イエス、その生涯とメッセージ:復活(パート2)

7月 5, 2022

著者:ピーター・アムステルダム

[Jesus—His Life and Message: The Resurrection (Part 2)]

June 21, 2022

四福音書すべて(そして使徒行伝)に、イエスが復活の後に弟子たち(男女共)に姿を現された時のことが記されています。マタイによれば、何人かの女性の弟子たちが、イエスの遺体に香料を塗ろうとして墓に行ってみると、墓が空になっていました。そして、天使がそこにいて、「使徒たちのところに行って、イエスが生きておられること、そして、ガリラヤへ行かれるので、そこでお会いできることを伝えなさい」と言われたのです。[1]

マタイの福音書には、イエスが生きておられることを弟子たちに伝えなさいと天使から言われた後、彼女らは「恐れながらも大喜びで、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った」 とあります。[2] イエスが生きておられることを、弟子たち(11弟子)になるべく早く伝えるのは、とても大切なことでした。「恐れながら」立ち去ったとあるのは、天からの使者の訪問を受けて、畏怖の念を抱いていたことを示しています。ある著者は、このように書いています。「この女性たちは、自分たちの偉大な指導者であり親しい友人である方の死を悼むためにそこへ行ったのですが、その方はもはや死んではいないと知り、そこを立ち去りました。大喜びでというのも、うなずけます。」 [3]

すると、イエスは彼らに出会って、「平安あれ」と言われたので、彼らは近寄りイエスのみ足をいだいて拝した。そのとき、イエスは彼らに言われた、「恐れることはない。行って兄弟たちに、ガリラヤに行け、そこでわたしに会えるであろう、と告げなさい。」 [4]

天使と会って、弟子たちに伝えるメッセージを受け取った女性たちは、行く途中で、復活したイエスご自身に出会いました。マタイの福音書では、イエスの死と復活に関わる重要な出来事すべてに女性たちが居合わせています。イエスが死なれた時には十字架のそばにいたし、墓へ行ったのも、復活の主に会ったのも、女性たちが最初でした。彼女らは、イエスはガリラヤで弟子たちに会うと天使から言われていたので、墓からの帰りに主と出会って、驚いたことでしょう。

そして、女性たちはイエスの前にひれ伏して、足を抱き、イエスを拝しました。復活されたイエスに会って、彼女らがどれほど喜び、驚いたかは、想像もつかないほどです。ひれ伏してイエスを拝したとありますが、それは、イエスはただの人間以上の方であると、彼女らが認識していたことを示しています。また、この記述から、イエスの復活の体は実際の体であって、ただの幻影や幻覚ではなかったことが分かります。女性たちは、イエスは神なのだと理解したのです。

イエスは、天使がしたのと同じく、「恐れることはない」 と命じ、また、「行って兄弟たちに、ガリラヤに行け、そこでわたしに会えるであろう、と告げなさい」 と言われました。[5] イエスの宣教のほとんどはガリラヤでなされたので、そこで弟子たちと会いたいと望まれるのは自然なことです。また、彼らの居場所としても、イエスに会う場所としても、ガリラヤの方が安全だということでしょう。

番兵と祭司長たち

この時点で、マタイの福音書の話は、イエスと弟子たちのことから番兵と祭司長たちに移ります。

女たちが行っている間に、番人のうちのある人々が都に帰って、いっさいの出来事を祭司長たちに話した。祭司長たちは長老たちと集まって協議をこらし、兵卒たちにたくさんの金を与えて言った、「『弟子たちが夜中にきて、われわれの寝ている間に彼を盗んだ』と言え。万一このことが総督の耳にはいっても、われわれが総督に説いて、あなたがたに迷惑が掛からないようにしよう。」 そこで、彼らは金を受け取って、教えられたとおりにした。そしてこの話は、今日に至るまでユダヤ人の間にひろまっている。[6]

女性たちが、ガリラヤへ行くべきことを伝えようと、弟子たちのもとへ向かっている時、数人の番兵が都に行き、起こったことを祭司長たちに報告しました。通常、番兵は上官に出来事の報告をするものですが、このローマの番兵たちの場合、ポンテオ・ピラトから、ユダヤ教指導者たちの言う通りにするよう命じられていたので、彼らは祭司長たちに報告しに行ったのです。[7] おそらく、番兵たちはローマ軍の上官に報告する必要がなくて、ホッとしたことでしょう。監視中に墓から遺体がなくなるのを阻止することができなかったと、告白しなければいけなくなるからです。イエスの体は盗まれたわけではないのですが、実際に何が起こったのかをローマの上官に説明しようとしても、それは難しかったことでしょう。

