著者: マリア・フォンテーン
1月 31, 2023
(タイトル画像:神の声に耳を傾けるーー成すことすべてにおいて)
サムエル記上・下巻にあるダビデ王の物語の朗読を聞いていた時のことです。新たなことが持ち上がるたびに、ダビデが必ずと言っていいほど行っているように思われる、非常に顕著なことが1つありました。彼は、状況が少しでも変わると、まず神にどうしたら良いかを尋ねたのです。そして、神が彼にお与えになった導きは、一貫してうまく行きました。
時には、以前と全く同じ状況に見えることもありました。たとえば、ペリシテ軍と対峙して、主が全面的な攻撃をしかけるように言われた時には、それによって勝利がもたらされ、ペリシテ人は打ち負かされました。
その後しばらくして、同じような状況が起こりましたが、主は前回とは違って、彼らの背後に忍び寄るように言われたのです。そして神の合図で、ダビデは反対の方向から彼らを攻撃することになりました。もう一つの例は、それよりもっと前に、サウルとその軍隊がダビデたちを滅ぼそうと追いかけてきた時のことです。ダビデが主にどうしたらいいか尋ねると、何度も予想外の答えが返ってきましたが、それはいつも良い結果につながりました。
たとえば、ダビデと従者たちがサウルから身を隠していた時、主は攻撃を受けている小さな町を助けるようにと言われ、それは文字通り町の人々の命を救うことでした。しかし、それを実行すると、ダビデがそこにいるということが、ダビデを殺そうとしているサウルの耳に入ることでしょう。ダビデは従者たちから行かないように説得されましたが、どうすべきか主に尋ねたところ、主は彼に、その町を救いに行くよう示されたので、ダビデはそれに従いました。[1]
きっと皆さんは、その後、町の人たちがダビデに恩義を感じたと思うことでしょう。ダビデをサウルに引き渡したりはしないと。しかし、ダビデがその件について主に確認したところ、主は町の人たちが彼を引き渡すので、逃げるべきだということを告げたのです。
その時のダビデの行動は賢明に見えなかったかもしれませんが、後にダビデを滅ぼそうとするサウルの作戦を終わらせる役割を果たすと、神は知っておられたに違いありません。最終的に、ダビデが彼らに対して、さらにはサウルに対してさえ示した憐れみと思いやりがもとになって、サウルは彼への攻撃を止めることになりました。[2]
ダビデは、多くの欠点や失敗もありましたが、ほとんどの場合、神に寄り頼み、答えを神に求めました。おそらくそれが一つの理由で、神はダビデを「わたしの心にかなった人」と呼ばれたのでしょう。[3]
サウルが熱心にダビデを滅ぼそうとしていた時、神はそうなることを許しませんでした。ある時、サウルは山の片側にいて、その反対側にいるダビデとその兵を見つけようとしていましたが、神はペリシテ人を送って、サウルの国を攻撃させたので、サウルは彼らとの戦いに出向くため、直ちにダビデを追うことをやめたのです。[4] サウルには、彼のために調べ回る者たちがたくさんいましたが、それでもダビデに手をかけることはできませんでした。
これは、私たちが決断を下す際に、イエスに目を向けるなら、イエスは私たちを導くことができるし、また導くつもりであることを示す素晴らしい例です。私たちは状況を見て、「これは前にもあったし、その時はこうした」と考え、過去の経験に基づいて決断を下しがちですが、私たちには見られない全体像を、神だけがご存知なのです。
経験を積むのは良いことですし、私たちは経験を通して霊的原則を学んでいくわけですが、自分では気づいていない他の要因があるかもしれず、それが自分の置かれている現在の状況にどのように関係しているのか、常に理解しているわけではありません。
どんな状況でも常にイエスを頼るということを完璧に行わなければならない、というわけではありません。そうできたなら素晴らしいことですが、なかなかそうはいかないものです。しかし、この人生において完璧になることができないからといって、自分の決断に、できるだけ神を含めるすべを磨くことをあきらめてはいけません。私たちの決断は、大きなものであれ小さなものであれ、イエスのもとに持っていくことが重要です。イエスは私たち一人ひとりの心に、特別な方法で語りかけてくださいます。
イエスは、私たちが学び、成長する必要があることを理解しておられます。試行錯誤を経て知恵を身につけていくには時間がかかりますが、少しずつでも弱さを強さに変えていくことができます。神は情け深く、憐れみ深い方であり、私たちにどんな欠点があっても、むしろ心を見てくださるのです。
ダビデ王は、戦える兵士の数を数えるために、人を遣わして人口調査を行うなど、幾度となく悲惨な失敗をしました。[5] 彼は、主を仰ぎ、主に寄り頼むすべを知ってはいましたが、弱く高慢になった時には、神ではなく、数の力といった目に見えるものに目を向けてしまったのです。その結果、彼は痛ましい損失を被りましたが、それと共に、神にさらに寄り頼もうという確信も強まりました。
