著者: マリア・フォンテーン
7月 1, 2022
最近の私の記事に、『信仰、それは前もって神に感謝すること』というタイトルのものがあります。ヨシャパテの物語が私にとって常に重要なものだったことを話しました。この物語から他に何も覚えていなかったとしても、この祈りの部分はいつも覚えていたのです。祈る時、私はよくこれを引用します。「いかになすべきかを知りません。ただ、あなたを仰ぎ望むのみです。」[1]
私はこの聖句がとても好きです。困難な状況下で祈るときの姿勢を示す素晴らしい例ですから。どうすればいいかわからないとき、何が最善の選択かわからないとき、圧倒的な困難に直面したとき、私たちはすべてをイエスの足元に置き、イエスを仰ぎ続け、イエスが私たちを世話し導いてくださると信じればいいのです。
最近、彼らが必死で主を求めた時にヨシャパテが祈ったこの祈りの続きについて考えていました。私はこの祈りがどのような要素で構成されているのか、詳しく見てみることにしました。そこには、災難に直面したときにどのように生き残るか、さらには、いかにしてあらゆる困難にも打ち勝つかという重要な霊的原則が、かなりの数に渡って示されているのです。このような短い物語の中に神がどれほど多くを詰め込んだかは驚くばかりです。この出来事が起こって以来、何千年もの間、何百万人もの神の子供たちは、あらゆる困難に直面したとき、この物語に励まされてきました。どんなに深刻な苦境でも、ヨシャパテの物語を通して、強さと信仰を見出すことができたのです。
聖書には、学ぶべき霊的な原則を示す物語が数多くあります。具体的な状況や行動そのものが、私たちが今日直面しうることに常に当てはまるとは思えませんが、霊的原則こそ、私たちが理解し、適用すべきものです。イエスは、私たちをあらゆる真理に導くために、真理の御霊、すなわち聖霊を遣わす(ヨハネ 16:13)と言われました。これは、聖霊の素晴らしい働きの一つです。
ここに、ヨシャパテの物語に含まれる霊的原理の一例があります。彼らはその状況下で、ユダの人々を大勢集めて断食し、祈りました。肝心なのは、彼らが神に全神経を集中させ、何をすべきかを神が示してくださるのを待っていたことです。重要なのは、私たちの心と思いと精神が神に集中していることです(イザヤ 26:3)。心と霊をそのような状態にするためなら、どんなアクションでも同じ目的を達成することができます。イエスが断食と祈りを示されることもあるかもしれませんが、聖書の中でイエスが時々されたように、じっと座っていることも含めて、他のアプローチに導かれることもあるかもしれません。大切なのは心のあり方です。神がサムエルに、「人は外の顔かたちを見、主は心を見る」(サムエル記上16:7b)と言われたように。
聖書全体で、祈りはとても大切な存在ですが、どのように祈るか、いつ祈るか、どこで祈るか、誰と祈るかは様々です。他の人に祈ってもらう場合も同様です。大切なのは、それぞれの状況において、主が示してくださることに従うことです。
ここで、ヨシャパテが直面していた出来事や、何が起こったのかを、簡単に振り返ってみましょう。
ユダのヨシャパテ王は、近隣の3つの国の軍隊からの組織的な攻撃に直面していました。相手の軍隊はヨシャパテの軍隊をはるかに数で勝り、ユダは滅亡に直面するかに思われました。ヨシャパテは、断食と祈りのために民を集めました。彼は美しい祈りで主への絶対的な依存を宣言し、その結果、主は敵の三軍を互いに戦わせ滅ぼし合わせて、ユダは救われたのです。
そこで、ヨシャパテの物語に出てくる奇跡的な出来事から得られる、現代の私たちに関連する教訓は何でしょう。かなり多くのことがあります。まず、私たちが困難に直面したときには、ヨシャパテが言ったように、率直に現実を直視する必要があります。「われわれはこのように攻めて来る大軍に当る力がなく、またいかになすべきかを知りません。」 しかし、直面する問題や乗り越えがたい困難があると認めるだけでは不十分です。窮地を認識した上で、どこに答えを求めるかを宣言することが必要です。「ただ、あなたを仰ぎ望むのみです。」(歴代下 20:12)
