第1テサロニケ:第1章

著者: ピーター・アムステルダム

1月 27, 2023

[1 Thessalonians: Chapter 1]

January 3, 2023

パウロと同労者たちがテサロニケの人々に書いた手紙の1通目は、5つの部分に分かれています。最初の部分は前文(1テサロニケ1:1–10)で、一番短く、10の節から成っています。

パウロとシルワノとテモテから、父なる神と主イエス・キリストとにあるテサロニケ人たちの教会へ。恵みと平安とが、あなたがたにあるように。[1]

パウロはテサロニケ人たちに挨拶するにあたり、テサロニケ教会の設立は自分やシラス(シルワノ)、テモテの努力によるものではなく、「父なる神と主イエス・キリスト」 の働きによるものだと述べました。「恵みと平安」という挨拶の言葉は、パウロのすべての手紙で用いられていますが、ただ第1テモテ1:2と第2テモテ1:2では一言加えられて、「恵みとあわれみと平安」となっています。この「恵みと平安」という表現は、非宗教的なギリシャ語の挨拶である「カイレン」に由来しており、それがキリスト教的に言い換えられて、発音が似ている「カリス」(恵み)にされたものと考えられます。ある著者は、次のように説明しています:「パウロは、典型的なユダヤ人の挨拶の言葉である『平安』に『カリス』を付け加えて、『恵みと平安』とすることによって、異邦人キリスト教徒とユダヤ人キリスト教徒に対して真にインクルーシブな挨拶を生み出しています。」[2]

わたしたちは祈の時にあなたがたを覚え、あなたがた一同のことを、いつも神に感謝し、あなたがたの信仰の働きと、愛の労苦と、わたしたちの主イエス・キリストに対する望みの忍耐とを、わたしたちの父なる神のみまえに、絶えず思い起している。[3]

パウロたちは、この手紙の中で、他の多くの手紙でもしているのと同様に、[4] このキリスト者のコミュニティのことをいつも神に感謝していると述べています。そして、手紙の終わりの方では、それと同じような感謝の生き方をするよう、この教会に呼びかけています。[5] パウロたちは、少し前に別れたばかりのテサロニケの人たちの名前と顔を思い出しながら書いていたことでしょう。

パウロは、「祈りの時にあなたがたを覚える」という形で、信徒たちのことを感謝していました。この手紙の後の方には、「夜も昼も切に祈っています」 と書かれています。[6] このことから、パウロとシラスとテモテが毎日集まって、テサロニケの信徒たちのために祈り、神に感謝を捧げていたことが伺えます。「祈りの時に覚える(思い起こす)」というのは、祈りによって神に嘆願する行為を表現する言葉として、新約聖書でよく使われているものです。いくつか例を挙げると:

わたしは、祈のたびごとに、絶えずあなたがたを覚え…ている。このことについて、わたしのためにあかしをして下さるのは、わたしが霊により、御子の福音を宣べ伝えて仕えている神である。[7]

わたしの祈のたびごとにあなたがたを覚えて、絶えずあなたがたのために感謝している。[8]

わたしは、祈の時にあなたをおぼえて、いつもわたしの神に感謝している。[9]

パウロの執り成しの祈りは、まず神に嘆願するのではなく、神に感謝を捧げることから始まっているというのは、興味深いことです。これは、いつもと言っていいほど、自分の必要を神に知らせる手段として祈りを用いるという、一部のクリスチャンが示している態度とは正反対です。

パウロや彼の宣教師仲間がいつも神に感謝している第一の理由は、これです:「あなたがたの信仰の働きと、愛の労苦と、わたしたちの主イエス・キリストに対する望みの忍耐とを、わたしたちの父なる神のみまえに、絶えず思い起している。」 [10] 興味深いのは、パウロはここで、「あなたがたの信仰の働き」を肯定的に語っていますが、彼の著作の他の箇所では、人はいかなる類いの「働き」によっても救われるのではないと明言していることです。それでも、救いの問題について話しているのでない場合、パウロはよく、信徒たちが行うよい働きについて肯定的に語っています。パウロは他の箇所で、これを「愛によって働く信仰」 と呼んでいます。[11] ここで使われている「信仰の働き」という言葉は、信仰に根ざしたクリスチャンの活動を指しているのです。

