
第1コリント:第7章(17–40節)
3月 27, 2025
著者:ピーター・アムステルダム

第1コリント:第7章(17–40節)
[1 Corinthians: Chapter 7 (verses 17–40)]
February 11, 2025
前回の記事では、パウロが結婚と性的関係の問題をどのように扱ったかを見てきました。パウロは同じ章の次のセクションで、各自が神によって召されたままの人生を送るべきというテーマを取り上げています。
ただ、各自は、主から賜わった分に応じ、また神に召されたままの状態にしたがって、歩むべきである。これが、すべての教会に対してわたしの命じるところである。(1コリント7:17)
「召された」という言葉によって、第15節に書かれていた、「神は、あなたがたを平和に暮させるために、召されたのである」ということが、さらに強調されています。クリスチャンが平和な生活を送れるのは、一つには、神の召しを知り、それに従うことによります。パウロは、神がさまざまな状況にある人を召しておられることを指摘しており、それには、これから彼が説明するように、社会的地位、結婚状況、宗教的背景などが含まれます。神はクリスチャンが置かれている状況に目的を持っておられます。それは、パウロが「神に召されたままの状態」と呼んでいるものであり、主が各自に合わせて与えてくださった人生のことです。
パウロは、クリスチャンが社会における自分の地位や居場所を決して変えるべきではないと言っているのではありません。神が自分を召されたのだと理解して、神が示されたことや、与えてくださった人生に従って生きるべきだということです。一般的にクリスチャンは、神が別の任務を与えない限り、他者との関係や奉仕において今の状態を維持すべきだというのが、パウロの見解でした。
召されたとき割礼を受けていたら、その跡をなくそうとしないがよい。また、召されたとき割礼を受けていなかったら、割礼を受けようとしないがよい。割礼があってもなくても、それは問題ではない。大事なのは、ただ神の戒めを守ることである。各自は、召されたままの状態にとどまっているべきである。(1コリント7:18–20)
パウロは、割礼のあるなしは問題ではないことを強調しました。神がご自身の民との間の契約のしるしとして男子の割礼を義務づけた旧約律法は過ぎ去り、クリスチャンに求められてはいません。パウロは、異邦人回心者に割礼を受けさせようとするユダヤ人クリスチャンに反対していました。ここでパウロがコリントの信徒たちに思い起こさせているのは、彼は教会で割礼を受けていない人を常に擁護してきたということです。彼らが割礼を受けることは救いのためや教会での地位のために必要であると、他の人たちが説得しようとするのを許しませんでした。
割礼を受けていようがいまいが、信徒たちはそのままでいるべきであり、変わるように説得されるべきではありません。また、割礼を受けていることや受けていないことを誇るべきでもありません。全般的にパウロは、割礼を受けていない人はそのままでいるべきだと信じていましたが、ある時、教会の平和のため、テモテに割礼を受けるよう勧めたことがあります。(使徒16:3) しかし、割礼が不可欠であると教えたことは一度もありません。
召されたとき奴隷であっても、それを気にしないがよい。しかし、もし自由の身になりうるなら、むしろ自由になりなさい。(1コリント7:21)
新約聖書で使われている「ドゥーロス」というギリシャ語の言葉は、訳本や文脈によって、[英語では]「ボンドサーバント(奴隷、無給労働者)」、「サーバント(僕=しもべ)」、あるいは「スレーブ(奴隷)」と訳されています。[1] ESV訳聖書は、「ドゥーロス」がより限定的な隷属形態を指す場合に「ボンドサーバント」と訳しています。(この聖句もそうです。)[2] パウロはコリントの信徒たちに、もし信者になったときに奴隷だったとしても、自分の社会的地位を変える必要があると感じるべきではないことを思い起こさせています。しかし、もし自由の身になれるのなら、自由になりなさいと言います。
