全き平安
4月 25, 2020
著者:マリア・フォンテーン
全き平安
[Perfect Peace]
April 25, 2020
聖書的な原則は、いつまでも変わることがありません。状況や年齢や、生きている時代に関係なく、それらはこれまでと同様、今日においてもやはり真実なのです。聖書には、神が私たちに、不安やストレスや恐れの代わりに、全き平安を与えたいと望まれていると書かれています。
最近主は、神が私たちに与えようとしておられる平安を手に入れる方法についての、短期コースのようなある記事に、私の注意を惹き付けられました。その記事の著者J・R・ミラーは、私たちが人生において、この素晴らしい贈り物を、イエスが意図されている通りの方法で用い、育てる過程において踏むべき、それぞれのステップに目を向けています。
もちろん、危機が訪れた時に呼び求めるなら、イエスは助けて下さるでしょう。けれども主は、ご自分の与える平安が日々の生活の隅々にまで行き渡るようにあなたが生きるのを助けたいとも望んでおられるのです。そのためには、この平安の賜物を鍛錬する必要があり、それには時間と努力を要します。
信仰の人生は危機や困難、成功や失敗に満ちています。とはいうものの、それらすべてを通じて重要なこととは、たとえ何に直面しようと、主に信頼し、あの全き平安を見いだすすべを学ぶことです。心と思いを神の言葉で満たせば満たすほど、主に信頼することがもっと容易になり、さらなる平安が得られるのです。
以下の記事を読むことをお勧めします。何回かに分けて読まなければならないとしても、時間を費やす価値はあると思います。そこに散りばめられている短い逸話や実例や詩が、主の平安の内に成長し続けるために踏むことのできるステップを、わかり易く説明してくれるでしょう。その平安の基盤となっているのは、私たちを助け守ろうと備えつつ、主がそばにいて下さることについて、単なる希望ではなく確信を抱いていることです。
この記事はパブリックドメインのもので著作権は消滅していますから、友人や知人や、誰でもストレスや恐れからの解放が必要な人に、自由に回して下さい。導かれるままに、ここからの引用句や抜粋を送ってもいいし、全文を送っても構いません。
楽しんで下さい! 読み、学習し、適用し、分かち合うなどして、これがあらゆる面において皆さんの祝福となりますように。
* * *
J・R・ミラー著『In Perfect Peace(全き平安の内に)』(1902年出版)より編集[1]
「全き平安」! 誰もがそれを必要としています。またそれは、キリストがその福音の中で、私たちに与えると言われているものでもあります。別れの言葉の中で、次のような「遺産」を残しておくと話しておられるのです。「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。」(ヨハネ14:27) 墓からよみがえられた後、主は3つの箇所において、弟子たちに「安かれ(平安があるように)」という同じ祝福を与えられました。(ヨハネ20:19, 21, 26) 平安は祝福に満ちた福音の一部であり、真実で欠けたところのないクリスチャン生活に不可欠な側面です。キリストは私たちが平安を持つことを望んでおられます。持っていないなら、クリスチャンであることに伴う祝福や、神の子どもとして相続すべき遺産の一部を、もらい損ねているのです。それはほんの一握りの、気に入られた人々しかもらうことのできない、特別な特権ではありません。キリストを信じていて、それを受け取りたいと望む、すべての人に与えられます。
けれども、すべてのクリスチャンが平安を持っているでしょうか? 主からのこのような祝福を、全員が心や人生に受け止めているでしょうか? 今日において、真にキリストの平安を宿しているクリスチャンが、どれだけいるでしょう? この1週間、キリストの平安の内に生活したクリスチャンがどれだけいるでしょう? めまぐるしく変化するこの人生の、あらゆる状況や経験を通じて、全き平安を保っているクリスチャンが、どれだけいるでしょうか?