その次にある「愛の労苦」という言葉は、報酬や称賛を期待せずに奉仕するという意味に捉えられることがよくありますが、ここではそのような意味で使われていません。ここでの「愛の労苦」とは、愛に根ざした行為ということです。パウロは、どの行為を指して言っているのかを明らかにしていませんが、ただ、その愛の対象については、この書簡の後半に、それがテサロニケ教会の他の信徒たちであることを記しています。

兄弟愛については、今さら書きおくる必要はない。あなたがたは、互に愛し合うように神に直接教えられており、また、事実マケドニヤ全土にいるすべての兄弟に対して、それを実行しているのだから。[12]

パウロはおそらく、信徒たちが自分の教会内外の人々に仕えるために行っていた、自己犠牲的な労苦のことを話しているのでしょう。彼らの信仰と愛が、他の人のためになる働きを生み出したのです。

パウロは、「わたしたちの主イエス・キリストに対する望みの忍耐」 について語っています。他の英訳聖書では、「希望の忍耐」(NKJV)、「揺るぎない希望」(NLT)、「わたしたちの主イエス・キリストに対する希望によって生じる忍耐」(TNIV)などと訳されています。この揺るぎない希望とは、苦しみや誘惑に直面した時に、揺るぐことなく忍耐強くあり続ける能力です。新約聖書のいたるところに、このような忍耐について記されています。

また、わたしの名のゆえにすべての人に憎まれるであろう。しかし、あなたがたの髪の毛一すじでも失われることはない。あなたがたは耐え忍ぶことによって、自分の魂をかち取るであろう。[13]

それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。[14]

更にまた祈るのは、あなたがたが、神の栄光の勢いにしたがって賜わるすべての力によって強くされ、何事も喜んで耐えかつ忍び…。[15]

パウロは、自分が不在の間、テサロニケの信徒たちが迫害を受けていたことや、信仰から離れるようサタンから誘惑されていたことを、気にかけていました。しかし(この書簡の後半に書かれているように)、テサロニケの人たちはよく耐え忍び、誘惑に直面しながらも信仰を守り続けていました。

神に愛されている兄弟たちよ。わたしたちは、あなたがたが神に選ばれていることを知っている。なぜなら、わたしたちの福音があなたがたに伝えられたとき、それは言葉だけによらず、力と聖霊と強い確信とによったからである。わたしたちが、あなたがたの間で、みんなのためにどんなことをしたか、あなたがたの知っているとおりである。[16]

このようにパウロは、彼らが神に感謝しているもっとも重要な理由を述べています。「あなたがたが神に選ばれている」 ということです。パウロは、彼らへの福音の伝えられ方から言って、神はテサロニケの信徒たちを選ばれたのだと信じていました。「なぜなら、わたしたちの福音があなたがたに伝えられたとき、それは言葉だけによらず、力と聖霊と強い確信とによったからである。」

旧約聖書では、神の民となるために選ばれた人たちと言えばユダヤ人のことでした。しかし、パウロはここで異邦人であるテサロニケ人信徒たちのことを、神に選ばれている人たちと呼んだのです。これは、キリスト教以前の考え方からの根本的な決別を意味します。

パウロがこの手紙で「兄弟」と呼んでいるのは、クリスチャンのことです。(信徒には男性も女性もいるので、翻訳聖書によっては「兄弟姉妹」や「きょうだい」と訳されています。) この手紙の中で、パウロは「兄弟」という言葉を(男性の信者と女性の信者の両方の意味で)19回用いています。このことから、初代教会の信者が自分たちをどのように認識していたかが伺い知れます。