主にあって召された奴隷は、主によって自由人とされた者であり、また、召された自由人はキリストの奴隷なのである。(1コリント7:22)
パウロは、奴隷が自分の社会的地位について落胆する必要のない理由を説明しました。奴隷とされ、隷属状態にあっても、彼らは主によって解放された自由人だということです。奴隷制は、当時の地中海世界全体に広く普及していました。パウロは、法的に自由になることができない人々を慰め、キリストにある彼らは内なる霊的な自由人であることを思い起こさせています。奴隷の身分は不名誉なものではなく、むしろキリストにあっては、より高い社会的地位にある者と平等であると指摘したのです。他の箇所でも、このように書いています。「もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである。」(ガラテヤ3:28)[3]
あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。人の奴隷となってはいけない。(1コリント7:23)
パウロは、この件を締めくくるに当たり、少し前にも書いた、「あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ」(1コリント6:20)という言葉を繰り返しています。すべてのクリスチャンは、キリストの血の代価によって買い取られました。イエスの死によって、罪の支配から解放されたのです。彼らはこのように自由にされているので、人の奴隷となってはいけません。
パウロは信徒たちに、自分の置かれた状況や社会的地位がどうであれ、自分を自由人とみなすよう勧めました。なぜなら、キリストが十字架での死によって、彼らを解放してくださったからです。そして、キリストがご自身の血をもって教会(全クリスチャン)を買い取られたので、教会がキリストにあって持っている新しいアイデンティティゆえに、クリスチャンはそれまでとは異なる振る舞いをする必要があることを強調しています。
兄弟たちよ。各自は、その召されたままの状態で、神のみまえにいるべきである。(1コリント7:24)
パウロは、コリントの信徒たちを兄弟(そして姉妹)と呼び、召された状態のままでいるという一般原則を繰り返しています。この言葉は、もし神に寄り頼んでいるなら、自分の状況を変えるべきときがいつなのかを知ることができる、という事実を指し示しています。
この時点でパウロは、コリントの信徒たちからの手紙にあった別の質問に答えるため、結婚と離婚に関する問題に話を戻します。
おとめ[婚約した者(英語ESV訳)]のことについては、わたしは主の命令を受けてはいないが、主のあわれみにより信任を受けている者として、意見を述べよう。わたしはこう考える。現在迫っている危機のゆえに、人は現状にとどまっているがよい。(1コリント7:25–26)
「婚約した者」は、他のほとんどの翻訳聖書では「おとめ(処女、未婚の人)」と訳されています。この女性たちはおそらく、婚約はしていても、まだ結婚していなかったのでしょう。コリントの信徒たちの間で、婚約したカップルが結婚に踏み切るべきかどうか、意見が分かれていたようです。パウロは、この問題について、イエスは具体的な教えを与えてはおられないと述べています。(「わたしは主の命令を受けてはいない。」) パウロが言う、コリントの人たちに「現在迫っている危機」とは、イエスも旧約聖書も取り上げていない特異な問題のことだったのかもしれません。それが何であれ、パウロには、使徒として彼の判断を告げる権威がありました。
パウロは、「わたしはこう考える」と断った上で、それが絶対的な規則と言うよりは、見解であり私見であることを述べました。そして、彼の私見は、当時教会が直面していた状況を念頭にしてのものであることを明確にしています。パウロの見解とは、危機が迫っているのだから、独身者は独身のままでいるべきだ、というものでした。
