
第1コリント:第7章(1–16節)
2月 28, 2025
著者:ピーター・アムステルダム

第1コリント:第7章(1–16節)
[1 Corinthians: Chapter 7 (verses 1–16)]
January 28, 2025
パウロはこれまでの章で、コリントの信徒たちの間で起きていることとして報告されていた、性に対する態度、罪、教会内の分裂などの問題に対処してきました。この章では、以前に彼らが手紙で尋ねてきた特定の質問に焦点を当てています。
さて、あなたがたが書いてよこした事について答えると、男子は婦人にふれないがよい。しかし、不品行に陥ることのないために、男子はそれぞれ自分の妻を持ち、婦人もそれぞれ自分の夫を持つがよい。(1コリント7:1–2)[1]
コリントの信徒たちが質問していたという事実が、この件について意見の相違があったことを示しています。この教会には、売春を正当化するメンバーもいれば(1コリント6:12–20)、結婚しない方が良いと主張する人もおり、他にも、性的関係は良くないと感じる人がいました。引用符で囲まれた箇所(男子は婦人にふれないがよい)の意味は、誰にとっても最良の選択は性的関係を控えることであるということです。これがパウロの見解であったと主張する学者もいますが、ほとんどの学者はそれが正しい解釈であるとは考えていません。
パウロは旧約聖書をよく知り、愛していたし、旧約聖書は結婚と子どもが神からの祝福であることを明確に示していることを考えると、彼がすべての人に独身でいることを勧めたとは考えにくいです。彼は、神ご自身が人類の益のために結婚を定められたことを知っていました。
むしろパウロは、性的関係を否定的なものと捉えずに、男はそれぞれ自分の妻を持ち、女はそれぞれ自分の夫を持つことを提唱しています。それは、この文脈から言えば、未婚者は結婚すべきだということではなく、すでに結婚している者たちは互いとの性的な関係を持ち続けるべきだということです。
パウロは、性的不品行に陥る強い誘惑について述べていますが、おそらくそれには、コリント教会が抱えていた売春(6:15–16)や近親相姦(5:1)の問題も含まれていることでしょう。教会内の一部の人がそのような行為に及んだ一方で、結婚生活においても禁欲すべきだと主張する人たちもいたわけです。パウロは、結婚は性的不品行の誘惑から身を守るものだと指摘しています。
夫は妻にその分を果し[妻が持つ夫婦の権利に応え(英語ESV訳)]、妻も同様に夫にその分を果すべきである。妻は自分のからだを自由にすることはできない。それができるのは夫である。夫も同様に自分のからだを自由にすることはできない。それができるのは妻である。(1コリント7:3–4)
コリントのクリスチャンの中には、いかなる性的関係をも避けるべきであり、それは結婚生活においてでさえ同様である、という見解を持つようになった人たちがいたようです。パウロは、そのような見解に対して、夫婦の務めについて明確に記すことによって、反論しようとしています。夫には妻に対する性的な義務があり(それをここでは「夫婦の権利に応えるべき」と表現)、妻にも夫に対する性的な義務があると指摘しており、それを英語NIV訳では「夫婦の務め」と呼んでいます。そして、夫にも妻にも、正当な理由なく相手を拒む権利はないということです。
パウロは自分の見解を賢明に表現しました。妻の体は彼女だけのものではなく、夫のものでもあります。同様に、夫の体も彼だけのものではなく、妻のものでもあります。夫婦は互いの体に対して平等に権限を持っているということです。
互に拒んではいけない。ただし、合意の上で祈に専心するために、しばらく相別れ、それからまた一緒になることは、さしつかえない。そうでないと、自制力のないのに乗じて、サタンがあなたがたを誘惑するかも知れない。以上のことは、譲歩のつもりで言うのであって、命令するのではない。(1コリント7:5–6)
理想的には、クリスチャンの夫婦は、祈りに専念するために一時的に合意するのでない限り、互いを性的に拒むべきではありません。旧約聖書全体を通して、断食のように、性的行為を控えることなどが求められる特別な宗教的活動が記されています。(サムエル上21:4–5) この祈りと禁欲の期間が終わったら、夫婦は通常の性生活に戻って、サタンが彼らを誘惑して不法な性的関係に携わせることのないようにしなさいということです。パウロは禁欲期間を命じているわけではないし、夫婦が互いを拒むことを勧めてもいません。
