イースターの栄光(パート1)
4月 8, 2022
著者:マリア・フォンテーン
イースターの栄光(パート1)
[The Glory of Easter!—Part 1]
April 5, 2022
イエスの死と復活についての名言
【画像: 主はよみがえられた! 復活を祝う】
子どもの頃にイースター(復活祭)を祝ったことが、私にとって大切な思い出となっています。私たちの教会では、いつもイースターの朝に丘の上で集まって、日の出を見、賛美の歌を歌いました。そして、イエスが復活されたことや、新しく絶えることのない、私たちを変える命をもたらされたことについて、イエスに感謝しました。この命は、主との関係を通して、さらに成長していくものです。
私は、主が霊的な真理を私たちに気づかせるために、自然界にあるものの多くを用いられると信じています。たとえば、日の出は、キリストが死の闇から新たな夜明けの栄光へと復活されることを思い出させてくれます。
イエスからの素晴らしい贈り物である復活を祝って、さまざまなクリスチャン著作家が復活について語った名言を、皆さんに紹介したいと思います。
- わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。—ヨハネ 11:25–26
- キリスト教の福音というもっとも良き知らせとは、至上の栄光を持たれる万物の創造主が、私たちとご自身の間の障壁を取り除くために、イエス・キリストの死と復活において働かれ、それによって、私たちが主の限りなき美しさを目にし味わうという、いつまでも続く喜びを見いだせるようにしてくださったことです。—ジョン・パイパー
- 主がよみがえられたという喜ばしい知らせによって、現代社会のありさまが変わるわけではありません。依然として、仕事と鍛錬と犠牲とが私たちを待ち受けています。それでも、イースターの事実が、仕事をなし、鍛錬を受け入れ、犠牲を払うための霊的力を与えてくれるのです。—ヘンリー・ノックス・シェリル
- 苦悩や失望や困難がどれだけ激しくあろうとも、それは一時的なものに過ぎません。あなたに何が起ころうと、どれほど深刻な悲劇や苦悩に直面しようと、あなた自身や家族に死がどのように忍び寄ろうと、復活はあなたに計り知れないほど素晴らしい将来を約束しています。—ジョシュ・マクドウェル
- 悪魔と闇と死は、わがもの顔で誇らしげに歩き回るかもしれません。人生の痛みは、もうしばらく続くことでしょう。それでも、心配は無用です。悪の勢力は息を引き取ろうとしています。心配はいりません。…主はよみがえられたのですから。—チャールズ・R・スウィンドル
- 与えたことのないものが、真にあなたのものとなることはありません。死んだことのない何かがあなたの内にあるのなら、それが死からよみがえることはありません。あなた自身に目をやる時、最終的に憎しみや孤独、失望、怒り、破滅、衰退しか見いだせません。しかし、キリストに目をやるなら、キリストご自身を見いだし、キリストと共にすべてが見いだされます。—C・S・ルイス
- 絶望に身を委ねてはいけません。私たちはイースターの民であり、ハレルヤこそ私たちの歌なのです。—教皇ヨハネ・パウロ2世
- イースターの物語は、神が起こされた素晴らしいサプライズの物語です。—カール・クヌーセン
- イースターは、命が本質的に霊的で永遠のものであるという、神による立証です。—チャールズ・M・クロウ
- 死んだ後、新しい何かが始まり、死の世界のいかなる力も、それに勝つことができません。—ディートリッヒ・ボンヘッファー
- インマヌエル(私たちと共におられる神)。私たちの性質において、悲しみにおいて、ライフワークにおいて、罰において、死において、私たちと共におられる神。そして今は、復活と昇天と勝利において、また輝かしい再臨において、私たちと共におられる神、いや、むしろ私たちが神と共に、それらにあずかるのです。—チャールズ・スポルジョン
- 神は十字架の上で、その愛を証明されました。キリストが十字架にかけられ、血を流し、死なれた時、それは、神がこの世界に「あなたを愛しているよ」とおっしゃっていたことなのです。—ビリー・グラハム
マリア:「わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある」(ローマ8:37)ことを知っているので、私たち一人一人に対して神が抱いておられる大きな愛に心安らいでいることができます。
- 死はかつて処刑者でしたが、キリストの復活によって、庭師以外の何ものでもなくなりました。死があなたを埋めようとする時、実際には植えているのであり、あなたは以前にまさった姿で出てくることでしょう。—ジョージ・ハーバート
- イエスのよみがえりは神の新しいプロジェクトの始まりであり、それは人々を地上から奪い去って天国に連れて行くのではなく、天国の生命によって地上を制覇するというものです。結局のところ、それこそが主の祈りの言わんとしていることなのです。—N・T・ライト