どうしたというのでしょう? 福音には、それが主張するほどの効果がないということなのでしょうか? 福音が約束する祝福は、決して実現することなく、実現することなどあり得ない、ただの美しい夢にすぎないのでしょうか? 恵みは、私たちが平安を手に入れる助けにならないのでしょうか? 聖書は、休息や喜びや平安や、愛や希望といった言葉で一杯です。これらの言葉はただの幻なのでしょうか? それとも、このような美しいものの数々を手に入れることができるのでしょうか? 概してクリスチャンは、こうした神の資質の数々を、現世の人生において身につけることを期待しているでしょうか?
私たちは完全なる確信をもって、これらの言葉が決して、獲得不可能な事柄について語っているのではないと言うことができます。平安を例に挙げましょう。平安はそれを掴み、心に取り入れようとする人をあざけるかのように、常に逃げ去って行く幻ではありません。またそれは、子どもが丸々とした手で、床からかき集めようとしても、常に指の間からすり抜けてしまい、掴むことができない日光のようなものでもありません。あるいは、手に入れるためには死ぬまで待たなければならず、天国においてでしか獲得できないものでもないのです。むしろそれは、キリストを信じるすべての人が、この地上で達することのできるある種の境地であり、人生でどんな変化が起ころうと、なおその中に宿ることができます。
しばし時間を費やして、聖書の中で用いられている平安・平和という言葉が、何を意味するのかを考え、またどうすればそのような平安を手に入れることができるのかを尋ねる価値は十分にあります。その言葉は聖書の至るところに書かれています。古くは旧約聖書の中の、祭司たちによって用いられた祝祷に見られます。「願わくは主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を賜るように。」(民数記6:26) ここでは平安が、神からの賜物として与えられています。信じる人々に天から下った祝福として。ヨブ記では、テマンびとエリパズの言葉がこう教えています。「あなたは神と和らいで、平安を得るがよい。」(ヨブ22:21) この言葉によると、平安を見いだす方法とは、神と和らぐ(打ち解ける)ことです。安らぐことができないのは、神をよく知らないせいなのですから。詩篇には平安についての言葉が沢山あります。たとえば次のようなものです。「もろもろの山と丘は義によって民に平和(平安)を与えるように。」(詩篇72:3) 山々の高い頂では、嵐が猛り狂います。しかし一方、山の麓では、安全に守られた優美な谷間が、平安の内に静かに横たわっています。嵐に向き合うキリストも、それと同じです。ご自分に信頼する人々が主の愛という逃れ場に安全に身を寄せている間、嵐の猛威を一身に受けて、その力を尽き果てさせてしまわれるのです。
これを美しく解説する言葉が、隣り合った2つの詩篇に見られます。22篇は十字架の詩篇と呼ばれており、十字架刑について物語っています。確かにその最初の言葉が、死の苦しみを味わっておられた贖い主によって用いられました。詩篇には、ゴルゴタの丘での経験について語っている箇所が山ほどあります。嵐が山頂付近に、激しく吹き荒れているのです。
そして詩篇23篇は、何と穏やかに美しく、22篇の陰に横たわっていることでしょう。まるで山の麓にある、のどかな谷間のように! それは全き平安がどのようなものかを示しています。読者は、いこいのみぎわで羊飼いが群れを導き、緑のまきばに横たわらせる姿を思い浮かべます。深い谷間にも、陰うつな雰囲気はありません。羊飼いであられる主がその羊を導き、すべての恐れを鎮められるからです。この優しい羊飼いの詩篇を入れるとしたら、十字架の詩篇の後以上にふさわしい場所は考えられません。