番兵から話を聞いた祭司長たちは、これは重大なことなので、どうすべきか決断する前に、長老たちと協議すべきだと考えました。祭司長たちと長老たちとが最善策と考えたのは、番兵たちに金をつかませて、起こったことについて嘘を言わせることでした。彼らが「兵卒たちにたくさんの金を与え」 たと書かれています。「兵卒たちに多額の金を与えた」 とする英訳聖書もあります。[8] 番兵たちはお金を受け取り、起こったことについて嘘を言うことにしました。ローマの番兵が警備中に眠り込むことは、重大な職務怠慢であるので、弟子たちが夜中に来て、彼らが寝ている間に「彼を盗んだ」と上官に報告することは、かなりの危険を伴うものでした。しかし、多額の金の申し出を受けて、危険を犯す価値があると考えたのでしょう。

番兵たちが指示された話は単純であり、弟子たちが夜中に来て、番兵たちが寝ている間にイエスの遺体を盗んだ、というものです。祭司長たちと長老たちは、番兵たちに、もし、イエスの体が墓から消えたという知らせが総督ポンテオ・ピラトの耳に入ったとしても、ユダヤ教の指導者層が番兵たちに迷惑がかからないようにすると言いました。おそらく、総督に賄賂を贈るということでしょう。ピラトは、祭が終わった時点で、住まいのあるカイザリヤ(カイサリア)に向かっていたことでしょうから、この一件を耳にしない可能性もあったのです。

そこで、彼らは金を受け取って、教えられたとおりにした。そしてこの話は、今日に至るまでユダヤ人の間にひろまっている。[9]

兵卒たちは喜んで金を受け取り、イエスの弟子たちが遺体を盗んだと言うことに同意しました。この解決策は、宗教指導者と兵卒たちの双方にとって良いものであると思われました。マタイの福音書が書かれた頃(おそらく紀元70年以降)までの35年間ほど、弟子たちが夜中に来て、番兵たちが寝ている間にイエスの体を墓から盗み出したという、この作り話が広まっていました。

弟子たちと会う

マルコの福音書には、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとが、イエスの体に塗るための香料を持っていったと書かれています。[10] 彼女らが墓に入ると、右手に真っ白な長い衣を着た若者(天使)が座っているのを見ました。[11] 天使は、イエスがガリラヤへ行かれるので、そこでお目にかかれると、弟子たちに伝えるよう言いました。[12] そして、「女たちはおののき恐れながら、墓から出て逃げ去った。そして、人には何も言わなかった。恐ろしかったからである。」 [13] 女性たちは、天使と出会って伝言を受け取ったことで気が動転し、それで墓から逃げ出したのでしょう。天使の指示通りに弟子たちに伝えたかどうかは分からないまま、話が終わっています。

ヨハネの福音書には、イエスの墓に2人の天使がいて、「イエスの死体のおかれていた場所に、ひとりは頭の方に、ひとりは足の方に、すわってい」 たとあります。[14] 彼らはマリヤに、なぜ泣いているのかと尋ねました。

マリヤは彼らに言った、「だれかが、わたしの主を取り去りました。そして、どこに置いたのか、わからないのです。」 そう言って、うしろをふり向くと、そこにイエスが立っておられるのを見た。しかし、それがイエスであることに気がつかなかった。[15]

マリヤは、泣いている理由を説明しました。それは、誰かが来て、イエスの体を移した(と思いこんでいた)からです。それから後ろを振り向いたのですが、なぜそうしたのかは書かれていません。もしかすると、後ろで物音がしたのかもしれないし、天使たちが後ろを向くよう彼女に言ったのかもしれません。

後ろを向くと、そこにはイエスがおられましたが、何らかの理由で、マリヤはそれがイエスであることに気づきませんでした。どうしてイエスだと気づかなかったのかは分かりませんが、他にも少なくとも2回、イエスの復活後、弟子たちがイエスに気づかなかったという状況がありました。ルカの福音書には、次のように書いてあります。

