第1コリント:第11章(17–34節)

10月 28, 2025

著者:ピーター・アムステルダム

[1 Corinthians: Chapter 11 (verses 17–34)]

June 17, 2025

第11章の後半で、パウロは公同礼拝に関する別の問題を取り上げています。それは、コリントの信徒たちによる主の晩餐の行い方についてです。

ところで、次のことを命じるについては、あなたがたをほめるわけにはいかない。というのは、あなたがたの集まりが利益にならないで、かえって損失になっているからである (1コリント11:17)。

パウロは、この章を称賛の言葉で始めていましたが、ここでは「あなたがたをほめるわけにはいかない」と言っています。称賛はできないと。この問題に関してパウロがコリントの信徒たちに与えた叱責は、彼らの集まりと公の礼拝の行い方を中心としています。彼らを完全に非難したわけではありません。少し前に、礼拝についての彼の教えの多くを守っていると、彼らを称賛したばかりです(1コリント11:2)。しかし、ここで取り上げている点に関するパウロの評価は、彼らの礼拝の時間がもたらす害が、益を上回っているというものでした。

そのような非難を生んだ慣行とは、何だったのでしょうか。コリントの人たちは、キリスト教礼拝における最も神聖な儀式の一つである主の晩餐を汚していたのです。主の晩餐を行うにあたり、彼らはキリストの栄誉に十分な敬意を払わず、互いを敬うこともしていませんでした。

まず、あなたがたが教会に集まる時、お互の間に分争があることを、わたしは耳にしており、そしていくぶんか、それを信じている (1コリント11:18)。

パウロは「まず(第一に)」という言葉で主張を始めています。しかし、第二、第三の問題を持ち出してはいないので、この場合は、「それが真実である最も重要な点は」という意味だと理解すべきでしょう。また、「耳にしており」という言葉を付け加えています。それが誰からの情報なのか明かしていませんが、この手紙の前の方では、「クロエの家の者たち」が同様の問題について知らせてくれたと述べています(1コリント1:10–12)。パウロは、確証はないものの、この教会をよく知っていたので、その報告が少なくともある程度は真実だと信じていました。

コリントの信徒たちの分裂の問題については、すでに1~4章で取り上げられています。ここでのパウロの批判は、コリントの人たちが教会として集まる際に生じていた分裂に焦点が当てられています。パウロの主な懸念は、そのような分裂が公の礼拝を損なうことでした。

たしかに、あなたがたの中でほんとうの者が明らかにされるためには、分派もなければなるまい (1コリント11:19)。

この節に関しては、解釈の仕方が二通りあります。一つの解釈は、この教会には真の信者と偽教徒がいるので、分裂は必要かもしれないというものです。この見方によれば、パウロは、誰が神に認められているかが明らかにされるために、真の信者が他の人の誤った教えとの違いをはっきりさせることが時には必要であることに、同意しているということになります。この解釈の裏付けとなっているのは、「分派」と訳されている言葉(英語NIV訳聖書では「違い」)は、分裂と同じではないという事実です。

一方、パウロはこれらの違いを認めると、実際に言ったわけではありません。そのような違いも分裂の一部だと考えて、皮肉を言った可能性もあります。分裂は明らかにネガティブなものであるし、違い(分派)もある程度そうでしょう。そういうわけで、彼は「あなたがたをほめるわけにはいかない」(第17節)と言ったということです。

パウロはこの後、教会が一部の信徒を空腹のままでいさせたと指摘しますが、それが起こった理由は罪深い「違い」があったことで説明がつくかもしれません。貧しい人々は、「認められた」存在と見なされず、もしかすると「いなくても困らない」存在とさえ考えられていたのかもしれません。

そこで、あなたがたが一緒に集まるとき、主の晩餐を守ることができないでいる[一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにならない(新共同訳)] (1コリント11:20)。

パウロはここで、彼の懸念の核心を述べています。コリントの信徒たちが主の晩餐を行うために集まるとき、分裂が激しくて、もはや主の晩餐とは呼べない状態でした。(「主の晩餐」という言葉は、今日では聖餐式を指す一般的な用語となっていますが、新約聖書においてこの言葉が用いられているのは、唯一この箇所だけです。)

