著者: ピーター・アムステルダム
3月 28, 2023
パウロは、3–8節で不品行について取り上げた後、[1] テサロニケ教会で起こっていた別の問題に話を移します。
兄弟愛については、今さら書きおくる必要はない。あなたがたは、互に愛し合うように神に直接教えられており、また、事実マケドニヤ全土にいるすべての兄弟に対して、それを実行しているのだから。[2]
パウロはまず、テサロニケの信徒たちの兄弟愛を称賛しています。通常、「兄弟愛」という言葉は、家族の中で兄弟姉妹が互いに抱く愛情を表すために使われるものであり、家族外の人については使われません。しかし、パウロはこの言葉を、信仰共同体において兄弟(そして姉妹)となったクリスチャンの関係を表すために用いています。パウロは第1テサロニケの中で、17回、信者たちを兄弟と呼んでいます。
新約聖書において、「兄弟愛(兄弟の愛)」という言葉は、キリストを信じるという共通の信仰を持つクリスチャンたちが、お互いに持っている関係を表しているのです。新約聖書では、他にも以下のような例が見られます:
兄弟の愛をもって互にいつくしみ…なさい。[3]
兄弟愛を続けなさい。[4]
あなたがたは、真理に従うことによって、たましいをきよめ、偽りのない兄弟愛をいだくに至ったのであるから、互に心から熱く愛し合いなさい。[5]
互いに愛し合いなさいという戒めは、イエスの教えの中でも重要な点であり、イエスは弟子たちに、ご自分が彼らを愛されたように、彼らも愛し合うようにと命じられました。
わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう。[6]
わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。[7]
これらのことを命じるのは、あなたがたが互に愛し合うためである。[8]
互いに愛し合いなさいというイエスの教えは、イエスの弟子たちによっても繰り返し教えられていたことです。
わたしたちは互に愛し合うべきである。これが、あなたがたの初めから聞いていたおとずれである。[9]
互に重荷を負い合いなさい。そうすれば、あなたがたはキリストの律法を全うするであろう。[10]
その戒めというのは、神の子イエス・キリストの御名を信じ、わたしたちに命じられたように、互に愛し合うべきことである。[11]
愛する者たちよ。わたしたちは互に愛し合おうではないか。愛は、神から出たものなのである。すべて愛する者は、神から生れた者であって、神を知っている。[12]
愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互に愛し合うべきである。[13]
この教えはテサロニケの信徒たちも知っていたので、パウロが「あなたがたは、互に愛し合うように神に直接教えられており」[14] と言ったのは、もっともなことです。
また、事実マケドニヤ全土にいるすべての兄弟に対して、それを実行しているのだから。しかし、兄弟たちよ。あなたがたに勧める。ますます、そうしてほしい。[15]
テサロニケのクリスチャンが兄弟愛についてさらなる指導を受ける必要がなかった第2の理由は、彼らが他のテサロニケ人だけではなく、そのマケドニア州全土に住むクリスチャンにも広く愛を示していたからです。自分たちの教会だけでなく、ピリピやベレヤ、そしておそらくアンフィポリス(アムピポリス)やアポロニアにある他の教会の人々にも愛を示していました。[16]
パウロは、テサロニケの人々がマケドニア全土の信徒たちと、どのような形で愛を示し合ったのか、具体的なことは記していません。もしかすると、テサロニケの人々がこの地域にいる貧しいクリスチャンのために経済的支援を行ったことを指していたのかもしれません。パウロは、第2コリントでこのように書いています:
兄弟たちよ。わたしたちはここで、マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせよう。すなわち、彼らは、患難のために激しい試錬をうけたが、その満ちあふれる喜びは、極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て惜しみなく施す富となったのである。わたしはあかしするが、彼らは力に応じて、否、力以上に施しをした。すなわち、自ら進んで、聖徒たちへの奉仕に加わる恵みにあずかりたいと、わたしたちに熱心に願い出て… [17]
第1テサロニケ4章に話を戻しましょう。
そして、あなたがたに命じておいたように、つとめて落ち着いた生活をし、自分の仕事に身をいれ、手ずから働きなさい。そうすれば、外部の人々に対して品位を保ち、まただれの世話にもならずに、生活できるであろう。[18]