預言者たちも平安について多くを語っています。特にイザヤ書には、平安・平和という言葉が繰り返し出てきます。メシアは平和の君として到来すると予告されています。(イザヤ9:6) さらに読み進めると、そこにも十字架の場面があり、「彼はみずから懲しめをうけて、われわれに平安を与え」と書かれています。(イザヤ53:5) 私たちの平安の確保と永続性は、次のような素晴らしい約束によって保証されています。「『山は移り、丘は動いても、わがいつくしみはあなたから移ることなく、平安を与えるわが契約は動くことがない』とあなたをあわれまれる主は言われる。」(イザヤ54:10)
しかし、平安という言葉の素晴らしい意味が完全に明らかになったのは、新約聖書においてでした。その言葉はすべてのページで輝きを放っています。天使は贖い主の誕生に際して、「地に平和を」と歌いました。(ルカ2:14) イエスはその宣教活動の終わり頃、友人たちこう言われました。「(あなたがたが)わたしにあって平安を得るためである。」(ヨハネ16:33) 新約聖書には平安(平和)という言葉が80回以上も用いられており、その半分は住む家もなく迫害を受けていたパウロによって書かれたものです。
平安の絵
ある画家が平安を表す絵を描こうと決めました。キャンバスに嵐に揉まれる海を描き、数多くの船の残骸でそこを満たしました。恐ろしく危険な光景です。そして海の真ん中に大きな岩を描き、その岩の上に、草花が咲き出ている割れ目を描きました。そしてその中央に、巣の中で穏やかに座っている一羽の鳩を描いたのです。魂の逃れ場を表すこの岩や裂け目は、賛美歌にも出てきます。
「とこしえの岩よ、その裂け目に
私を隠し守り給え」
イエスもこう言われました。「これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。」(ヨハネ16:33)
クリスチャンの平安は、問題がまったくない場所では見つかりません。それは心の中に宿って、どんな外的条件にも心が左右されないようにするのです。英国の古城の遺跡には、その礎の中に地中深く掘られた井戸が見られます。これにより、周囲を敵に包囲された時にも、使用できる水が供給されたのです。敵は、普段城内の人々に水を供給している小川をせき止めてしまうかもしれません。そして出入り口を封鎖することによって、誰も城壁の外に出て、小川や泉から水を中に持ち込めないようにもできます。けれども、攻撃を受けて城壁内に留まっている人々は、城の礎に掘られた井戸から、澄み切った新鮮な水が豊かに供給される限り、どんな包囲攻撃に遭っても平気なのです。心に神の平安を宿しているクリスチャンも、それと同じです。そのような人は外部の条件や状況に左右されることはありません。その喜びと希望と平安と強さの秘訣を、常にその内に持っているからです。
問題を抱えることなしにこの世で暮らすことができないのは、非常に明らかです。そのような人生は決してあり得ず、悲しみのない人生を望むこともできません。愛するためには、その過程のどこかで涙を流さずにはおれません。宗教は私たちを悲しみに合わないようにはしてくれません。しかし、ここで約束されている平安は、試練にも悲しみにも妨げることができない経験です。それは悲しみを喜びに変えてくれるものです。
ある旅行者が、海辺で新鮮な真水の湧き出る泉を見つけた話を書いています。その水は、山手の岩々から湧き出る水と同じぐらい甘いのだと。彼はコップを取って、砂の中からぶくぶくと湧き出てくる水を飲んだのですが、まもなく潮が満ちて、塩水がその小さな泉にどっと注ぎ込まれ、何時間もそれが見えなくなりました。しかし、その苦い水の波が再び引いた時、泉の水はいつもと同じように甘いものでした。信者の心に宿る神の平安も、それと同じです。それは心の奥深くに宿っており、喜びの日には歌い喜びます。そして人生に悲しみが襲い、塩辛い水がどっと押し寄せて、それを覆い隠しても、悲しみが過ぎ去ると、心の平安はいつもと変わらず、甘美で喜ばしくあり続けるのです。