というのは、食事の際、各自が自分の晩餐をかってに先に食べるので、飢えている人があるかと思えば、酔っている人がある始末である (1コリント11:21)。

パウロは、自分がどんな報告を受け取ったかを述べています。コリントの信徒たちは、他の人を待たずに食事を済ませていました。[ここで引用されている英訳聖書で]「各自が我先にと自分の食事をする」と訳されている箇所は、[日本語口語訳にあるように]「各自が自分の晩餐をかってに先に食べる」と訳すことができます。パウロは、各自が「自分の晩餐」を食べるという言い方によって、それが「主の晩餐」とは言えない理由を示そうとしたのかもしれません。コリントの信徒の中には、主の晩餐にある「一致」という側面を忘れ去り、自分のことばかり考える人たちがいました。また、主が自分たちのために払ってくださった犠牲を記念するはずの席で、酔っ払っている人もいたのです。

あなたがたには、飲み食いをする家がないのか。それとも、神の教会を軽んじ、貧しい人々をはずかしめるのか。わたしはあなたがたに対して、なんと言おうか。あなたがたを、ほめようか。この事では、ほめるわけにはいかない (1コリント11:22)。

パウロは、いくつかの質問をすることによって、彼らをたしなめました。まず第一に、自分の食事を食べたり飲んだりする家がないのかということです。これは、「主の晩餐の席でそのようなことをするのなら、家にいなさい」という、パウロなりの言い方だったのかもしれません。パウロは貧しい人々への差別に反対していました。コリントの信徒たちは、主の晩餐に集まる際に、富める者と貧しい者とを社会的に区別していたので、パウロはその件について深く心を痛め、強く反対したのです。

第二に、パウロは貧しい人々をはずかしめる者たちに、「神の教会を軽んじるのか」と問うことで、その慣行がいかに間違っているかを指摘しました。教会は、あらゆる社会階層と民族からの人々で構成されており、彼らは神の目に平等です。神の民のうちの貧しい人々を主の晩餐にあずからせない信者は、その儀式の神聖さを軽視していることになるのです。貧しい人々は、教会共同体にとって不可欠な存在であるため、彼らを差別することは、教会を軽んじることにほかなりません。

第三に、パウロは裕福な教会員が、何も持っていない人々をはずかしめようとしているのかと尋ねています。パウロの時代、貧しい人々はよく、裕福な人々からはずかしめられ、見下されていました。しかし、イエスは、神の国では貧しい人たちは祝福されると教えられました(ルカ6:20–21)。また、金持ちにはその社会的地位に伴う困難があることも警告しておられます(マルコ10:25)。コリントでは、貧しい人々が、すでにこの世的には何も持っていなかったというのに、よりにもよって主の晩餐の席で、信徒仲間から尊厳までも奪われていたのです。パウロは皮肉を込めて、彼らのそのような振る舞いをほめるべきだと思うか、と問いかけました。そして、自らの問いに対し、「ほめるわけにはいかない」(英語ESV訳:いや、そんなことはしない)という決然とした答えを与えています。

わたしは、主から受けたことを、また、あなたがたに伝えたのである。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンをとり、感謝してこれをさき、そして言われた、「これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」 (1コリント11:23–24)。

それからパウロは、主の晩餐についてすでに伝えてあった教えを、コリントの信徒たちに思い起こさせています。「あなたがたに伝えた」という言葉は、パウロの時代のラビたちが、宗教的な言い伝えを正式かつ神聖な方法で伝え教えることを意味して用いた表現です。この箇所は、パウロが少し前に、コリントの人々は彼が「伝えたとおりに」教えを守っていると称賛していたのと対照的です(1コリント11:2)。主の晩餐に関して、彼らはすでに正しい守り方を知っていましたが、その教えを正しく実行してこなかったのです。

彼らがパウロの教えを受け入れなかったことは、問題でした。というのも、パウロは、主の晩餐を自分で考え出したわけではなく、ただ、主から受けたことを伝えていたからです。その教えを主からどのような形で受け取ったのか、正確なところは明らかにしていません。他の使徒たちから直接その教えを受けたのかもしれないし(ガラテヤ1:18)、アラビアで過ごした初期の年月の間に、キリストご自身から超自然的に受けた可能性もあります(ガラテヤ1:15–17)。

それからパウロは、主が敵の手に渡された夜にどのように主の晩餐を行われたかを話して、その正しいやり方を簡潔に説明しています。パウロは、パンを裂くことについて、4つの点を挙げました。イエスはパンを取り、感謝し、パンを裂き、そしてこう言われたと。「これはあなたがたのための、わたしのからだである。」

「パン」は、「ローフ」(切られていない一塊のパン)とも訳せる言葉です。おそらくイエスは、共に食事にあずかる人々の一致を象徴するために、一塊のパンを用いられたことでしょう。イエスは感謝を捧げてから、パンを裂かれました。イエスが5千人に食べ物を与えたときもそうだったように、多くの場合、主人は来客のためにパンを裂きました(マルコ6:41, ヨハネ6:11)。そしてイエスは、パンが何を象徴するのかを、弟子たちに語られました。