- 最初期のキリスト教徒が復活を信じたのは、遺体が見つからなかったからではなく、キリストが生きておられるのを見たからです。—バリー・マッカーシー
- 復活は、私たちが将来、新しく完全な命を持つことを約束するものですが、神は私たちを深く愛しておられるので、今、地上の命から生じる痛みや罪の意識、孤独に対して、私たちが一人で闘うようにはされません。—ジョシュ・マクドウェル
- 私は永遠の命を受け継ぐのだから、永遠のお方との調和を育む必要があるのです。—ヘンリー・ドラモンド
- イエス・キリストがこの世に来られたのは、悪人を善人にするためではなく、死者を生かすためです。—著者不詳
- 復活が告げているのは…今私たちが持っている肉体の命は、それがいずれ死ぬとしても、無価値ではないということです。…神は私たちの体のために素晴らしい未来を用意しておられるので、今あなたが自分の体を使って何を行うかは重要です。…絵を描き、伝道し、歌い、縫い物をし、祈り、教え、病院を建設し、井戸を掘り、不正を正す運動をし、詩を書き、貧しい人の世話をし、自分を愛するように他の人を愛するなど、今あなたが行うことは、神の将来に引き継がれます。これらの行為は、私たちがこの世を完全に後にする日まで、単にこの世の人生の不快さをいくぶん和らげ、いくらか堪えやすいものとするためのものではありません。それは、いわば神の国を建設することの一環なのです。—N・T・ライト
- イエス・キリストの弟子たちの変わりようこそが、主の復活の最大の証拠と言えるでしょう。復活こそが、ペテロの恐れを勇気に変え、ヤコブの疑いを信仰に変えたものです。…復活こそが、パリサイ人サウロを使徒パウロに変え、彼を迫害者から伝道者に変えたものです。—ジョン・ストット
マリア:復活こそが、弟子たちを勇敢にも当時知られていた全世界に出て行かせたものであり、殉教者たちが恐れることなく死に立ち向かうよう助けたものです。イエスの復活は、人に行動を起こさせます。
- イエスは、死者をよみがえらせるために来られました。報いを受けることのできる人に報い、向上できる人を向上させ、正せる人を正しに来られたのではありません。[復活のために]用いることのできない命ではなく、用いることのできる死に関して、立場を明確にする者たちのよみがえりとなり命となるために来られたのです。—ロバート・ファラー・カポン
- (使徒たちにとって)キリスト教を説くとは、第一にキリストの復活を説くことでした。…復活は、使徒行伝に記されているキリスト教の説教すべてにおいて、中心的テーマとなっています。キリストの復活、そしてその結果として生じたものが、キリスト教徒が伝えた「福音」、すなわち良き知らせなのです。—C・S・ルイス
- 要するに、私がクリスチャンになったのは、無神論者でいた時よりも幸せな人生を送れると、神が約束されたからではありません。そのようなことを、神は約束されなかったのです。それどころか、神に従うことで、必然的に…この世から低く見られてしまいます。正確に言えば、私がクリスチャンになったのは、イエスが本当に神の唯一の御子であり、死からよみがえることによってその神性を証明されたことに関して、あまりにも説得力のある証拠があったからです。そういうわけで、イエスに従うことは、私に取り得たであろうもっとも合理的で論理的なステップでした。—リー・ストロベル
- イエスが死からよみがえられたのであれば、イエスが言われたことをすべて受け入れるべきです。イエスが死からよみがえられなかったのであれば、イエスが言われたことを何も気にする必要はありません。イエスの教えを好きかどうかではなく、イエスが死からよみがえられたかどうかに、すべてがかかっています。—ティモシー・ケラー
- 父なる神が、多くの近代のクリスチャンと同じ物の見方をされたなら、どうなることでしょうか。サタンが望むものは何であれ、神の民にとって良くないものだという見方です。その見方によれば、サタンがある特定のことが起こるのを望むなら、神はそれとは正反対のことが起こるのを望むはずだということになります。もしそうだったとしたら、何が起こると思いますか。神はキリストの十字架での死を取りやめにされたことでしょう。神がもしそうされていたなら、私たちの誰一人として救われることがありません。
実際には、サタンも神も、同じ出来事が起こるのを望む場合があります。ただ、別の理由で。イエスの十字架での死を望んだサタンの真意は反逆であり、神の真意は愛と憐れみでした。—ジョニー・エレクソン・タダ
マリア:イエスの地上での生涯や十字架での死、最終的な復活、そして死と罪に対する勝利を通して、神が私たちに与えてくださった多大な愛と憐れみを想う時、私たちは主を賛美し、主に従い、主を信頼し、愛し、他の人々に主のことを話さずにはいられません。