旅行者の一団がある田舎道を旅していました。馬車が車道脇の山小屋に近づくと、歌声が聞こえてきます。それは甘く朗々とした歌声で、不思議な力がこもっており、旅行者たちは、うっとりと聞き惚れました。歌の音程がさらに高く明瞭になると、彼らは馬車を止めて、耳を傾けました。そうしていると、その山小屋から、籠を腕に抱えた一人の少女が出てきたのです。
「どうか教えて下さい。あなたの山小屋でこんなにも美しい声で歌っているのは誰なのですか。」 旅行者の一人が少女にそう尋ねました。
「ティムおじさんです。」 少女は答えました。「ついさっき脚の具合が悪くなって、痛みを紛らわせようと歌っているのです。」
「お若い方ですか? その痛みは治るものなのですか?」 若者が尋ねました。
「ああ、今はちょっと年を取っています。」 少女は答えました。「お医者さんが、おじさんの脚がこの世で良くなることは、まずないだろうって。でも、とってもいい人なので、ひどく痛がって苦しんでいたり、苦しみが大きいほど、もっと美しく歌うのを聞いていると、泣きたくなってしまいます。」
それこそ神の平安の効用です。それは「夜の歌」を与えてくれるのです。最も痛ましい悲嘆の只中で、心に喜びをもたらし、棘をバラに変えてくれます。
クリスチャンの信仰の生活は、苦痛がないわけではないものの、その苦痛から豊かな祝福が生じます。主に忠実に従う主の友は、イバラの冠を被らなければなりませんが、天国の朝日が降り注ぐ時、その棘から美しい花々が一斉に咲き出すのです。
「神は約束されなかった ずっと青空が続き
花咲く小道のような人生を歩むとは
神は約束されなかった 雨も降らずに常に太陽が輝き
悲しみもなく喜びばかりで 痛みもなく平安であろうとは
「しかし神は約束された 日々の力を与えると
労働に休息を 道に光を
試練のための恵みを 天からの助けを
尽きることのない憐れみを 不滅の愛を与えると」
平安の秘訣
「あなたは、その思いをあなたに留めている人を全き平安の内に守られる。」(イザヤ26:3〈英語欽定訳〉) 昔のへブルびとの預言者によるこの言葉には、音楽的な響きがあります。なぜ人生にその音楽を取り入れることができないのでしょう? なぜ全員がこの全き平安を心に宿すことができないのでしょうか? 世が与える混乱や問題によって、なぜそんなにも容易に、思いの平安や穏やかさを失ってしまうのでしょう? 預言者の言葉に秘められた平安の秘訣を、学ぶことができないか見てみましょう。この秘密には2つの面があります。
その1つとは、守る者は私たちではなく、神であるということです。自分で自分を平安の内に守ることはできません。自己制御(自制)にはきわめて大きな力があり、その力を手に入れようと熱心に追い求めるべきではあります。自分の人生の主導権も握れないなら、それは情けないほど弱いということです。自分の気持ちや感情や、食欲や情熱や、願望や気質や言葉を制御できるよう努力しなければなりません。自分の心を治める者はあらゆる征服者の内で最も偉大な存在であり、城を攻め取る者にまさります。(箴言16:32) 自分を完全に制御することは、危険に際して心を穏やかに保ち、突然の試練に際しても、動じずに落ち着いていることと、確かに関係があります。しかし、これは本当の平安の秘訣ではありません。私たちの自制はほんの少ししか効果を生じさせないのです。自制力があり、最も不穏な経験に際しても動揺しないけれども、神の平安は持っていない、ということもありえます。
「どうやってこの心を鎮めよう? どうやって落ち着かせよう?
良い知らせや悪い知らせに震え出した心を、どうやってなだめればいい?
どうやって満足や平安や休息をかき集めて、それをしっかりと抱きしめ
その優しさでこの騒ぐ胸を、幾重にも覆えばいいのだろう?