パウロは、イエスが語られたことを3つの点に要約しました。第一に、「これはわたしのからだである」ということです。この表現は、教会の歴史を通じて論争を引き起こしてきました。ローマ・カトリックは伝統的に、この箇所を文字通りに解釈してきました。つまり、聖体拝領(聖餐)の際、パンとぶどう酒の実体がキリストの体と血に変わるというものです。この見解は、化体説(聖変化)と呼ばれています。

共在説(実体共存説)と呼ばれるルター派の見解は、キリストの体と血はパンとぶどう酒の中に存在するが、それらの物理的な実体は変化しないというものです。そして、プロテスタントの大部分は、キリストが聖餐の間、霊的に臨在される、そして、主の晩餐のパンとぶどう酒はキリストの体と血を象徴するものである、という見解を持っています。この箇所でも福音書の記述でも、この点がそれ以上に明確にされてはいませんが、イエスは「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」と約束しておられます(マタイ18:20)。

第二に、「これはあなたがたのため」だということです。キリストは人々のために十字架上で苦しみ、死なれました。私たちの罪のためのキリストのあがないはすべての人に提示されており、信仰と悔い改めをもってキリストのもとに来る人は誰でも、それを受けることができます(1ヨハネ1:92:2)。しかし、主の晩餐に関わるこの言葉の中で、イエスは特定の人々、つまりイエスに従う者たちのために命を捧げたと語っておられます。イエスが味わった苦しみは、ただ、イエスを主であり救い主であると信じる者の罪をあがなうものだったのです。

第三に、「わたしの記念として、このように行いなさい」ということです。主の晩餐(聖餐)は、神の民がイエスの死と復活を記念する(思い起こす)ための儀式として定められました。イエスが最後に使徒たちと共にされた食事は、キリストが裏切られ、逮捕され、まもなく死を迎えるという状況の中で行われました。[1] パンを裂き、いただくことによって、私たちはキリストが私たちのために味わわれた苦しみを思い起こすのです。

「記念するため」に行いなさいという指示は、次の節で、キリストの血に関連して繰り返されています。

食事ののち、杯をも同じようにして言われた、「この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい」 (1コリント11:25)。

パウロは次に、杯に焦点を当て、イエスが「杯をも同じように」されたと説明することで、杯がパンとは別に祝福されたことを伝えています。さらに、イエスがパンについても言われた、「わたしの記念として、このように行いなさい」という言葉を繰り返しています。こうしてパウロは、キリストを記念し、敬うことが、主の晩餐の儀式の中心であることを強調しました。

パウロが記録したイエスの言葉は、ルカの記述とかなり類似しており、ルカ書でも、杯が「あなたがたのために流すわたしの血で立てられる新しい契約」と呼ばれています(ルカ22:17–20)。「新しい契約」という言葉はエレミヤ31章31節に由来しています。エレミヤは、神がご自分の民の「残りの者たち」と結ばれる新しい契約の取り決めを描写しており、それは罪の赦しに基づき、神の律法が人々の心に記されるというものです。新約聖書という名称は、イエスの生涯、死、復活によって結ばれたこの新しい契約に由来します。つまり、キリストの宣教によって成立した新しい契約こそが、その約束の成就であったことを意味しているのです。

だから、あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである (1コリント11:26)。

主の晩餐における飲食の行為の焦点が、キリストを記念することに当てられるべきなのは、なぜなのでしょうか。それは、教会が主の晩餐を行うたびに、クリスチャンはキリストが戻られるまで、主の死を告げ知らせるからです。イエスが私たちのために命を捧げられたという犠牲を記念して、教会が聖餐式を行っているのを信者でない人が見るとき、福音のメッセージが宣べ伝えられているのです。「主の死」という表現は、キリストが教会のためになされた救いの御業全体、つまりその生涯、死、復活、昇天を指しています。

だから、ふさわしくないままでパンを食し主の杯を飲む者は、主のからだと血とを犯すのである (1コリント11:27)。

「ふさわしくないしかたで」主の聖餐にあずかる者は、「主の体と血に対して罪を犯すことになります」(聖書協会共同訳)。ふさわしくないしかたで主の晩餐にあずかるとは、伝統的に、罪を告白しないままで聖餐にあずかることだと解釈されてきました。ある意味では、誰一人として完全にふさわしい者ではありえないので、私たちは皆ふさわしくない者として聖餐にあずかっていると言えます。だからこそ、信者が自分の罪を告白して、礼拝に備えることは重要です。ただ、パウロはここで焦点をかなり絞り込んで話しています。彼の念頭にあった「ふさわしくないしかた」とは、キリストにある教会の一致を示せないようなしかたで主の晩餐にあずかることでした。