「現在迫っている危機」という表現で、パウロが正確に何を意味していたのかを知ることはかなり困難です。歴史を見れば、この頃いくつかの飢饉が発生しているので、彼はコリントの住民を苦しめていたギリシャの飢饉のことを言っていたのかもしれません。パウロは後の章で、コリントの信徒たちの中には、主の晩餐にお腹をすかせて来る者がいたことに言及しています。(1コリント11:21) そのような困難を踏まえて、パウロは独身者が独身のままでいることを勧めたわけです。これは、未婚女性は決して結婚すべきでないという意味ではないし、今後もずっとこの状態が続くことを意図したわけでもありません。そうではなく、現在迫っている危機のゆえに、一時的に結婚を控えなさいということです。
もし妻に結ばれているなら、解こうとするな。妻に結ばれていないなら、妻を迎えようとするな。(1コリント7:27)
パウロはおそらく、婚約しているか、結婚を約束された人たちのことを念頭に、こう言ったのでしょう。婚約している者同士が婚約を解消することを望んでおらず、ただ延期することを勧めています。また、婚姻の義務から解放された者には、妻を得ようとするなと勧めています。彼が言いたいことの要点は、すでに婚約をしている者は、まだ結婚すべきでなく、婚約を解消した者は、まだ新たに結婚を求めるべきではないということです。
しかし、たとい結婚しても、罪を犯すのではない。また、おとめが結婚しても、罪を犯すのではない。ただ、それらの人々はその身に苦難を受けるであろう。わたしは、あなたがたを、それからのがれさせたいのだ。(1コリント7:28)
パウロは、当時の状況から言って結婚は勧められないと考えましたが、結婚することが罪であるとは言っていません。ただ、結婚する人は、これから自分が直面するであろう苦難をよく承知した上でそうしなければならないということです。パウロはおそらく、その地域の飢饉のため、結婚すれば食卓に食べ物を並べるのがさらに難しくなるという意味で言ったのでしょう。彼は独身者たちをそのような苦難から守りたいので、慎重になるよう勧めたわけです。
兄弟たちよ。わたしの言うことを聞いてほしい。時は縮まっている。今からは妻のある者はないもののように、泣く者は泣かないもののように、喜ぶ者は喜ばないもののように、買う者は持たないもののように、世と交渉のある者は、それに深入りしないようにすべきである。なぜなら、この世の有様は過ぎ去るからである。(1コリント7:29–31)
コリントの信徒たちを「兄弟」(兄弟姉妹とも訳されます)と呼んでいることは、パウロが彼らの幸福を気にかけていることを示しています。彼は、結婚している者、離婚している者、配偶者と死別した者、婚約している者、独身の者という、すべての信徒のことを考えているのです。また、時は短く、この世の有り様は過ぎ去っていくという点を指摘しました。彼はさまざまなタイプの人に言及しています。結婚している人、悲しんでいる人、幸せで喜んでいる人、この世と交渉のある人、です。
パウロから見れば、それらはどれも立派なことですが、この世の生活、すなわち永遠に続くことはない、今の「この世の有様」と日々の出来事に関したものです。パウロは、信徒たちがこれらの事柄に深入りしていることを懸念し、永遠の視点から物事を捉えるよう勧めました。クリスチャンは、妻がいない者のように、悲しみのない者のように、喜びのない者のように、心を奪わせる所有物もないかのように、生きるべきだと。パウロの言葉を絶対的な意味で捉えるべきでないのは、言うまでもありません。他の箇所では、これらの点についてバランスの取れた見方を示しています。結婚における責任や性的関係(エペソ5:22–33)、喜び(1テサロニケ5:16)、悲しみ (ピリピ3:18)、所有物(1テモテ6:8)などです。ここでパウロは、コリントの信徒たちに対して、これらは人生において妥当なことではあるけれど、自分の焦点をそれに左右されるべきでないことを思い起こさせているのです。
わたしはあなたがたが、思い煩わないようにしていてほしい。未婚の男子は主のことに心をくばって、どうかして主を喜ばせようとするが、結婚している男子はこの世のことに心をくばって、どうかして妻を喜ばせようとして、その心が分れるのである。未婚の婦人とおとめとは、主のことに心をくばって、身も魂もきよくなろうとするが、結婚した婦人はこの世のことに心をくばって、どうかして夫を喜ばせようとする。 (1コリント7:32–34)
