第1コリント:第3章(10-17節)
11月 2, 2024
著者:ピーター・アムステルダム
第1コリント:第3章(10-17節)
[1 Corinthians: Chapter 3 (verses 10-17)]
July 9, 2024
神から賜わった恵みによって、わたしは熟練した建築師のように、土台をすえた。そして他の人がその上に家を建てるのである。しかし、どういうふうに建てるか、それぞれ気をつけるがよい。[1]
この章の少し前の箇所(第6節)で、パウロは植える人のたとえを用いていましたが、ここでは自分自身のことを、土台を据えた建築師と呼んでいます。コリント教会を設立するという最初の仕事はパウロが行い、その後、他の人たちは彼の土台の上に建てていました。パウロは、神から賜った恵みによって、自分は土台を据えるという務めをただ果たしただけだと強調しています。
パウロは読者たちに、建物を建てるために召される人は多くいることを思い出させています。彼の念頭には、当時コリント教会で働いていた指導者たちのことしかなかったのかもしれませんが、この言葉はすべてのクリスチャンに当てはまることです。パウロは後の方で、クリスチャンはすべて、教会を建てる(築き上げる)ための賜物を神からいただいていることを説明します。すべてのクリスチャンが、「どういうふうに建てる」のかを問われているのです。
なぜなら、すでにすえられている土台以外のものをすえることは、だれにもできない。そして、この土台はイエス・キリストである。[2]
パウロは、先に述べたのと同じことを、[3] ここでも述べています。すなわち、教会はただキリストの上にのみ建てられなくてはならないということです。多くの人が他の土台を据えて、その上に建てようとするかもしれませんが、それはうまくいきません。なぜなら、キリスト以外の土台はすべて、砂の土台だからです。
この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、または、わらを用いて建てるならば、それぞれの仕事は、はっきりとわかってくる。すなわち、かの日は火の中に現れて、それを明らかにし、またその火は、それぞれの仕事がどんなものであるかを、ためすであろう。[4]
パウロはここで、間違った建て方をした者に与えられる裁きと、正しい建て方をした者に与えられる報酬に焦点を当てています。まず、その4つの条件の内、最初のものが挙げられました。(残りの3つは、第14–17節に記されています。) パウロは、建てた仕事が残る人もいれば(第14節)、焼かれてしまう人もいる(第15節)と考えました。焼かれる仕事もあればそうでないものもあるため、パウロは、その仕事を建てている人や、彼らが使用する材料に関心を払っています。
パウロは、「かの日(その日)」に目を向けています。第1章8節では、それを「わたしたちの主の日」と呼んでおり、神の民が主の裁きの座の前に現れる日として、肯定的に捉えています。また、旧約聖書では、来るべき裁きが行われる時を指す言葉です。[5]
第13節では、それぞれの仕事がはっきりとわかってくるとはどういう意味なのかを説明しています。すなわち、それは「かの日」に明らかになります。どんな仕事がなされ、そのためにどんな材料が使われたのかが、火の中をくぐることではっきりするからです。
聖書の中では昔から、火は、義であって、裁き主また救い主である神の臨在と結び付けられてきました。神は火によってソドムとゴモラを裁き、[6] 燃える柴の中でモーセに現れ、[7] 火の中をシナイ山に下られました。[8] また、ヘブル12章29節には、「わたしたちの神は、実に、焼きつくす火である」と記されています。新約聖書において、火が裁く、また試すとあるのは、主ご自身が裁き、試すという意味になります。
もしある人の建てた仕事がそのまま残れば、その人は報酬を受けるが、その仕事が焼けてしまえば、損失を被るであろう。しかし彼自身は、火の中をくぐってきた者のようにではあるが、救われるであろう。[9]
パウロは、火によって試されてもそれを乗り越え、その仕事がそのまま残る建設者は報酬を受けると言います。そして、その仕事が「焼けてしまう」者は損失を被るけれど、それでも救われます。
一人ひとりが、建設への貢献に対して責任を負い、その仕事の質に応じて報酬か損失を受けることになります。建物が煙と消えれば、建てた人の労苦は無駄になりますし、建物がそのまま残れば、建てた人は忠実な奉仕のゆえに報酬を受けます。「その人は報酬を受ける」とは、自分のした仕事に対する報酬のことです。また、損失とは、救いを失うことではなく、報酬を失うことを言っています。
あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。[10]
パウロはここで、コリント教会は神の宮(神殿)とみなされるべきであり、それゆえ、信者たちはキリストにあって一致団結しなければならないことを、再び強調しています。彼らの内には神の御霊が宿っているので、彼らは神の宮なのです。「知らないのか」とは反語的な質問(「知らないのか、いや、知っている」という意味)であり、パウロは彼らが自分の書いたことに同意することを期待しています。彼はこの反語表現を、この手紙で8回用いました。[11] この質問は大抵、手紙の中で、パウロが信徒たちの習慣や行動に関する懸念を述べる箇所への導入となっています。パウロはこの表現によって、自分の言っていることは基本的なことであり、すべての人がそれを受け入れるべきことを強調していました。
この箇所にある「宮」とは、さまざまな中庭を含めたエルサレム神殿の全体ではなく、神殿の建物自体、つまり聖所のことです。パウロは信徒たちを、神の建物とみなしています。[12] また、この手紙の後の方では、信徒の体を聖霊の宮と呼んでいます。[13] パウロはここで、教師や指導者、信徒たちに、教会の意義を理解してほしいと願っているのです。
もし人が、神の宮を破壊するなら、神はその人を滅ぼすであろう。なぜなら、神の宮は聖なるものであり、そして、あなたがたはその宮なのだからである。[14]
これは強い警告であり、布告です。パウロがこの言葉を書いた時、コリント教会で分派争いを助長して分裂を引き起こしていた指導者たちのことが念頭にあったのかもしれません。パウロは、指導者たちの働き(仕事)が裁かれたり報酬を受けたりするという話をしたところですが、ここで話題を変え、教会を破壊することに一役買った者は誰でも滅ぼされると語っています。そうすることで、教会全体に警告しているのです。どうやら、この教会の信徒の多くは、主に目を向けるよりも、特定の指導者たちの持つ地位のゆえに、彼らに目を向ける誘惑に駆られていたようです。
(続く)
注:
聖書の言葉は、特に明記されていない場合、日本聖書協会の口語訳聖書から引用されています。