パウロは、テサロニケの信徒たちが神に愛され、選ばれているという確信を示した上で、福音が彼らに伝えられた時、それは言葉だけによらず、力と聖霊と強い確信とによったと説明しています。

そして、こう言いました。「わたしたちが、あなたがたの間で、みんなのためにどんなことをしたか [どのように振る舞ったか]、あなたがたの知っているとおりである。」 テサロニケ滞在中に、自分や同労者たちの人格や振る舞い、やり方について、テサロニケの信徒たちは見ていたはずだということを指摘しています。そこの人たちは、彼らがどのような宣教師であるかを知っており、彼らの高潔な人格は、彼らが説いたメッセージの一部だったのです。

そしてあなたがたは、多くの患難の中で、聖霊による喜びをもって御言を受けいれ、わたしたちと主とにならう者となり、こうして、マケドニヤとアカヤとにいる信者全体の模範になった。[17]

少し前のところで、パウロはテサロニケ人たちに、神が彼らを選ばれたと書いており(4節)、今度は、彼らはパウロの教えを受け入れたので、彼や弟子たち、また主に倣う者となったと付け加えています。そこの信徒たちは、イエスや使徒たちの苦しみと逆境も見習いました。新約聖書には、他にも何箇所かで、教会の指導者たちに倣うようにという励ましが記されています。

わたしがキリストにならう者であるように、あなたがたもわたしにならう者になりなさい。[18]

キリスト・イエスにあって、福音によりあなたがたを生んだのは、わたしなのである。そこで、あなたがたに勧める。わたしにならう者となりなさい。[19]

兄弟たちよ。どうか、わたしにならう者となってほしい。また、あなたがたの模範にされているわたしたちにならって歩く人たちに、目をとめなさい。[20]

あなたがたが、わたしから学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことは、これを実行しなさい。そうすれば、平和の神が、あなたがたと共にいますであろう。[21]

テサロニケの人たちがどのような「患難(苦難)」を受けたのか、はっきりと書かれてはいませんが、「多くの患難の中で」というパウロの言葉にヒントがあります。ある著者は、それをこのように説明しています:

それはおそらく、肉体的な死や殉教のことではなく、社会的に厳しい嫌がらせや排斥を受けたということだと思われます。そのような反対行為には、次のようなものがありました。「信者になっていない家族や友人からの疎外、都市の政治的・社会的機関へのアクセス制限、また、嫌がらせや公の問題に常にさらされること。」 [22]

テサロニケのクリスチャンたちが、迫害を受けながらも示していた生き方は、他の人々に対する力強い模範となりました。そこでパウロは、彼らが「マケドニヤとアカヤとにいる信者全体の模範になった」 と喜んでいます。ある著者は、次のように説明しています:「第7節は、新約聖書の中で、会衆全体が他の教会の模範と見なされている唯一の箇所です。この教会は、迫害への対応に関して、他に例を見ない素晴らしいところでした。主、パウロ、シルワノ、テモテの模範によって形成された彼らが、今は他の信者たちの模範になったのです。」 [23]

すなわち、主の言葉はあなたがたから出て、ただマケドニヤとアカヤとに響きわたっているばかりではなく、至るところで、神に対するあなたがたの信仰のことが言いひろめられたので、これについては何も述べる必要はないほどである。[24]

聖書解説者の中には、これはぎこちない文章であると考える人もいますが、それはおそらく、テサロニケの人たちがした2つの関連しながらも別々のものであることを、パウロが1つの文にまとめたからでしょう。その2つとは、メッセージ(「主の言葉」)を説いたことと、回心したこと(「神に対するあなたがたの信仰」)です。「主の言葉」という表現は、パウロの他の手紙にも出てきます(第2テサロニケ3:1)。パウロは通常、「神の言葉」という表現を用いており、彼の手紙にはその言い回しが9回出てきます。旧約聖書で「主」と言えば神(父なる神)のことですが、新約聖書ではイエス・キリストを指しています。