神に寄り頼むことのもう一つの例は、使徒パウロです。彼はもともと、イエスによって真理を示され、確信するに至るまでは、クリスチャンを激しく攻撃する迫害者でした。しかし、いったん主を知ると、イエスに導かれるままどこにでも従って行くことを決意しました。[キリストにおける]兄弟の中には彼を排斥する者もいたし、彼が宣べ伝える真理を憎む者たちからは残虐に扱われ、死の危険にもさらされましたが、それでもイエスに従うことをやめませんでした。神が導くところならどこへでも行くという決意と、救い主との深い関係とが大きな力となって、数え切れないほど多くの人に福音を伝えることができたのです。
「心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない。すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」—箴言3:5–6
これから先、私たちは間違いなくたくさんの失敗を犯すでしょうし、時には欠点や弱さに負けてしまうこともあるでしょう。しかし、できる限りイエスを仰ぐように努めるなら、イエスは私たちの人生の中で、また人生を通して、主の良き目的を果たすために働いてくださいます。
ペテロのことを考えてみてください。彼は救い主を3度も否定するという最悪の失敗をしましたが、その後、最大の証をなし、世界に影響を与えました。私たちは自分の不完全さに苦労しているし、時には不完全さの深みに落ちてしまい、それが屈辱的で恥ずかしいと感じる時もあるでしょう。しかし、イエスの愛は、そのような状態からでさえ、良いものを引き出すことができます。私たちは学び、成長し、成熟するにつれて、知恵を身につけ、よりはっきりとイエスの心を反映する心を身につけることができるのです。私たちに対する神の完全な愛は、すべての恐れを追い出し、自責の念を赦しと希望に変えてくれます。それは、私たちの目を開いて、ますます神に頼ることの重要性に気づかせてくれるのです。
ですから、一日を通して、また生涯を通して、決断を迫られる時には、神がどのような方法であなたに語りかけるのであれ、最善を尽くして、心と思いを神の声に対してオープンでいるべきことを覚えていましょう。小さなことにおいて、忠実にこの習慣を身につけていくことによって、より大きな決断を迫られた時の信仰の土台が次第に育っていきます。
神は、あなたが読む御言葉を通して語られるし、聖霊が思い起こされる聖句を通しても語ってくださいます。神の導きを聞く時、それはきちんとした預言を通してである必要はありません。神の細く小さな声が、あなたの心の中でささやいて、あなたを励まし、優しいヒントを与えてくれることもあります。あるいは、イメージであったり、単に何をすべきかという感覚であったり、神が導いておられるという心の平安であったりします。
神からの導きは、何かがおかしいという警告や不安の感覚によって与えられることもあります。たとえ、目に見えて、その感覚を説明するものが何もないように思えても。また、時には、扉を開いたり、あなたが主の計画を垣間見るのを助けるために特定の状況を許されたりすることもあります。それがどのような方法で与えられるにせよ、私たちが神の「声」に対してオープンであろうとすればするほど、それはよりはっきりとし、より強くなります。
神に従うために自分にできることをしている人は誰でも、それなりの問題や失敗に直面はしますが、ほとんどの場合、最終的には、その灰の中から貴重な宝物が育ったことに気づいてきました。私たちは、主の助けを借りてできるだけ最善の決断をし続けることを、徐々に学んできました。なぜなら:
「あなたがたのうちに良いわざを始められたかたが、キリスト・イエスの日までにそれを完成して下さるにちがいないと、確信している。」—ピリピ1:6
私たちは皆、完成に向けて成長している状態ですが、神が私たちを(イエスが私たちのうちにおられることによって)他の人たちへの「栄光の望み」と呼んでくださっていることに、大きな慰めを得ることができます。
「神は彼らに、異邦人の受くべきこの奥義が、いかに栄光に富んだものであるかを、知らせようとされたのである。この奥義は、あなたがたのうちにいますキリストであり、栄光の望みである。」—コロサイ1:27
そして、時には正しい決断ができないことがあっても、イエスは私たちを非難することなく、ただ憐れみと赦しとを示してくださいます。私たちが主に目を向けるなら、主は悪いことさえも用いて、私たちがより賢く、より強くなるのを助けてくださるのです。主をほめたたえよ。
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