この日、ふたりの弟子が、エルサレムから七マイルばかり離れたエマオという村へ行きながら、このいっさいの出来事について互に語り合っていた。語り合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいてきて、彼らと一緒に歩いて行かれた。しかし、彼らの目がさえぎられて、イエスを認めることができなかった。[16]

また、ヨハネの福音書には、こうあります。「夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。しかし弟子たちはそれがイエスだとは知らなかった。」 [17]

イエスは女に言われた、「女よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」 マリヤは、その人が園の番人だと思って言った、「もしあなたが、あのかたを移したのでしたら、どこへ置いたのか、どうぞ、おっしゃって下さい。わたしがそのかたを引き取ります。」 [18]

イエスは、天使たちが先ほど尋ねた「なぜ泣いているのか」 という質問を繰り返した上で、さらに「だれを捜しているのか」 と言われました。マリヤは、相手が園丁だと思いこんでいます。それはおそらく、朝早かったので、その時間に墓にいる人は他にいないと思ったからでしょう。あるいは、何らかの理由で、イエスが別人に見えたのかもしれません。また、マリヤは、この園丁がイエスの体を取り去ったのかもしれないと考え、もしそうであるなら、イエスの体がどこにあるのか教えてほしい、自分が引き取るから、と言いました。

イエスは彼女に「マリヤよ」と言われた。マリヤはふり返って、イエスにむかってヘブル語で「ラボニ」と言った。それは、先生という意味である。 イエスは彼女に言われた、「わたしにさわっては[すがりついていては]いけない。わたしは、まだ父のみもとに上っていないのだから。ただ、わたしの兄弟たちの所に行って、『わたしは、わたしの父またあなたがたの父であって、わたしの神またあなたがたの神であられるかたのみもとへ上って行く』と、彼らに伝えなさい。」 [19]

マリヤは、最初は分かりませんでしたが、自分の名前を呼ばれた時に、それはイエスだと気づき、「ラボニ」(先生)と呼びかけました。ある著者の説明によれば、ラボニという称号は、ラビよりも個人的で愛情のこもったものだということです。[20]

イエスは彼女に、まだ父のみもとに上っていないのだから、イエスにすがりついてはいけないと言われました。ある著者は、このように説明しています。「この現在命令形の否定文は、『あることを始めるな』ではなく、『あることをするのをやめなさい』を意味します。つまり、ここでの意味は、『私にすがりついているのは止めなさい』ということであって、『私に触り始めてはいけない』ということではありません。」 明らかに、マリヤは主に会ったことで、喜びのあまり、主にすがりついたのでしょう。それはおそらく、「彼らは近寄りイエスのみ足をいだいて拝した」 [21] とマタイが書いた女性たちと同じようなことを、同じような目的でしたのでしょう。

この時に至るまで、イエスの「兄弟」と「弟子」とは別のグループでした。ヨハネの福音書の最初の方には、こう書かれています。「そののち、イエスは、その母、兄弟たち、弟子たちと一緒に、カペナウムに下って、幾日かそこにとどまられた。」 [22] しかし、ここでイエスは、弟子たちを兄弟と呼んでおられます。

「わたしの兄弟たちの所に行って、『わたしは、わたしの父またあなたがたの父であって、わたしの神またあなたがたの神であられるかたのみもとへ上って行く』と、彼らに伝えなさい。」 [23]

また、イエスの父は彼らの父でもあると言われましたが、彼らを兄弟と呼んでいるのですから、それは自然のことです。

ヨハネの福音書には、こうあります。「マグダラのマリヤは弟子たちのところに行って、自分が主に会ったこと、またイエスがこれこれのことを自分に仰せになったことを、報告した。」 [24] マルコの福音書には、こうあります。「[マグダラの]マリヤは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいる所に行って、それを知らせた。彼らは、イエスが生きておられる事と、彼女に御自身をあらわされた事とを聞いたが、信じなかった。」 [25] また、ルカの福音書には、こう書かれています。

この女たちというのは、マグダラのマリヤ、ヨハンナ、およびヤコブの母マリヤであった。彼女たちと一緒にいたほかの女たちも、このことを使徒たちに話した。[26]

(続く)


注:

聖書の言葉は、特に明記されていない場合、日本聖書協会の口語訳聖書から引用されています。


参考文献

Bailey, Kenneth E. Jesus Through Middle Eastern Eyes. Downers Grove: InterVarsity Press, 2008.