わたしがこう言うのは、あなたがたの利益になると思うからであって、あなたがたを束縛するためではない。そうではなく、正しい生活を送って、余念なく主に奉仕させたいからである。(1コリント7:35)
パウロは、クリスチャンにとって、独身でいることには利点があると個人的に考えていました。そのような人は、主への奉仕に専念できるということです。結婚している人は、主を喜ばせたいという願いと、配偶者を喜ばせなければならないという義務感の間で板挟みになるからです。しかしパウロは、独身者に結婚するなと書き記したり、使徒としての立場を利用してそう命令したりしているのではない、と明言しています。そうではなく、パウロは、手紙を読んでいる人たちが結婚すべきかどうかを検討する際に役立つよう、こう指導しているのです。
ある人が、自分の婚約者に対して品位を欠いたふるまいをしていると思ったら、また、その婚約者が婚期を過ぎようとしていて、結婚すべきだと思うなら、望んでいるとおりにしなさい。罪を犯すわけではありません。二人は結婚しなさい。(1コリント7:36 新改訳2017)
パウロは、この特定の時期において、独身でいる方が良い選択だと考えましたが、それが唯一の正しい選択ではないことも知っていました。神が結婚を定めておられるので(イエスもそのことをマタイ19章4–6節で再確認しておられます)、それはすなわち、結婚の正当性を覆すことはできないということです。パウロは、自分の助言について、年を取ってきている婚約者女性に関しては、結婚を先延ばしすべきではないという例外を与えています。結婚することが自分たちにとって正しいことだと確信しているなら、自由に結婚すべきであり、結婚することで罪を犯しているわけではないというのです。
しかし、心のうちに固く決意し、強いられてではなく、自分の思いを制して、婚約者をそのままにしておこうと自分の心で決意するなら、それは立派なふるまいです。ですから、婚約者と結婚する人は良いことをしており、結婚しない人はもっと良いことをしているのです。(1コリント7:37–38 新改訳2017)
パウロは、無理強いされてはならないと指摘しています。結婚を選ぶ人も、結婚しないことを選ぶ人も、どちらも正しい選択をしているのです。これらの件について、一部のメンバーが他の人々をコントロールしたがっていたようですが、パウロはそれを許しませんでした。現在迫っている危機を考慮して、結婚を延期することを勧めはしましたが、最終的には当人たちが自分で決断しなければならないことを知っていたのです。結婚した人は正しいことをしたし、結婚しないことを選んだ人も正しいことをしたのであり、どちらの選択肢も受け入れられるものです。
妻は夫が生きている間は、その夫につながれている。夫が死ねば、望む人と結婚してもさしつかえないが、それは主にある者とに限る。しかし、わたしの意見では、そのままでいたなら、もっと幸福である。わたしも神の霊を受けていると思う。(1コリント7:39–40)
パウロは、夫を亡くした人に話題を戻しました。まず、結婚は生涯続くものであるけれど、それは配偶者が死ぬときまでのことだという、よく知られた方針を読者に思い出させています。(ローマ7:2) 夫が亡くなった後、やもめとなった人は自由に再婚することができます。
パウロは再婚を認めたものの、彼の意見では、夫をなくした人は結婚しないままでいた方が幸せであろうということでした。この助言は、コリントの状況に合わせて与えられたものです。パウロの意見は、結婚を推奨する一般的な聖書の原則に反するものと捉えられるかもしれないため、誰も彼の意見を性急に退けることのないよう、自分にも神の霊が宿っていることを彼らに思い起こさせています。
注:
聖書の言葉は、特に明記されていない場合、日本聖書協会の口語訳聖書から引用されています。
1 訳注: 日本語訳聖書では、通常、「奴隷」あるいは「僕」と訳されています。
2 ドゥーロスという言葉が新約聖書でどのように使用されているかについて、詳しくはこちらの記事をご覧ください: 『キリスト教を生きる:十戒(権威、パート4)』