第1コリント:第3章(3:18–4:5)
11月 12, 2024
著者:ピーター・アムステルダム
第1コリント:第3章(3:18–4:5)
[1 Corinthians: Chapter 3 (verses 3:18–4:5)]
July 23, 2024
本記事では、第1コリント第3章の最後の6節、そして、同じトピックを扱う第4章の最初の5節を見て行きます。
だれも自分を欺いてはならない。もしあなたがたのうちに、自分がこの世の知者だと思う人がいるなら、その人は知者になるために愚かになるがよい。[1]
パウロがコリント教会の信徒たちにこのように書いたのは、コリントの住民が自分たちは賢いと思っていることを、パウロは知っていたからです。しかし、神の目から見て賢い者になるということは、この世においては愚か者になるということです。
パウロはまず、コリントの信徒たちに、彼らは自分が賢いと思っているかもしれないけれど、実際には自分を欺いているのだと指摘します。神の見方は、彼らの見方とは異なります。彼らはクリスチャンとして、「キリストの思い」[2] を持つ必要があるのです。
パウロはこの章の前の方で、教会はただキリストという土台の上にのみ建てられるべきであると指摘した上で、終わりの日になれば主の審判によって、間違った建て方をした者には裁きが与えられ、正しい建て方をした者には報酬が与えられるということを語っていました。ですから、神の前で自分がどのような立場にあるのかについて、自分を欺くのは深刻なことであるとみなされるべきなのです。審判の日が来て、自分は「立っている」と思っていたのに、実際にはそうでなかったことが判明した時、それは衝撃的な発見となることでしょう。
パウロは続けて、こう書いています。
なぜなら、この世の知恵は、神の前では愚かなものだからである。「神は、知者たちをその悪知恵によって捕える」と書いてあり、更にまた、「主は、知者たちの論議[思い計ること]のむなしいことをご存じである」と書いてある。[3]
パウロは、先に語っていた「神の知恵[十字架につけられたキリスト]は、この世にとっては愚かなものだ」[4] ということを逆の方向から表現して、ここでは、「この世の知恵は、神の前では愚かなものだ」と書いています。自分たちの知恵の愚かさを示されたコリントの信徒たちは、人間の知恵は愚かなものなので、神の見方で物事を見るよう促されています。
引用されている聖句の最初のものは、ヨブ5章13節の「彼は賢い者を、彼ら自身の悪巧みによって捕え …」です。それはエリパズが、神の前では誰も正しくあり得ないと(誤って)主張している箇所からです。彼はまた、神の前に正しくない者は「知恵もなく 」滅びると、正しく語っています。[5] そして、「愚かな者」(神の御心を行わない者)はねたみによって死に至ると語っています。[6] その後に、こう語っているのです。「[主は]悪賢い者の計りごとを敗られる。… 彼は賢い者を、彼ら自身の悪巧みによって捕え …。」[7] エリパズはヨブに、自分の主張を神に委ねるよう促しており、それはまさにパウロが、自分を欺いているかもしれない人々に言っていることです。
パウロが2つ目に引用している聖句は詩篇94篇11節からで、言葉を若干変えています。詩篇にはこうあります。「主は、人の思い計ることがいかにむなしいかを、知っておられる。」[8] 一方、パウロはこう書いています。「主は、知恵のある者の思い計ることがいかに空しいかを、知っておられる。」(1コリント3:20 新改訳2017) パウロは、人間の計画や考えはすべて空しいと指摘しており、神はそれが永続的な価値をもたらすものではないとご存知なのです。神の知恵と計画は、この世の思いや計画、知恵とは対照的です。
だから、だれも人間を誇ってはいけない。[9]
十字架につけられたキリストのメッセージを理解した人にとって、「誇る」べきものは、ただ主ご自身であるべきです。パウロの目的は信徒たちが一つになることですが、そのためには、神と神の方法とを正しく理解する必要があります。人間の知恵に頼ることは、それが何であれ、神の民の思考から排除されなければなりません。
すべては、あなたがたのものなのである。パウロも、アポロも、ケパも、世界も、生も、死も、現在のものも、将来のものも、ことごとく、あなたがたのものである。そして、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものである。[10]
パウロは、先に第1章12節でしたように、指導者たちの名前をあげています。ただ、ここで注目すべきは、そのリストがより広範なものになっているということです。パウロは、特定の指導者たちについてではなく、神の民が受け継ぐもの全体を考えるよう、読者を導いています。「私はパウロにつく」、あるいはアポロのもの、ケパのものだ、と考えるべきではなく、「すべては、あなたがたのものなのである」と、パウロは教会に告げています。
