落胆と戦う
4月 1, 2017
著者:マリア・フォンテーン
落胆と戦う
[Fighting Discouragement]
April 1, 2017
先日、落胆について考えていました。私は、仕事と健康の習慣に関する日々の計画について願っていたほどできていなかったことで落胆を味わっていたのです。こうして落ち込む経験をし、そこから抜け出るのにかなりの努力を要したことから、落胆というテーマについて自分の思うところやその他の関係したポイントを書き留めてみました。私にとってそれが癒しにつながったし、みなさんにも助けになるかもしれないので、ここで分かち合いたいと思います。記事の最後に、イエスが預言でくださった励ましや知恵の言葉を載せておきます。
- 落胆というと、私が経験したような比較的軽いものから、パウロが「生きる望みをさえ失ってしまい」と表現したような、圧倒され押しつぶされそうに感じるものまで、幅広い感情を表します。[1] 類語辞典を見ると、落胆に関係した感情を表す、ものすごく多くの言葉が列挙されています。がっかりする、憂鬱、打ちひしがれる、打ちのめされる、悲嘆に暮れる、絶望的、などです。「落胆(discouragement)」という言葉は文字どおり、勇気(courage)をくじかれるということです。誰でも味わった経験があることでしょう。妨げとなり、時には力を奪ってしまう、このような感情を味わわずにすむ人などいません。
- 問題や失敗、困難、障害、孤独が原因だったり、さらには、友人や愛する人の死、失職、家族や友人から遠く離れたところへの引越し、愛するペットの死、深刻な病気という診断結果、悪い噂を流された、などのトラウマになる経験、その他様々なことが原因で、私たちは落胆を経験します。
- 私は落胆すると、自分のことや自分の問題のことしか考えたくなくなります。でも、そうするとさらに下降スパイラルにはまってしまいます。落胆を克服するには、そのスパイラルから抜け出ることが必須です。
- イエスは私たちの弱さをご存知で、自分が浸っている感情を超越して物事を見るのが難しいことを知っておられます。主は常に私たちと共に歩まれ、私たちの荷を担い、抜け出る道を見つけられるよう、上を向くように励ましてくださいます。
- そういう人間的な感情を抱いたからといって、神は私を見下したりされません。聖書に「主はわれらの造られたさまを知り、われらのちりであることを覚えていられるからである」[2] と書かれている通りです。
- 主は、落胆と戦うための実践的、霊的な方法を数多く与えてくださいました。
- 一度落胆を克服すると、次に落胆を克服するのが簡単になるものの、新たな落胆に立ち向かうたびに、独自の困難に直面し、それを克服することから得られるメリットも異なると思います。
- 落胆との戦いから得られる、励ましになるものとは、この面で困難な戦いを経験している人に対してもっと理解や憐れみを持てるようになることです。私の場合もそうだと思います。
- 聖書には、心も思考も落ち込み、似たような経験を克服しなければならなかった人がいっぱい出てきますが、それは、私にとって励ましであるし、他の何百万という人にとっても励ましになってきたと思います。状況は異なっていても、根本的なところは、現代の私たちが経験することとほぼ同じです。ヨブやモーセ、ダビデ、エレミヤ、エリヤ、ペテロ、パウロなどといった人たちの人生を調べてみると、彼らも、霊が引き下げられた時にとても苦しい試練を味わい、希望を失い、全てが失われたように感じたのがわかります。
- 有名な信仰と決意の人の人生について読むと、誰もが時に深い悲しみや喪失感に打ちのめされ、山のような落胆に行く道を塞がれた経験があります。けれどもそういう経験にも関わらず、彼らは繰り返しイエスにしがみついたし、イエスが彼らの力となりました。
- 誰もが、全て正しいことをしているかどうかに関係なく、殴られ、叩きつけられたように感じて、落胆に直面することがあります。実際、神の目に正しいことをしようとしていると、なおさら、落胆によって邪魔しようとする敵の標的になりやすいものです。
- イエスご自身も時に落胆と戦ったと思います。世界にメッセージを携えてくれると頼りにしていた弟子までが、イエスの教えようとしていたことを理解できなかった時のことを考えてみてください。彼らは時に、誰が一番偉くなるかと言い争ったりもしました。ヨハネ6:66には、イエスが彼らに呑み込み難いことを話した後、「それ以来、多くの弟子たちは去っていって、もはやイエスと行動を共にしなかった」とあります。イエスは人間になられていたのだから、それにはがっかりしたと思いませんか? そんなことが起こったら、私なら落胆してしまったことでしょう。
- 聖書には、イエスは、「罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである」[3] と明確に書かれています。悲しみや嘆きや落胆に苛まれることは罪ではありません。[4] イエスはゲツセマネの園に行き、霊の内の苦しみに耐え、血の汗を流されましたが、共にいた者たちは、自分たちのためにあらゆることをしてくれて、これからもしてくれるイエスのために祈って目を覚ましていることもできませんでした。[5]