心配事、ストレス、緊張、怒り、絶望、その他のネガティブな感情が湧き上がってくるときには、ヨシャパテが示した手本に目を向けましょう。物語によると、彼は「主に顔を向けて助けを求め」たとあります。心配し続け、震え、倒れそうになる代わりに、私たちは立ち止まって、愛するイエスが私たちに望んでおられると知っていることをすべきです。意図的に選択しなければなりません。恐れに屈し続けるか、それとも顔を上げて主を求めるかを。主を仰ぐと決断すれば、自分の問題や恐ればかりに目を止めることはありません。恐れに襲われないというのではありませんが、心を主に留めているなら、恐れが私たちを打ち負かすことはできないのです。私は長年にわたって、多くの英雄が恐れ知らずということで称賛されたとき、「自分もたくさん恐れを抱いたが、自分の中の何かが恐れを圧倒し、前に進ませてくれた」と答えたのを聞いてきました。
さて、ヨシャパテが祈った美しい祈りの続きに注目してください。彼は、神が幾度となく、自分のため、また国民の先祖のために共にいてくださったことを思い出しています。多くの時、私たちにはいかに偉大な救い主がおられるかを詳しく語り、神がいかに多くのことから神の子供たちを守ってこられたかを思い起こすことは、良いことです。そして、神があなた個人にしてくださったことをリストアップすることも忘れないでください。
ヨシャパテは、こう言いました。
われわれの先祖の神、主よ、あなたは天にいます神ではありませんか。異邦人のすべての国を治められるではありませんか。あなたの手には力があり、勢いがあって、あなたに逆らいうる者はありません。(歴代下 20:6)
私たちもヨシャパテと同じようにすることができます。まず、主がいかに偉大で力強いかということ、主のような存在は他にないこと、そして主だけが私たちを救い出せることを、主に向かって宣言することから始めるのです。私たちが、神はどんな方であるかを思い浮かべ、神のような存在が他にはないことを考えるとき、神はそれを喜ばれます。なぜなら、それは私たち自身の心の中で、また私たちの言葉を聞くであろう人々の心の中で、主に対する私たちの信仰を確証するものだからです。これらの宣言は、私たちの信仰を強くします。たとえ具体的なことを挙げる時間がなくても、主はいつも私たちが主を賛美し、その大能と力に感謝することを望んでおられます。
それから、ヨシャパテはこう続けます。
われわれの神よ、あなたはこの国の民をあなたの民イスラエルの前から追い払って、あなたの友アブラハムの子孫に、これを永遠に与えられたではありませんか。(歴代下 20:7)
ヨシャパテは、神が過去に様々な方法で彼らを敵から救い出してくださったことを、神に思い起こさせています。彼は、神がご自分の民とともにおられた時を思い出しているのです。神は決して約束を破ることはありません。ここで本当に印象的だったのは、これはヨシャパテの前に立っていた人々にだけでなく、神にも思い起こさせるための祈りであったということです。彼は、「主よ、あなたは言われました」、「主よ、あなたは約束されました」といったフレーズで、神に念を押していたのです。
神が過去になさったこと、言われたことを神に思い起こさせるのは、私の祈りにおいて重要な要素であると気づきました。さて、神がなさったあらゆることを思い起こさせるといっても、もちろん、神が忘れてしまったからではないということを私たちは知っています。神は絶対に忘れていませんし、私たちが何を必要としているかをご存知です。けれども、神は私たちがこれらのことを言葉に表すことを好まれます。神は、ご自分がなさったことを人々が覚えているのを喜ばれるからです。私たちがこのような宣言を聞くとき、私たちの信仰は増し、神のすばらしい御業に名誉と栄光を与えていることを、神はご存知なのです。
私は、「神に思い起こさせる」という言葉を使いたがらない人がいることについて考えていました。おそらく、神が何らかの形で忘れていて、思い出させてもらう必要があることを意味するのではないかと感じるのでしょう。しかし、私がそのことについて祈っていると、主は、私の人生を通して、私は主が私やご自分の民になさった約束を思い起こさせていたということを示されたのです。それは、主がそれらの約束を覚えておられないからではなく、そうすることによって、私がそれらを思い出し、それが私を強めていたからです。主をほめたたえよ!
私たちの素晴らしい神が、ご自分の子供たちにしてくださった驚くべき約束を聞いてください:
1 歴代下 20:12.
Copyright © 2024 The Family International. 個人情報保護方針 クッキー利用方針