わたしとしては、みんなの者がわたし自身のようになってほしい。しかし、ひとりびとり神からそれぞれの賜物をいただいていて、ある人はこうしており、他の人はそうしている。(1コリント7:7)
他の人たちも「わたし自身のように」なってほしいと願っていることから、パウロは結婚していなかったと思われます。パウロの結婚歴については、あまり知られていませんが、かつて結婚していた可能性が高いと断言する学者もいます。パウロはラビの資格を持っており、ラビは概して結婚していたからというのが、その理由です。いずれにせよ、パウロはこの手紙を書いた時点で独身であったし、結婚しないことにはいくつか利点があることを認め、それを「賜物」と呼んでいます。同時に、神がすべての人に独身でいることを求めておられるわけではないことも理解していました。人はそれぞれ、神からの賜物をいただいています。神はある人には結婚するよう呼びかけ、別の人には独身でいるよう呼びかけておられるのです。パウロは、神がそれぞれの人に与える賜物は異なっていると指摘することによって、結婚している人たちに非難が降りかかる可能性を取り除きました。
次に、未婚者[独身の人]たちとやもめたちとに言うが、わたしのように、ひとりでおれば、それがいちばんよい。(1コリント7:8)
パウロはさらに、独身者とやもめに向けて、結婚しないままでいることは彼らにとって良いことだと助言しました。彼の見解は、創世記に書かれていることと矛盾してはいません。創世記は、結婚を、自然かつ適切で、一般的に人間にとって良い創造のパターンとして、人類の繁栄のために神が定められた計画の中心的な部分としています。(創世記1:27–28) それでもパウロは、状況によっては、独身でいる方が結婚するよりも有利な点があると認めた上で、どちらも「賜物」とみなすべきであると述べています。
しかし、もし自制することができないなら、結婚するがよい。情の燃えるよりは、結婚する方が、よいからである。(1コリント7:9)
パウロの見解は、彼自身がそうだったように、独身のままでいるのが最善であるというものでしたが、ほとんどの人は、ずっと独身でいるつもりはありませんでした。ですから、独身であることは、主のお仕事にひたすら打ち込めるという点では最善のことかもしれませんが、パウロはそれが標準だというわけではないことを認めており、やもめと独身者は自制することができないなら結婚すべきだと述べています。
更に、結婚している者たちに命じる。命じるのは、わたしではなく主であるが、妻は夫から別れてはいけない。(しかし、万一別れているなら、結婚しないでいるか、それとも夫と和解するかしなさい)。また夫も妻と離婚してはならない。 (1コリント7:10–11)
パウロはここで、信者同士の離婚について述べています。まず、主イエスご自身がこの見解を認めておられると強調してから、そのように命じました。使徒として、パウロは教会のために指針を定めていたわけです。彼は主の名を出す(「わたしではなく主である」)必要はなかったのですが、自分の言葉に重みを持たせるために、そうしました。
彼は、妻が従うべき一般的指針として、「妻は夫から別れてはいけない」と述べました。続けて、夫たちに、「夫も妻と離婚してはならない」と指示しています。この箇所で使われた「別れる」という言葉は、「離婚」と同じ意味です。つまり、妻も夫も、配偶者と別れ(離婚し)てはならないということです。イエスは、性的不品行は離婚の正当な理由であると明言されました。(マタイ19:9) そして、パウロは、遺棄されることも離婚の理由になると述べています。(1コリント7:15) この2つの例外を念頭に置きつつ、クリスチャンは離婚すべきではないと、パウロは明言しているのです。
彼は、信者の間で離婚が起こっていることを知っていました。そして、正当でない理由で離婚した人たちに、結婚しないでいるか、あるいは元の配偶者と和解するか、という2つの選択肢を与えています。和解の試みが拒絶された場合にどうすればいいかは述べていません。
