キリスト教を生きる:十戒(人命を守る、パート1)

6月 25, 2019

著者:ピーター・アムステルダム

[Living Christianity: The Ten Commandments (Safeguarding Human Life, Part 1)]

March 12, 2019

自己防衛(正当防衛)

聖書には、神が人間をご自身の「かたち」に創造されたと書かれています。

神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって[似せて]人を造り…。」…神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。[1]

神がご自身に似せて、そのかたちに人を創造されたとは、具体的に何を意味するのか、明確な説明が聖書に書かれているわけではありません。しかし、私たちは神に似せて、そのかたちに創造されており、他の被造物はそうでないので、それが意味することをいくらか推測できます。まず、私たち人間には動物よりも優れた知的能力があって、ただ本能のままに行動するのではなく、理性を用いて決断を下します。私たちには物事を考案し、それを作成する能力があるので、それはある意味では創造できるということであり、この世界を変え、改善することができるのです。私たちは書き、数え、数学の計算をし、作曲し、整理し、論理的に考え、笑い、その他多くのことができます。それは、動物にはできないか、少なくとも人間と同程度にはできないことです。私たちは道徳的にも神に似せられており、道徳上の善悪や正邪の違いが分かります。これらを含む数多くの人間だけの特質は、人間を動物とは異なる存在とするものであり、人間が神に似せて、そのかたちに創造されたことを表していると考えられます。

人間が神のかたちに造られたことが書かれているのは、創世記にある創造物語だけではありません。ノアの時代、「主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた」 [2] ので、こう言われました。「わたしは地の上に洪水を送って、命の息のある肉なるものを、みな天の下から滅ぼし去る。地にあるものは、みな死に絶えるであろう。」 [3]

そして洪水の後、神はこう宣言されました。

あなたたちの命である血が流された場合、わたしは賠償を要求する。いかなる獣からも要求する。人間どうしの血については、人間から人間の命を賠償として要求する。人の血を流す者は人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ。[4]

この節で「流す」と訳されているヘブル語の言葉「シャファク」には、「大量に注ぎ出す・流す」さらに「死をもたらす」という意味があり、「血を流す」という言葉は、他の人の命を不当に奪うこと、つまり殺人を意味します。[5] 人間は神のかたちに創造されているため、他の人を殺害することは神の律法に反しているのです。

第6戒はこの禁止事項を規定したものです。この戒めは、欽定訳聖書では「kill(人や動植物の命を奪うことを意味する一般的な語)」という言葉を用いて、「あなたは殺し(kill)てはならない」 [6] と訳されています。ここで「殺す」と訳されたヘブル語の言葉「ラツァハ」は、英語で「murder(意図的に人を殺すこと)」や「slay(暴力により殺すこと)」を意味するので、ほとんどの英訳聖書ではこの節をより正確に「あなたは殺人(murder)をしてはならない」 [7] と訳しています。しかし、「ラツァハ」は「不注意や過失によって人を死なせる」、つまり今日では過失致死とされることを表すためにも用いられるので、「murder」以外の言葉に訳される場合もあります。また、「ラツァハ」が動物を殺すことや戦争における殺害を指して使われることはなく、聖書で死刑の執行に関して用いられるのも1度だけです。旧約聖書において法的死刑執行を指すために通常用いられるヘブル語の言葉は、別にあります。

殺人をしてはならないという戒めは、新約聖書の随所に何度も言及・引用されています。[8] イエスも明確に3回述べておられます。

あなたがたも聞いているとおり、昔の人は「殺すな。人を殺した者は裁きを受ける」と命じられている。[9]

悪い思い、すなわち、殺人…は、心の中から出てくるのであって…[10]

イエスは言われた、「なぜよい事についてわたしに尋ねるのか。よいかたはただひとりだけである。もし命に入りたいと思うなら、いましめを守りなさい。」 彼は言った、「どのいましめですか。」 イエスは言われた、「『殺すな…。』」 [11]

殺人を犯すことが間違っているのは明白ですが、第6戒からは他にも生死に関わる多くの倫理的論点が浮かび上がります。たとえば、正当防衛、戦争、自殺、安楽死、死刑、妊娠中絶、終末期に関わる問題などです。それらの点についてこれから扱っていきますが、今回はまず正当防衛から始めたいと思います。

物理的攻撃を受けた場合に正当防衛をしたり、他人へのそのような攻撃を止めようとすることは、道徳的・倫理的に容認されるものなのでしょうか。イエスは、人から傷つけられ侮辱された時に「もう一方の頬を向ける」という概念を教え、相手と同じやり方で報復してはならないと信者たちに命じられました。[12] しかし、正当防衛の考え方は、侮辱に対して暴力で応じるのとは大いに異なり、あなたに対して今にも暴力を振るおうとする人、あるいは振るうと脅す人から自分を保護するために、実力行使をすることを言います。