ここでパウロは、この教会の中で、生計を保護者(パトロヌス)に依存している人たちに焦点を当てています。そういった保護者の多くは、信者共同体内の裕福なメンバーであって、他の保護者と同様、被保護者(クリエンテス)に経済的支援を与えており、その相手は同じ教会のメンバーである場合もありました。被保護者は、パトロヌスに対して公に敬意と支持を示す見返りとして、食料を受け取り、利益代表者になってもらうという恩恵を期待して、パトロヌスの庇護下に自らを置いたのです。パトロヌスは、被保護者が多ければ多いほど、重要な人物とみなされていました。
パウロはテサロニケの信徒たちに、庇護関係によって生活するよりも、自分の仕事に精を出して、生計を他人に依存しないようにすべきだという指摘をしました。「手ずから(自分の手で)働き」、「自分の仕事」に励むことによって、自分に必要なものを手に入れられるようにすべきだと。
それはまさに、パウロと同労者たちがしていたことです。パウロは宣教師でしたが、テント職人でもありました。宣教相手からの寄付で生活することもできたのですが、その権利を利用しないことを選んだのです。パウロは使徒行伝で、自分がテント職人としての仕事によって生計を立てていたことを強調しています。
わたしは、人の金や銀や衣服をほしがったことはない。あなたがた自身が知っているとおり、わたしのこの両手は、自分の生活のためにも、また一緒にいた人たちのためにも、働いてきたのだ。[19]
「そうすれば、外部の人々に対して品位を保ち、まただれの世話にもならずに、生活できるであろう。」 テサロニケの信徒の中には、市の行政に関わる者や、経済的にパトロヌスに依存していた者がおり、彼らは教会やクリスチャン共同体の必要を満たすことには貢献していませんでした。この問題に関するパウロの解決策は、彼らが行政に関わることやパトロヌス・クリエンテス関係から身を引き、代わりに、誠実な勤労によって、パトロヌスへの依存から解放されることでした。パウロは、テサロニケのクリスチャンたちに、パトロヌスの世話になるよりも、人から尊敬されるような振る舞いをするよう命じたのです。彼らは、地域社会の信頼できる一員となり、立派な市民として振る舞う必要がありました。それと共に、パウロは、彼らが生計を他人に依存すべきではないと指導しました。
この章のこの時点まで、パウロは信徒たちがすでに知っている事柄について話してきました。「わたしたちがどういう教を主イエスによって与えたか、あなたがたはよく知っている」、[20] 「前にもあなたがたにきびしく警告しておいた」、[21] 「今さら書きおくる必要はない。あなたがたは、互に愛し合うように神に直接教えられており…。」[22] しかし、ここでパウロは、別の主題に移ります。それは、「キリストにあって死んだ人々」はどうなるのかという問題です。
兄弟たちよ。眠っている人々については、無知でいてもらいたくない。望みを持たない外の人々のように、あなたがたが悲しむことのないためである。[23]
テサロニケの人々には、すでに死んだ信徒たちに関する知識があまりなかったようです。この主題に関して十分な教えを受けていなかったので、亡くなったクリスチャンがどうなるのか、パウロに質問したのでしょう。パウロは、亡くなった人について、「眠っている人々」というメタファーを用いましたが、数節後には、彼らを「死んだ人々」と呼んでいます。「キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり…。」[24]
パウロが、すでに死んだクリスチャンについて、信徒たちに無知でいてもらいたくなかったのは、彼らが「望みを持たない外の人々のように、あなたがたが悲しむことのないため」です。パウロは、クリスチャンは愛する人が亡くなっても悲しむべきではないと言っているのではありません。この点については、ある著者もこう書いています:
彼らの悲しみは、キリストの復活とその来臨の約束に基づく希望があるのだと知ることで、和らぐのです。[25]
パウロは、続けてこう語ります:
わたしたちが信じているように、イエスが死んで復活されたからには、同様に神はイエスにあって眠っている人々をも、イエスと一緒に導き出して下さるであろう。[26]
教会の基本的信条の一つは、その時も現在も、「イエスが死んで復活された」ということです。パウロはおそらく、当時の信徒たちの間に伝わっていて、テサロニケ教会でも用いられていた信条を引用したのでしょう。このように、イエスの死と復活が、信者の復活を保証するものであるとされたのです。[27]
わたしたちは主の言葉によって言うが、生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたちが、眠った人々より先になることは、決してないであろう。[28]
パウロはこの文の冒頭で、この教えはイエスの霊感を受けたもの(「主の言葉」)であり、それゆえに、キリスト教信者にとっては信頼できるものであることを告げています。「主の言葉」とは、旧約聖書では一般に預言的な託宣のことでした。例えば、次のように使われています:
主の言葉が…祭司エゼキエルに臨み… [29]
主の言葉がわたし[エレミヤ]に臨んで言う… [30]
ベエリの子ホセアに臨んだ主の言葉。[31]