「神の御霊は静かで穏やかで柔和で優しい
その全能なる輝かしい御心が、この世を神の御許へと導き
あらゆる卑小なものや、私の騒ぐ心を支配する時
神の折りたたまれた翼の下には、常に穏やかな聖なる平安がある」
それが、いにしえの預言者の言葉が示している平安の秘訣であり、神が私たちを守られるということです。「あなた」、つまり神こそが、その人を「全き平安の内に守られる」のです。聖書はこの神の保護という真理を、あらゆる真の安全性と信頼の源であると教えています。他のどんな保護も、それほど効力はありません。「このゆえに、たとい地は変り、山は海の真中に移るとも、われらは恐れない」(詩篇46:2)と言うことができるのは、神が私たちの避け所であり力であられる時だけなのです。自分の墓碑にただひと言「守られた」と刻んでほしいと望んだ、聖者のような老人の話があります。彼の全生涯の物語が、その言葉に集約されていました。ある詩篇では、私たちが学ぶべきそのレッスンの全容が語られています。「主はあなたを守る者。」 「あなたを守る者は、まどろむことがない。主は…すべての災を免れさせ、またあなたの命を守られる。」(詩篇121:3, 5, 7) 私たちを守る者は神です。私たちを全き平安の内に守ることがおできになるのは、ただ神だけなのです。
神だけが永遠であられ、昨日も今日もいつまでも変わることがありません。決して乱されることのない平安を持つことができるのは、神にあって休息し、神に信頼している時だけです。「とこしえに主に信頼せよ、主なる神はとこしえの岩[力]だからである。」(イザヤ26:4) 神の愛情深い御手にしっかりとしがみつくなら、どんな騒乱においても安全です。神は全能だからです。私たちの避け所は永遠に安全です。神はとこしえにいつまでも存在されるからです。
パウロによる手紙の一つに書かれたある言葉の中にも、神の保護についての同じ教えがあり、彼はそこで、平安の秘訣を明かしています。「神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。」(ピリピ4:7) これは軍隊の比喩です。[訳注:この聖句で「守る」と訳されたギリシャ語の言葉は、軍隊が守ることを意味します。] 戦時にあって、敵の目の前においても、兵士たちは穏やかに信頼してテントで眠ります。歩哨たちが暗闇の中でずっと目を覚まして見張りをしてくれるからです。神ご自身の平安が見張りをして、私たちの心と思いを守るので、何ものにも心騒がせ、不安を感じることはありません。何ものも神を動揺させることなどできません。神は恐れることなく、荒野の嵐に目を向けられます。神は私たちの目に壊滅的と映るものにも、決してうろたえられません。朽ちることのない神のとこしえの平安は、私たちを守り、その祝福された静けさと落ち着きという避け所の内に、保って下さるのです。
私たちが学ぼうと努めている平安の素晴らしい秘訣の一部とは、「あなた」、つまり神こそが、その人を「全き平安の内に守られる」ということです。それは私たちを守ってくれる神の全能性です。それは人生の荒れ狂う大水の表面を覆い、混沌から秩序を生み出す神の御霊です。それは激しい嵐の只中で舟の上に立ち、その足元で黙り、静まるようにと嵐に命じる神の御子です。それは信者の心に入ってそこに留まり、その人のうちで泉となって、永遠の命に至る生ける水を湧き出させる、神の恵みです。悲しみや危険に取り囲まれている時に、自分の霊に休息するよう命じ、強制することはできません。私たちを平安に保つことがおできになるのは、ただ神だけです。不滅で永遠ではないどんなものも、永遠に生きるための安全な隠れ場とすることはできません。
平安な思い