聖書には、自分に害をもたらしうる危険な状況から逃れることによって、暴力から身を守った人たちの例があります。[13] イエスも、ご自身を殺そうとする怒れる群衆から何度か逃げておられます。

[会堂にいた者たちは]立ち上がってイエスを町の外へ追い出し、その町が建っている丘のがけまでひっぱって行って、突き落そうとした。しかし、イエスは彼らのまん中を通り抜けて、去って行かれた。[14]

そこで彼らは石をとって、イエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、宮から出て行かれた。[15]

そこで、彼らはまたイエスを捕えようとしたが、イエスは彼らの手をのがれて、去って行かれた。[16]

身を守るために群衆から逃げたことは自己防衛の一つの形ですが、その際にイエスが実力行使をされたことを表す記述はありません。

正当防衛について調べていた時、多くの武術専門家が、戦おうとするよりも、できる限り、敵対的状況から遠ざかった方がいいと教えていることを私は知りました。ある人は、このように書いています。

武術の修練を20年以上行ってきて、極めて効果的な自衛手段を幾つか身につけたと、自信を持って言えます。一番のお気に入りは、「トラブルの場から走り去る。」 その次にいいのは、「トラブルの場から歩き去る。」 3つ目の選択は、「自分のいる所から、トラブルを和らげる。」 [17]

この人は、さらにこう付け加えています。

自己防衛の基本原理とは、物理的衝突を避けるためにできる限りを行いつつ、もはや避けられない状態になった時には、そこから逃れるために激しく攻撃するというものです。…そうするのは、その状況から脱するためです。

旧約聖書は殺人を禁じていましたが、自分を守る行動は禁じておらず、特定の状況においては人の命を奪うことが許容されてさえいました。たとえば、夜になって暗い時に誰かが家に押し入ってきた場合、家の所有者は自分たち家族を守る行動を取ってよかったし、その過程で泥棒が死んだとしても、その死の責任を家の人が問われることはありませんでした。しかし、誰かが日中押し入ってきた場合、家の人がその泥棒を殺すことは許容されず、そうしてしまった時には、その死の責任を負いました。

もし盗びとが穴をあけてはいるのを見て、これを撃って殺したときは、その人には血を流した罪はない。しかし日がのぼって後ならば、その人に血を流した罪がある。[18]

日中は、家の人が自分たちを守る行動は取れても、死に至らせるような暴力を振るうことは許されませんでした。なぜなら、侵入者を特定し、後で捕まえて罰することができるからです。また、日中は他の人たちも周りにいる可能性が高く、彼らが盗難の目撃者となり、泥棒を取り押さえるのを助けてくれます。

他にも旧約聖書には、神の民が自分たちを保護するために予備対策を取るよう指示されたことが書かれた箇所がいくつかあります。たとえば、ネヘミヤは、エルサレム城壁の再建作業をしている者たちに、攻撃を受けた場合に立ち向かえるよう、武器を手元に置いておくよう指示しました。[19] また、ユダヤ人である王妃エステルは、ペルシア帝国全土においてすべてのユダヤ人を殺害しようという邪悪な陰謀が持ち上がった時、その陰謀を夫であるアハシュエロス(クセルクセス)王に明かしました。それを聞いた王は、ユダヤ人が彼らを殺そうとしている人を殺すことによって、自分たちの命を守ることを許しました。[20]

新約聖書は、自己防衛について多くを語りません。しかし、イエスは十字架にかかる少し前に、弟子たちが身を守るために剣を持ち歩くことについて話をされたと書かれています。

そこで言われた、「しかし今は、財布のあるものは、それを持って行け。袋も同様に持って行け。また、つるぎのない者は、自分の上着を売って、それを買うがよい。…」 弟子たちが言った、「主よ、ごらんなさい、ここにつるぎが二振りございます。」 イエスは言われた、「それでよい。」 [21]

イエスは、弟子たちが身を守るには剣二振りで充分であると言われたのであり、これは、弟子たちが何らかの保護手段を有することをイエスが承認されたものと理解できます。

その後、兵士たちがイエスを逮捕しに来た際、大祭司の僕の耳を切り落としたことで、イエスはペテロを戒められました。しかし、そうされた理由は、ご自身が死ぬことは父なる神の御心であると知っておられたので、弟子たちがイエスを守ろうとして命を落とすことを望まれなかったからのようです。