「あなたがたから出て、…響きわたっている」 というのは、彼らの伝えるメッセージがあらゆる方向に向けて響き渡っていることを言っています。パウロがここで描いているのは、福音のメッセージの響きがテサロニケのクリスチャンたちから発せられて、それがマケドニアとアカヤの全域、さらにその先にまで響き渡ってきた様子です。パウロは、このマケドニア地方の信徒たちが、他の人々にどうやって福音を広めたかについて、はっきりとは述べていません。ただ、「主の言葉」とあることから、福音のメッセージを何らかの形で伝え、教えていたのだとわかります。この節の後半には、「神に対するあなたがたの信仰のことが言いひろめられたので、これについては何も述べる必要はないほどである」 と書かれています。パウロが示そうとしているのは、この「響き」、すなわち福音のメッセージが、テサロニケのクリスチャンから発せられて、マケドニアの全土とその先にまで伝わっていく様子なのです。

わたしたちが、どんなにしてあなたがたの所にはいって行ったか、また、あなたがたが、どんなにして偶像を捨てて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになり、そして、死人の中からよみがえった神の御子、すなわち、わたしたちをきたるべき怒りから救い出して下さるイエスが、天から下ってこられるのを待つようになったかを、彼ら自身が言いひろめているのである。[25]

この2つの節(9–10節)で、パウロは、テサロニケの信徒たちの伝道の努力を、パウロとその仲間がいかにして知ったかを説明しています。テサロニケの信徒たちは、マケドニアとアカヤの人たちに福音を伝えました。「彼ら自身が言いひろめている」 というのは、テサロニケの信徒たちから福音を聞いたマケドニアとアカヤの人たちの言葉が、パウロの耳に届いたということです。人々がパウロに伝えたことは、使徒パウロのチームがいかにしてテサロニケに入って行ったか、テサロニケの人たちがいかに回心して神に立ち帰り、偶像崇拝をやめたかということです。

パウロが伝え聞いたことの後半部分(9b–10節)に、彼らが「偶像を捨てて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるように」 なったと書かれています。テサロニケの人々にとって、テサロニケの偶像崇拝と決別することは、決して小さなことではありません。新しくクリスチャンになった者たちが異教の神々を捨てるということは、テサロニケの神々への崇拝と関連した多くの社会的行事を拒んでいることになります。そのため、クリスチャンではない家族や友人からの恨みや怒りを買うことになりました。新しいクリスチャンが地元の神々への崇拝を拒んだことで、多くのテサロニケ市民は気分を害して、クリスチャンを無神論者と見なすようになりました。

テサロニケの人々は、自分たちが崇拝している神々が、疫病や飢饉や何らかの自然災害によって、町を罰するのではないかと心配していたのでしょう。偶像から離れるということは、ローマの神々をも拒んでいるということなので、それはローマに対するテサロニケの地位を損ないかねないことです。テサロニケのクリスチャンの回心は、それまでの生き方を大きく覆すものであり、他のテサロニケ市民から恨まれる結果となりました。

パウロはさらに、テサロニケの信徒たちが、「死人の中からよみがえった神の御子、すなわち、わたしたちをきたるべき怒りから救い出して下さるイエスが、天から下ってこられるのを待つようになった」 と述べています。パウロは、いつか天から戻ってこられるこの神の御子について、3つの点を説明しています。この方が、(1)神の力によって「死人の中からよみがえった」こと、(2)「イエス」であること、(3)「わたしたちをきたるべき怒りから救い出して下さる」ことです。

1つ目の記述は、初代教会の中心的な教えであるキリストの復活につながるものです。新約聖書には、神がイエスを死人の中からよみがえらされたことを証言する言葉がいくつも記されています。

すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。[26]

人々からでもなく、人によってでもなく、イエス・キリストと彼を死人の中からよみがえらせた父なる神とによって立てられた使徒パウロ…[27]

