第1コリント:第2章(1-8節)

5月 14, 2024

著者:ピーター・アムステルダム

[1 Corinthians: Chapter 2 (verses 1-8)]

April 30, 2024

パウロからコリント教会への手紙は、第2章へと続きます。

兄弟たちよ。わたしもまた、あなたがたの所に行ったとき、神のあかしを宣べ伝えるのに、すぐれた言葉や知恵を用いなかった。[1]

パウロはここで、彼が最初にコリントへ行った時のことを話しています。当時の哲学者やソフィストが優越性と華麗さを示すような話し方をしたのとは異なり、パウロは気取ることも、格好をつけることもありませんでした。十字架につけられたキリストについて神から受けた「あかし」(福音)を宣べ伝えたのです。

なぜなら、わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心したからである。[2]

パウロは、彼が宣べ伝える「神のあかし」について語っています。彼は、そのメッセージを宣べ伝えるにあたり、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリストに焦点を合わせると心に決めていました。「以外のことは … 知るまいと、決心した」とは、パウロが自分の用いる言葉や話し方において、キリスト中心であり十字架中心であったこと、そして彼の人生がキリストに焦点を合わせたものであったことを示しています。

わたしがあなたがたの所に行った時には、弱くかつ恐れ、ひどく不安であった。[3]

パウロは、自分が弱く、恐れていたと語ります。自信があるようなふりはしていません。自分にではなく、神と福音メッセージとに信頼を置いていました。言葉の使い方や人柄だけでは、多くの信者を引き寄せられないと知っていたのです。

彼は、自分が弁舌の巧みな人間ではないことをわかっていたし、ギリシャ流のやり方で雄弁に語ることはしませんでした。しかし、神が彼を、弱さや恐れや欠点にもかかわらず、福音を宣べ伝えるように召されたことを知っていました。神が彼を選ばれたのは、メッセンジャーではなくキリストに耳を傾けてもらえるようにという理由からであることを認識していたのです。

パウロがなぜ恐れ、不安であったのか、ここでは説明されていませんが、使徒行伝には、パウロが初めてコリントへ行った時のことが記されており、ルカはその訪問が非常に困難なものであったことを明らかにしています。パウロは会堂で「反抗」と「ののしり」を受けたので、そこを去って、隣りにある「テテオ・ユストという神を敬う人の家」に行きました。[4] パウロが身の危険を感じて恐れたのも当然のことです。その後、ユダヤ人たちが一団となって彼を襲い、法定に引っ張って行ったほどなのですから。[5] 彼らはパウロと共に、会堂司(会堂の管理者)ソステネも捕らえて、打ち叩きました。[6]

そこで神は、パウロのために幻(啓示)をもって介入しなければならず、その中で、人々に襲われるかもしれないという恐れについて語られました。「ある夜、幻のうちに主がパウロに言われた、『恐れるな。語りつづけよ、黙っているな。あなたには、わたしがついている。だれもあなたを襲って、危害を加えるようなことはない。この町には、わたしの民が大ぜいいる。』」[7] そこで、パウロは、もう1年半この町に留まりました。[8]

そして、わたしの言葉もわたしの宣教も、巧みな知恵の言葉によらないで、霊と力との証明によったのである。[9]

パウロは、「弱くかつ恐れ、ひどく不安であった」ことに加えて、自分の宣教が、説得力のある、相手を引き付けるような言葉、つまり、英語欽定訳聖書にあるように、「人の知恵による、相手を引き付ける言葉」によるものではなかったと語ります。パウロが言及しているのは、言語的・修辞的技巧を用いた説得術のことです。彼は、執筆の際には明らかにそれができましたが、そうすることを避けました。

それは、あなたがたの信仰が人の知恵によらないで、神の力によるものとなるためであった。[10]

信仰が人間の巧みな論法に基づくものであってはならないというのが、神のご計画なのです。パウロは、先にテサロニケの信徒たちに宛てた手紙で、この点を指摘しています。「わたしたちの福音があなたがたに伝えられたとき、それは言葉だけによらず、力と聖霊と強い確信とによったからである。」[11] それはすべて恵みによるものです。信仰とは、キリストへの信頼と献身のことなのです。

パウロは、このように、すべてを神と神の知恵とに帰して、彼自身の実例についての言及を終えます。彼は、神が人々をご自身のもとに引き寄せるために、各段階にいかに関わっておられるかを示す良い例でした。多くの人にとっては愚かであり、また別の人にとってはつまずきの石となるメッセージが、手の込んだ説得術や洗練された言葉、力強いしるしなしに、真実を映し出す方法で伝えられということを、パウロは示したのです。メッセンジャーもまた、弱く恐れていました。したがって、パウロの訪問の成果は、神の力と聖霊の働きによるものとしか考えられません。

しかしわたしたちは、円熟している者の間では、知恵を語る。この知恵は、この世の者の知恵ではなく、この世の滅び行く支配者たちの知恵でもない。[12]