けれども、その平安の秘訣には別の側面があり、それを学ぶことは大切です。「あなたは、その思いをあなたに留めている人を全き平安の内に守られる。」(イザヤ26:3〈英語欽定訳〉) 私たちにもすべきことはあります。神が私たちを全き平安の内に保つ力をお持ちであることには、疑いの余地がありません。神の全能性とその御力は、神を隠れ場とする人々全員にとっての防御手段であり、避け所です。けれども、神でさえも、服従するよう私たちに強いられることはありません。私たちは自分の意志を神に委ねなければならないのです。全能者でさえも、その難攻不落の避け所に、私たちを無理やり集めるようなことはされません。神が力を示される日に、私たちが心から喜んで自身を捧げなければならないのです。(詩篇110:3) ただ神に思いを留め続けるだけでいいのであり、それは神を信頼し、神にあって休息し、神の愛の内に心地良く留まるということです。私たちは、主と弟子たちとの最後の晩餐において、ヨハネがどこにいたかを覚えています。イエスの胸に寄りかかっていたのです。彼はその聖なる逃れ場にそっと入り、御胸で鼓動する無限の愛の内に休息していました。ヨハネはただ信頼し、聖なる平安の内に守られていたのです。
重い病の床に伏していたラドヤード・キップリングについての、美しい物語があります。彼の容態が最も危険になりかかっていたある不安な夜に、看護婦は枕元に座っていました。彼を一心に見守っていた彼女は、その唇が動き始めたことに気づき、何か言いたいのだと思って、彼のそばにかがみ込みました。すると彼が、子どもの頃から聞き慣れているあの昔ながらの祈りを、そっとささやくのが聞こえたのです。「今私は横たわり、眠ります。」 看護婦は患者が、自分の助けが必要なのではなく祈っているのだと気づき、邪魔をして悪かったと詫びました。「すみません、キップリングさん。何か欲しいのかと思ったもので。」 「ええ、そうです。」 病人はか細い声で答えました。「天の御父が欲しいのです。今私の世話がおできになるのは、神だけですから。」
人には手の施しようがなく、ひどく弱っていた時期に、彼は神に目を向け、神以外の誰も与える事ができない祝福と世話を、切に求めたのです。それこそ危険や試練や悲しみに面した時に、私たちがしなければならないことです。最も優しい人間の愛をもってしても、何一つできないそのような時に、父なる神の御胸にそっと入り込んで、こう言うのです。「今私は横たわり、眠ります。」 それが平安への道です。地上にはそれを見いだすことのできる避け所など、一つもありませんが、最も弱っている人ですら、神の内にそれを見いだすことがあるのです。
「あなたがたは、心を騒がせないがよい」と主は言われました。「神を信じ、またわたしを信じなさい」と。(ヨハネ14:1)
「信じなさい」—これはクリスチャンの信仰の素晴らしいレッスンです。「わたしの霊をみ手にゆだねます。」(詩篇31:5, ルカ23:46) 「あなたは、その思いをあなたに留めている人を全き平安の内に守られる。」 思いをあなたに留める! この言葉がすべてを物語っています。それは母親の腕の中に心地良く抱かれ、全身で寄りかかっている子どもを思い起こさせます。母親の愛にすっぽりと覆われているので、恐れることなど一切なく、何があっても動じません。「留めている」とは、休息していることです。またそれは、引き続き信頼し、従いたいという意思表示でもあります。私たちの信頼はしばしば途切れ、長続きしません。歌っていたかと思えば、次の瞬間には涙を流して意気消沈しているのです。乱されることのない平安が欲しいなら、揺るがぬ信頼を抱き、思いを常に神に留めていなければなりません。
平安の神
神は強く、全能であられます。私たちを守るその御力が尽きてしまうのではないかと恐れる必要はありません。神が私たちを支えられないことなど、決してありません。「わが助けは、どこから来るであろうか」と問うならば、その答えはこうです。「わが助けは、天と地を造られた主から来る。」(詩篇121:1, 2) 全世界を造られた神は、当然のこと、1人の小さな人間の命を支えて、危害を加えるものから守ることがおできになるはずです。
神は賢明なお方です。私たちは、思いの中で様々な想像をめぐらす能力はあっても、自分の人生の物事を指揮できるほど賢くはありません。私たちの見解は狭く、人生という目先の領域によって隔絶されています。この選択やあの選択の結果が最終的にどういうものになるかは、わからないのです。私たちが必要であると思うものや、幸せや益をもたらしてくれると考えているものは、しばしば最終的には有害な結果をもたらします。そして害悪の種になるだろうと考えて恐れ、尻込みしているものが、豊かな祝福をもたらしてくれることもよくあるのです。私たちは自分の状況を選び、事態の舵取りができるほど賢くはありません。私たちの代わりにそうすることがおできになるのは、神だけです。
