第1テサロニケ:第4章(パート1)

著者: ピーター・アムステルダム

3月 14, 2023

[1 Thessalonians: Chapter 4 (Part 1)]

February 28, 2023

パウロがテサロニケの信徒に書いた第1の手紙の第4章は、「最後に」という言葉で始まり、それは、これから別の主題に移ることを示しています。

最後に、兄弟たちよ。わたしたちは主イエスにあってあなたがたに願いかつ勧める。あなたがたが、どのように歩いて神を喜ばすべきかをわたしたちから学んだように、また、いま歩いているとおりに、ますます歩き続けなさい。わたしたちがどういう教を主イエスによって与えたか、あなたがたはよく知っている。[1]

パウロはテサロニケの信徒たちに、兄弟たち(ギリシャ語でアデルフォイ)と呼びかけています。この言葉を「兄弟」[2] と訳す翻訳聖書もあれば、「兄弟姉妹」[3] と訳すものもあります。

パウロは、「あなたがたに願いかつ勧める」という言い回しを用いました。この言い回しは、多くの場合、何らかの願いを告げる時に使用されたものですが、今回のように勧告で用いられる際は、より強い意味合いを持ち、「懇願する」「嘆願する」などという意味になります。パウロによるテサロニケの人たちへの語りかけ方は、特に親しみのこもったものでも個人的なものでもありません。やや外交的であり、それに個人的な表現が付け加えられたものでした。パウロは、彼の教えの背後にある権威は「主イエスによって」与えられたものであると言います。この手紙では、本章から次の章にわたり、イエスの神としての権威がパウロの教えの基礎であることが示されています。

パウロはテサロニケの人たちに、霊的な成長を遂げ続けるよう、強く勧めています。彼らは、パウロたちから受けた教えの幾つかをすでに実践していましたが、パウロはここで、さらに進歩を遂げなさい、「ますます歩き続けなさい」と勧めているのです。パウロが彼らに伝えたメッセージは、神からの救いの呼びかけでしたが(2:13)、他にも、彼らの道徳的な行動の指針とすべき教えも含まれていました。彼らは今そうしているとおりに「歩いて神を喜ばすべき」ですが、さらに進んで、「ますます」そうすべきであるというのです。

パウロは、「主イエスによって与えた」教えのことを、テサロニケの信徒たちに思い起こさせました。(4:2)。この手紙では、ずっと、彼らがすでに知っていることを思い起こし(2:5, 11; 3:4; 4:2, 4)、実践しなさいと、パウロは説いています。彼らが受けていた「教え」とは、単に曖昧な指針ではなく、「命令」でした。テサロニケの人たちがパウロの教えを神の言葉として受け入れた時、[4] 彼らはそれに従う義務を負いました。パウロの教えは「主イエスによって与え」られたものであることを知っていたのです。

この時点でパウロは、テサロニケの信者の性倫理や、彼らに与えていた教えを中心に話を進めます。

神のみこころは、あなたがたが清くなることである。すなわち、不品行を慎み、各自、気をつけて自分のからだを清く尊く保ち、神を知らない異邦人のように情欲をほしいままにせず、また、このようなことで兄弟を踏みつけたり、だましたりしてはならない。前にもあなたがたにきびしく警告しておいたように、主はこれらすべてのことについて、報いをなさるからである。[5]

パウロはまず、信者が清くなることは神の御心であると語ります。新約聖書の幾つもの箇所で、「神の御心」という言葉は、道徳に関して私たちが実行すべき神のご計画を意味しています。神の御心を行うことは、「神を知らない異邦人のように情欲」に流されることとは対極にあります。神が信者に対して持っておられる、道徳に関する御心は、パウロがテサロニケの人たちに与えた教えの中に示されていました。私たち、現代のクリスチャンも、道徳に関する神のご計画に従うか、あるいは今日の大衆文化に屈するかという、彼らと同じ道徳的選択を迫られます。

パウロは、神のご計画の重要な部分として、信者が清くされるべきであることを指摘したのです。使徒ペテロも、彼の書簡の中で、同じことを述べています:

あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい。聖書に、「わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである」と書いてあるからである。[6]

テサロニケの信徒たちが清められることは、パウロの主な関心事でした。それは、「神のみこころは、あなたがたが清くなること」(4:3)、「各自、気をつけて自分のからだを清く尊く保ち」(4:4)、「神がわたしたちを召されたのは、汚れたことをするためではなく、清くなるため」(4:7)といった記述で明らかです。

パウロがテサロニケの人たちに与えた指示は、ヤコブが次のように語ったことで、エルサレム会議が下した決定と通じるものがあります。「わたしの意見では、異邦人の中から神に帰依している人たちに、わずらいをかけてはいけない。ただ、偶像に供えて汚れた物と、不品行と…を、避けるようにと、彼らに書き送ることにしたい。」[7] 信者たちは不品行(性的に乱れた行為)を避けるべきだとされ、それは、「淫行、姦淫、同性愛、近親相姦、売春、獣姦といった、異性間結婚以外のあらゆる性的関係」を意味しました。[8] パウロは第4節で、テサロニケの信徒たちが各自、「気をつけて自分のからだを清く尊く保」つべきであると語っています。そのためには、「不品行を慎み」なさいということです(第3節)。