Biven, David. New Light on the Difficult Words of Jesus. Holland: En-Gedi Resource Center, 2007.

Bock, Darrell L. Jesus According to Scripture. Grand Rapids: Baker Academic, 2002.

Bock, Darrell L. Luke Volume 1: 1:1–9:50. Grand Rapids: Baker Academic, 1994.

Bock, Darrell L. Luke Volume 2: 9:51–24:53. Grand Rapids: Baker Academic, 1996.

Brown, Raymond E. The Birth of the Messiah. New York: Doubleday, 1993.

Brown, Raymond E. The Death of the Messiah. 2 vols. New York: Doubleday, 1994.

Carson, D. A. JesusSermon on the Mount and His Confrontation with the World. Grand Rapids: Baker Books, 1987.

Charlesworth, James H., ed. JesusJewishness, Exploring the Place of Jesus Within Early Judaism. New York: The Crossroad Publishing Company, 1997.

Chilton, Bruce, and Craig A. Evans, eds. Authenticating the Activities of Jesus. Boston: Brill Academic, 1999.

Edersheim, Alfred. The Life and Times of Jesus the Messiah. Updated Edition. Hendrickson Publishers, 1993.

Elwell, Walter A., ed. Baker Encyclopedia of the Bible. Grand Rapids: Baker Book House, 1988.

Elwell, Walter A., and Robert W. Yarbrough. Encountering the New Testament. Grand Rapids: Baker Academic, 2005.

Evans, Craig A. World Biblical Commentary: Mark 8:27–16:20. Nashville: Thomas Nelson, 2000.

Evans, Craig A., and N. T. Wright. Jesus, the Final Days: What Really Happened. Louisville: Westminster John Knox Press, 2009.

Flusser, David. Jesus. Jerusalem: The Magnes Press, 1998.

Flusser, David, and R. Steven Notely. The Sage from Galilee: Rediscovering JesusGenius. Grand Rapids: William B. Eerdmans Publishing Company, 2007.

France, R. T. The Gospel of Matthew. Grand Rapids: William B. Eerdmans Publishing Company, 2007.

Gnilka, Joachim. Jesus of Nazareth: Message and History. Peabody: Hendrickson Publishers, 1997.

Green, Joel B. The Gospel of Luke. Grand Rapids: William B. Eerdmans Publishing Company, 1997.

Green, Joel B., and Scot McKnight, eds. Dictionary of Jesus and the Gospels. Downers Grove: InterVarsity Press, 1992.

Grudem, Wayne. Systematic Theology, An Introduction to Biblical Doctrine. Grand Rapids: InterVarsity Press, 2000.

Guelich, Robert A. World Biblical Commentary: Mark 1–8:26. Nashville: Thomas Nelson, 1989.

Jeremias, Joachim. The Eucharistic Words of Jesus. Philadelphia: Trinity Press International, 1990.

Jeremias, Joachim. Jerusalem in the Time of Jesus. Philadelphia: Fortress Press, 1996.

Jeremias, Joachim. Jesus and the Message of the New Testament. Minneapolis: Fortress Press, 2002.

Jeremias, Joachim. New Testament Theology. New York: Charles Scribner’s Sons, 1971.

Jeremias, Joachim. The Prayers of Jesus. Norwich: SCM Press, 1977.

Keener, Craig S. The Gospel of John: A Commentary, Volume 1. Grand Rapids: Baker Academic, 2003.

Keener, Craig S. The Gospel of John: A Commentary, Volume 2. Grand Rapids: Baker Academic, 2003.

Keener, Craig S. The Gospel of Matthew: A Socio-Rhetorical Commentary. Grand Rapids: William B. Eerdmans Publishing Company, 2009.

Lewis, Gordon R., and Bruce A. Demarest. Integrative Theology. Grand Rapids: Zondervan, 1996.

Lloyd-Jones, D. Martyn. Studies in the Sermon on the Mount. Grand Rapids: William B. Eerdmans Publishing Company, 1976.

Manson, T. W. The Sayings of Jesus. Grand Rapids: William B. Eerdmans Publishing Company, 1957.

