第1テサロニケ:前書き

著者: ピーター・アムステルダム

1月 6, 2023

[1 Thessalonians: Introduction]

December 6, 2022

新約聖書にあるテサロニケ人への手紙第1と第2は、使徒パウロによって紀元49-51年頃に書かれたものであり、パウロの初期の書簡と考えられています。使徒行伝にも、パウロがテサロニケで体験した出来事が書かれているので、本シリーズではそれらの出来事も扱っていきます。

テサロニケは現在テッサロニキと呼ばれており、エーゲ海の北西端にあるギリシャの港湾都市です。古代ギリシャ・ローマ時代から現在までの長い歴史を持つ地中海の都市の1つで、バルカン山脈とギリシャ半島の間にあるマケドニア地方の東海岸に位置しています。

テサロニケの創建は紀元前316年頃で、マケドニア王カッサンドロスによって、26の町村が1つにまとめられてできました。カッサンドロスは、自分の妻であるマケドニア王ピリッポス2世の娘テッサロニカにちなんでこの新しい町をテサロニケと名付けました。この港町には水深の深い停泊地があり、危険な南東の風からも守られていました。ギリシャにおいて、古代から現代に至るまで商業的重要性を保っている唯一の沿岸都市です。

海港として栄えただけではなく、陸路という点でも主要な街道に沿っていました。それはエグナティア街道と呼ばれ、紀元前2世紀にローマによって建設されたものです。現在のアルバニアから、北マケドニア、ギリシャを通って、トルコのヨーロッパ部分までを結んでいました。全長はおおよそ1,120キロに及びます。この街道の西端には、アドリア海沿いのデュッラキウム港があり、船でイタリアに渡ると、そこからローマまで続くアッピア街道に出ることができました。また、エグナティア街道の東端には、黒海沿いのビザンティウムがあり、そこから小アジアに行くことができました。

ある著者はこのように書いています。「テサロニケが大いに繁栄したのは、陸と海、街道と港が接しているため、マケドニアとローマ帝国全体との間の交易が促進されたという点によるところが大きいです。マケドニア地方において、テサロニケほどの戦略的優位性を持つ場所は他にありません。」[1]

パウロの時代の正確な人口を知ることはできませんが、城壁の長さから居住地域の大きさを割り出し、古代都市の典型的な人口統計データと照らし合わせてみると、テサロニケの人口は6万5千人から10万人ほどであったと推定されます。それほどの人口があったので、テサロニケはローマ帝国の10大都市の1つに数えられていました。

使徒パウロの時代、テサロニケは「自由都市」と呼ばれる特別の地位を有していました。それが意味するのは、まず、地方自治権が認められていたということです。また、自分たち独自の硬貨鋳造権もあり、城壁内にはローマ軍の部隊が駐留していませんでした。テサロニケの住民は、自分たちの行政機構をローマの慣行に従って運営するのではなく、独自の市民機構を維持することが許されていたのです。この機構には主に3つのレベルがあり、その内の2つが使徒行伝17:1–10ではっきりと挙げられています。

最初のものはデモスと呼ばれる民会で、市の行政機構の中で一番下のレベルにあったものです。このデモス(デモクラシーの語源)という行政スタイルは、紀元前5世紀のアテネで始まり、後にヘレニズム諸国の都市に広がっていきました。テサロニケでは、財政、祝祭、特定の裁判などの案件の処理は、この行政機関が担っていました。使徒行伝では、テサロニケの暴徒たちがパウロとシラスを非難して怒りを表し、まずこの民会で彼らを裁こうとしています。[2]

3つのレベルの2つ目は議会です。議会は民会の執行機関として機能し、議案が民会に送られる前に審議していました。議会には、民会に持ち出されるべき議案を決め、議決を承認する役割があったのです。

3つのレベルの最後のものは、ポリタルケース(市の当局者・役人)です。彼らは裕福な家庭の出であり、その人数は市によって異なります。紀元前1世紀末のテサロニケには5人いましたが、その後の2世紀の間は、3人から7人まで、さまざまです。彼らは、市やコミュニティの行政の最高責任者としての役割を果たしました。司法に関わる権限も持っており、それは、使徒行伝で、怒りに満ちた群衆がヤソンと他のクリスチャン数人をポリタルケースのところに連れて行ったことに見られます。ヤソンたちは、保釈金を払って初めて釈放されました。[3]

テサロニケは、紀元前168年からローマの支配下にありました。当時、勝利者であるローマ帝国は、マケドニアを4つの地区に分割するという分割統治政策を取っており、テサロニケは2番目の地区の首府とされました。それからの22年間、断続的に反乱が起こりましたが、紀元前146年、最終的に鎮圧されています。ローマ帝国はマケドニア一帯を属州として再編成し、テサロニケをその首都(属州都)に格上げして、ローマ総督の駐在地としました。

ローマがテサロニケを属州都として選んだ理由の1つは、ローマ帝国に対する忠誠心であり、紀元前42年には自由都市の地位が与えられています。彼らはローマと良好な関係を築いて、その地位を保持してきました。テサロニケの住民にとってそれは重要なことだったので、自分たちの有利な地位を危うくするような人物や集団には、おそらく攻撃的に対処したことでしょう。それが理由で、前述したように、弟子たちの何人かが逮捕され、保釈金を払わせられたのだと考えられます。[4]