そのほかの人々に言う。これを言うのは、主ではなく、わたしである。ある兄弟に不信者の妻があり、そして共にいることを喜んでいる場合には、離婚してはいけない。また、ある婦人の夫が不信者であり、そして共にいることを喜んでいる場合には、離婚してはいけない。(1コリント7:12–13)
パウロはここで、「そのほかの人々」、つまり自分自身は信者であっても、結婚相手が信者ではない人に向けて語っています。この教えは主からではなく、彼自身のものであると言いますが、使徒として、主に代わって語っているので、このことは彼の教えの権威を弱めるものではありません。彼が言っているのは、自分の知る限り、イエスがその生涯において、信者と未信者の結婚について語られたことはないということです。
パウロは、信者でない配偶者が兄弟(信者)と一緒に暮らすことを望んでいる場合、その兄弟は信者でない配偶者と離婚すべきではないと教えました。宗教的な違いは夫婦間の緊張につながることもありますが、パウロは、その違いは必ずしも離婚の正当な理由にはならないと述べています。
なぜなら、不信者の夫は妻によってきよめられており、また、不信者の妻も夫によってきよめられているからである。もしそうでなければ、あなたがたの子は汚れていることになるが、実際はきよいではないか。(1コリント7:14)
パウロは、自分の見解を2つの方法で説明しています。まず、信者ではない夫や妻は、信者である配偶者によってきよめられているというものです。「きよめられており」(翻訳聖書によっては「聖なる者とされている」)という表現は、神の御用や目的のために、特別な存在として分かたれたことを意味します。それは、信じない人が罪からあがなわれているということではありません。もしあがなわれているなら、「信者でない」と言われることはなかったでしょう。そうではなく、信者である配偶者を通して、信者でない人も神の民の共同体にあずかっているということです。
夫婦によって、状況はそれぞれ異なります。信者ではない人が、信者である配偶者を通していずれ信者となる場合もあれば、その関係に影響されない場合もあります。少なくとも、そのような未信者は、他の人たちが決して経験しない方法で、福音やキリスト教の影響に触れているのです。
パウロは、聖書全体を通して見られる、ある教えを前提としています。それは、信者の子どもたちは、あがなわれてはいなくとも、神の目には特別な存在であるということです。これらの子どもたちは必ずしも信者ではありませんが、信者である親が神と持っている関係を受け継ぐことが期待されます。
しかし、もし不信者の方が離れて行くのなら、離れるままにしておくがよい。兄弟も姉妹も、こうした場合には、束縛されてはいない。神は、あなたがたを平和に暮させるために、召されたのである。(1コリント7:15)
そのような混合結婚において、信者でない配偶者が影響を受ける可能性があるとは言え、パウロは、信者でない方の配偶者が結婚を続けることを望まない場合が多いことを知っていました。そのため、信者ではない配偶者が離れていくことを選ぶのなら、そうさせるべきだと付け加えたわけです。信者は、そのような状況下では結婚生活を継続する義務はありません。
なぜなら、妻よ、あなたが夫を救いうるかどうか、どうしてわかるか。また、夫よ、あなたも妻を救いうるかどうか、どうしてわかるか。(1コリント7:16)
パウロは、信者でない配偶者と離婚する際には、慎重に考慮するよう求めています。未信者の配偶者の人生において、神が誰をどのように用いられるのか、私たちにはわかりません。信者である夫や妻が、未信者が信仰を持つきっかけとなるのは、よくあることです。
(続く)
注:
聖書の言葉は、特に明記されていない場合、日本聖書協会の口語訳聖書から引用されています。
訳注:
1 「男子は婦人にふれないがよい」の箇所は、口語訳ではパウロからの答えとされていますが、新改訳2017では、コリント教会の手紙からの引用として、「さて、『男が女に触れないのは良いことだ』と、あなたがたが書いてきたことについてですが」と訳されています。また、英語の翻訳聖書では多くの場合、誰の言葉か明記することなく、引用符でくくるなどしています。