神は力ばかりか、私たちについての、またその必要や面している危険についての知識もお持ちです。私たちに重くのしかかる深刻な物事以外にも、その状況や苦しみや試練や悲しみや、ちょっとした悩みの種といった、私たちのすべてをご存じなのです。以下の詩は信仰についてのレッスンを教えています。
「ふとしたことで感じる激しい苛立ちや
その身に引っかかり悩ませるイバラ—
そのすべてを助け主に任せてはどうでしょうか
あなたを失望させたことのないその方に
「頭痛の種について主に打ち明け
切なる願いを語るのです
空しく夢破れて
すっかり途方に暮れていることを
「それからすべての弱さを
強く聖なる方に委ねなさい
重荷を負っていたことも忘れて
歌いながら出て行くのです」
神は愛です。強さだけでは十分でありません。強さは常に優しいわけではないからです。いくら強くても暴君なら、そんな人に自分の命を託したいとは思いません。私たちは愛情や優しさを切望します。神は愛です。神の優しさは尽きることがありません。自分の霊を委ねるようにと、私たちに求められているその御手は、傷を負った御手です。私たちを救うために傷ついたのです。安心して身を委ねるよう求められているその御心は、私たちへの愛ゆえに、十字架の上で砕かれました。そのようなお方に信頼して、心配事や人生を任せることを、恐れる必要はありません。
神は永遠です。人の愛は優しさに満ちています。母親の防ぎ守る腕は、子どもが居心地良く収まることのできる、驚くほど優しい場所です。抱きしめ合う恋人たちにとって、愛情深い結婚関係は喜びに満ちた安息の場所です。
そのような人の愛ができるどんなことも、お金にできるどんなことも、技能にできるどんなことも、何の役にも立ちません。人の腕はしっかりと抱きしめてくれるかもしれませんが、そのような抱擁は私たちを病気の威力や死の冷たい手から守ることはできません。しかし、神の愛と御力は永遠に続きます。何ものも私たちを神から引き離すことなどできません。(ローマ8:38−39) そして旧約聖書にはこう約束されています。「とこしえにいます神はあなたのすみかであり、下には永遠の腕がある。」 私たちがとこしえの神の上に留まっているなら、決して何ものにも動揺させられることはありません。何ものも私たちが休み場としている神を、動揺させることなどできないからです。永遠の腕の中にしっかりと抱きしめられているなら、その抱擁から引き離されるのではないかと恐れる必要などありません。
この両腕は常に、私たちを下から支えてくれます。弱さや脆さや苦悩や悲しみの内に、どんなに深く沈んでも、決してこの永遠の腕よりも下に沈むことはありません。その抱擁から抜け落ちてしまうことなど、到底あり得ないのです。永遠の腕は最も弱い人や、最大の危険に面している神の子の下で支えてくれることでしょう。悲しみがとても深く、最悪の苦悩の中にある時でも、そして永遠に、この愛の両腕は苦しんでいる人たちの下にあります。そして死が訪れる時や、私たちの下からすべての現世的な支援が取り去られる時、すべての人の腕が振りほどかれて、すべての愛する人の顔が目の前から消え去る時、私たちが暗闇と影と死のように見えるものの中に沈んでいく時にも、私たちはきっとただ、下にある永遠の腕の中に沈んでいくだけでしょう。
「ある」という[現在形の]言葉もまた、見過ごしにしてはいけません。「下には永遠の腕がある。」 これは聖書の中でも最高に素晴らしい現在形の一つです。あらゆる時代を通じて、初めてこの言葉が語られた人々と同様、今日この言葉を読んで教訓を学ぼうとしているあなたにも、信頼している信者たち全員に、その一人一人に、神はこう言われているのです。「あらゆる瞬間に、今のこの瞬間にも、あなたの下には永遠の腕がある」と。
平安という休息
「その思いをあなたに留めている。」 それが平安の最終的な秘訣です。そんなにも大勢の人々が祝福を見いだすことができず、取るに足りない思い煩いや悲しみや損失に悩まされているのは、思いを神に留めていないからです。あらゆるちょっとした失望や、失敗に終わった計画や裏切られた期待や、周りの状況や状態の困難さや、ほんのはした金を失ったことで悩み苦しむのです。あたかも人生で頼れるものはお金しかないかのように、あたかも人がパンだけで生きているかのように。私たちは何でもない病気に恐れおののきます。日常生活の最も取るに足りない物事が、私たちの心を悩ませて、惨めな不安状態に陥れ、青空を覆い隠し、星明かりを消し去って、一日を台無しにしてしまうのです。問題は、神に信頼していないことです。心が神に留められていないのです。そうすることを学ばなければなりません。つまり、主にあって休息し、主にあって静まり、主に道を委ねることを。
