、信仰、救い、神の言葉、祈りなどがあります。(エペソ6:14–18)
霊的戦いを戦うにあたり、神の武具で全身を固めるなら、神が大胆さと耐久力を与えてくださると、私は確信しています。「信仰の戦いをりっぱに戦いぬいて、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたは、そのために召され、多くの証人の前で、りっぱなあかしをしたのである。」(1テモテ6:12)
私たちには天の希望があり、永遠の命という栄光に満ちた将来を期待できます。目標も神からの賞も、見失わないようにしようではありませんか。「目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上[天]に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。」(ピリピ3:14) 神は私たちの味方であって、常に私たちと共におり、私たちに関わることをすべて成し遂げてくださいます。ですから、どれだけ困難で、どれだけ霊的戦いが激しく、どれだけ弱く疲れて感じようとも、戦いを立派に戦い抜こうではありませんか。なぜなら、そうする限り、神の恵みと力によって、勝つことが保証されているのですから。
1 https://www.imb.org/2017/05/17/mission-enemy-10-facts-spiritual-warfare/
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