しかし、新約聖書では、「主の言葉」がそのように使われてはおらず、彼らが宣べ伝えている福音のメッセージのことを指しています。
それが二年間も続いたので、アジヤに住んでいる者は、ユダヤ人もギリシヤ人も皆、主の言を聞いた。[32]
こうして、主の御言はこの地方全体にひろまって行った。[33]
イエスが再臨される時に、生きている信者がすでに死んだ信者より先になることはないと知ることは、何らかの理由により、テサロニケの信徒たちにとって重要だったようです。パウロは、「キリストにあって死んだ人々」がまず復活し、それから生きている人が、彼らと共に引き上げられて主に会うと告げています。これは、愛する人の死について悲しんでいるテサロニケ人にとって、慰めとなったことでしょう。
すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、… [34]
一つ前の節で、パウロはイエスの「来臨(再臨)」に言及しています。来臨と訳されたギリシャ語の言葉はパルーシアで、一般的に、町を訪れる君主や支配者による輝かしい来訪を意味しています。そのような来訪を受けるにあたり、大きな祝典が開かれ、宴会、来訪者を称えるスピーチ、宗教行事、競技、いけにえ、像の奉献、アーチや建築物の建設などが行われました。また、町の役人や住民は特別な衣装をまとい、町の外まで君主を迎えに行って、町へと案内しました。
パウロは、イエスの来臨とそれに伴う栄光と華やかさを描写するために、また、テサロニケの信徒たちに、生きている人も死んだ人も、全てのクリスチャンがこの素晴らしい出来事にあずかるのだと安心させるために、このパルーシアの概念を用いたのです。イエスの再臨は、ひそかに起こるのではありません。まず、合図の号令があります。誰がこの号令を発するのかは記されていませんが、キリストにあって死んだ人々に復活するよう命じられる父なる神が、そうされるのかもしれません。
イエスの再臨には「天使のかしら(大天使)の声」が伴います。この「天使のかしら」が誰であるかは記されていません。ただ、新約聖書には、天使のかしらとして名前が記されている天使が1人いて、それは、ユダ1:9に出てくるミカエルです。
御使のかしらミカエルは、モーセの死体について悪魔と論じ争った時、相手をののしりさばくことはあえてせず、ただ、「主がおまえを戒めて下さるように」と言っただけであった。[35]
新約聖書で名前の記されている天使はもう1人だけおり、それは、イエスの母マリアのもとにつかわされた御使ガブリエルです。[36] しかし、天使についての言及自体は、新約聖書に83回あります。
3番目に記されている大きな音は、「神のラッパの鳴り響く」音です。パウロの時代のラッパは、主に楽器としてではなく、軍事演習や葬列などで用いられていました。この場合、死んでいた人々が神の集合ラッパを聞いて、復活せよという命令に応じるわけです。ここでも、第1コリント15:52でも、「神のラッパ」は、死者に復活を命じるものとなっています。また、マタイ24:31に出てくる神のラッパは、分散した神の民を呼び集めるものです。
神のラッパの鳴り響く音が聞こえると、「キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり」ます。すべての死者がこの時によみがえるわけではなく、生前にキリストによる救いを受けていた人だけです。パウロは、すでに死んだクリスチャンがよみがえって、主の再臨にあずかることを、テサロニケの人たちにはっきりと知ってほしいと思いました。すでに死んだクリスチャンも、イエスが再臨される時、そこにいる機会を逃すことはないのです。
それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。[37]
主のパルーシアの時、まず死んでいた人々がよみがえってから、生きているクリスチャンが彼らと一緒になり、共に主に会いに行きます。この栄光ある出来事は、しばしば「携挙」と呼ばれます。「生き残っているわたしたち」とあるので、パウロと同労者たちは、自分たちがパルーシアまで生きていると考えていたのでしょう。パウロの考えでは、最初のグループは復活した人たちであり、生きている人たちがそれに続きます。この2つのグループが合流した時、彼らは「共に…引き上げられ」るのです。死んだ人も生きている人も「共に雲に包まれ」るというのは、テサロニケの人たちにとって意外な事実だったことでしょう。ある著者は、このように語っています:
これほどまでに輝かしい出来事のことを、彼らは考えてもみなかったのです。[38]
「空中で主に会い」というのは、来訪する要人を出迎えるために、町から代表団を送ったという慣習を反映しています。そのような慣習の一例が使徒行伝に見られ、ルカは、パウロと同労者たちがローマに近づいた時に、ローマのクリスチャンの代表団がやってきて、彼らを出迎えてくれた様子を記しています。
ところが、兄弟たちは、わたしたちのことを聞いて、アピオ・ポロおよびトレス・タベルネまで出迎えてくれた。パウロは彼らに会って、神に感謝し勇み立った。[39]