パウロは平安を見いだす方法について語っている注目に値すべき節で、そのことをかなり明確に述べています。「何事も思い煩ってはならない。」(ピリピ4:6) それがレッスンの最初の部分です。「何事も」というのは、文字どおり「何事も」という意味であって、例外はありません。何が起ころうと、何事も思い煩ってはならない。他の人は心配する必要なんてまるでないけれど、自分の場合は特別で、思い煩う権利があるのだなどと、うそぶいてはいけません。「何事も思い煩ってはならない」のです。
それでは、思い煩うのも無理はないような物事に面した場合は、どうすればいいのでしょう? どんな人生にも、そのような物事があるからです。答えはこれです。「ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。」(ピリピ4:6) 試練や問題を自分で抱え込んで、思い悩む代わりに、思い煩いや苛立ちを神のもとに携えていきましょう。そして願いを述べる時には、賛美と感謝をそこに織り交ぜるのを忘れてはいけません。それらを完全に手放して神の御手に委ね、そのままそこに置いて行きましょう。
「そう、神に委ねなさい
ユリの花も皆そうしています
ユリは育ちます—
雨の中で育ち、
露の中で育つ—
ええ、育つのです
暗闇の中で、夜に隠れて育ち
日光の中で、光にさらけ出されて育ち
どんな時にも育つのです
「そう、神に委ねなさい
それは神にとって愛おしいことなのだから
花咲くユリよりも
雪を割って咲き出る花々よりも
愛おしいことなのだから
必要なものを祈り求めたなら
それを神に委ねなさい
神は顧みて下さるのだから
そう、あなたのことを」
平安の小道
神に思いを留めているとは、神の強さに身を委ねて、神の愛情深い腕に抱かれ、恐れることも疑問を抱くこともなく、そこで休息すべきだということです。しかし、これは自分たちの仕事や責務を、放り出してしまうという意味ではありません。
神に信頼するようにと告げている教えはすべて、常に従順を促し、それを前提としています。「まず神の国と神の義とを求めなさい」と主は言われました。またそれに続けて、そうすれば、決して思い煩うことがないと言われたのです。その時私たちに必要なものが、すべて与えられるからと。
私たちの平安が何らかの突然の試練や悲しみや、圧倒されるような問題によってかき乱されるなら、神はそのような経験によって巣から外へ投げ出された人々を助け、とても優しく巣に連れ戻されます。ある日リンカーン大統領が垣根の横を歩いていると、ひな鳥が草むらの中で羽をばたつかせていました。巣から茂みの中に落ちて、戻れなくなってしまったのです。優しい心の持ち主であるその偉大な人は、立ち止まって小鳥を拾い上げ、垣根のあたりを見回して巣を見つけると、その中に小鳥を戻してやりました。キリストもまた、平安という巣から引き離されてしまった人の人生に同じことをしたいと、日々望んでおられます。そしてこの上なく優しい御手で私たちをすくい上げ、しばし失っていた平安へと、また連れ戻して下さいます。
愛は霊的生活の法則です。人は他の人々を愛し、彼らに尽くすことを学ぶまで、生き甲斐を感じられません。利己的さは常に平安を妨げます。平安は、完璧に調和の取れた人生が奏でる音楽であり、すべての弦が愛という主音に調律されて初めてそうなるのです。
平安は心に至福をもたらし、人生を見事に飾り立ててくれるので、誰もそれをもらい損ねるべきではありません。神の他の恵みによって、どんなものがもたらされてきたとしても、それらの中で最も素晴らしい平安がないなら、満足すべきではないのです。どれほど素晴らしい性質をもってしても、そこに平安がないなら、最も魅力のある霊的な装身具を欠いていることになります。そして主は最も卑しい人間にも、その最も神聖な恵みを与えることを厭われないのです。すなわち、ご自身の祝福に満ちた平安を。