- イエスは最後に理解しがたいほどの絶望を味わわれました。この世の罪に対する罰を自身の身に負い、父と離れ離れになるという激しい苦悩を経験されたのです。主の経験された絶望は完全に想像を超えています。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたのです。[6] ですから、イエスには、私が一番困難な時に味わう落胆でも完全に理解できるとわかります。
- この人生では時に、こうした深く暗い感情が洪水のように押し寄せることがあり、それに浸っていると、終わりがないように思われますが、主は常にすぐそばにおられ、何らかの形でそこから抜け出させてくださいます。
何が原因であれ、津波のように問題の波が押し寄せてきた、トラック1台分の苦しみが衝突してきた、あるいは、悲しみや後悔の念の底なし穴に落っこちてしまったと感じる時、どうしたらいいのでしょう。これが私たちの現実です。どうやって回復できるのでしょうか。
理想は、何か取り組むゴールをもち、忙しく行動に出て、敵に抵抗し、落胆やうつなどを押しのけるためにポジティブな思考や行動で人生を満たすことです。それは理論上は素晴らしいのですが、私たちがひどく落ち込み、力ややる気を奮い起こすこともできない状態の時、主は一体どのぐらいのことを求められるのでしょうか。
イエスは預言で、正しい見方をするのを助けるために次のメッセージを与えてくださいました。
原因が何であれ、落胆を克服するというのは、短い旅である場合もあれば、非常に長い場合もある。大切なのは、諦めてしまい、物憂さや絶望の穴にますますはまり込むのを許してしまわないことだ。それをすると、悪化するばかりだ。日々、できることをしなければならない。
座って涙し、わたしをつかむことしかできないとしても、それをしなさい。理由が想像できなくても、大小関わらず、しがみつくためにできることをしなさい。そうするにつれて、毎分、毎時間、毎日、少しずつ勝利に近づき、ゆくゆくは落胆の鎖をかなぐり捨てることができる。そのような鎖は、悲しみや悲嘆や喪失感によって、あるいは自分が何に落胆しているのかも理解できない時に、大きくなっていくものである。
大切なのは、日々、どのぐらい大きなステップを踏めるかではなく、ステップを踏んでいること自体である。その時点で自分のベストを尽くしているかどうかが大切なのだ。あなたを圧倒させるものの深みから指1本あげることしかできないとしても、それは進歩である。
ヨブのことを考えてみなさい。ヨブは、落胆の深みにあって灰の山に座っていた。いきなり元気いっぱいに飛び起き、そこから出て、何かポジティブなことをする、というわけにはいかなかったのだ。絶望と怒りと自己嫌悪の淵に落ち、わたしに疑いと異議と責めを投げかけることさえした。それでも、わたしにしがみつこうと最善を尽くしていた。彼は絶望を口にしたが、わたしが彼の心のうちの混乱や苦しみを理解すると信頼していた。
進歩しているように思える時もあれば、再び敗北に落ち込むように思える時もあるだろう。だが、どんなに大変でも、一歩踏み出す努力をするたびに、たとえそれが、膝を抱えてわたしに泣いて呼ばわり、助けを求めることでしかなくても、わたしは共にいて、どれだけ長くかかろうと、そういう時の支えとなってあげよう。わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない。[7]
ヨブは、落胆と絶望の穴に再び陥っても、試み続けた。人生の障害を克服するのが簡単に素早くできるということは滅多にない。それは過程であるのだ。何にもまして大切なのは、あきらめないことだ。時には、前に進みたいと願うことだけが、あなたにできる全てかもしれない。そしてまた、多くの行動や決意や戦いが可能な時もあるだろうし、その場合、わたしはそれを期待する。
できることをしなさい。それがどんなに小さくとも、大きくとも、わたしは共にいる。時に元気付け、時に黙ってあなたを抱きかかえる。時には、わたしにあなたを支えさせるだけで十分だ。慰めが心に流れ込むようにすることこそ、大きな進歩だという時がある。
誰かが描いた美しい絵があるのだが、その絵では、とても弱まり、打ちひしがれ、わたしにしがみつく力を振り絞ることもできない人を、わたしが腕に抱えている。その人はそんな状態でも、わたしが彼を抱えるままにさせている。わたしは、あなたが落胆に直面した時にどれほど明るく、前向きで、元気があるかを見ることはしない。わたしはあなたの心を見る。
わたしはいつもあなたの近くにいて、あなたを支え、助け、世話する。わたしに抱き寄せてもらうだけの力しかないとしても、わたしはあなたのことを誇りに思う。あなたへのわたしの愛は、無条件であり、永遠なのだ。