パウロが心配していたのは、彼が「この世の」知恵と呼んでいるものを、コリントの人たちが高く評価していたからです。彼らは、キリストへの献身ではなく、そのような基準によって人々を判断し、コミュニティにおけるその人たちの地位を決定していました。そこで、パウロは真の知恵とはどのようなものであるかを明らかにする必要があったのです。

パウロは、自分がどのような知恵を説いたのかを説明しています。神の知恵が、単にキリストを信じること以上のものであることは明らかです。神の知恵と計画全体には、信仰の実践的な意味を理解することや、教会がキリストの教えを模範とした振る舞いをすることが含まれています。

パウロは続けて、彼の知恵は、この世の知恵でも、この世の支配者たちの知恵でもないと言います。神の知恵と、「この世の支配者たち」が従うこの世の知恵とを、対比させているのです。十字架はこの世(時代)の破滅を定めており、この世に属する者は滅び行きます。そして、神からの知恵は、「滅び行く」定めにある者には知恵と認められることがありません。パウロは、この世の滅び行く者たちと、「救にあずかる」者たち[13] とを対比させているのです。

ここで言う「支配者たち」とは、当時の政治や行政の指導者たちのことだと思われます。それには、十字架刑に関わった人々や、パリサイ派やヘロデ、ピラト、さらにはカイザル(カエサル)など、ユダヤ人と異邦人両方の支配者たちが含まれていることでしょう。新約聖書の他の箇所には、政治や行政の支配者たちが十字架刑に関わっている記述があります。[14] パウロは、コリント社会から賞賛されてはいても、キリストを拒絶していた、そのような影響力のある有力者たちを批判していたのかもしれません。

むしろ、わたしたちが語るのは、隠された奥義[神秘、秘義]としての神の知恵である。それは神が、わたしたちの受ける栄光のために、世の始まらぬ先から、あらかじめ定めておかれたものである。[15]

隠された奥義としての知恵を語るとは、霊的なエリートだけが理解できるように、神秘的な、あるいは隠された方法で語るということではありません。そうではなく、神の知恵は神秘であり、「この世の者」には隠されているということです。

パウロの著作には、「奥義(神秘、秘義)」という言葉が、さまざまな文脈で20回ほど使われており、大体においては、神の救いの道が「キリストにおいて」明らかにされたという事実を指しています。パウロの言うこの「奥義」は、キリストにおいて、神ご自身が告げてくださったものです。ですから、それには信じる者を救い出し、賢い人の知恵を打ち砕く神の力があります。こうして明らかにされた奥義には、単に理論的な知識だけではなく、神がキリストにおいて人々を救うという点が含まれています。

「隠された」という言葉は、「知恵」がどのようなものかを説明しています。パウロは、十字架上でのイエスの死によって明らかにされた神の知恵について話しているのです。この知恵が隠されたものであるというのは、パウロがそれを少数の人にしか知らせなかったからではなく、「この世」の人々が理解してこなかったからです。クリスチャンは、聖霊によってこの奥義を啓示されるという祝福にあずかってきました。クリスチャンのどの集団も、自分たちが他のクリスチャンより多くの「隠された」ものを受け取ったと主張することはできません。

パウロは、神がこの知恵を定めておかれたと言います。十字架上のキリストの死は、神によってあらかじめ計画されたものです。この点を強調するため、パウロは「世の始まらぬ先から」という言葉を付け加えています。神がキリストにおいて、愛と憐れみと赦しをもって人々と会われるというのは、「天地の造られる前から」[16] の神の偉大な知恵であり、それが今、すべて信じる者たちに啓示されたのです。このことは、キリストが出現される時まで、初めから隠されていました。

この世の支配者たちのうちで、この知恵を知っていた者は、ひとりもいなかった。もし知っていたなら、栄光の主を十字架につけはしなかったであろう。[17]

キリストにおけるこの知恵を「この世の支配者たち」が悟らなかったことは、彼らが「栄光の主」を十字架にかけたという事実からわかります。パウロは、イエスを「栄光の主」と呼ぶことで、神である「ヤハウェ」を指して使われるこの言葉を、キリストに対して用いています。神を愛する者にとって、十字架の道は栄光の道であり、真の知恵の道です。

(続く)


注:
聖書の言葉は、特に明記されていない場合、日本聖書協会の口語訳聖書から引用されています。


1 1コリント 2:1.

2 1コリント 2:2.

3 1コリント 2:3.

4 使徒 18:6–7.

5 使徒 18:12.

6 使徒 18:17.

7 使徒 18:9–10.

8 使徒 18:11.

9 1コリント 2:4.

10 1コリント 2:5.

11 1テサロニケ 1:5.

12 1コリント 2:6.

13 1コリント 1:18.

14 ルカ 23:35; 使徒 3:17, 4:8. [訳注:「支配者」と訳されたギリシャ語の言葉は、権威者や上に立つ者を意味しており、日本語訳聖書では、「指導者」「議員」「役人」などとも訳されています。]

15 1コリント 2:7.

16 エペソ 1:4.

17 1コリント 2:8.