Manson, T. W. The Teaching of Jesus. Cambridge: University Press, 1967.

McKnight, Scot. Sermon on the Mount. Grand Rapids: Zondervan, 2013.

Michaels, J. Ramsey. The Gospel of John. Grand Rapids: William B. Eerdmans Publishing Company, 2010.

Milne, Bruce. The Message of John. Downers Grove: InterVarsity Press, 1993.

Morris, Leon. The Gospel According to John. Grand Rapids: William B. Eerdmans Publishing Company, 1995.

Morris, Leon. The Gospel According to Matthew. Grand Rapids: William B. Eerdmans Publishing Company, 1992.

Morris, Leon. Luke. Downers Grove: InterVarsity Press, 1988.

Ott, Ludwig. Fundamentals of Catholic Dogma. Rockford: Tan Books and Publishers, 1960.

Pentecost, J. Dwight. The Words & Works of Jesus Christ. Grand Rapids: Zondervan, 1981.

Sanders, E. P. Jesus and Judaism. Philadelphia: Fortress Press, 1985.

Sheen, Fulton J. Life of Christ. New York: Doubleday, 1958.

Spangler, Ann, and Lois Tverberg. Sitting at the Feet of Rabbi Jesus. Grand Rapids: Zondervan, 2009.

Stassen, Glen H., and David P. Gushee. Kingdom Ethics: Following Jesus in Contemporary Context. Downers Grove: IVP Academic, 2003.

Stein, Robert H. Jesus the Messiah. Downers Grove: InterVarsity Press, 1996.

Stein, Robert H. Mark. Grand Rapids: Baker Academic, 2008.

Stein, Robert H. The Method and Message of JesusTeachings. Louisville: Westminster John Knox Press, 1994.

Stein, Robert H. The New American Commentary: Luke. Nashville: B&H Publishing Group, 1992.

Stott, John R. W. The Message of the Sermon on the Mount. Downers Grove: InterVarsity Press, 1978.

Talbert, Charles H. Reading the Sermon on the Mount. Grand Rapids: Baker Academic, 2004.

Williams, J. Rodman. Renewal Theology: Systematic Theology from a Charismatic Perspective. Grand Rapids: Zondervan, 1996.

Witherington, Ben, III. The Christology of Jesus. Minneapolis: Fortress Press, 1990.

Witherington, Ben, III. The Gospel of Mark: A Socio-Rhetorical Commentary. Grand Rapids: William B. Eerdmans Publishing Company, 2001.

Wood, D. R. W., I. H. Marshall, A. R. Millard, J. I. Packer, and D. J. Wiseman, eds. New Bible Dictionary. Downers Grove: InterVarsity Press, 1996.

Wright, N. T. After You Believe. New York: Harper Collins Publishers, 2010.

Wright, N. T. Jesus and the Victory of God. Minneapolis: Fortress Press, 1996.

Wright, N. T. Matthew for Everyone, Part 1. Louisville: Westminster John Knox Press, 2004.

Wright, N. T. The Resurrection of the Son of God. Minneapolis: Fortress Press, 2003.

Yancey, Philip. The Jesus I Never Knew. Grand Rapids: Zondervan, 1995.

Young, Brad H. Jesus the Jewish Theologian. Grand Rapids: Baker Academic, 1995.


2 マタイ 28:8.

3 Morris, The Gospel According to Matthew, 738.

4 マタイ 28:9–10.

5 マタイ 28:10.

6 マタイ 28:11–15.

7 マタイ 27:65.

8 NAS, NAU, NIV, NKJV.

9 マタイ 28:15.

10 マルコ 16:1.

12 マルコ 16:7.

13 マルコ 16:8.

14 ヨハネ 20:12.

15 ヨハネ 20:13–14.

16 ルカ 24:13–16.

17 ヨハネ 21:4.

18 ヨハネ 20:15.

19 ヨハネ 20:16–17. [訳注:口語訳で「わたしにさわってはいけない」と訳された箇所は、多くの翻訳版聖書で「すがりついていてはいけない」「すがりつくのはよしなさい」などと訳されています。]

20 Michaels, The Gospel of John, 1000.

21 マタイ 28:9.

22 ヨハネ 2:12.

23 ヨハネ 20:17.

24 ヨハネ 20:18.

25 マルコ 16:10–11.

26 ルカ 24:10.