キリストは、天地が造られる前から、あらかじめ知られていたのであるが、この終りの時に至って、あなたがたのために現れたのである。あなたがたは、このキリストによって、彼を死人の中からよみがえらせて、栄光をお与えになった神を信じる者となったのであり、したがって、あなたがたの信仰と望みとは、神にかかっているのである。[28]

2つ目の記述、つまり「イエス」がその名であることは、父なる神と、その神がイエスを死からよみがえらされたことから離れて、イエスに直接焦点を当てています。ここで焦点が置かれているのは、イエスがなしてくださることであり、天から戻ってこられるということです。パウロはこの書簡の後の方で、イエスの再臨の前に死ぬ人たちに関する問題を扱う際に、イエスの復活に言及しています。

3つ目の記述は、この世に戻ってこられる御子が、「わたしたちをきたるべき怒りから救い出して下さる」 [29] ということです。パウロの著述には、救い出されることについて、何度も書かれています。

神はこのような死の危険から、わたしたちを救い出して下さった、また救い出して下さるであろう。わたしたちは、神が今後も救い出して下さることを望んでいる。[30]

わたしがアンテオケ、イコニオム、ルステラで受けた数々の迫害、苦難に…わたしは耐えてきたが、主はそれらいっさいのことから、救い出して下さったのである。[31]

多くの人にとって、神の怒りという概念は理解が難しいものです。ある著者は、このように書いています:

神の怒りは、神の正義に照らして見なければいけません。神は確かに愛情深く優しい方ですが、神の正義は、神の聖性と最高の威厳に対する侮辱である罪が罰せられることを求めます。また、神の怒りは、しばしば報復的で制御不能な形で表される人間の怒りとは違うことも、忘れてはいけません。神の怒りはそういうものとは異なり、人間の罪に対する必要かつ正当な反応なのです。[32]

テサロニケの信徒たちは、将来の裁きを恐れることなく、むしろ希望を持っていました。キリストが戻ってきて、彼らを救い出してくださると知っていたからです。私たちクリスチャンは、彼らと同じ希望を持っており、永遠にキリストと共にいることを知っているのです。

(続く)


注:

聖書の言葉は、特に明記されていない場合、日本聖書協会の口語訳聖書から引用されています。


1 1テサロニケ 1:1.

2 Jeffrey A. D. Weima, 1–2 Thessalonians: Baker Exegetical Commentary on the New Testament (Grand Rapids: Baker Academic, 2014), 71.

3 1テサロニケ 1:2–3.

4 1コリント 1:4, コロサイ 1:3, 2テサロニケ 1:3, 2:13, ピレモン 1:4.

5 参照:1テサロニケ 5:18.

6 1テサロニケ 3:10.〈新共同訳〉

7 ローマ 1:9–10.

8 エペソ 1:16.

9 ピレモン 1:4.

10 1テサロニケ 1:2–3.

11 ガラテヤ 5:6.

12 1テサロニケ 4:9–10.

13 ルカ 21:17–19.

14 ローマ 5:3–4.

15 コロサイ 1:11.

16 1テサロニケ 1:4–5.

17 1テサロニケ 1:6–7.

18 1コリント 11:1.

19 1コリント 4:15–16.

20 ピリピ 3:17.

21 ピリピ 4:9.

22 Victor Paul Furnish, 1 & 2 Thessalonians (Abingdon Press, 2007), 46–47.

23 Gene L. Green, The Letters to the Thessalonians, Pillar New Testament Commentary (Grand Rapids: Eerdmans, 2002), 99.

24 1テサロニケ 1:8.

25 1テサロニケ 1:9–10.

26 ローマ 10:9.

27 ガラテヤ 1:1.

28 1ペテロ 1:20–21.

29 1テサロニケ 1:10.

30 2コリント 1:10.

31 2テモテ 3:11.

32 Weima, 1–2 Thessalonians, 122.

 

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