シモン・ペテロは剣を持っていたが、それを抜いて、大祭司の僕に切りかかり、その右の耳を切り落した。その僕の名はマルコスであった。すると、イエスはペテロに言われた、「剣をさやに納めなさい。父がわたしに下さった杯は、飲むべきではないか。」 [22]

すると、イエスと一緒にいた者のひとりが、手を伸ばして剣を抜き、そして大祭司の僕に切りかかって、その片耳を切り落した。そこで、イエスは彼に言われた、「あなたの剣をもとの所におさめなさい。剣をとる者はみな、剣で滅びる。」 [23]

ルカの福音書には、次のように書いてあります。

イエスはこれに対して言われた、「それだけでやめなさい。」 そして、その僕の耳に手を触れて、おいやしになった。[24]

クリスチャンは、自分や家族に危害を加えようとされた時に正当防衛することが禁じられてはいませんが、信仰のゆえに迫害された場合はどうなのでしょうか。聖書は、そのような場合にクリスチャンが暴力を振るって身を守るようにとは教えていません。イエスは弟子たちに、次のように助言されました。

一つの町で迫害されたなら、他の町へ逃げなさい。[25]

主は信者たちに、信仰ゆえに迫害される時、身を守るために武器を取ってそれを用いなさいとは言われなかったのです。使徒ペテロは、イエスが死に際して示された手本に注意を促しています。

[イエスは]ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた。[26]

クリスチャンが迫害状態から脱したり、警察や政府の保護を求めたりすることによって、実際の物理的攻撃から身を守るのは正当な行為であっても、迫害者に対して物理的な報復をすることは適切な対応ではないようです。今にも身体的暴力を振るわれそうというわけではない場合、その迫害についてクリスチャンが取るべき自衛措置とは、迫害者を起訴することによって、司法当局や裁判制度に保護を求めることです。迫害が政府から来ている場合は、政府当局に対して武器を取るよりも、法的援助を得るか別の地域へ逃げることが望ましいと言えます。

自分や愛する人たちが生命を脅かすような暴力に直面した場合、自分たち家族のために正当防衛を行うことを、聖書は道徳的に許容されるとしています。その行動によって攻撃者を傷つけ過ぎたり命を奪ったりすることなく、ただ相手に武器を捨てさせたり押さえつけたりするのに充分な程度であることが理想です。言うまでもなく、最初に取るべき行動は、可能な限り、力に訴えることなく、事態を打開して危害から脱する道を探ることです。可能であれば、警察に通報して到着を待つべきですが、それが可能でない場合、正当防衛は道徳的に許されていることです。

自分や愛する者のために防衛行為をするのは正当なことです。しかし同時に、愛や赦し、「もう一方の頬を向ける」こと、そして平和を追い求めることが大切なキリスト教的信条であることを聖書が教えていると意識することも重要です。キリスト教のこれらの側面が、他の人たちとの関係の根底において最重要なものなのです。

平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。[27]

敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。[28]

だれに対しても悪をもって悪に報いず、すべての人に対して善を図りなさい。あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。[29]


注:

聖書の言葉は、特に明記されていない場合、日本聖書協会の口語訳聖書から引用されています。


1 創世 1:26–27.

2 創世 6:5.

3 創世 6:17.

4 創世 9:5–6.〈新共同訳〉

5 創世 37:22; 民数 35:33; 列王上 2:31; エゼキエル 22:4.

6 出エジプト 20:13〈英語欽定訳聖書〉―ほとんどの和訳聖書では、「(あなたは)殺してはならない。」

7 出エジプト 20:13〈英語ESV訳聖書など〉

8 ローマ 13:9, 1:29; 1テモテ 1:8–9; ヤコブ 2:11, 4:2; 1ヨハネ 3:12, 15; 黙示 9:21, 16:6, 21:8, 22:15.

9 マタイ 5:21.〈新共同訳〉

10 マタイ 15:19.

11 マタイ 19:17–18.

13 サムエル上 19:10では、ダビデがサウルから槍で殺されそうになって、逃げています。2コリント 11:32–33では、使徒パウロが捕らえられそうになった時に、身を隠し、窓からかごで吊り降ろされて脱出しています。

14 ルカ 4:29–30.

15 ヨハネ 8:59.

16 ヨハネ 10:39.

18 出エジプト 22:2–3.

19 ネヘミヤ 4:16–18.

20 エステル 8:10–11.

21 ルカ 22:36–38.

22 ヨハネ 18:10–11.

23 マタイ 26:51–52.

24 ルカ 22:51.

25 マタイ 10:23.

26 1ペテロ 2:23.

27 マタイ 5:9.

28 ルカ 6:27–29.〈新共同訳〉

29 ローマ 12:17–18.