パウロは、空中で主に会うことについて書くにあたり、それは復活した信者と生きている信者の体であり、ただ魂だけが主に会うのではないことを指摘しています。それがどのように起こるのかは説明していませんが、この手紙や他の手紙でパウロが書いていることから、人の体が死ぬことのない状態に変えられると考えていたことがわかります。
わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう。[40]
しかし、ある人は言うだろう。「どんなふうにして、死人がよみがえるのか。どんなからだをして来るのか。」 おろかな人である。あなたのまくものは、死ななければ、生かされないではないか。また、あなたのまくのは、やがて成るべきからだをまくのではない。麦であっても、ほかの種であっても、ただの種粒にすぎない。[41]
復活して雲に包まれるなどした後のことについては、先ほどの節に「いつも主と共にいるであろう」と記されています。聖書は、信徒たちが死んだ後、その魂は主と共にいることになると教えています。
わたしは、これら二つのものの間に板ばさみになっている。わたしの願いを言えば、この世を去ってキリストと共にいることであり、実は、その方がはるかに望ましい。[42]
そして、肉体を宿としている間は主から離れていることを、よく知っている。わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである。それで、わたしたちは心強い。そして、むしろ肉体から離れて主と共に住むことが、願わしいと思っている。そういうわけだから、肉体を宿としているにしても、それから離れているにしても、ただ主に喜ばれる者となるのが、心からの願いである。[43]
そして、最後にこう書かれています。
だから、あなたがたは、これらの言葉をもって互に慰め合いなさい。[44]
テサロニケの信徒たちは、自分たちの共同体の何人かの死について悲しんでいました。さらに、死んだ人たちは主が戻ってこられる際に会えなくなるのではないかと心配していました。パウロは、この手紙の中で啓示を伝え、彼らがそれによって互いに慰め合うことができるようにしました。キリストが再臨される時、全ての信者は、死んだ人も生きている人も、私たちの王であり救い主であるイエスと結び合わされ、「こうして、いつも主と共にいる」ことになるのです。なんて素晴らしいことでしょうか。
注:
聖書の言葉は、特に明記されていない場合、日本聖書協会の口語訳聖書から引用されています。
1 参照:『第1テサロニケ:第4章(パート1)』
2 1テサロニケ 4:9–10.
3 ローマ 12:10.
4 ヘブル 13:1.
5 1ペテロ 1:22. こちらも参照:2ペテロ 1:7.
6 ヨハネ 13:34–35.
7 ヨハネ 15:12.
8 ヨハネ 15:17.
9 1ヨハネ 3:11.
10 ガラテヤ 6:2.
11 1ヨハネ 3:23.
12 1ヨハネ 4:7.
13 1ヨハネ 4:11.
14 1テサロニケ 4:9.
15 1テサロニケ 4:10.
16 使徒 17:1.
17 2コリント 8:1–4.
18 1テサロニケ 4:11–12.
19 使徒 20:33–34.
20 1テサロニケ 4:2.
21 1テサロニケ 4:6.
22 1テサロニケ 4:9.
23 1テサロニケ 4:13.
24 1テサロニケ 4:16.
25 Gene L. Green, The Letters to the Thessalonians (Grand Rapids: William B. Eerdmans Publishing Company, 2002), 219.
26 1テサロニケ 4:14.
27 ローマ 8:11; 1コリント 6:14; 2コリント 4:14.
28 1テサロニケ 4:15.
29 エゼキエル 1:3.
30 エレミヤ 1:4.
31 ホセア 1:1.
32 使徒 19:10.
33 使徒 13:49.
34 1テサロニケ 4:16. [訳注:ここで引用された口語訳聖書では、「天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で」とありますが、他の日本語訳聖書では、ギリシャ語原文にある順番どおりに、まず「合図」についての言及があり、「合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと」(新共同訳)などと訳されています。]
35 ユダ 1:9.
36 ルカ 1:26–27.
37 1テサロニケ 4:17.
38 Green, The Letters to the Thessalonians, 226.
39 使徒 28:15.
40 ピリピ 3:20–21.
41 1コリント 15:35–37.
42 ピリピ 1:23.
43 2コリント 5:6–9.
44 1テサロニケ 4:18.
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