だれでもまず自分を吟味し、それからパンを食べ杯を飲むべきである。主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分にさばきを招くからである (1コリント11:28–29)。

罪を犯さないために、信者は聖餐にあずかる前に、自分自身、そして動機や行動を吟味して、それらが主の教えにかなっていることを確かめるべきです。自分を吟味することに時間をかける理由は、キリストの犠牲への敬意と認識なしに聖餐にあずかるなら、裁きを招くことになるからです。

パウロがこの指示を与えたのは、特定の問題を正すためでした。一般的に、聖餐式は、キリストが私たちのために捧げた犠牲、信者の一致、そして福音の宣教に焦点を当てて執り行われるべきものであり、自分のことではなく、キリストと他者に焦点が当てられるべきです。主の晩餐に備えるにあたり、自分がふさわしい態度で聖餐にあずかれるよう、各人は自らを省みるべきなのです。

あなたがたの中に、弱い者や病人が大ぜいおり、また眠った者も少なくないのは、そのためである。 (1コリント11:30)。

パウロは、コリントの信徒の多くが衰弱、病気、そして場合によっては死という形で懲らしめを受けていることを指摘して、主の晩餐を汚すことの深刻さを引き続き強調しています。病気や死は、必ずしも個人の罪の結果とは限らないし、さまざまな理由で、信者にも、そうでない人にも訪れるものです。[2] ただ、パウロがこの状況において言及しているのは、主の懲らしめについてです。

しかし、自分をよくわきまえておくならば、わたしたちはさばかれることはないであろう。しかし、さばかれるとすれば、それは、この世と共に罪に定められないために、主の懲らしめを受けることなのである (1コリント11:31–32)。

パウロは、もしコリントの信徒たちが、主の晩餐の前に自らを省みて行いを改めるなら、神が彼らを病気や死によって懲らしめることはない、と付け加えました。さらに、コリントの信徒たちに、たとえその行いのゆえに懲らしめを受けた人であっても、罪に定められているわけではなく、むしろ、主は愛するものを懲らしめられるのだと思い起こさせています(ヘブル12:5–11)。神が教会を懲らしめられるのは、真の信者がそれを心に留め、悔い改めて、キリストに立ち返ることで、この世と共に罪に定められないようにです。

それだから、兄弟たちよ。食事のために集まる時には、互に待ち合わせなさい。もし空腹であったら、さばきを受けに集まることにならないため、家で食べるがよい。そのほかの事は、わたしが行った時に、定めることにしよう (1コリント11:33–34)。

パウロは締めくくりに、彼らに兄弟と呼びかけた上で、これまでのことをまとめ、最後の指示を与えました。勧告の前半にある、「食事のために集まる時には、互に待ち合わせなさい」という言葉は、コリントにおいて、主の晩餐が食事の形で行われていたことを示唆しています。パウロは、主の晩餐はすべての人が平等の立場で参加する、分かち合いの食事であるべきだと指摘しています。もし早く到着した人がいるなら、他の人が到着するのを待ってから食事をすべきです。金持ちが先に食べ、貧しい人はまったく食べないというのではなく、会食に参加するすべての人が同時に食べなさいということです。そうすることで、貧しい人々に対して、ひいてはキリストに対して、ふさわしい敬意を示すことができます。

第二に、パウロは、他の人を待たないことを正当化する理由を取り除くため、空腹の人は「家で食べるがよい」と付け加えています。パウロは、主の晩餐に空腹で来る貧しい人々をたしなめたわけではありません。彼らにとって、それはどうしようもないことでした。そうではなく、十分に余裕のある人は家で食べるようにすることで、主の晩餐が行われるときには皆が一緒に食事できるようにすべきだということです。

パウロは、主の晩餐の意義と、信徒がそれにあずかる方法という、重要な点に触れました。聖餐式を行うことは、主の死と、私たちのあがないのための主の犠牲を宣言するものであり、畏敬と礼拝の心を持って行われるべきです。パウロはまた、聖餐式がキリストの体としての教会の一致を表すものであることを強調しました。そして、コリントの信徒たちがこの主題についてさらなる教えを必要としていることを明らかに知っていたパウロは、次回の訪問の際にそれを教えると約束したのです。


注:
聖書の言葉は、特に明記されていない場合、日本聖書協会の口語訳聖書から引用されています。