パウロが言う「情欲」とは、信徒ではないテサロニケ人たちの奔放な振る舞いや自制心のなさを指しています。そのような欲望に関して、パウロは他の書簡でも言及しています。

ゆえに、神は、彼らが心の欲情にかられ、自分のからだを互にはずかしめて、汚すままに任せられた。[9]

だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。[10]

新しくクリスチャンとなった彼らは、イエスを信じることによって偶像崇拝から抜け出したのであり、自分たちには新たな信仰と新たな共同体があるということを、生活スタイルの変化によって示すことが期待されていました。もはや、周りにいる人たちがしているような性行為に関与すべきではないということです。

第3節から第5節で、パウロは不品行の問題全般を扱っていますが、第6節では、この箇所を書くきっかけとなった特定の問題について語っています。テサロニケの教会には、信者間で姦淫を行う者たちがいました。それに対するパウロの指示は、「このようなことで兄弟を踏みつけたり、だましたりしてはならない。前にもあなたがたにきびしく警告しておいたように、主はこれらすべてのことについて、報いをなさるからである」というものでした。[11]

ギリシャ社会では、既婚男性による姦淫など、性的に行き過ぎた行為が一般的に行われていました。しかし、信者は、他の信者の配偶者と性的関係を持つことによって、彼らを「踏みつけたり、だましたりしてはならない」のです。パウロはテサロニケの信徒たちに、この問題について語るのは、これが初めてではないことを思い起こさせています。テサロニケ教会の信徒たちは、この点についてすでに警告を受けていたので、知らなかったと主張することはできませんでした。

前にもあなたがたにきびしく警告しておいたように、主はこれらすべてのことについて、報いをなさるからである。[12]

パウロは、性的不道徳には裁きという否定的な結果が伴うと書いた上で、姦淫などの性的な罪に溺れないことから来る肯定的な益をテサロニケの人たちに思い起こさせています。

神がわたしたちを召されたのは、汚れたことをするためではなく、清くなるためである。[13]

「汚れ」ていることは、「清くなる」こととは正反対です。「汚れ」は、文脈によって、儀式的なものを意味することも、道徳的なものを意味することもあり、ここでは、性的な汚れを意味しています。パウロは別の書簡でも、性的な汚れについて書いています:

また、不品行といろいろな汚れや貪欲などを、聖徒にふさわしく、あなたがたの間では、口にすることさえしてはならない。[14]

テサロニケの人たちは、以前に行っていた性的に汚れたことではなく、自分の人生において清く聖なることを追い求めるべきだというのです。この点について、パウロはこの書簡の後の方でも、このように書いています:

どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよめて下さるように。また、あなたがたの霊と心とからだとを完全に守って、わたしたちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのない者にして下さるように。[15]

彼らは神の奉仕のために召されたのですから、信者として、自分の行いを神からの召しに沿ったものとすべきなのです。

こういうわけであるから、これらの警告を拒む者は、人を拒むのではなく、聖霊をあなたがたの心に賜わる神を拒むのである。[16]

パウロは、性に関する自分の教えが神から来たものであり、神の御心を示すものであることを、力説しています。もし誰かがこの教訓を無視したり、重要でないものとして扱ったりしたら、それはパウロとその教えを拒むだけでなく、神ご自身を拒んでいることになると明言しています。テサロニケの信徒の中には、パウロの権威を疑っていたために、彼の教の幾つかに疑問を持った人がいたようです。つまり、福音についてのパウロの教えは神からの教えであるとみなし、性に関する道徳的な教えは人からのものとして拒んで、その両者を区別したのかもしれません。しかし、パウロは、選り好みをして、何を信じ何を拒むかを決める人は、「聖霊をあなたがたの心に賜わる神」を無視しているのだと思い起こさせています。

パウロが第4章で扱った最初の主題は、これで終わりになります。この章では、パウロが別の主題に話を移していきますが、それは次の記事で扱っていきます。

(続く)


注:

聖書の言葉は、特に明記されていない場合、日本聖書協会の口語訳聖書から引用されています。


1 1テサロニケ 4:1–2.

2 英語欽定訳、NAS訳、NAU訳

3 英語NIV訳、NLT訳、TNIV訳 [訳注:日本語の「兄弟」は、男女の別なく用いることのできる語であり、ほとんどの日本語訳聖書ではそのように訳されています。聖書協会共同訳は、男性だけではないという点をもっとはっきりさせるために、ひらがなで「きょうだい」と表記しています。]

4 1テサロニケ 2:13.

5 1テサロニケ 4:3–6.

6 1ペテロ 1:15–16.

7 使徒 15:19–20.

8 Gene L. Green, The Letters to the Thessalonians (Grand Rapids: William B. Eerdmans Publishing Company, 2002), 190.

9 ローマ 1:24.

10 コロサイ 3:5.〈新共同訳〉

11 1テサロニケ 4:6

12 1テサロニケ 4:6.

13 1テサロニケ 4:7.

14 エペソ 5:3.

15 1テサロニケ 5:23.

16 1テサロニケ 4:8.

 

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