パウロは第3章16-17節で、5回も 「神」という名を出して強調したばかりなので、手紙のこの部分を「神」という言葉で、すなわち「キリストは神のものである」という表現で終えるのは適切なことです。キリストは神の御子であり、メシアであり、教会のために地上に来られた方です。そして、教会はキリストのものなのです。すべてのものは神とその御子のものなので、すべてのものは信者の益のためにあるということになります。そして、彼らはキリストのものです。
パウロは第4章で、以下のように続けています。
このようなわけだから、人はわたしたちを、キリストに仕える者、神の奥義を管理している者と見るがよい。[11]
パウロはコリントの信徒たちに、パウロやアポロたちをキリストに仕える者と見るべきだと書いています。パウロは少し前に、自分たち指導者を、主人の畑で特定の仕事を与えられた同労者であると表現していました。[12] パウロはこの点を強調することによって、コリントの信徒たちが、特定のキリスト教教師への忠誠心に基づき派閥を形成して分裂しないよう促しています。パウロは、彼らが、彼自身やアポロのような人間ではなく、何よりもまずキリストに従うことを望んでいるのです。
この場合、管理者に要求されているのは、忠実であることである。[13]
この箇所で、パウロは自分自身や他の教会指導者たちを、「神の奥義の管理者」と表現しています。「管理者」とは、自分のものではない何かを管理しているのであり、たとえば、裕福な人から資産の管理や家全体の切り回しを任された、信頼できる僕がそうです。このレベルの信頼を与えられる人は、誠実であって、信頼に値し、忠実な人であることが知られている人でなければなりません。パウロが言いたいのは、彼自身や他のキリスト教教師たちが神の奥義の管理者となるには、神によって忠実であると認められなければならないということです。信頼に足る、誠実な人でなければならないのです。
わたしはあなたがたにさばかれたり、人間の裁判にかけられたりしても、なんら意に介しない。いや、わたしは自分をさばくこともしない。[14]
パウロは、コリント人や他の人たちが、自分やアポロ、その他の教会指導者たちがふさわしい存在であるのかどうかと裁いていることを知っていました。パウロは彼らの裁きを退けて、彼らに裁かれても、あるいは人間の裁判所に裁かれたとしても、それは非常に小さなことなので、何ら意に介さないと言っています。しかし、パウロが自分は彼らの裁きより上にあると言うのは、彼の使徒としての立場からではありません。これに続く箇所で、彼らに裁かれても意に介さない理由とは、彼を裁くべき者は彼らではないからであることを明言しています。
パウロはさらに、彼自身にも、自分を裁く資格はないと言っています。彼自身が自分を裁けないのであれば、どうして他人の意見を気にする必要があるでしょうか。
わたしは自ら省みて、なんらやましいことはないが、それで義とされているわけではない。わたしをさばくかたは、主である。[15]
パウロは、管理者としての自分を省みて、誠実さの欠如や職務遂行における不忠実さなど、やましいことはいっさい思い当たりませんでした。しかし、だからといって、パウロは潔白だと言っているわけではないのです。彼はエレミヤ17章9節にある、この真実をよく知っていました。「心はよろずの物よりも偽るもので、 はなはだしく悪に染まっている。 だれがこれを、よく知ることができようか。」 パウロは、自分は完璧でも完全無欠でもないと知っていました。ただ、神の意見に比べれば、人間の意見など、たとえそれが自分の意見であっても、どうでもよいと言っているのです。
だから、主がこられるまでは、何事についても、先走りをしてさばいてはいけない。主は暗い中に隠れていることを明るみに出し、心の中で企てられていることを、あらわにされるであろう。その時には、神からそれぞれほまれ[称賛]を受けるであろう。[16]
その終わりの日には、主の裁きがすべてをあらわにします。それは、その人が本当に主のものであったかを明らかにし、また、指導者の仕事の永続的な価値はどのようなものだったのかなども明らかにします。神は管理者の忠実さを調べ、心の奥にある思いや心づもりを探り、その人の真の姿をあらわにされるのです。
パウロが将来の裁きについてこれらの事実を述べているのは、コリントの信徒たちがパウロや他の人たちを裁くのをやめるようにです。パウロはコリントのクリスチャンたちに、他の人の主への奉仕の質を裁くのをやめるように言います。むしろ、主が戻られるのを待つべきであり、その時が来れば、主が裁定を下されるのです。神の裁定だけが重要であり、神だけが人の内面を評価する資格のある方です。クリスチャンは、主の裁きに基づいて、神から報いを受け取ることになります。
注:
聖書の言葉は、特に明記されていない場合、日本聖書協会の口語訳聖書から引用されています。