テサロニケでは、異教崇拝が盛んでした。ディオニュソスを崇拝していた他、エジプトの神々、特にセラピスとイシス、またオシリスなども崇拝していました。エジプトの神々への信仰がマケドニアに伝来したのは、紀元前3世紀のことです。この異教崇拝の活動は、さまざまな宗教団体によって経済的に支えられていました。また、使徒行伝に記されているように、この町にはユダヤ人も住んでいました。

一行は、アムピポリスとアポロニヤとをとおって、テサロニケに行った。ここにはユダヤ人の会堂があった。[5]

テサロニケの人間がキリスト教に改宗することは、この町の伝統宗教からの根本的な決別を意味していたので、市民の間に怒りと憤りが生まれました。使徒パウロは、テサロニケのクリスチャンを、同じく迫害に耐えてきたユダヤ地方のクリスチャンと比較しながら、称賛しています。[6]

使徒行伝によると、パウロとその一行は、テサロニケで3回の安息日にわたり、地元の会堂(シナゴーグ)を訪れています。パウロは会堂で、聖書に基づいて彼らと論じ、「キリストは必ず苦難を受け、そして死人の中からよみがえるべきこと、また『わたしがあなたがたに伝えているこのイエスこそは、キリストである』とのことを、説明もし論証も」 [7] しました。それを聞いたある人たちは、「納得がいって、パウロとシラスにしたがった。その中には、信心深いギリシヤ人が多数あり、貴婦人たちも少なくなかった」 [8] とあります。

パウロとシラスの説教は強い反発を受け、彼らがそのまま町に留まるのは危険になったので、信者たちは2人をベレヤヘ送り出しました。

テサロニケのユダヤ人たちは、パウロがベレヤでも神の言を伝えていることを知り、そこにも押しかけてきて、群衆を煽動して騒がせた。[9]

テサロニケのユダヤ人たちがしつこく押しかけてきたので、パウロはベレヤを離れ、480キロほど離れたアテネに(おそらく海路で)行く必要が出てきました。[10]

パウロは、アテネでの短い滞在中に、アレオパゴスの評議所で歴史的な演説をしています。アテネを去ってからはコリントへ移り、1年6ヶ月の間そこにとどまりました。[11] コリント滞在中に、パウロは自身の最初の書簡である第1テサロニケ書を書き、それからしばらくして第2テサロニケ書も書いています。コリントの町は、アテネの西80キロほどのところにありました。古代からあるコリントの町は1858年に地震で破壊されたため、現代のコリント(コリントス)の市街地は昔のコリントの遺跡から5キロほど離れた場所に建設されています。

パウロは、第1テサロニケ書の冒頭を次のように書き出しています。

パウロとシルワノとテモテから、父なる神と主イエス・キリストとにあるテサロニケ人たちの教会へ。恵みと平安とが、あなたがたにあるように。[12]

この手紙の差出人はパウロ、シラス、テモテの3人ですが、実際に書いたのは、主にパウロのようです。3人はテサロニケ教会の創立者であり、この手紙が書かれた際、一緒にコリントにいました。伝統的に、シルワノとシラスは同一人物とされています。使徒行伝には、シラスがかつてエルサレム教会の指導者であったことや、預言者としての働きもしていたことが記されています。[13]

また、テモテについては、こう書かれています。「信者のユダヤ婦人を母とし、ギリシヤ人を父としており、ルステラとイコニオムの兄弟たちの間で、評判のよい人物であった。」 [14] パウロは、テモテを自分の霊的な子と見なしていました。

このことのために、わたしは主にあって愛する忠実なわたしの子テモテを、あなたがたの所につかわした。彼は、キリスト・イエスにおけるわたしの生活のしかたを、わたしが至る所の教会で教えているとおりに、あなたがたに思い起させてくれるであろう。[15]

信仰によるわたしの真実な子テモテへ。[16]

テモテのような心で、親身になってあなたがたのことを心配している者は、ほかにひとりもない。[17]

テモテがパウロと共にいたことは、2コリント1:1、ピリピ1:1、コロサイ1:1、ピレモン1:1にも記されています。

この手紙は、教会の指導者たちだけでなく、全員に読まれることを意図して書かれました。テサロニケ教会の全員が確実にパウロのメッセージを聞けるよう、パウロは手紙の最後に次のような指示を出しています。

わたしは主によって命じる。この手紙を、みんなの兄弟に読み聞かせなさい。[18]

(続く)


注:

聖書の言葉は、特に明記されていない場合、日本聖書協会の口語訳聖書から引用されています。


1 Gene L. Green, The Letters to the Thessalonians, Pillar New Testament Commentary (Grand Rapids: Eerdmans, 2002), 6.

2 使徒 17:5.

3 使徒 17:6–9.

4 使徒 17:8–9.

5 使徒 17:1.

6 1テサロニケ 2:14.

7 使徒 17:3.

8 使徒 17:4.

9 使徒 17:13.

10 使徒 17:14–15.

11 使徒 18:11.

12 1テサロニケ 1:1.

13 使徒 15:22–23, 32.

14 使徒 16:1–2.

15 1コリント 4:17.

16 1テモテ 1:2.

17 ピリピ 2:20.

18 1テサロニケ 5:27.

 

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